12 「exいい子」

 



 五分ほどで、目的の店に着いた。




「——飯処「天狗の台所」、ですか。この町らしい名前ですね」


「そうそう、前に話した「天狗の助太刀」ってやつ。おとぎ話だってのに、大人はわりかし信じてんだ、これが」


「カオリさんは、信じてないんですか?」


「とっくに卒業ヨ。まァ、子供の頃はよく本で読んでたけどね。あたしが思うに、天狗よりは、まだチュパカブラの方が居そうなもんだ」




 笑って、カオリが店に入って行く。


 まさかその天狗に助太刀を頼んだとも言えず、祥子は内心で松にびながら、その後に続いた。


 和風にしつらえられた店内は、思ったよりも広い。


 客の二、三十人が入ってもまだ余裕がありそうだ。


 厨房の方から、親しげな声が上がった。


 初老の店主が、カオリに向かって手を挙げている。


 流石、行きつけというだけあって、顔なじみのようだ。


 折から夕飯時で、方々に置かれたテーブルや座敷の卓は、既に埋まっていた。


 それを見遣って、カオリは慣れた足取りで店の奥のカウンターに向かった。


 座らずに待っていたカオリに促され、壁際の席に腰掛ける。


 並んで座った二人に、ややあって店員が茶を持ってきた。




「あたしは、からあげ定食。ショーコは?」


「えっと……私も同じの——いえ、チキンカツ定食で」




 威勢のいい声を返して、店員が厨房に戻って行く。




「チキンカツ、好きなの?」




 湯呑みに入った茶を冷ましていたカオリが言った。




「好き、というよりは、そういう気分だったので」


「意外とがっつり食べるんだ。昼休みは、いつもあんま食べてなかったのに。ダイエット?」


「違います」


「あたしは、ショーコはちとやせ過ぎだと思うな。背はそのままで、もうちょっと肉を付けてくれると抱き心地がよくなるんだけど。胸とか」


「違うって言ってるじゃないですか!」




 ひどいセクハラだった。


 カオリは悪びれもせず、じろじろと祥子の身体に無遠慮な目線をくれている。


 恥ずかしさに、思わず両腕で身を隠す。


 こんなことなら、「自分のような臆病者チキンでも勝つカツ」なんて語呂合わせの願掛けなど思い付かなければよかった。


 どうして数秒前の自分は、無駄な茶目っ気を出してしまったのか。




「冗談だって。そうにらまないでよ」


「まったく、もう……」




 謝るついでと、カオリが顔を寄せてくる。


 息を吐いた祥子を見遣ったまま、カオリが低い声を出した。




「さっき言った通り、あたしの奢りだ。好きなだけ食べたらいい。……そうすりゃ、いつの間にか悩みも消えてるはずサ」


「……悩みって、何ですか? 私、別に——」


「——あたしは頭悪いけど、節穴ふしあなじゃないヨ。いくら取りつくろったって、可愛い後輩の笑顔が作り物かどうかなんて、




 あえて硬い声を返した祥子に皆まで言わせず、カオリが笑った。




「まさか。これでもポーカーフェイスには自信があるんです。朱音さんのお墨付きですよ?」


「朱音は、ポーカー弱いじゃん」


「心配してくださるのは嬉しいですけど、考えすぎですよ」


「まァ、あたしも深くは聞かないけどサ。昼にも言ったじゃん? あたしらの前でくらい、自然体で居ろって」


「今が、ありのままの私です。


「頑固なもんだ。やっぱり、なんか変わったね、ショーコ。さっきまで、そんなにギラギラした眼じゃなかったでしょ」


。ここ一週間ほど、


「そりゃ、よくないね。初耳だけど。今日から、あたしが添い寝してあげよっか?」


「……ええ。私としても、




 微笑んで言った祥子に、カオリが珍しく驚いた表情を浮かべた。


