05 「天狗と女子高生、単身赴会」Ⅱ




 さっと、袖を払って松が手を差し出した。




「——?」




 返事も忘れて、傍にやっていた鞄に手を突っ込む。


 昔から大好きで、欠かさず学校に持っていっていたチョコレート。


 どれだけ辛い目に遭おうとも、一人泣きながら頬張れば、次の日も耐えられた。


 未開封のまま入れっぱなしになっていたそれを、震える手で卓の上に置いた。




「——よかろう。この松が、助太刀しようぞ」


「あ、ありがとうございます——!」




 勢いよく頭を下げた拍子に、額を卓にぶつけた。


 痛みにもだえている祥子を尻目に、松はチョコレートに舌鼓を打っている。




「旨いな、これは。こうやって人の子と話して、供物くもつを貰うのは久しぶりだ」




 半分ほど口にして、松がどこからともなくますを二つ取り出した。


 祥子の手前にも置かれた途端、それぞれの枡に透き通ったものが湧いて出てきた。




「出陣前の景気づけよ。お前さんも一献やるといい」


「これって、お酒……ですか? 私、飲んだこと——」


「はて、悪い子になるのではなかったのか」


「——ッ! いただき、ます」




 からかわれたままでは引き下がれないと、勢いよく枡をあおる。


 ぎ慣れない香気に気を取られた瞬間、信じられない熱さが喉を焼いた。




「げほっ、げほっ! 何ですかこれ!?」


「お前さんも、これで安酒など口に合わなくなったに違いない。天狗の酒なぞ、滅多に呑めぬ逸品ゆえな。して、わしの酒だ」




 むせる祥子を見遣って、松が笑った。


 なみなみとがれた酒を、松は水かなにかのようにぐびりと飲み干している。


 あれだけ啖呵たんかを切った手前、残すのも躊躇ためらわれて、毒を呷るような心地で祥子は枡を空けた。




「それで、松様。あの、今度は集めてくださるんですか?」




 身体に回る火照りを冷ましながら、祥子は切り出した。




「ふむ。わしと、お前さん。二人きりだ」


「えっ?」




 二杯目を傾けながら、事も無げに松が返した。




「お前さんが言っておるのは、わしの姉上の時代の話だろう? あれから、随分と時が経った。かつては神使で満ちていたこの山も、今では天狗のわしだけだ。お前さんも、表の荒れようを見ただろう?」


「で、では!」


「安心せい。人の子がどれほど群れようと、わしの前では塵芥ちりあくたじゃ。姉上も、あれで派手好きだったまでのこと」




 快活に笑った松が、あっと声を出すや、にわかに立ち上がった。


 そのまま別室へ行ったかと思うと、すぐに戻って来た。




「すっかり忘れておった。祥子よ、援兵の手が少ない代わりと言ってはなんだが、良いものがあるぞ」


「いいもの、ですか? それって——あっ」




 言い掛けて、思わず松の足下に目が付いた。


 どこから入り込んだのか、小さな野狐が松の足の間から顔を出している。


 祥子の方をじっと見つめていたかと思えば、すぐに尻尾を振って松の周りをぐるぐると回った。




「松様、流石に」


「違う。こやつを連れていったところで、何の足しにもならぬわ」




 呆れたように狐の首を掴んだ松が、そのまま腰を下ろす。


 あれだけ落ち着きがなかった狐は、すっぽりと松の胡坐の中で大人しくしていた。




「鳴鼓の山がまだにぎやかだった頃に、わしとここの祭神とで博奕ばくちを打ってな。ちょうど夏の祭りの時で、やつめ若い巫女にしゃくをされて相当酔っておったものだから、わしのにも気付かず仕舞じまいよ」




