08 「我が籌略は定まりて」




 鳥の鳴き声。


 気が付けば、祥子は鳴鼓神社の境内に立っていた。


 太陽は、ほぼ真上に輝いている。


 携帯電話のディスプレイには、一週間前の日付が表示されていた。




「も、戻った……!」




 寂れた神社に、祥子の弾んだ声が響く。


 ふと、松の姿がないか探してみたが、不在なのか、あるいはどこかに隠れているのか、とにかく見渡す限りでは見つからなかった。


 期待していたというわけではなかったので、すぐに境内を離れて、山道を駆け下りる。


 日の差した旧参道は、と違って明るい雰囲気だった。


 登るよりも、下りる方が断然早い。


 それほど掛からずに、スニーカーを泥だらけにした祥子が、麓に立った。


 正午である。


 カオリたちが巡回に出るのは、授業が終わった放課後の、かなり遅い時間だ。


 それまでに、何か手を考えなければならない。


 どこへともなく、祥子は歩き出した。




 例えば、今から南杜高校に殴り込みを掛ける。




(——無理だ)




 そんなことをしたら、すぐに返り討ちに遭って、むざむざとカオリを死なすことになる。


 敵は、八生郁子だけではない。


 正面から阻止するのは、どう考えても無謀だった。




 あるいは、カオリたちに巡回を止めてもらうように頼むか。




(——それも、厳しい)




 何といっても、説得の材料が足りな過ぎた。


 理由を問いただされて、下手なことを言えば、それこそ元の時間に引き戻される危険が高まる。


 分かっていたが、カオリたちに協力を頼むのは、やはり難しい。


 正面からは挑まず、つ自分一人で、八生を含めた南杜生の一団に勝たなければならない。




「……そうだ! 松様の——兵法書!」




 路上で頭を抱えていた祥子は、つと見送りの間際に松が言ったことを思い出した。


 早々に思考を切り上げて、鞄から取り出した意外に分厚い冊子を開く。


 これで、妙策を教示してもらえるはずだ。




「……? 下駟が上駟で、上駟が中駟で……馬?」




 祥子は、足を止めてしばし黙り込んだ。


 その頬には、汗が一筋垂れている。


 読めても、内容が分からない。


 愕然とした心持ちだった。


 当然と言えば、当然である。


 松と、その姉は優に数百年を生きている天狗なのだ。


 それが昔に書いた書物ということは、当然文体も古く、平凡な現代人である祥子に容易く読めようはずもない。


 絶望にも似た焦りが胸を走った時、さっと風が吹いて冊子のぺーじがぱらぱらとめくれていった。




「わわ! ——ッ! これって!?」




 ぴたりと止まった見開きに、祥子は思わず声を上げた。




「注釈……ここだけ、現代語で書いてある」




 道理で、やたらと分厚いわけだった。


 松が一人で書いたと思しき注釈集は、全体の四分の一ほどを占めて、やけに真新しい。


 二つの——あるいは、それ以上か——冊子をまとめたから、このような分厚いものに仕上がっているのだ。




(——「自分が手負い、本来の力量を発揮できない場合」……私のできることに合わすとしたら、ここらへんかな)




 初っ端に『を用いる』と書いてあるのを見て、首を傾げる。


 読んでいくうちに、鉄砲のことを言っているのだと気付いた。




「……無理です、松様」




 念のため、近くの銃砲店を調べてみたが、最寄りのところでも県外だった。


 手持ちも少ない。調達は諦めて、読み進めていく。




調虎離山ちょうこりざん……敵の本拠地を攻めないで、こっちの有利な場所に誘き寄せる……なるほど。——うん、やっぱり南杜には行かない」




 改めて、さきほどの愚策を採用しなかった自分をほめてやりたい。


 さておき、この冊子は信頼に値すると、祥子は一層の確信を得た。


 しかし、誘き寄せる、というのは、如何にも難しい。


 有利な場所といっても、未だ土地勘の備わっていない祥子には、学校か自宅しか思い付かない。


 どうしたものかと足を進めていると、ふと一文が目についた。




『敵の多く、こちらが無勢の時』




 願ってもない箇所だ。


 続きを求めて頁を捲る。




『第一に、敵の挙動を確実に把握し、可能ならばこれを利用して戦闘の主導権を掌握すべし』


『敵集団の通ると思われる——あるいは、我が方の策謀でそう仕向しむけた——狭い道を先んじて占め、日没を待ち、罠を仕掛け、身を隠す。然る後に、敵の退路を断ち、これを立ち往生させるべし』


