09 「リーリヱの戦い」




 喫茶「リーリヱ」。


 壬宮高校からほど近い通りに店を構えて、かれこれ二十年になるという。


 店主は壬宮の卒業生で、利用客の半分はやはり壬宮関係者らしい。


 カオリたちの行きつけでもあり、祥子も放課後に連れられて何度か来たことがあった。


 名物のカツサンドが、また絶品なのである。


 想像しただけで口内に広がるよだれを飲み込んで、ドアベルを鳴らす。


 来客に気付いた店員が、愛想のいい反応を返したのに僅かに遅れて、奥の方から声が上がった。




「——ショーコちゃん!」


「えっ!?」




 声の方を見遣れば、L字型のソファーに腰掛けて、口回りを真っ赤に染めた黒髪の少女が大げさに手を振っていた。


 その斜向はすむかいにもう一人、金髪をまで伸ばした少女が座っている。


 同級生でクラスの違う友人である須子川天子と、その保護者の御堂朱音だった。


 これには、祥子の驚くまいことか。


 空腹で思考が鈍ったと言えば簡単だが、よもや昼休みの最中に学外の喫茶店で出くわすとは思わなかった。


 そういえば、この二人は教室に来ていなかったではないか。


 束の間、祥子の冷静な部分が警告を告げた。


 既に見付かったとはいえ、強制退場ゲームオーバーの危険を考えれば、にこの世界の人物と接触するのはひかえるべき、というのが無難な方針だろう。


 うっかりとて口をすべらせれば、すべてが水の泡なのだ。




 しかし——。




(朱音さんに、天子ちゃん……!)




 梅田祥子は、まだ十五である。


 未来では口もけないようになってしまった二人が、今こうして目の前で元気そうにしているのを見て、込み上げるものを抑えられなくなったとしても、一体誰が自分を責められようか。


