07 「夢中の決別」




 夢を、見ていた。




 自分が小学生だった頃の、思い出したくもない記憶だ。


 昔から、梅田祥子という少女は、口数も少なく、地味で、いつも人の後ろでうつむいているような、だった。




「……梅田って、いっつも下向いてるから不気味だよな」


「声も小さくて、何言ってるか分からねーし」


「暗いやつがいると、それだけでこっちも参っちまうんだよなァ」




 座っているだけで、聞こえよがしにあざけりを投げられる。


 辛かったが、無視していれば、最初はどうということもなかった。


 決定的だったのは、高学年になって、私物を奪われたり、手を上げられるようになったことだった。




「梅田ァ、お前さっき何書いてたんだよ?」


「不幸の手紙とかじゃねーだろうな? 俺、呪われんのは御免だぜ」


「見せろよ。見せろって! うわ! 見ろよ、へったくそな絵だぜ」


「か、返して……!」


「こっち来るんじゃねーよ!」




 幼い自分が、突き飛ばされて転がる。




「こんなもん描いてるから、暗いんだよ、お前。ぼそぼそしゃべって気持ち悪いしよ」


「いいこと思い付いた。なら、俺たちが明るくなる手助けをしてやろうぜ」


「そうだな! 先生も、みんな仲良くしましょうって言ってたし」




 へらへらと笑った男子たちが、スケッチブックに手を掛ける。




「や、やめて……!」


「やめませーん!」


「ぎゃはは、ほんとにやったよ!」




 伸ばし掛けた手は、何も掴めなかった。


 ただ、目の前で無残にスケッチブックが引き裂かれるのを見ていただけだ。


 ひらひらと、舞いながら落ちてくる断片に、描きためていた絵の一部が見えた。


 せがみにせがんで、母親に買ってもらった、大事なスケッチブックだった。


 大切に使うと、約束した。


 幼い自分は、気が付けば破った男子を突き飛ばしていた。




いってえ……! 何すんだよ!」


「大丈夫、圭ちゃん?」


「いきなり突き飛ばすとか、頭おかしいって! 明るくしてやっただけなのに!」


「誰か、先生呼んでこいよ! 梅田が圭ちゃんを殴った!」


「きちがいだぜ! 圭ちゃんかわいそー」




 呼び出されてやってきた担任に、幼い自分が連れていかれるのを、祥子はただ見ていた。


 この時の心境は、今でも覚えている。




「……山本くんが、私のスケッチブックを……」


「うん、でも、手を出したのは梅田さんも悪いよね?」


「で、でも……三人がいきなり……」


「それって、山本君たちも梅田さんと仲良くなりたかっただけだと思うわ。絵が気になって、ちょっと引っ張ったら破けちゃったってわよ」


「そんな! 嘘です、そんなの……」


「でも、




 山本という男子は、クラスの人気者、というわけではなかった。


 ただ、大柄で、運動ができて、小金持ちだった。


 何をしても許され、文句を言う者など居はしない。


 自分が絡まれているのを見ていたはずのクラスメートたちは、口をそろえて山本に有利な証言をしているのだ。


 子供の言うことを、頭から信じるこの担任も、山本の味方のようなものだった。


 嘘だと、かばってくれる者は居ない。


 祥子には、友達など一人も居なかった。




「だから、梅田さんも?」


「ごめんなさーい」


「えらい、山本君! ほら、山本君はちゃんと謝ったよ?」


「…………」


「梅田さん?」


「……ご、ごめん……なさい……」


「はい! それじゃ、これでおしまいね!」




 自分はこの時、ただ泣いていた。


 喧嘩両成敗。


 担任の言うことは、幼心ながら確かにおかしいと、分かっていた。


 彼らは、自分のやりたいことを通して、満足だろう。


 形ばかりのをしてみせれば、腹の中でどう思っていようが関係ない。


 気に入らない者を甚振いたぶって、何も失わずに、最高のができたことだろう。






 だが、自分は。






 やり返すことすら許されずに、ばつを受ける。


 失ったスケッチブックは、奪われたまま、もう戻ってこない。


 数を味方につけ、卑劣な真似をする相手に、びることを強要される。


 これが、痛み分けだというのか。


 みんな仲良くなどと唱えた口で、黙って、大事なものが奪われるのを見ていろと、いるのか。


 悲しかった。


 ただ、それだけだ。


 幼い自分は、胸の奥から湧き出す感情に戸惑いながら、逃げるように家に帰った。




「——祥子! あんた、学校でクラスの子を殴ったんだって?」


「お母さん……ち、違うよ……あれは——」


「言い訳しない! あんたいつから、人様の家の子に手を上げるような子になったの!」


「でも、でも…………!」


「殴ったあんたが悪いでしょ! 暴力なんだから! どうしてそんな悪いことしたの! お母さん、いつもって言ってるでしょ!」


