13 「トラトラトラ」




 月明かりが、行く手を照らしていた。


 薄暗い路地裏を、灰色のブレザーを纏った一団が進む。


 先頭には、派手な銀髪の女。


 癖のある長い髪を月光に輝かせて、堂々と歩いていく。




「郁子さん。工作隊の連中が合流しました。これで全員です」


「壬宮側の動きは?」


「いつも通り、巡回をやっているようです。こちらの動きに気付いた様子はありません」


「それは結構。それじゃ、手筈通りに」




 後ろを歩いていた黒髪の少女が頷いた。


 先頭の女は、南杜高校二年の八生郁子。


 外道番長の二つ名を拝命する、南杜の番格である。


 その背後には、二十余名の南杜生が続いている。


 入れ替わるように、すぐ後ろの一人が声を上げた。



「これで、壬宮はもう立ち直れないでしょう」


「そのための、策だからね。縄張り争いも飽きてきたし、そろそろ連中にはご退場願いたい」


「壬宮を勢力下に置けば、南杜での郁子さんの発言力も高まります。それも、考えてのことですか?」


「私なら、もう一手打ち込むな。摩季まき。お前も、私の傍付きなんだから、壬宮を基盤に、南杜を取る、くらいは言って欲しいね」




 摩季と呼ばれた青髪の少女が、恥じ入るように頭を下げた。


 高校に入ってから、副官のようにして傍に置いている少女だった。


 自分よりも背丈タッパがあって、自分ほどではないが頭が切れる。


 策を考えるのは郁子だが、実際に下位の兵隊を動かすのはこの摩季の役目だ。


 ケンカの腕も、人並み外れている。




「しかし、勝てるでしょうか? 三年の五藤は、学校の半数近くを掌握しています」


「兵力差は、隠しようもない。そのために、壬宮の残党を吸収する必要があるんだ。本音を言えば、今の番格——御堂や古賀には、うちの幹部になってもらいたいくらいだね」


「そうなれば理想的ですが、まず無理でしょう。奴らは、暴れ馬です。郁子さんでも、ぎょし切れるかどうか」


「分かってる。けど、簡単に諦めるには、惜しい腕だ。五藤に対抗するには、兵の数よりも、ああいう連中が必要になってくる」


「それは、道理ですが」




 摩季が、低く言った。


 ちまたでは、三度の飯よりも謀略が好きだなどと噂されている郁子だが、それは半分正解で、半分は誤りだ。


 確かに、自分は頭が切れる。


 だから、正攻法で勝てない相手への策も、用意できる。


 そして、自分は馬鹿を出し抜くのが、められたと気付いた瞬間のまぬけ面をながめるのが、趣味の一つではある。


 自分の軍団は、まだまだ小さい。


 既に出来上がった勢力に勝って、のし上がっていくには、奇策の一つや二つではとても足りないのだ。


 そのために、謀略を用いている。


 中学の頃も、今も。




「しかし、不甲斐ふがいない話です。私どもがもっと強ければ、あなたがこうも策を巡らせる必要などなかった」


「お前は、十分やってくれてる。いつも言ってるだろう? 戦争ってのは、一人二人が強ければそれでいい、なんて単純なもんじゃないんだ」


「それでも、思ってしまうものです。私が、一人でも五藤を倒せる力を持っていれば、と」




 振り返って、項垂うなだれた摩季の顔をのぞき込んだ。




「お前が、一人で勝つだと? のぼせるな、摩季。お前は、私の策に従っていればいい。私の言う通りにすればいいんだ。お前は、私が居なければ何もできない。——そうだろう?」