 いや、ここで踵を返すくらいなら、いっそ責められてもいい、とすら祥子は思った。


 泣けば、あやしまれる。


 それだけはすまいと、きつく唇を噛んでから、祥子は店の奥に足を向けた。


 テーブルの上には、空になった皿やグラスが明らかに二人分以上ある。




「——よォ、珍しいな。昼とはいえ、お前が堂々と外まで出張でばってるたァ」


「ショーコちゃん! 座って、座って!」




 手前まで近付いた祥子に、朱音は愉快そうに声を掛け、天子は自分と朱音の中間——つまり、L字の付け根の部分——を手のひらでしきりに叩いた。


 促されるままに、席に着く。




「はい。——お二人に、会いたくなったもので」




 声を震わせないように気を付けながら、朱音と天子に目を遣る。




「ほォ、なんだ、なんて使いやがって。さては、面倒見のいい先輩をおだてて飯代を浮かせようって腹だな。肝の太いやつめ」


「あたしも、ショーコちゃんに会いたかった!」


「本心ですよ」




 頬を寄せてきた天子に構いつつ、祥子はそれだけを返した。




「随分と、が上手くなったじゃねェか。カオリのやつよりかは、腕が立ちそうだ」


「私は、そういうのはです。朱音さんも、それはご存じでしょう?」


「分かったヨ。乗ってやる。ちょうど、臨時収入があったばかりだしな」




 微笑んで繰り返した祥子に、朱音が降参とばかりに肩を竦めた。


 夢にまで見た光景だ。


 祥子が最後に朱音を見たのは、病室のベッドの上で、しかも大量の包帯に巻かれた姿だった。


 声を掛けても、何も返してはくれない。


 医者には、二度と目を覚まさない可能性が高いと告げられ、包帯のせいでその表情すら分からず、祥子は一気に足下が崩れるような感覚に陥った。


 もう、朱音の笑顔を見ることはないかもしれない。


 また一人、カオリのように、自分の許から去って行くのか、と。


 ずっと、おびえていたのだ。


 それが、今は朱音もこうしていつも通りの笑みを浮かべている。


 胸の奥を、言い様のないものが占めた。




「臨時収入?」


「そこで会わなかったか? 南杜生がな、めぐんでくれたのヨ」


「あたしが二人、朱音さんも二人。仲良く半分こ、だね!」


「道理で、財布が多いわけです」


「勘違いしてくれるな? あたしらは、たかられた側だ」


「分かってます。朱音さんは、自分からそういうことはされないでしょう」


「ん……まァ、そういうわけだ。連中も、お前の腹に収まるなら、本望だろうサ」


「あたしも食べちゃった」




 店員の持ってきたプリンにスプーンを挿していた天子が言った。




「いいんだっつの。とにかく、有効活用してやらねェとってことだ」




 ならいいか、と天子が気を取り直す。


 立ったままの店員に、カツサンドとオレンジジュースを注文して、祥子は再び朱音に顔を向けた。


 右腕には、天子が手を絡めている。




「けど、南杜生がこんなところにまで?」


「そこだ。連中、近頃調子に乗っちゃいたが、いよいようちに斥候せっこうを送り込んで来やがった」


「斥候、ですか?」




 無論、尋ねるまでもなく、祥子は一連の流れを知っている。


 ちょうどこの時間に、教室でカオリたちが同じようなことを話しているのを聞いていたし、未来でも情報収集に努めていたのだ。


 そういう意味では実に白々しい問いだが、とはいえ自分が知っているというのも不自然である。


 知らないふりをするのが、上策だろう。


 万一にも余計なことを言わないように、祥子もここはあえて道化を演じる腹を決めた。




「連中は、勝ち戦の勢いに乗ってやがる。祥英に勝ったばっかだからな。そーゆー時は、決まって気が大きくなるもんだ。敵対校のもう一つや二つ食っちまおう、ってな」


「じゃあ、南杜はうちに攻めてくると?」


「間違いなく。それか、あたしらへの挑発かもな。連戦なら、できれば向こうも本拠地ホームで戦いてェだろうし。もちろん、誘いに付き合ってやる義理もねェが」




 朱音の咥えたストローが、ずずずっと音を立てる。


 グラスの底に溜まった氷は、半ばほどに溶けかかっていた。


 どうやら、八生郁子が仕掛けてくる、という認識自体は壬宮側に共通したものであったらしい。


 だから、示威行為としての見回りをやっていた。


 しかし実際には、敵襲を警戒しての巡回を逆手に取られた形だった。


 朱音たちが読み違えたのは、外道番長とまで言われた八生の狙いが、決戦ではなく暗殺だったということだ。




「今日もパトロールだね!」




 スプーンを口に含みながら、天子が朱音に向き直った。




「カオリのやつも、そのつもりだろうな。さっきは、たかられたのがあたしらだからに落ち着いたが、街中でカタギにまで絡まれちゃそうもいかん。——特に、ショーコ。お前がそんな目に遭ったら、宣戦布告も何もねェ。一発で戦争ヨ」


「ショーコちゃんに手を出したら、あたしも黙ってられないもん! きゃははは!」


 すごむ朱音に同意を示して、天子が低く笑った。


 二人の言ってくれる言葉に、嘘はないだろう。


 実際、初対面の自分を助けるために——勿論、カオリへの付き合いという面が大きかったのだろうが——上級生を数十人相手取って内戦までやってみせたのだ。


 今更、他校と事を構えるのに気後れしたりなどしないはず。


 二人の厚意はこの上なく喜ばしいが、自分は今からその気遣いを裏切って、南杜の番格と一戦交えようとしている。


 隠し事をしている、という負い目が、かすかに胸を刺した。




(——いや、それは流石に自虐的になり過ぎか)




