17 「目覚めの朝」




 誰かが、頬をくすぐった。



 間を置いて、もう一度。



 世界が、広がっていく。



 微睡まどろみからいきなり浮上するように、自分の中のものが、噛み合わさる。


 収まるべきものが、収まるべきところへ。


 眼を、覚ました。




 天井。




 木目が見える。


 嗅ぎ慣れない匂いがした。


 布団に寝かされているのだと、しばらくして気付いた。


 首を巡らせば、傍らの者と眼が合う。


 ふんふんと、鼻息を鳴らしながら、つぶらな瞳がこちらを見つめていた。




「……きつね?」




 ぼうっと呟いた声に驚いたのか、やけに毛並みの良い狐は尻尾を揺らして部屋の外へ駆けて行った。


 静寂が、部屋に満ちる。


 和室だった。


 何となく、起き上がる気になれない。


 つと、布団から片腕を取り出して、顔の前に持ってきた。




「……ある」




 何を当たり前なことを、と思った。


 だが、何故かそれが当然でない気がして、手を閉じたり開けたりしながら、感触を確かめる。


 そで。眼に付いた。


 着物を羽織っているのか。


 鳥のような、草木のような、見慣れない柄だった。


 全体を見ようと起き上がる。


 腹に、鈍い痛みが走った。


 とっさに着物の前をはだければ、包帯を巻いてあるのが見て取れた。


 香草のような、涼やかな匂いが広がる。


 くすり、だろう。手当をしてくれている。




「お腹……私、刺されたんだ」




 言ったが、あまり実感はなかった。


 起きた瞬間に、次々と夢の内容があいまいになっていく時のような、何とも言えない感覚だった。


 布団の上にへたり込んだまま、今に至るまでを思い出そうとしていると、不意に外の方から足音が聞こえてきた。




「——おう。眼を覚ましたか」




 ふすまが開いて、紫がかった白髪の女が顔を出した。


 足下には、先程の狐を連れている。




「松様……」


「まったく、はらはらさせられたぞ。何度、声を上げたか分からぬ。わしは、鏡越しに活劇を見ているようなものだったからな」


「鏡……?」


「しかし、お前さんも随分とねばったものだ。お前さんにならって蹴球サッカーでいえば、後半ぎりぎりどころか、延長の末に五人ずつ蹴り合ったような勝ち方だったな。……まァ、そう意味では、最後の一騎打ちはよかった。わしも、胸がく思いだったぞ」