「まァまァ。確かによくないが、子供のけんかだろう。祥子も、もう二度とこんなことするなよ?」




 担任から連絡がいっていた両親——特に、母親——は、フローリングに祥子を正座させてしかりつけた。


 そこでも、自分は困惑して泣くばかりだった。


 この時、幼い自分は期待していたのだ。


 意地悪な同級生はともかく、大好きな両親なら、分かってくれるはずだと。


 結局は、自分の意見などまるで聞き入れてもらえなかった。


 大事なスケッチブックを破かれて、確かに母親に悪いと思った。


 そのことで相手を突き飛ばしたのを、まさかとがめられるとは思っていなかったのだ。




 大事にする、という約束を守ろうとした自分が、間違っていたのか。




 今日の自分は、いい子ではなかったのか。




 もう、分からなかった。


 そして、自分は子供だった。


 理解できないながらも、、両親に嫌われることを恐れた。


 泣きながら、いい子になるからと、何度も言った。


 それからは、地獄のような日々だった。


 からかわれても、物を取られても、果ては、暴力を振るわれようとも、梅田祥子は何もしない。


 やり返せば、になると思っていた。


 何をされても無抵抗な自分は、勉強に飽きてストレスのを求める生徒たちの、格好の的だった。




 中学に上がっても、何も変わらない。


 むしろ、身体が成長し、悪知恵ばかりを発達させた連中に囲まれた分、被害は悪化していた。


 他の学校から来た生徒に、使い走りパシリにされたのが、一番こたえた。


 あざを作って帰っても、楽観的な両親は、考えすぎだとか、お前の態度にも問題があるんじゃないかなどと言って、真剣に取り合ってはくれない。


 あるいは、今思えば、当人たちにとってはあれで真剣だったのかもしれない。




 孤独で辛い三年間をしのぎ、高校に入学してすぐのことだった。


 心よりも、身体の方に先に限界がきた。


 通学途中に、いきなり人事不省におちいって倒れたのだ。


 これだけのことが起きてもまだ、我が子の何と打たれ弱いことか、などと嘆いている両親にはっきりと疑問を覚えたのは、この時だった。


 転校先の学校——地元を遠く離れた、壬宮高校——でも、自分へのいじめは続いた。


 妙な時期に転校したものだから、上手くクラスに馴染めずに浮いてしまった。


 元々、自分は人付き合いの上手い方ではない。


 すぐに、どこから聞き付けたのか、三年生の先輩たちに目を付けられて、また使い走りの日々が始まる。


 逆らうまでもなく、おどし付けられた。


 はっきりとした不良というものを、ここで初めて見た。


 上級生の怖い不良に目を付けられていると知れ渡って、クラスの連中も露骨に自分を村八分にした。




 孤独。


 もう、疲れ切っていた。


 金すらも奪い取られて、何のために学校に行っているのかも分からない。


 どうして、自分ばかりがこんな目にわなければいけないのか。


 何度も、考えた。


 夜は中々寝付けないで、明け方近くになって、一、二時間ほど眠る。


 起き出して学校に行って、運が悪ければ——大体、二日に一回は——殴られる。


 帰ってきて、また眠れない夜を、涙と共に過ごす。


 そんな日が、続いた。






 そして、あの日。






 いつものように、使い走りを務めていた。


 お小遣いも取り上げられて、自分の昼食を買うことすらできないのに、先輩たちの分を運ばされる。


 嫌な顔の一つでもすれば、殴られるのだ。




 、自分は殴られていた。




 飼育部の飼っていたうさぎが、暇つぶしに蹴られているのを、無視できなかった。


 気付けば、衝動に身を操られるまま、足下に飛び出していたのだ。




「うざってェ! いい子ちゃんしてんじゃねェよ!」




 倒れ込みながら、先輩をにらみ付けた。


 十年。


 もう、十年だ。


 自分がいい子だとすれば、どうして、こんな仕打ちを受ける。




 まだ、足りないというのか。




 眼の前で理不尽な暴力を振るう先輩よりも、面倒事を避けて見て見ぬふりをする同級生や、教師たちよりも、自分は、いい子ではないのか。


 一体、誰が、間違っているというのだ。


 自分だけが、認められないのは、何故だ。


 いい子とは、何だ。


 込み上げるもので、おぼれそうになっていた。


 にじむ視界に、あの人はいきなり現れたのだ。




「……おい」


「何だよ! 誰だ、てめ——」






「——いいから、くたばれ、お前」






 何が起きたのか、分からなかった。


 鈍い音と共に、上級生が倒れ伏した。


 自分の前には、見慣れない女が立っている。




「——よー、お嬢ちゃん。もう大丈夫だ」


「あ、あなたは……?」


「本間カオリ。覚えといて。今から、この学校ガッコの頭を取りに行く不良フリョーの名前で、それから——あんたを助ける、女の名前だヨ」


