18 「旭日の空へ」
鳴鼓神社の一角で、声が上がった。
「——って、私、鞄とか全部置いて来ちゃったじゃん……!!!」
「あァ、道理で。鉄扇だけ握って還って来おったから、おかしいと思っておったのよ」
布団の上で頭を抱える祥子に、遅れてやってきた松が手を叩いた。
「ままま、松様! どうしましょう!?」
「落ち着け、祥子よ。何も
うろたえる祥子に、松がゆっくりと話す。
正論だった。
「そう、ですよね。なら、カオリさんたちの無事を確認して、その足で鞄を……」
「ほう、授業とやらはよいのか?」
「そんなものを受けてる暇はありません!」
あの鞄には、カオリたちに貰った大切なものがたくさん入っているのだ。
それに、八生を
刀身が真っ赤に染まったあれを他人に見付けられるのはまずい。
下手をしなくても、自分は青い服の大人たちから傷害か殺人の容疑を掛けられてしまうだろう。
「あっ、松様。そういえば、私の制服ってどこにありますか?」
焦るうちに、自分が着物に着替えさせられていたことを思い出した。
襟の左右で白黒の二色、且つ肌触りが素晴らしい
病衣の代わりなのだろうが、流石にこの格好で登校するわけにはいかない。
「制服? あァ、あの水兵服なら、血塗れのぼろぼろだったから——」
松が表の方を指さした。
これは、もしかして洗濯をしてくれていたのかもしれない。
「——不浄と見なされて、この神域に入った瞬間、
「私の制服ちりになったんですか!?」
鞄に続いて制服まで失ってしまった。
もう自分が壬宮生だと証明する手立てがない。
「だから、わしの着物を着て行くしかないな。……いや、待て。確か先代の巫女の残したものがあったぞ」
「え、でも、そんな昔に壬宮はまだなかったんじゃ……?」
「うむ、祭神指定の巫女服だ。似たようなものだろう」
(あれ——!? 松様ってもしかして馬鹿なのかな——!?)
学校指定の制服ではなく、神社指定の巫女服を着て通学鞄すら持たずに登校する生徒が居たら、十中八九教師が総出で止めにくるだろう。
普段はやる気のない守衛ですら二度見してくるかもしれない。
「うう……コスプレ痛女の二つ名が付くくらいなら、これで行きます」
「そうか? まァ、それはわしが三百年ほど前に、京で姉上に買ってもらったものだから、ほぼ新品と言っても過言ではないぞ」
それは新品という言葉から対極にあるものではないだろうか。
「えーと、他に要るものは……」
着ていく服が——強制で——決まったので、あとは最低限の持ち物を用意するだけだ。
「家の鍵——は鞄の中か」
「ふっ」
「財布——も鞄に入れたままだ」
「ふふっ」
「ハンカチとティッシュ——は鞄に仕舞ってある」
「ふっふふ」
「——携帯は持ってるから」
かろうじて動いているレベルの携帯電話——外装ばっきばき——を取り出す。
「はっはっはっは!」
「さっきから何笑ってるんですか! 松様!」
「お前さん、ふふ、ほんとにツイてないな。こんな間抜けな娘を見たのは初めてだ」
心底楽しそうに笑っている松をひと睨みして、祥子はもういいと外に向かった。
朝日が、草木の茂った境内を照らしている。
カオリたちの無事を確かめて鞄を拾ったら、その足で戻ってきてここをきれいにしなければ。
巫女としての初仕事を心に決めて、祥子は本殿から顔を出した松を振り返った。
「それじゃあ、松様。行ってきます」
「待て、祥子。その傷では、山の上り下りもきつかろう。見事に事を成した褒美——いや、わしの巫女になった特典として、送っていってやろう」
「へ? 送るって——」
「しっかり、掴まっておけ」
下駄の音も軽やかに、松が境内に降り立った。
首を傾げる祥子の前で、僅かに身を屈めたと思った瞬間。
ばさりと、背中から黒い羽が飛び出してきた。
身幅の十倍以上はあろうかという巨大な黒翼を
あまりにも幻想的な光景に見惚れていた祥子の襟を、そのまま掴んだ。
「——え? あれ? 松様? もしかして——」
「——うっかり落ちれば、清水の舞台のようにはいかぬぞ」
翼が羽ばたいた。
風が、吹き荒れる。
そう思った時には、祥子の視界いっぱいに青空が広がっていた。
空が、いつもより近い気がする。
「と、飛んでるぅぅうううううぅぅぅぅ!!!???」
「快晴だな。今日は、暑くなりそうだ」
鳴鼓山が、遥か足下に見えた。
「そうだ、今のうちに言っておかねば。祥子。時渡りの鏡は、多少の不都合は眼を
「それ今じゃないと駄目ですか!?」
「まァ、聞け。例えば、お前さんが消えるところを見られたとか、過去を書き換えた後、この七日がどうなっていたか、とかは気にならぬか?」
言われてみれば、色々とお粗末だった自分の後始末は、どうなっているのか、確かに疑問だった。
疑問だが、確実に高度数百メートルでする話ではない。
「わしの経験から言えば、お前さんは死なず起きず、七日の間病院で眠っていた、みたいな都合の良い設定になっていると思う。あくまでも予想だが」
「た、確かに都合いいですね、それは……あ、でも、過去の私はそれじゃあどうなったんでしょうか?」
「お前さんが過去を書き換えた時点で、元の梅田祥子たちは居なくなっておる。事故自体が無かったことになれば、喪に服していたお前さんは存在を保てぬからな」
「なるほど……」
「それに、そういった改変は鏡を使った者を中心に据えて行われるのだ。今のお前さんに——一応、わしも含めて、最も都合が良い形でな」
「だから、途中の邪魔な自分は口を封じておこう、なんて、中々強引だと思いますけど……」
「まァ、こればかりは実際に確かめてみぬことにはな。今のも、自分の認識と違った話をされても戸惑うな、という助言に過ぎぬ」
「分かりました。気を付けておきます」
松の腕の中で、祥子は頷いた。
「なに。心配せずとも、お前さんの本当に大切なものは失われておらぬ」
「松様……」
「わしも、この眼でお前さんが運命に勝つところを見ておったのだからな。堂々と、会いに行けばよい。お前さんが取り戻した、幸せにな」
「ま、松様ァ……! 私、一生あなた様にお仕えします——!」
「言ったな。天狗に嘘は通じぬぞ」
感極まってしがみ付く腕に力を込めた祥子に、松が笑い掛ける。
大切なものを守るために、松には大恩を受けた。
とても返せるとは思っていないが、この心優しい主に、自分は精一杯恩返しをするつもりだった。
松も、受け入れてくれている。
そうやって、これからは松の傍も、自分の居場所になっていくのだ。
ほんの数ヶ月前までは、ひとりぼっちだった。
それが、今は自分によくしてくれる人たちが、こんなにも居る。
傍に居ろと、言ってくれる。
そう思うと、込み上げてくるものがあった。
あァ、人生とは、あの旭日のように美しく、輝かしい——
「……まァ、お前さんが言っていた元通りの日常かは、かなり怪しいが……」
耳元で、ぼそりと松の声が聞こえた。
どういう意味だ、と聞き返そうとした瞬間に、いきなり世界が回った。
加速。
衝撃が、身を打った。
それから、学校の近くに降り立つまで、祥子の記憶は途絶えていた。
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