 からからと笑う松に、未だ頭がぼんやりとしているためか、ついていけない。




「……む? 何だ、お前さん? まだ意識がはっきりしとらぬのか?」


「え、いや……」


「まったく、あれだけの荒武者ぶりを見せておいて……ほれ、しっかりせい——」




 松が、手元の枡を口に近付けてきた。




「——




 祥子。


 梅田、祥子。


 頭の中に掛かっていた霞が晴れるように、先から先まで、何かが身体中を駆け抜けていった。




 喉にも、何かが通っていった。




「……そうだ。私、あの時死——って、あぁあああァぁァァあ!? なっ、熱ッ!? やけ、焼ける!? 何これ!? 喉が焼けるように熱い!?」


「はっはっは。効果は覿面てきめんだな。十余の小娘には、やはりちと早過ぎるか」




 喉を押さえて転げ回る祥子を楽しそうに見遣って、松が枡をあおる。




「ま、松様!」


気付きつけだ。わしの酒は、傷の治りにもよう効くからな」




 枕元に置かれていたつぼ——色彩鮮やかな、ガラス細工である——に口を付けて、冷えた水を呷る。


 とにかく、喉がかわいていた。


 身体に染みていくような感覚を思えば、この渇きも酒のためだけではあるまい。




「どういうことですか!? 私、確かにお腹を刺されて——」


「——死んだ、と?」


「そう、です。……血も、出てましたし」


「だが、お前さんはこうしてわしと話している。いくらわしでも、死人の蘇生は


「で、でも……松様が、何かしてくださったんじゃ」


「まァ、わしが無関係かというと、そうでもないといえばそうでもないが」


「どういうことです?」




 勿体もったいぶった話し方に、祥子が身を乗り出した。


 それを気にした様子もなく、松が懐に手を差し入れる。


 取り出された代物は、祥子にも見覚えがあるものだった。




「それって……松様の、兵法書!」


「そう。お前さんに貸したものだ。御覧の通り、風通しが良くなって返ってきよった。役に立つとは言ったが、まさかこんなもので命拾いするとは……お前さんも、何というか、運が良いのか悪いのか分からぬ女だな」


「そっか……私、制服の内側に入れてたんだった……」




 流石に、八生の短刀は冊子を貫通していたが、あれがなければその厚さの分だけ自分の内臓にまで刀身が入っていたのだ。


 切っ先だけが上手く内臓を避けて食い込んだから、祥子は今も生きているのだと、松が事も無げに言った。


 手当をしてくれた松がそう言うのだから、間違いはないのだろう。


 慌てて礼と謝罪を述べた祥子に、松は「気にせずともよい」と鷹揚おうようさを見せてくれた。




「……じゃあ、どうして私は過去から引き戻されたのでしょう?」




 冊子を部屋の隅に放った松に問い掛ける。


 死んだ、というのでなければ、そのことの説明が付かない。


 身体が透けだしたからこそ、祥子も自分の最期を悟ったところがあった。




「それは、単純な話だ。お前さん、げえむとやらはするか?」


「ゲーム、ですか? まァ、人並み程度には」


「なら、想像しやすかろう。あれは、攻略するためのが、場面ごとにあるものだと聞いておる。違うか?」


「いえ、その通りです」




 松が言っているのは、ステージをクリアするために何々をしろ、という類の話だろう。


 なるほど分かりやすいが、しかし発音の怪しさといい、どこからそういった知識を得てくるのか。


 ふと、松の私生活が気になった。


 サッカーのルールを把握していたあたり、意外と現代の世俗に詳しいのかもしれない。




「時渡りにも、実はその条件がある。これは、術者に何かあった時の保険のようなものだが」


「何か、とは?」


「本来は、鏡に力を込めれば、いつでも任意にかえって来れる。わしらの場合は、鏡を持っていけるからな。その力が、封印だとか怪我だとかで満足に出せなくなった時などに、いつまでも還れぬでは面倒だろう? そのために、渡る前に条件を決めておく」


「自分で決めるんですか?」


「そう。だから、保険なのだ。大抵は、時を渡る目的に基づいて決めるものだが、時々忘れたまま渡ると、鏡が勝手に条件を指定してくることもある。そうなると、こっちも何をすればよいのか分からぬので、手当たり次第、ということになるのだがな。……ちなみに、お前さんの条件はわしが決めた」