 今のは、偽りのない本心だった。


 別に、カオリの冗談を真に受けたわけではない。


 事が成れば、そういう未来も訪れるだろう、と不意に思ったのだ。


 カオリが居て、朱音たちが居る。そして、自分も。


 消え去った日常を、取り戻す。


 そのために、自分はここに居るのだ。




「いやに情熱的じゃん、ショーコ。……誘ってるの?」


「やっぱり、節穴ですよ」




 湯呑みを傾けて、祥子はカオリの方を見ないままだ。


 カオリが肩をすくめた時、店員が定食を二つ運んできた。


 まだ油の音が残っているカツに箸を伸ばす。


 美味い。


 熱が、身体に染み込んでいくようだ。


 隣では、カオリも白米をき込んでいた。


 まさか、生きているカオリの傍で、再び飯を食える機会が訪れようとは。


 昨日までの自分なら、とても信じられないだろう。


 呑気にからあげの味を語っているカオリを見ていたら、これが最後の食事になるかもしれないということを、忘れてしまいそうになる。




 あやういな、と祥子は思った。




「……前から、聞きたかったんですけど」


「ん?」




 しばらくは、他愛ない会話をしながら箸を進めていた。


 今日の巡回の面子だとか、最近はまっているドラマや漫画の話だとか。


 ぬるま湯のように幸せで和やかな時間を断ち切ったのは、祥子だった。




「カオリさんが、私を助けてくれた時の話です」


「義理がたいね、あんたも。何年も前の話だ。あたしはすっかり忘れちまったヨ」


「なんの嘘ですか。まだ、数ヶ月しか経ってませんよ」


「そんくらい、あんたと過ごした気がするって話サ」


ってます?」




 へらへらと笑うカオリに、祥子は横目をくれた。




「残念ながら、未成年だ。……酒は、嫌いだしね」


「カオリさん?」


「あー、いや。なんでもない。それより、カオリお姉さんに聞きたいことがあるんでしょ?」


「……あの時。カオリさんが助けてくれて、私の世界は一変しました。とても伝え切れませんが、感謝しています。心の底から」


「いつも言ってるじゃん。大したことじゃない。あたしが、好きで——」




「でも、カオリさんが私を助ける気になった、その理由が分からないんです」




 いつもの調子で返そうとしたカオリを遮って、今度は祥子が続けた。




「……理由?」


「今まで、誰一人だって、私をかばってくれた人なんて居ませんでした。気まぐれにしたって、私なんかにほどこしをする意味が、分からないんです」


「……何で? あんたがずっとひどい目にってて、それに腹が立ったらいけないっての? あたしにだって、が流れてんだヨ?」


「それは、普通の子の場合です。私は、いつだってそういうのからは


「あたしに言わせりゃ、それこそ逆だ。あんた以外なら、あそこまで骨を折ったりしちゃいない」


「ですから、どうして、私なんです?」




 向き直った。


 カオリの眼は、心配げに揺れている。


 ずっと、引っ掛かっていた。


 こんなことを知らなくても、カオリたちが自分に向けてくれるものを信じられないわけではない。


 初めて会った、自分を拒絶しない人たち。


 疑うようなことは、したくなかった。


 それでも、心のどこかで、ずっと気になっていたのだ。


 最後に、これだけは聞いておかなければ、と思った。




「今更、私をからかってるんじゃないか、なんて思いません。いえ、例えそうでも、うらみに思ったりすることはありません。数ヶ月とはいえ、あなたのおかげで、良い夢が見れました。それだけで、私の人生にも意味があったのだと思えます」