 むしろ、二人の思いに応えるために、自分は往くのだ。


 守られるばかりでは、とても恥ずかしくて身内と名乗れない。


 ちょうど店員が、オレンジジュースだけを先に持ってきた。




「そーゆーこったから、お前もあんま一人で出歩くなよ。もっと、チャコを馬車馬のように扱え」


「朱音さんまで。チャコちゃんは、ひざといわず全身にらしいですから。あまり付き合ってもらうのは気が引けます」


「爆弾? 全身に? ——持病とかあったのか、あいつ?」




 首を傾げる朱音に、メロンソーダの残りをすすっていた天子があっと声を上げた。


 そのままこちらに倒れ込んだかと思えば、祥子の膝に腹を乗せて、朱音に何事か耳打ちを始める。




「朱音さん! あれ! 今がチャンスだよ!」




 声の大きさはまったく変わっていない上に、朱音も顔を寄せたりしていないので、当然内容は祥子にも丸聞こえだ。




「あれって?」




 何で聞こえてるの、という天子の驚きに構わず、朱音が決まりの悪そうに頭をいた。




「あー、そうだな。確かに、いい機会かもしれねェ」


「ショーコちゃん! チャコちゃん弱いから——あたしが一緒に居てあげよっか?」




 朱音の態度を了承と見て取った天子が、身体の向きを変えて言った。


 そのまま、期待の眼差しで見上げてくる。


 思いがけない提案に、祥子は首を傾げた。




「一緒に? 天子ちゃんが? でも——」


「つまり、なんだ……ショーコ」




 こちらも珍しく歯切れの悪い朱音が、天子の言葉を補うように引き継いだ。




「——あたしのとこに来ねェか?」




 これまた、思いがけない一言だった。




「ど、どういう意味です?」


「言葉通りだ。お前を、口説いてんだヨ。になってくれ」


「女って——からかわないでください!」




 さっと頬を朱に染めた祥子に、朱音が顔を寄せる。




「誰が。あたしは本気だぜ。お前が、欲しい」


「あ、朱音さん……!」




 肩に腕を回されて、祥子は逃げも打てない。


 空気を読んで一瞬早く身を起こした天子が、興味津々といった様子でそれを見守っている。


 気が付けば、朱音の端整な顔が目の前にあった。




「御堂一派のあねさんになれるんだ。そこらの番格が楽しんでるもの以上の待遇は、用意してやれる。テンコも、お前のことは気に入ってるみてェだし、あたしらがずっと一緒に居てやりゃ、これ以上安全なことはねェぜ」


「ショーコちゃん、家族になろ?」




 前門の朱音、後門の天子。


 退路を断たれた袋の鼠は、自分の方だった。


 確かに、朱音の言うことに誇張こちょうはない。


 本間一派という、いわば本家の中に在りつつも、朱音は少なからず直属の舎弟(舎妹?)を抱えていた。


 勿論、朱音の親友で総番でもあるカオリの顔は立てるが、御堂派の者はやはり朱音のご下命第一という雰囲気がある。


 その妹分の筆頭が、天子なのだ。


 中の結び付きも、頭一つ抜けている感があった。


 本間一派の一人でいるよりは、朱音の愛人となった方が、身辺の安全といった意味ではそうだった。


 しかし、いくらなんでもという気もする。




「い、いきなりそんなことを言われても……」


「あたしは、お前が可愛くて仕方ねェんだ。ずっと傍に置いておきたい」


「あたしも、ショーコちゃんすきー」


「私も、お二人のことは大好きですけど……」


「なら、満更でもねェってことだな?」


「——ですけど! それとこれとは、また別というか!」




 朱音の怪しい手つきに首筋をでられ、祥子は悲鳴にも似た声を上げた。


 吐息の掛かりそうな距離に、心臓が騒いで止まない。


 顔が、熱い。


 何が起きているのか、戸惑うばかりだった。


 告白を、されているのか。


 自分が。




「わ、私なんかを、どうして……?」


。理由なんて、どうでもいい。お前を、傍に置きたい。あたしが、幸せにしてやりたい。そう思った。——それだけだ」


「朱音さん……」


「ショーコ」


「——ッ!」




 近付いてくる唇に、息を呑んだ。


 熱で、頭がおかしくなったのか。


 受け入れそうになっている自分に、驚いた。


 のぼせている。


 生まれて初めて、誰かにだけで、何もかもゆだねそうになっていた。


 分かっていても、頭を溶かすような甘い匂いから逃げられない。


 自分とて、決して朱音のことが嫌いなわけではないのだ。


 むしろ、大切な恩人の一人だと敬愛している。




(……あ。朱音さん、笑って……る——ッ!)