 見上げるようにして顔を寄せた郁子に、摩季は僅かに怯えを見せたものの、すぐに恍惚の歪んだ笑みを浮かべた。


 頬も、上気して朱が掛かっている。




「は、はい。その通りです。出過ぎた真似を、申し訳ありません」


「分かればいいんだ。これからも、私の可愛い人形でいてくれればね」




 さっと元の姿勢に戻って、郁子は歩き出した。


 その後を、両腕で身体をき抱いた摩季と兵隊が追う。


 それから、人気のない路地をしばらく進んだ。


 町中に散らした斥候が、時々電話を掛けてきて壬宮側の情報を報告する。


 敵は、未だ何も知らずに単車を転がしている。


 武闘派揃いと噂の壬宮も、武辺ぶへん一辺倒いっぺんとうなだけで大した相手ではない、と郁子は思った。


 そういう敵は、蛮勇故にまたよく死ぬ。




「……あれは、何だ?」




 先頭を歩く郁子が声を上げたのは、目的地に着いてすぐだった。


 一同の視線は、路地の出口に集中している。


 黒い、壁のようなものが、道をふさいでいる。




「大型のトラックでも駐車しているんでしょうか?」




 摩季の声だった。


 もしそうなら、とてつもなく間の悪い運転手だ。


 確認させます、と摩季が二人を先行させる。


 何事もなく到達したのを見てから、本隊も進む。


 近付いて確かめると、壁は僅かに路地の中に入ったところに立てられているのだと分かった。


 鉄材なんかを積み立てて作られた、いびつなものだ。


 あらい仕上がりで、所々に隙間すきまがあり、そこから大通りの景色が覗いている。


 粗いが、人が通れるほどの余裕はない。


 高さも、かなりのものだ。




「これは……」


「——摩季、引き返すよ」


「郁子さん? まさか、これが連中の仕業だと?」


「そうでも、そうじゃなくても、これは異常な事態だ。一度、ここを離れる」


「分かりました」




 言い知れぬ不安が、胸を過ぎった。


 摩季の号令通り、踵を返した一同が来た道を戻ろうとする。


 その時、轟音を立てて、目の前の道が土煙に覆われた。




「何だ!? 何が起こった!?」




 土煙が晴れるのを待って、摩季が様子を探らせた。




「これは……! 駄目です、こっちも塞がれました!」


「な、何だって!?」


「あたしらは、閉じ込められたってことかよ……!」




 ちょうど、ビルの切れ間の辺りで、路地が寸断されていた。


 背後のものによく似た黒い壁が、横たわっている。




「ふざけた真似を——!」




 ここまで来れば、自分たちが死地に飛び込んだのだと、郁子も気付く。




「ビルの窓から脱出しろっ」


「駄目です! どの窓も、板が打ち付けてあって……!」


「こっちも同じだ! びくともしねェ!」




 左右にそびえる空きビルの窓も、すべて塞がれていた。


 裏口のドアも、押しても退いてもまるで動かない。




「くそ! 何なんだよ、これ——ぶべっ!?」




 混乱してわめいていた一人が、いきなり悲鳴を発した。


 何事かと、その場の視線が集まる。




「お、おい! それ、血か?」


「……違う、こりゃペンキだ!」




 頭から真っ赤なペンキを被った様は、一見ただの血塗れで、一同の不安を加速させた。




「——ッ! 伏せろ!」




 つと、摩季が叫んだ。


 反応するより早く、摩季に頭を抱えられる。


 何を、と叫ぼうとしたと同時、また何人かの悲鳴が上がった。




「壬宮の、本間だ!」


「御堂も居るぞ!」




 誰かの声が上がった。


 摩季に庇われながら、郁子は冷静に周囲を見渡していた。


 足下に、拳ほどの大きさの石が転がってきた。


 投石。


 先程の悲鳴は、それか。




「本間に、御堂だって!? 壬宮の待ち伏せだ!」


「ど、どうしたら……!」




 投石は、間断なく続いていた。


 兵の間に、動揺が広がる。


 摩季も、信じられないという表情で、辺りを見回している。




(待ち伏せ、だと? ——それなら、どうしてこんなまどろっこしいことをする?)




 違和感が、郁子の脳裏をかすめる。


 いきなり暗闇から現れた一投が、摩季の肩を打った。


 他の者も、必死に頭をかばっている。


 一方的な攻撃に、こちらは完全に崩されていた。


 暗い路地には、自分たち以外の人影はない。


 つまり、投石は空きビルからだろう。


 しかし、今更、あの本間や御堂が投石など命じるか。


 何故、一気に間合いを詰めて来ない。


 