「ショーコ。あたしが、そんなだとでも? 朱音や藍が、そんな最低な真似に付き合うような連中だって?」


「あなたは、誰よりも優しい人です。朱音さんや藍さん、唯ちゃんや天子ちゃんだって、本当にいい人たちです。少なくとも、私にとっては」


「だったら——」


「だからこそ、です。教えてください、カオリさん。どうして、私を助けてくれたんですか?」




 ずいっと、顔を寄せた。


 どうしても、知っておきたかった。


 知らないままでいれば、一生助けられるだけの人間で終わってしまいそうで。




 少しでも、カオリたちに近付きたかったのかもしれない。




 眼を逸らさないまま、ふと祥子はそう思った。


 ひたむきにいい子を貫いてきた自分が、悪い子になるには。


 その答えが、分かる気がしたのだ。


 カオリは、迷ったような、焦ったような顔をして黙っている。




「カオリさんっ」




 更に、詰め寄った。




「——あー、もう!」




 ややあって、乱雑に髪を掻き上げたカオリが、うなるような声を上げた。


 驚いた祥子が離れるよりも早く、その右腕が伸びる。


 えりつかまれた。


 そう思った時には、カオリの顔が眼の前に迫っていた。






「——ッ!?」




「……ぷはっ。——これで、分かった?」






 柔らかい感触。


 たっぷりと数秒の間を置いてから、カオリが口を離した。


 何が起きたのか、沸騰した頭が処理しかねている。


 唇。


 まず、眼に付いた。




「か、カオリさん……?」


「あたしは——あたしは、あんたが好きだ。ショーコ」




 頬を赤く染めたカオリの言葉が、いやにはっきりと聞こえた。




「最初は、あんたに昔の自分を重ねてるだけだった。苦しそうな顔して、いい子にならなきゃって無理してるあんたを、見てられなかったんだ」


「昔の、自分……?」


「あたしも、一人なのサ。ご立派な教授の親父にしごかれて、殴られて、それでも捨てられたくなかったから、歯ァ食い縛っていい子になろうとしてた。酔って暴れちゃ平気で母親を殴り付けるような、くそ親父のになろうとしてね」




 まるで、腹の中のものを吐き捨てているようだった。




「眼を見りゃ、すぐに分かった。あんたも、あたしと同じなんだって。そう思ったら、たまらなくなった。だから、あんたを——あんたの傍に居てやりたいって」


「それが、理由……」


「あたしにとっちゃ、あんたが特別だった。いい子になろうとあんただったから、あたしは放っておけなかったんだ」




 勢いのまま、カオリが祥子の両肩を掴んだ。


 触れたところから、更に熱いものが流れ込んできて、祥子の身体を火照らせる。






「傍に居るうちに、あんたの笑顔をずっと見てたくなった。あんたが心から笑えるようになるまで、うんとに染めてやろうって。あんたを、幸せにしてやりたいって、そう思ったんだ」






 告白だった。


 本日、二度目の。


 しくも、カオリの叫びは、朱音のそれとよく似ていた。


 こんなことが、あるのか。


 まったく予想外の事態だった。


 カオリの過去を初めて知った衝撃もさることながら、自分の人生に意味を与えてくれた憧れの大恩人——あえて付け加えるなら、自分とは比較にならない美少女だ——に求愛されて、祥子の心は大西洋の荒波よりも揺れに揺れていた。




「ショーコ。好きだ。あたしの傍に、ずっと居てほしい」




 真剣な眼で見つめてくるカオリに、胸がうずいた。


 自分には、ここで首肯する資格などありはしない。


 つり合いもそうだし、朱音の先約も果たさぬままである。


 そして何より、未だ事を成していない。




「——カオリさん。お気持ちは、とても嬉しいです」


「ショーコ……?」


「ですが、今この場で、お答えすることはできません」




 この人たちに、ふさわしい女になると言った。


 一度決めたからには、半端な真似はしたくない。


 頑固と責められようと、これが祥子にできる精一杯の誠意であった。




「な、何で!? 他に好きなやつが居るとか? それとも、あたしのこと実は嫌いだとか!? それとも——いや、女同士なのは、まったく問題ないはずだし……」


「お、落ち着いてください。……好きな人、っていうのは、私にはまだ分からないんです。カオリさんも、他の方たちも、大切な人だとは思っていますけど……恋愛となると、よく分からなくて」