 得意げな顔で、松が卓の上に古い箱を置いた。




「それで、姉上と二人して巻き上げたものなのだがな」


「……かがみ、ですか?」


時渡ときわたりの鏡、というものだ。神具だが、わしも何度か使ったことがある」




 ほこりを被った箱の中には、何とも言えない雰囲気のある銅鏡が収められていた。


 歴史の教科書に写真が載っているようなび付いた緑色ではなく、光沢のある鏡面を保っている。


 行灯の光が、鏡に赤い色を映していた。


 長く見つめているとおかしな気分になってしまいそうで、慌てて松の顔に目を遣った。




「中々便利なものなのだが、姉上と遊んでいる間に、わしらが持っていると知れ渡ってしまってな。これを目当てにあやかしや武家がいなごのように鳴鼓の山に押し寄せておって。祭神には返せと怒鳴られるわ、神使どもには毎日苦情を上げられるわで、わしも姉上も面倒になってなァ。それで、姉上の提案で西国の妖の頭目か誰かにくれてやったことにして、奥に隠しておいたのよ」


「そ、そんなすごい代物しろものなんですね……それで、これは何をするものなんですか?」


「読んで字の通り、のよ。お前さんに聞き馴染みのある言葉だと——」




 あごに指を遣って、松が言葉を探す。


 それからすぐに、ぱっと顔をほころばせて、手を打った。






「——そう、とやらだ」






 一瞬、何を言われたか分からなかった。




「た、タイムスリップ、ですか!? そんなの——」


「祥子、わしは天狗ぞ。そしてこれは、神の持ち物。人の理なぞ、通用せぬ」




 したり顔で笑った松に、祥子は浮かした腰を落とす。


 今更に、目の前の美女が自分とはまったく異なった存在なのだと思い知らされる。


 これが、空を飛ぶだとか、神通力が使えるだとかなら、そこまで驚きはしなかった。


 天狗というからには、それくらいはするだろうと思っていたのだ。


 それが、事もあろうにタイムスリップなどと。




「して、祥子よ。今お前さんには、二つ道がある」




 驚愕したままの祥子に、雑に鏡を取り上げて松が言った。




「一つは、わしとこのまま南杜に向かい、仇を討つこと。わしが居る以上、まず間違いなく八生とやらの首は取れよう。それで、お前さんの面目も立つ」


「もう一つは?」


「この鏡を使って、、というのがもう一つ。こっちは、お前さんの面目どころか、大事なものを一切合切無傷で取り戻せる。無論、上手くやればの話だが」




 三杯目を、松が呷った。




「七日前に戻って、事故の起こるより先に、八生とやらをお前さんが打ち倒せばよい。それなら、殺生を犯して捕吏ほりに追われずとも済む。ただ——難点を挙げれば、こっちはお前さん一人で行ってもらうことになる」


「私、一人で……?」


「この鏡は、力を込めた者しか時を渡れぬのだ。力の質ではなく、量の問題でな。しかも、悪用できぬように、わしが二人分の力を込めたとて、一枠しか作れぬ仕組みになっておる」


「おっしゃる意味が、私にも分かりました」


「正直なところ、それこそ博奕ばくちに近いものだとは思う。制約も多い。わしとしても、見ているだけで助太刀できぬというのは心苦しいものがある」




 杯を重ねる手を止めて、松が祥子を見遣った。




「松様。——私を、過去へ送ってください」




 言っていた。


 言ってから、悩むべくもないと、改めて思った。




「よいのか? たった一人で、戦うことになるぞ」




 身体を巡る熱いものに衝き動かされるように、祥子は息を吐いた。




「元より、覚悟の上です。松様に声を掛けてもらわなければ、どのみちそうなっていました。カオリさんたちを守れるのであれば、これに勝るものはありません」




 やらない理由がない。


 最初は、恩人のために、無念を晴らそうと思っただけだった。


 大切な人たちを奪われて、悲しみを抑えていられなかった。


 そのために、命すら懸けられると、そう思っていた。


 それなのに、いきなり眼前に逆転の目が飛び込んできたのだ。


 今更、何を躊躇ためらうことがある。






「あの幸せだった時間を、私の居場所を、取り戻す。——私が願うのは、それだけです」






 天命というものがあるならば、今がそうだ。


 叫び出しそうになりながら、祥子は思った。



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