「二年の、本間だ!」


「テメー、上級生に手ェ出して、どうなるか分かってんだろうなァ!」




 残りの二人が、怒声を上げた。


 おびえて身をすくめた自分を背中に庇って、カオリが不敵に笑う。




「あたしが、オメーらみたいなクズをどついたら、どうなるってんだ。あァ?」




 手近な一人に蹴りを食らわせて、カオリがうなる。




「——どうなるかって、聞いてんだよコラァ!」




 多勢の利を生かせぬまま、上級生たちはあっという間に打ちのめされていた。


 カオリには、痣一つない。


 今思えば、カオリにとってこの程度は、大したケンカではなかったのだ。




「センパイ方よォ。あたしの前で、くだらねーことしてんじゃねェよ……!」




 冷たい声を放って、カオリはきびすを返す。


 驚きの連続でへたり込んでいた自分に、そのままカオリは手を差し伸べた。




「チャコから聞いてる。随分とひどい目に遭わされてたんだってね」


「あ、あの……ありがとう、ございます!」


「なんのなんの。もうちょっと、早く助けてやりゃよかったと思ってるぐらいサ」




 起き上がった自分の頭を一でして、カオリは去って行こうとする。




「安心しな。明日から、あんたは誰にもいじめられたりしなくなってるヨ」


「どういう意味ですか? そんなの——」






 あり得ない、と言い掛けた。






 今まで、平穏であった時などなかったのだ。




「こんなクズ共に番を張らせるほど、あたしは謙虚じゃないのサ。三年のやつら、、あんたも自由になる」




 何でもないことのように言ったカオリに、身を固くする。


 校庭の向こうから、カオリの仲間と思しき生徒たちが声を掛けてきた。


 それに答えて、「それじゃあ」と手を振ったカオリの背中に、咄嗟に声を掛けていた。




「どうして、そこまでしてくれるんですか……? 私なんかのために……」


「……あたしは、気に入らないもんは、何だってつぶす。あんたの泣き顔を見るのは嫌だったし、それをやったクズ共をのさばらせておくのも、許せないってだけ」




「だから、どうして私なんかを気に掛けてくれるんですか!? おかしいですよ、そんなの! ! 見て見ぬふりをするもんじゃないですか! 私が、何をされてたって! 、今まで……誰一人だって! 私を——」






「——が、あったから」






 振り返ったカオリが、呟いた。


 たった一言に、二の句をげなくなった。


 荒々しさの中に切なさをにじませたカオリの眼力に、ただ圧倒されていたのだ。




「なんてね。まー、高みの見物しといてヨ」




 ぱっと雰囲気を戻したカオリが、笑ってその場を後にする。


 この日、朱音や藍を率いて三年生の溜まり場に乗り込んだカオリは、本当に勝ってしまった。


 翌日に、本人の口から告げられたのだ。


 これからは、本間カオリが壬宮の頭だ、と。


 それから、自分へのいじめはぱったりと止んだ。


 カオリが、自分の教室を訪れた時は、本当に驚いた。


 そして、そのまま会話を始めて、放課後の約束まで取り付けられた時は、それこそ気を失いそうなほどだった。


 すべてが、日常からかけ離れていて。


 自分が、悪意をぶつけられる以外で、誰かと喋っているというのが信じられない。




 その後、何故かよくつるむようになったカオリたちの、誰かしらが傍に居るという状況が当たり前になった。


 最初にできた友達が、唯だった。


 それから、カオリを通して朱音や天子、藍と知り合って、次第に構ってもらえるようになっていった。


 授業中も、昼休みも、放課後も。


 梅田祥子は、独りではなかった。


 たった数ヶ月。


 しかし、初めて、誰かの傍に居ることを許された自分にとっては、長く、まぶしいものだった。


 何度も、夢ではないかと疑った。


 目を覚ませば、またあの悪夢のような現実が待っているのではないかと。


 それなのに、自分を出迎えるのは、いつだってカオリの笑顔で。


 永遠に続くと思っていた悪夢を断ち切って、無関係の自分を助けてくれたのも、カオリだ。


 戸惑う自分に、居場所を与えてくれたのも、カオリだ。




 幸せだった。




 幸せという言葉の意味を、初めて教えてくれたのが、カオリだった。




 とても返し切れないほどのものを、もらった。


 それでも、いつか、恩返しをしたいと、ずっと思っていた。


 なのに、自分は。


 だから、自分は——。






「——今度は、私が助ける番だ」






 祥子は、教室の一角で幸せそうに笑う自分に、背を向けた。


 夢ではない。


 泡沫うたかたの夢で、終わらせるわけにはいかない。


 自分の、帰るべき場所なのだ。


 踏み出す。


 世界が、弾けた。



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