 がくがくと肩を揺するカオリをなだめる。


 無論、祥子には、気を持たせよう、などというつもりは毛頭ない。


 本心から、寄せられる好意を幸甚こうじんに思いつつも、戸惑っているのだ。


 何せ、数ヶ月前に初めて居場所を与えてもらったばかりである。


 それ以前は、恋や愛どころか、友情すら感じたことはない。


 カオリたちと、それ以外。


 祥子の世界には、その二分類しかなかった。


 その中から、あえて恋愛という関係を構築するというのは、未知というだけでは足りぬものがある。


 ヨーロッパ人が、というよりも、文明を作って間もないシュメール人が、いきなり新世界に渡るようなものだ。




「ですから、私がカオリさんのことが嫌いだなんてあり得ません」


「だったら! ね? 少しずつ、二人で知っていこうヨ」


「それでも、今はお答えできません」


「何で!?」




 詰め寄ってくるカオリを毅然きぜんと見返して、祥子が居住まいを正す。


 与えられるばかりの幸せなど、もはや願い下げだった。


 今更、何を迷うことがある。


 カオリのために、そして、自分の幸せのために、勝つ。


 それまでは、何も考えるまい。




「期するものがあります。私に、一週間ください」


「一週間? そんだけ待てば、ショーコと付き合えるの?」


「その間に、。お話は、それから」




 怪訝けげんな顔をしながら、カオリは黙った。


 思案のしどころだと思っているのだろう。


 このまま押し問答を続けるよりは、約束という形で未来に繋げる方が現実的だ。


 そして、本間カオリはそういったことに関しては判断の早い女だった。




「……仕方ない。一週間、待ったげる。その時には、必ず良い返事を聞かせてもらうから」


「わがままを、すみません」


「——やっぱり無理です、なんて言うのは無しだから。食らった分、たっぷりサービスしてもらうヨ? ……一週間後が、楽しみだね? ショーコ」




(デジャブだ——!)




 爛々らんらんと眼を光らせて笑うカオリは、獲物を前に舌なめずりする獣のようだった。


 狼の狩りは、で行うのだ。




(——松様。巫女になる前に、私はみさおを保てていないかもしれません)




 祥子は再び心中で松に詫びた。




 それから機嫌を直したカオリと並んで箸を進めること約十分。


 すっかり空になった器を見遣って、カオリが「会計」と声を掛けた。




「——ふられちまって、残念だったなァ。カオリちゃん」




 わざわざ店主が出てきて、開口一番そう言った。


 カウンターとはいえ、会話を聞かれていたのだと思うと、流石に恥ずかしい。


 にやにやとした店主に、負けじとカオリが胸を張る。




「ふられてないから。一週間後には、イチャラブカップル姿を見せに来てやるヨ」


「一応言っとくが、年下を無理やりめにするってのは、犯罪だからな?」


「完全合意だっつの!」


「あの……私、まだお付き合いするとは——」


「——え、なんか言った?」


「何でもないです!」




 襟を掴まれ顔を近付けられた瞬間、祥子は自分を曲げた。


 豪快に笑う店主に送り出されて、店を後にする。


 夜風が、さあっと身を打った。




「そんじゃ、送ってくヨ」




 来た時と同じように、カオリが半ヘルを差し出した。


 それを受け取らずに、祥子はまた嘘をつく。




「……親が、近くに居たそうで、迎えに来てくれると言ってます。すぐ来るらしいので、カオリさんはこのまま巡回に行ってください」


「……そっか。なんかあったら、さっきのおっさんに助けてもらいな。ああ見えて、結構強いから」


「分かりました」


「それか、あたしを呼んでくれてもいいよん。ショーコのためなら、すぐに駆け付けるからサ」


「分かりました。使が現れたら、そうします」


「どういう状況!? 無いよそんな時!」




 つまり、そういうことだ。


 ヘルメットを返す拍子に、手が触れた。


 熱が、離れていく。




「……そんじゃ、あたしは行くヨ」




 エンジンを回したカオリが、単車を車道まで移動させる。


 その後ろ姿に、祥子は堪らず声を上げた。




「カオリさん」


「ん?」


「——会えて、よかったです。ここで」




 微笑んでいた。




「……へへ、お上手なんだから。そう言われたら、何度だって奢ってあげたくなっちゃうじゃん。悪い子だね、ショーコ」


「私は、いい子のままですよ」


「それも、あと一週間サ。——またね、ショーコ」


「はい。……、です。カオリさん」




 手を振った。


 排気音も高らかに、カオリの単車が飛び出していく。


 夜の街に消えていく背中が見えなくなるまで、祥子は眼を離さなかった。




 最後にカオリに会えて、本当に幸運だったと思う。


 これで、もう悔いはない。


 あとは、約束を果たすだけだ。


 、祥子は駆け出した。




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