 ぼやける視界の中で、朱音の微かに上気した顔が、ふと病室のベッドで見た包帯まみれのそれと重なった。


 冷水を掛けられたように、甘い陶酔とうすいが消え失せる。


 まだだ。


 自分は、まだ何も成していない。


 眼前の大切な人。


 そして大切な家族を救うために、ここまで来たのだ。


 恩返しも果たさぬまま、ただ好意に甘える自分を、梅田祥子は決して許せない。




「……ショーコ?」




 肩に手を置いてやんわりと力を入れた祥子に、朱音が声を掛けた。




「朱音さん。私は、守られるだけの弱い自分を許すことは、やっぱりできません。だから——」




 至近距離で、まっすぐに朱音の眼を見つめる。




「——私が、あなたにふさわしい女になるまで。待っていてくれませんか?」




 今度は、朱音が眼をぱちくりとさせる番だった。


 自分が押しに弱いということはとっくにばれているからして、年上の余裕で押せばいけると思われていたのかもしれない。




「……あたしに、ふさわしい女になる、だと?」




 朱音が、うなるように言った。


 展開に付いていけていないのか、傍の天子は珍しく黙ったままだった。




「はい。必ず、立派なになってみせます」


「……それは、一人じゃねェとできねェことか?」


「いいえ。でも、一人でやらなければ、意味がないことです」


「それは——何だ?」


「……朱音さん。もうそろそろ、昼休みが終わるんじゃないですか?」


「はぐらかす気か、ショーコ。あたしは、本気だぞ」


「私は、あなたたちと一緒に居ても、恥ずかしくない女になりたいんです。そのために、成すべきことがある。——それだけです」


「……随分と、可愛げのない言い様じゃねェか」


「朱音さん。どうか」




 しばし、見つめ合ったまま、互いに無言だった。


 自分なら、こんなことを言われて引き下がるだろうか。


 ふと、そう思った。




「……適当言って、をしようってんじゃねェだろうな?」


「無論です。私があなたに嘘をつくなんてこと、あり得ません」


「だが、言えねェことはある」


「それも、今は、です。少しの間だけ、私のことを信じてください」


「少しってのは、いつまでだ?」


「まず、一日。長くて、一週間といったところです」




 疑われているわけではないと、祥子は思っていた。


 嘘をついていると思うならば、朱音はもっと強引な手段を取っているはずだ。


 想いに応えられないばかりか、心配まで掛けている。


 だが、譲れないところだった。




「それが終われば、あたしのところに来るんだな?」


「改めて、向き合えるようになる、と思います」




 眼を逸らさずに、祥子が言った。


 正直、恋愛については、実感があるわけではなかった。


 朱音のことは心底敬愛しているが、これ以上の関係となると、想像もつかない。


 それに、仮に受けた恩の一つに報いたところで、自分と朱音が釣り合うとも思えない。


 それは、相手が天子でも、あるいはカオリでも藍でも同じことだ。


 恐れ多い、という思いが先に立つ。


 それでも、未だにいい子のままでいる自分よりは、胸を張って向き合えるようにはなるだろう。


 何といっても、空虚だった人生で初めての告白なのだ。




「——分かった。一週間だ。それ以上は、を聞いてやれん」


「いいの? 朱音さん」


「仕方ねェ。どうしたって言いませんって眼ェしてやがるんだからヨ」




 すっと元の位置に戻った朱音に、黙っていた天子が声を上げる。


 遠ざかった熱に、妙な気分になりながらも祥子は息を吐いた。


 とりあえず、窮地を脱したのだ。




「あ、ありがとうございます。朱音さん」


「ただし、わがままを許してやれるのはこれきりだ。お前が何をやらかすつもりなのかは知らねェが——、あたしもからな。……一週間後が、楽しみだなァ? ショーコ」




 くつくつと、朱音が笑った。


 獲物を前に舌なめずりする獣のような、凄絶な笑みを浮かべている。




 ——全然逃れられていなかった。




 あえて獲物を逃がしてから追跡し、弱り切ったところを仕留める。


 狼の牙は、変わらず自分の喉元を捉え続けているのだ。




「あたしと朱音さんはね、義姉妹きょうだいなの。昔、そういう約束をしたんだー」


「天子ちゃん?」


「だから、一週間後には——ショーコちゃん、あたしのになってるね? きゃははは!」


「は、ははは……」




 抱き着きながら爛々らんらんとした眼で見つめてくる天子に、思わず渇いた笑いがこぼれた。


 二人の言ってくれる言葉に、嘘はないだろう。


 だからこそ、祥子は参ってしまうのだ。


 首尾よく事を成したとして、未来に帰ってから、自分は為す術もなく朱音のものにされてしまうのかもしれない。


 朱音の腕に抱かれながら、天子の面倒を見る。


 思わず、そんな未来を想像して。


 そして、それが嫌ではないと思う自分が居ることに、祥子は何よりも困惑していた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る