 暗闇でよく見えないが、注意深く投石の数を数えれば、一度に一、二個がせいぜいだった。


 郁子が、哄笑を響かせる。




「摩季、兵を落ち着かせろ。これは欺瞞ぎまんだ」


「欺瞞、ですか?」


「まんまと一杯食わされた。本間に御堂なんて、この場には居ない。小賢しい策だよ」




 摩季の制止に構わず、郁子は立ち上がった。


 それを見て、他の者も周囲に集まってくる。




「本間に御堂! 居るなら姿を見せろ!」




 大喝が路地を駆け抜けた。


 投石が止む。




「あっははは! 出て来れるわけがない! 答えろ! 壬宮の大将の名をかたるお前は誰だ!」




 静寂が、路地に落ちる。


 それで、兵たちも騙されたのだと気付きだした。


 ややあって、右手のビルから声が上がった。




「南杜の、八生郁子と見受ける」


「如何にも、私が八生だ」




 二階の窓枠に、人影が見えた。


 思っていたよりも、随分と小柄だ。


 しかし声だけは、低く鬼気迫るものがある。




「そういうお前は誰だ? 壬宮の兵隊か?」






「——鳴鼓の小天狗、ここに在り。義によって、壬宮に助太刀を致す」






 芝居がかった台詞回しに、郁子はまゆひそめた。


 天狗の助太刀、といえば、自分たちもよく知った昔話だ。


 この名無しの権兵衛は、それを気取ったのだろう。


 実際、得体の知れなさに、信心深い何人かは息を呑んでいる。


 馬鹿馬鹿しいと、郁子は再びわざとらしく哄笑を響かせた。




「天狗だと? まったく、何から何までふざけたやつだ! ——答える気がないなら、お前を引きずり降ろして正体を暴いてやるまでのこと!」




 手近な数人が、郁子の号令一下、駆け出して行った。


 ビルの壁面にび付き、二階の天狗を引きずり降ろそうと迫る。


 その頭上に、再び投石が加えられだした。


 一人、二人と、痛みに面食らって落ちてくる。


 身軽な一人が、その間隙をって二階の窓に取り付いた。


 やったと歓声が上がるよりも早く、取り付いた兵は悲鳴を上げて地面に身体を打ち付けた。


 仰ぎ見れば、天狗の右腕には、いつの間にかやや長い角棒が握られている。


 あれで、近寄ってきた兵を突き飛ばしたのだろう。


 郁子の読み通り、後に続いたもう一人が、角棒で腕を払われて姿勢を崩したところを、すかさず突き飛ばされていた。




「ふむ——やるな」




 あごさすりながら、郁子が呟いた。


 あの体格で、相手を叩き落すとなれば、よほど力を込めて突いているに違いない。


 普通の人間なら、高所から人を落とすという行為におくして、半端な突きを見舞うものだが、天狗というだけあって、その角棒さばきに迷いは見られなかった。


 実に、思い切りのいい敵だ。


 今度は一斉に掛かれと、摩季の指示が飛ぶ。


 天狗が先行した四人に気を取られている隙に、すぐさま第二陣が組まれた。


 合計八人の攻城部隊が、天狗目掛けて殺到する。


 これだけ数が居れば、投石や突きだけではとても対応し切れないだろう。


 相手が一人だという弱みを攻める、兵の多寡たかに物を言わせたやり方だった。




「攻城戦は、攻める側が守る側の三倍の兵をようさねばならないと聞くが……」


「こちらは二十人。向こうは一人。兵力差は歴然です」


「——まして、るのが小城となればな」




 摩季の相槌あいづちに、郁子はビルを見遣った。


 摩季の思惑通り、第一陣をおとりに、第二陣が取り付きつつある。


 これで終わりだろうと、郁子も思った。


 次の瞬間、八人が奇声を上げて次々と地面に舞い戻ってきた。




「何事だ!」


「あ、油です! あいつ、油をきやがった!」




 全身をぬるぬるにコーティングされた八人が、落下の衝撃にうめいていた。


 頭上から、空のバケツが投げ付けられる。


 壁面は、なるほど油まみれで、あれでは姿勢を保つどころか登ることさえ難しいだろう。


 第二波も、退けられた。




「天狗もどきめ、考えたな」




 腕を組みながら、郁子がうなった。


 なおも兵たちは果敢に壁に取り付こうとしているが、油と投石にはばまれて上手くいっていない。


 敵も、寡兵を補う策を巡らせている。


 こんな相手は、初めてだ。


 気付けば、郁子は口の端をつり上げていた。




「——梯子はしごけろ! 持ってきた縄を全部出せ!」




 郁子の指示通り、工作隊が急いで荒縄を用意した。


