06 「天狗と女子高生、単身赴会」Ⅲ
「……分かった。お前さんの言う通りにしよう」
ややあって、松が息を吐いた。
「ありがとうございます、松様」
「礼はいい。結局、助太刀をするという約束も果たせそうにないのだからな」
「いいえ。松様のお力添えのおかげで、私は過去に行けるんです。そして、カオリさんたちを助けられる。私にとっては、何よりの助太刀です」
「言い様だな。なら、礼はお前さんが帰ってきた時に、改めて
「はい。必ず」
立ち上がった松の後を追って、祥子も境内に出る。
やがて、両手に狐と鏡を抱えた松が、石畳の上で立ち止まった。
「渡りをつける前に、言っておくことがある」
「なんでしょう?」
鏡と狐を適当に放してから、松は祥子の傍へ寄ってきた。
「さっき言っただろう? 制約がある、と」
「つまり……ルールを守らなければ、
「そうだ、肝に銘じろ。お前さんがやってはいけないこと」
「
「過去の自分と、顔を合わせるな。過去の者に、未来の話をするな。それから、決して死ぬな。どれを破っても、お前さんは弾き出される」
「分かりました。覚えておきます」
松が
それから、祥子の全身を見遣る。
首を
「丸腰では不安だろう。持って行け」
「これって……?」
「鉄扇だ。昔、それを使って鬼を打ち倒したことがある。
一尺(約三〇センチ)ほどの黒い鉄扇は、思ったよりも重い。
慣れない重さと感触に戸惑う祥子に、松が手を取って握り方を教えてくれた。
「過去の者に
足下に転がっていた太い木の枝を拾い上げて、松が手近な灯篭を打った。
振り下ろしの一打は、瞬く間に石造りの灯篭を砕いてしまった。
棍棒代わりの枝は、まったくの無傷だ。
すわ神通力かと驚く祥子に、松が振り返る。
「人を打つ、ということだけでも覚えて行け。それを分かっているといないとでは、
もう一度振り下ろしを見せてから、松が打ち掛かってこいと言った。
気合の一声と共に、鉄扇を振り下ろす。
思わず、鉄扇を取り落としそうになる。
「相手を打ちのめし終えるまで、得物を手放すな。殴られようとも、斬られようとも、武器だけは握っておけ」
強く握り直して、もう一度打ち掛かる。
今度は、取り落とさなかった。
松がよしと言うまで、夢中になって鉄扇を振るった。
時々、姿勢が乱れているとか、握りが甘くなっていると、
振り下ろしが
繰り出される枝を弾いて、また打ち掛かる。
流石に加減はされていたが、祥子が見るに
松は、痛みにも慣らそうとしているのだ。
息を荒げた祥子に構うことなく、打ち込みが続く。
「都合よく、相手が一人とは限らぬ。多勢を相手には逃げるが上策だが、お前さんはそうも言っておれぬだろう。せめて、相手が何人だろうと、最後まで立っている気概を持て」
そう言って、松がにわかに姿を消す。
驚愕した祥子の背中を、枝が打った。
振り返って鉄扇を振り下ろした時には、既に影もない。
複数人に絡まれれば、こんなものだ。
松の声が聞こえた。
四方から繰り出される枝に身を打たれながら、ふらつく脚を懸命に立て直す。
実戦では、倒れれば、死を待つのみなのだ。
「そら、暗器が飛ぶぞ」
震える脚に、
叩き落そうと鉄扇を振るったが、数が多いもので、二、三個を弾いたばかりだった。
鈍痛が、腹に響く。
うわさに聞こえた天狗の礫だと、ふと思った。
「そういう時は、扇を開いて払い除けろ」
もう一度、松が礫を投げた。
言われた通り、ばっと鉄扇を開いて横
点や線ではなく、面で捉えられた礫たちが、
「
石礫が飛んでいった先に目を遣った時には、もう松が目の前に迫っていた。
「蹴れっ」
咄嗟に扇を閉じて打ち込もうとした祥子に、松の一喝が飛んだ。
考えるよりも早く、右足を前に出す。
まるで勢いのない一撃だったが、松が躱さず受け止めたことで、迫っていた枝の切っ先を
「よいぞ。一つの動きに
松はあからさまに、祥子の動きを一つだけ
判断が遅れれば、容赦なく突き倒される。
もう立っていられないと、何度も思った。
その度に、松の声で我を取り戻す。
「憎くて仕方ない相手を前にして、手も足も出ないのが悔しくないのか。この意気地無しめが。痛いのが嫌なら、大人しく家に帰るがよい」
勢いのある打擲が、肩に入った。
悲鳴を上げて崩れそうになり、
追撃の振り下ろしを掛ける松に、咄嗟に体当たりをかました。
もつれた二人が石畳に転がる。
「そうだっ。怒りをぶつけろ。手足をもがれても、首だけになっても喰らい付け。今のお前さんには、それしかない。それだけでよい。お前さんの敵はここに居る。まだ、立っておるぞ——!」
「——ッ!」
衝き動かされるままに、鉄扇を振りかぶった。
右手が、熱い。
「——お見事」
無手になった松が、祥子に賛辞を送る。
呆然とそれを見遣っていた祥子は、やや遅れて、勝ったのだと気付いた。
上から下まで、身体中が熱を持っている。
「最後のは、良い気迫だった。忘れるな」
「は、はい——!」
「では、稽古は
懐の薬入れから、松が丸薬を取り出した。
渡されたものを三つばかり、一思いに飲み込む。
しばらくして、涼やかな気が身体に満ちたかと思えば、痛みや
「これも、貸しておこう。迷った時にでも読め」
「これは?」
「聞いて驚け。わしと姉上が作った、この世に二つと無い兵法書よ。孫だとかの落書きよりも、よほど役に立つ」
赤い
「これではとても」と言い掛けた時、ふり仮名を振るように、祥子にとっても馴染みのある漢字と平仮名の文章が浮いて出た。
もはや、この程度では動じるまい。
丁重に礼を告げて、冊子を鞄に仕舞った。
「——では、お前さんを過去に送るとするか」
いよいよだと、祥子は息を呑んだ。
「武運を祈っておるぞ。わしは、ここから見ているからな」
境内の中心で、松が時渡りの鏡を取り上げる。
そのまま、正対する位置に立った祥子に鏡面を向けた。
「松様。——帰ってきたら、一生をかけて御恩に報います」
「気の早い
「松様に頂いた千載一遇の機会、絶対に無駄にはしません。必ず、カオリさんたちを助けて、ここに戻ってきます」
松が力を込めたのか、鏡が次第に
「では、帰ってきたらお前さんにはここの巫女になってもらおうか。わしは、姉上と違ってそういう性癖ではないが」
「はい。お約束します」
「——祥子。気負わず、思い切り暴れてくるがよい。多少の無茶も、わしが許す」
声を上げて、松が笑った。
鏡から放たれる光が、
「な、なんだか緊張してきました」
「締まらんな。こういう時は、威勢の良いことの一つや二つ、吹くものだぞ」
「は、はい! 梅田祥子、往って参ります!」
学生鞄を抱えて、背筋を伸ばす。
白一色になった世界の向こうから、松の
「祥子! せいぜい、
光の渦に呑み込まれる。
地面が消えたような浮遊感。
光。
なにもかもが。
沈んでいるのか。
頭に、
女の顔。
船。流れている。
突き抜けた。
落ちている。
時を、越えた。
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