「つまり、私が戻って来れたのは、その条件を満たしたから、だと?」


如何いかにも。わしは、てっきりお前さんも分かってやっておったのだとばかり」




 初耳もいいところだ。




「その、条件とは?」


「お前さんを送り出す時に、わしが最後に言ったことを?」


「よく覚えてます。八生の頭に、きつい一撃をくれてやれ、と。……まさか——」


「実際、そうやってお前さんは還ってきた。いや、見事だったぞ」




 枡を呷って、また松が笑った。


 どっと力が抜けて、祥子は再び布団の上に腰を落ち着けた。




「……戻ってきた時、私はどこに?」


「境内に倒れておった。出て行った時と、寸分違わぬところにな」


「過去は、本当に変わったんですか? カオリさんたちは——」


「さて。それは、直接確かめてみるべきことだ」


「私は、どれくらい寝ていました?」


一時いっとき(二時間を指す)前に夜が明けたばかりだから——ちょうど一晩だな」


「ずっと、介抱かいほうしてくださってたんですか?」


「大したことではない。わしは夜型だし、こやつとの輪番りんばんだったからな」




 松の腕の中で、狐が鳴いた。




「それまで鏡をながめていただけの身だ。せめて、これくらいはな。……それに、お前さんはわしの巫女になる女ぞ。勝手に死なれては困る」




 松が、最後だけぶっきらぼうに言った。


 そうやって、祥子があまり気に病まないようにしてくれているのだ。


 気遣いが胸にみて、祥子は居住まいを正してから再び丁重に礼を述べた。




「もうよい。それより、腹が減っただろう? 朝餉あさげにしよう。さいわい、お前さんも腹に穴こそ開いておるが、胃のは無事だからな」




 言われてみれば、腹が鳴いている。


 昨日の晩飯——日付の上では、一週間も前のことだが——以来、何も口にしていない上に、あれだけ動き回ったのだ。


 腹が空いて当然だった。


 肩を貸されて、部屋を出る。


 動けないほどの痛みではなかった。


 人気ひとけのない廊下を歩きながら、祥子は気になっていたことを聞いた。




「さっきの部屋も、ここも……あまり痛んでないみたいですけど、松様が維持してらっしゃるんですか?」




 境内や外観の荒れようとは、格段の差がある。


 それこそ、別の建物のようだ。




「いや、わしはそういったことはやらぬ。面倒でな」


「では、他にどなたかが?」


「まだ寝ぼけておるのか。言ったはずだ。ここには、わしとそやつしかおらぬと」




 祥子の足下に纏わりついている狐を見遣って、松が言った。


 最初に聞いた時は、松が一人で住んでいるという話だったはずだ。


 流石に、狐とはいえ同居人?に、面と向かって独り暮らしだとは言えないのか。


 おかしな配慮に、祥子は頬を緩めた。




「——何をおる」


「いえ、何も」


「お前さん、あまりわしの不興は買わぬことだぞ。その気になれば、わしはお前さんをどうとでもしてやれるのだからな」


「分かってます」




 押し掛けてきた人間の頼みを聞き入れ、手当した挙句、一晩中介抱して、今は肩まで貸してくれている天狗が、何かを言っていた。




「ここは、鳴鼓神社の中であって、またそうではない」


「どういうことですか?」


「位置は同じだが、空間だけが切り離されておるのだ。間取りは同じでな。いわゆる、神域というものだ。実際の神社の中は、表と同じ、荒れ放題よ」


「はァ……つまり、松様は神様だった、ということですね?」


「お前さん、さては考えることをやめておるな?」




 呆れたように、松が半眼で祥子を見遣った。




「……まァ、よい。どうせ祭神のやつは留守なのだ。ここに居座っておるわしが、その名代みょうだいを名乗ったところで、奴も異存はあるまい」




 面白くなさそうに一つ息を吐いて、松が頷いた。


 度々話題に上る鳴鼓神社の祭神とやらとは、あまり仲が良くないのかもしれない。


 あるいは、仲が良かったから、出て行ったことを怒っているのか。


 いずれにせよ、祥子には気の遠くなるような歳月を過ごしていた二人だ。


 一介の人間であり、まだ十余年しか生きていない祥子が推し量るには、難しい関係なのだろう。




 そう歩かないうちに、みそ汁のいい匂いがただよってきた。


 左手に、古ぼけた字で「食堂」と書いてある札のかかった部屋が見えた。


 二人して、暖簾のれんをくぐる。


 のある土間に隣接した、広い部屋だ。