 先端におもりやが付いていて、投げれば引っ掛かって即席の道になる。


 二階の窓目掛けて、何本も梯子が掛かった。


 これならば、足下が油で滑ろうが、あるいは少々の妨害を受けようとも、兵は登りやすくなるだろう。


 敵の焦った様子が、下からでもうかがえた。




「さァ、一気に駆け上がれ!」




 つなをしっかりと握り込んで、兵たちが登り出した。


 怒声を上げて迫る兵に、二階から石が投げ込まれるが、身体を支えるものがある分、その効果は薄い。


 先頭の一人が取り付きかけたと思ったら、敵が真下に何かを押し出すのが見えた。


 悲鳴が上がる。


 ばらばらと、また兵たちが落ちてきた。


 水が満タンに入ったプラスチックの衣装ケースが、重い音を立てて地面にぶつかる。


 衝撃で中身をぶちまけた後、くくり付けられていたひもで素早く回収されていく。


 こんな質量のものを頭から落とされては、自分だって捕まっては居られない。




「固まり過ぎるな。散らばって登れ」




 摩季が言った。


 再び、人海戦術で相手を飲み込もうというのだろう。


 郁子と摩季以外は、全員が縄梯子に取り付いていく。


 一度に数本の道から迫られれば、敵もすべてに対応するのは不可能だ。


 つと、左手の——攻めているのとは反対側の——ビルから、虫の羽音のような物音が立った。






「な、んだ——ッ!?」




「ぐァ! まぶしっ——!」






 外側に取り付けられた投光器が一斉に点灯し、路地に太陽を出現させた。


 長時間、暗い路地で眼を慣らしていた郁子たちには、殺人的な眩しさである。


 至近距離でまともにこれを浴びた郁子と摩季は、視野を黒マジックでつぶされたも同然だった。


 二人の声に振り返った兵の何人かは、強烈な光に眼を焼かれてもんどり打って転がり落ちてきた。


 ふらつく郁子目掛けて、投光器の上から、何かが落下する音が聞こえた。




「ゆ、郁子さん!? 大丈夫ですか!?」




 摩季の動揺する声。


 とっさに身をかわした郁子の傍で、地面を打つ音が伝わってくる。


 それも、一つや二つではない。




「眼の見えるやつは、郁子さんを守れ!」




 同じく視力を奪われたであろう摩季の指示が飛んだ。


 壁に向かっていた兵の何人かが、すぐさま自分の周りを囲んだ。




「なんてこった! 敵は一人じゃない! 左にも居るぞ!」


「二人——いや、三人は居やがる! 窓に影が!」




 まさか、と叫びそうになった。


 またぞろ敵の欺瞞かと思ったが、流石に二度も同じ手は打たないだろうし、何より今の声は聞き知った舎妹の声だった。


 投光器の操作といい、自分目掛けて正確に何かを投げて落とした存在といい、まさか本当に伏兵が居たのか。


 相手はたった一人だと自分たちに思わせるために、右手の敵はわざわざ名乗りを上げたというのか。




「……何か投げたぞ! あれは——」


「——導火線! ば、爆弾じゃねェか!?」




 周囲の兵が上げた驚愕の声に続いて、けたたましい破裂音と火薬の臭いが辺りを押し包んだ。


 音と衝撃で、一帯はもうパニックである。


 郁子の足下にも、熱い何かが過ぎっていった。


 左肩に衝撃。


 遅れて、鈍い痛みと共に熱が走る。


 周囲の反応から、投石が再開されたのだろう。


 ということは、右手に向かっていった兵は全員撃退されたのか。




「摩季、摩季っ。兵をまとめろ。立て直す」




 声を荒げていた。


 眼が見えないということが、余計に焦りを助長させる。


 誰かに腕を引かれて、路地の奥側に退避する。




 耳元で聞こえるのは、中学から自分に付き従っている竜子の声だった。




 鞄や上着を盾にして、頭上から降ってくる矢玉を防げと叫んでいる。




 摩季は、どうなったのか分からない。




 やられたのか。




 自分は、今どこに立っている。






 数分して、ようやく視力が戻ってきた。


 敵から、十メートルは下がっていた。


 投光器がまだ点いているので、敵の姿はシルエットでしか確認できない。


 確かに、右手の一人の他に、左手の二階に数人の影が見えた。


 してやられた、という思いが胸を締める。


 まんまと、向こうのペースに乗せられていた。




「郁子さん。あたしが、左を攻めます。その隙に、右の二階を確保してください」




 自分を庇うように前に出ていた竜子が言った。




「この包囲を打ち破るには、あそこを抜くしかありません」