『敵集団の誘引は、敢えて一度背を見せて追撃させるもよし』


『奇襲、夜戦、包囲。この三点の効果が十分でない場合は、何らかの仕掛けによって我が方の兵を多勢に見せ、敵の動揺を誘う』


 『乱戦は極力避け、高みから弓や礫を用いて敵の意気を減じせしめよ』




 祥子は、眼を輝かせて何度も読み直した。




(これだ——!)




 この方法ならば、自分一人でも八生たちを相手取れる可能性がある。


 幸いに、自分は相手の挙動に関してはすべて記憶している。


 未来から来たという優位性を発揮するのは、ここ以外にない。


 八生郁子率いる南杜生は、カオリたちが走る大通りと合流する路地を拠点に、待ち構えていた。


 決戦の場は、その狭い路地だ。




(今度は、私が八生郁子を待ち構える——!)




 要は、敵の裏をわけだ。


 条件は、揃っている。


 隘路あいろに、夜戦で、しかも奇襲という形になる。


 あの地形ならば、抱えた兵の多寡は平地ほどには影響しない。


 左右にそびえる空きビル——これが、南杜側が同地に陣地をえた理由でもある——を利用すれば、罠もたくさん仕掛けられよう。


 天佑てんゆうかと思えるほど、今の祥子が敵を叩くには理想的な地点だ。


 しかし、一方で最大の問題が残ってもいた。




 『——最終的な勝利のためには、以上を行って後、敵の崩れるを待って白兵に及ぶべし』




 やはり、最後には必ず手の届く距離で戦わなければいけない。


 兵法書通りの策を成功させるためには、その瞬間に、どうしても地力が必要になる。


 その力が、自分にあるのか。


 冊子を持つ細い腕が、目に付いた。


 わずかに松の手解てほどきを受けただけの自分が、気合いだけで勝てるほど、甘くはないだろう。


 あと一手、何か策がる。


 悩む祥子が冊子を手早く捲った拍子に、白い紙がはらりと落ちた。




「——これは?」




 メモ用紙ほどの大きさの紙を拾い上げる。


 何かの切れ端だろうか、四辺がいびつな形になっていた。


 何も書かれていない。


 首を傾げながら裏返してみると、走り書きに、






 『此度の戦、第一義は 作麼生そもさん






 とだけある。


 松からのメッセージであろうが——




「作麼生……って、なんだろ?」




 調べてみると、単なる問いかけだった。


 つまり、一番大事なことを見失うな、という松の助言なのだ。




「一番大事なのは、八生郁子に勝って、カオリさんたちを助けること——」




 言ってみたところで、何を今更という感じがした。


 その勝ち方が分からないから、悩んでいるのだ。


 松の真意が分からない。


 もどかしさを覚える祥子の耳に、ふとチャイムの音がかすかに聞こえてきた。


 聞き馴染みのある、昼休みを告げるチャイムだった。




 いつの間にか、壬宮高校の近くにまで来ていた。


 それに合わせて、腹の虫が騒ぎ出す。


 思えば、この一週間まともに食事など取っていなかったし、まだ水しか飲んでいない。


 いや、酒も飲んでいた。


 今まではカオリの死という衝撃と、仇討ちに燃える執念が誤魔化していたが、松の力添えでこうして希望の生まれたこともあり、ようやく身体が訴状を上げてきたのだ。


 腹が減っては戦はできぬ、とは言い得て妙だ。


 頭の中を整理する意味でも、何か腹に入れたい気分だった。


 少し行ったところに喫茶店があったのを思い出し、祥子は兵法書とメモを鞄に仕舞って、いささか早足に歩き出した。




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