 十数人が余裕をもって食事できるだろう広さは、たった二人で朝食を取るには流石におおげさ過ぎる。


 肩を貸すのをやめて、松がかまどの方に歩いて行った。



 もう、朝方は冷える頃である。


 傍に感じていた温もりが失せて、妙に落ち着かない。


 神域が故なのか、いやにんだ空気も手伝って、祥子は自分が場違いなのではと不安になった。




「何を突っ立っておる。さっさと座れ」




 辺りを見渡していると、両手に膳を携えた松が戻ってきた。


 それに、思わず安堵の息を吐く。




「いただきます」


「ん」




 卓に向かい合わせで座って、祥子は手を合わせた。


 それを尻目に、作った本人である松は、一足早く白米に箸を寄せている。


 恵みに感謝するべき神も、松には居ないのだろう。


 祥子も、遅れてみそ汁をすする。




「美味しいです、松様」


「ん……お前さん、飯は作れるのか?」


「それなりに。家でも、作る機会が多かったので」




 実は祥子は、親元を離れて親戚の家に厄介になっている。


 両親に不信感を抱いた祥子が、転校を機に離れようとしたのだが、この親戚というのがとにかく家を空けるたちで、結局はほとんど一人暮らしといっても差し支えない有様だった。


 当然、自炊も毎日のことだ。




「それは重畳ちょうじょう。何なら、住み込みでわしのために飯を作ってくれてもよいぞ」




 部屋なら、いくらでもある、と松が笑った。


 神様に仕えているからといって、本当の飯の支度までしている巫女さんが、全国にどれほど居るのだろうか。


 改めて、自分の日常が世間の常識とかけ離れていくのを感じながら、祥子は、山を上り下りするのは大変だが、学校までは近くなるか、と前向きに検討を始めていた。




「それで、お前さんは——ぱすた、とやらは作れるのか?」




 今思い出した、と言わんばかりの声だった。


 どこか気恥ずかしそうな様子に首を傾げながら、祥子は白米を飲み込む。




「パスタ、ですか? はい、作れますよ。天子ちゃんが食べたいと言うので、何度か振舞ったこともあります。味は、好評でしたけど……」




 言ってから、人間の味覚と一緒にしてよいものかと思い直した。



 特に、天子は好きな食べ物を聞かれて即答でヤンヤンつけボーと答える味覚の持ち主だ。



 味蕾も、炭酸飲料でさんざ絨毯爆撃されて馬鹿になっているに違いないと、朱音が前に言っていた。


 天子が褒めてくれたといっても、松の口に合う、ということにはならない。


 今のは不敬だったか、と松を見遣れば、ゆるんだ口元を隠そうともしないで、しきりに頷いている。




「そうか。いや、益々ますます結構」


「……言ってくだされば、何でもお作りしますよ?」


「お前さん、やはりにやけておるな? わしの不興を買うなとさきほど——」


「松様、味付けはどういったものがお好みでしょうか」


「とまとそーす、とやらを——言ったばかりだぞ」


「トマトソースですね」


「違う。わしはそんなことを言っておらぬ」




 本音が出ている、とは申し上げるわけにいくまい。


 鳴鼓神社の巫女としては、ここは松の顔を立てるべきだろう。




「私が食べたいので、今度お作りしますね」


「う、うむ……そういうことなら、わしも付き合ってやるべきだな」




 しょうがないやつめ、と呟く松に、祥子はそれ以上言わなかった。


 それから、身の上話を互いに続けているうちに、膳はすっかり空になっていた。




「ごちそうさまでした」


「よい。それより——お前さんそろそろ学校とやらの時間ではないか?」




 膳を片付けていた祥子に、松が湯呑みを傾けながら言った。


 携帯を取り出して確かめれば、ひびの入ったディスプレイには確かに頃合いの時間が表示されている。


 下山の手間を考えれば、そろそろ出ないと遅刻することになってしまう。


 何事もなく過去が変わっていれば、カオリたちも普段通りに登校しているはずだ。




「そうですね。私、準備してきます!」




 そう思ったら、居ても立っても居られなくなってきた。



 腹の傷など、どうということはない。



 一秒でも早く、学校に行きたい。



 こんなことを思う日が来るとは、思いもしなかった。



 慌てて先程の部屋に戻りながら、祥子は笑いを零した。




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