「……私も、賛成です。左の新手は未知数ですし、右にはまだ梯子が掛かっています」




 額を血で染めた摩季が、後ろから声を上げた。


 運悪く投石が当たったのだろうが、声には覇気がある。


 傷も、見た目ほどには深くなさそうだった。


 ひそかに、安堵の息を漏らす。


 自分はまだ、一兵も失ってはいない。




「よし。十人、竜子に続け。他は、私と右に当たる」


「右の陣頭指揮は、私が執ります」


「摩季。怪我は? いけるか?」


「この程度。郁子さんは、後ろで控えていてください」




 ほぼ同時に、竜子と摩季が飛び出していった。


 竜子の方が、先に壁に取り付いた。


 左には油が流されていないため、すばやく壁を登っていく。


 それに合わせて、摩季の指揮の下、残りの兵が縄に跳び付いた。


 抵抗を受けながら、じりじりと二階に迫る。


 伏兵は、一度しか使えない。


 姿を現した時点で、結局は寡兵の挟撃、という程度の戦術に過ぎなくなるのだ。


 先程の、視野を潰した瞬間に、敵は自分を仕留めておくべきだった。


 あと少しで、右を抜ける。






「……何、だと!? ——こいつら、!」




「うわあ!?」






 背後からの竜子の叫びと、目の前で突き落とされた兵の悲鳴が重なった。




 窓枠に足を掛けた敵。






 眼が合った。






 互いを結ぶ線上に、さえぎるものは何もない。




「——敵の狙いは!」




 ぞくりと、冷たい感覚が身を打った。




 天狗の影。




 振りかぶっていた。




 手元から、何かが投擲とうてきされる。




 それが、やけにゆっくり見えた。




 石ではない。




 投光器の明かりに照らされて、銀色に輝いている。






「——ッ!」






 全身を動かす暇はなかった。




 ほぼ反射のように、首だけを右に傾げて、飛来する何かを躱す。




 先端が、頬をかすめる。




 直後に、背後で甲高い金属音が鳴り響いた。




「郁子さん!」




 すぐさま、飛び降りた竜子が郁子の前に出た。


 自分を狙って放たれたのは、真新しいモンキーレンチだった。


 こんなものを額で受け止めていたら、血が出るどころの騒ぎではない。




(何て周到で、大胆な——!)




 騒ぐ心臓をしずめながら、郁子は背後を見遣った。


 投光器は、眼くらましのためだけではない。


 人型のハリボテを、それらしく見せるためのカモフラージュだ。


 さらに敵は、宙吊りになったに入れた石礫を遠隔操作でぶちまけさせ、あたかも伏兵が居るように見せかけた。


 それで、こちらの兵の半数を、左側に割かなければいけないと思い込ませた。


 そうやって掴んだワンチャンスを逃さず、まっすぐ大将首を狙いに来たのだ。




 思わず、郁子は笑いをこぼした。




 腕力ばかりの不良連中を罠に嵌めた時とはまるで違う高揚が、腹の底から上がってくるようだった。






「私を、たのしませてくれるじゃないか、天狗」






 右手で、髪をき上げた。


 竜子だけを護衛に残して、残りの兵も右壁の攻略に向かわせる。


 眼前では、先行した摩季の隊が散々に撹乱かくらんされていた。


 重量のある水槽に加えて、目潰しのペンキやらが盛んに浴びせ掛けられ、ひるんだところを角棒や竹竿たけざおで払い落とされる。


 天狗は、こちらの隙を見て、架かっている縄を断ち切ろうとしていた。


 それも、数本だ。


 退避していた間に、既に何本か失っていた。


 摩季が兵を集中させて、何とか防ぐ。


 攻防は、おおむねその繰り返しになってきている。


 後ろから見上げていた郁子は、ややあってから兵を四人だけ呼び戻した。




「竜子。今度はこっちの番だ」


「はい。あたしらは、何をすれば?」




 振り返らずに、竜子が言った。


 実直が取り柄の古参兵は、無駄なことは聞かない。


 そういうところが、郁子は気に入っていた。


 壁の攻略から距離を置いて集まった四人を、竜子に委ねる。


 いくつか指示を与え、配置に着かせる。


 愉悦に身を震わせながら、郁子は号令を下した。


 天狗と蛇の、知恵比べである。






「——決着は、時間の問題だな」






 修羅場を見つめながら、郁子はぼそりと呟いた。




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