01 「前夜のこと」




 壬宮じんぐう高等学校。


 鳴鼓山から少し行った高地に校舎を構えた私立校である。


 その二年C組の教室では、ちょうど先日実施された定期考査の答案が返却されているところだった。


「……次、御堂だ。早く取りに来い」


 教壇に立った担任が、低い声で言った。


 名を呼ばれた金髪の少女——出席番号二〇番、御堂朱音みどうあかね——が気だるげに席を立つ。


 改造された紺色のセーラー服をひるがえして、教室の前へ。


 担任のたくわえられた無精ひげを見遣って、突っ込んだままだった右手を出す。


「御堂。お前が俺の忠告を素直に聞くようなやつだとは思わなかったぞ」


「……なんだいそりゃ」


「いや、見くびって悪かった。これからも、この調子で頑張ってくれ」


 珍しく柔らかい声で告げた担任から答案を受け取って、席に戻る。


 手元の紙束に目を通せば、なるほど、前回より二十点以上は上がっていた。


 それも、全教科だ。


 思わず口の端が上がる。


 別に、担任に留年ダブリがどうたらとうるさく言われたから、というわけでもない。


 可愛い後輩のとやらに付き合ってやった結果、多少は教科書をながめる時間が増えたというだけの話だ。


「——朱音。どーだったよ?」


 前の席から、声が掛かった。


 黒髪に少々赤が入ったウルフカット。前髪で片目をおおった女。


 振り返った——というより、身体ごとこちらに向き直った——まま、朱音の机に肘を突いている。


 出席番号十九番、本間ほんまカオリ。


 二年生ながらに、壬宮高校の番を張っているスケ番だ。


 朱音とは、入学以来ずっと前後の席ということもあって、親友といってもいい間柄だった。


「オメーこそ、どうだったんだよ。どーせ目も当てられねェ惨状サンジョーなんだろ」


「まーね。ほら、赤点ばっか。英語国語数学物理——あ、全部だったわ」


「ひでェもんじゃねェか。ちったァあたしを見習え、アホ番長」


「そんなこと言って、朱音だって——全部三十点超えてる、だと!? なんで!?」


「はっは! あたしゃ頭のが違ェんだヨ」


 答案を握り締めて叫ぶカオリに、胸を張る。


 全教科の平均、三十四点は伊達ではない。


 それを見ていた周りの連中も何事かと近寄ってきた。


「すげー、アカちん全部赤点回避してんじゃん」


「なー、うちら三人がかりでも勝てねェわ」


「こりゃー、相手が悪いぜカオリちゃん。大富豪じゃねェんだから、二点だからって最強なわけじゃねーべ」


「う、うっさい! 朱音の点数なんて全部ばらばらのじゃんか! その点、あたしは英語が十三、数学が十四、国語が十五で、日本史と生物がそれぞれ十六、十七! ——五つ合わせてだ!」


「かおりん、そりゃポーカーだぜ」


 本間カオリという少女は、どうにも憎めないやつであるが、しかしあほだ。


 恥ずかしさに、カオリが朱音の肩を掴んで揺すりまくる。


 為すがままになっていると、ちょうど昼休みのチャイムが鳴った。


「朱音さーん。お昼行こー」


 ほぼ同時に、空きっぱなしだった後ろのドアから、黒髪を片側だけツーブロックにした少女が顔を出した。


 一年生の須子川すこがわ天子のりこだ。


 壬宮勢力図の中、俗に御堂派と呼ばれるスケ番グループの先駆け隊長で、「番犬テンコ」の異名を取る武闘派である。


 先日の三年生との抗争では、一人で上級生四人を病院送りにしたクレイジー・ガールだ。


 朱音が殊更に目を掛けてやっていることもあり、授業以外は大抵その後ろを付いて回っていた。


「テンコか。……よっしゃ! 気分もいいし、外に食い行くぞ。おごっちゃる」


 はしゃいだ声を上げる天子に答えて、朱音が席を立つ。


 鼻歌を響かせながら、そのまま鞄を小脇に出口に足を向けた。


 その背中に、赤点組が不満を投げる。


かよ、御堂」


「随分と余裕じゃん」


「あたしゃオメーらと違って成績優秀なんでね。優雅にランチと洒落しゃれ込んでくるわ」


「なーにがランチだ! あたしも行く!」


「アホ番長は大人しく勉強してろ。留年ダブリが待ってンだからヨ」


「それは言わない約束じゃん!?」


「せいぜいカタギの真似事してな。土産は買ってきてやる」


 騒ぐカオリに手を振って、教室を後にした。


 上機嫌に後ろを付いて来る天子に構ってやりながら、学校近くの喫茶店を目指す。


「テンコよォ、そういやオメーはどうだったんだヨ。ちゃんと勉強ベンキョーしたんか?」


「したよ! 全部赤点だった! きゃははは!」


「そりゃ、ショーコのやつも報われねェな。勉強会まで開いてくれたのに」


「あっ、でもチャコちゃんは頑張ってたっぽい」


 けらけらと笑う天子に、朱音も肩をすくめるだけだった。


 これでも、頭のねじが数本吹っ飛んでいる天子なりに、敬意を込めて話しているつもりなのだ。


「チャコはオメー、ショーコのなんだからヨ。四六時中一緒に居ンだ。家庭教師雇ったみたいなもんだろ」


「朱音さんは? 赤点? 一緒?」


「あたしゃ全部及第点オールグリーンだ」


「すごーい! きゃははは!」


 正直、はしを転がしても笑うのでは、といぶかったことも何度かある。


 それぐらいには、須子川天子という少女はよく笑う。


 なにせ、ケンカの最中もずっと笑っているのだ。


「朱音さん、あたしナポリタン!」


「好きなもん食やいいけどヨ、オメー食うだけ食って口元ぬぐわねェだろ。ケチャップでべったり血塗れに見えるからなアレ。そんでそのまま笑うもんだから、怖いのなんのって」


「えー、だって面倒だもん」


にしちゃ上出来すぎるぜ」


「きゃははは!」


 聞いているのかいないのか、ふざけてじゃれついてくる天子に、馬の耳に念仏かと朱音も口を閉ざす。


(いちいち気にしてちゃこっちの身が持たん……まるで子育てだぜこれじゃ)


 自分よりも背丈タッパのある天子にまとわりつかれては、子供というよりも大型犬のようだが。


 呆れながら喫茶店までの坂を下っていると、つと人影が前を遮ってきた。


「——なんだァ、テメーら」


 四人組。


 都会気取りの灰色のブレザー。


 数駅向こうの、南杜なんと高校の連中だ。


「なんだ、じゃねェだろコラ」


「分かんだろ? 掛けてんだよ」


 壬宮と南杜は、それぞれ近場に学校しかないこともあって、長年この辺りのシマを争う仲だ。


 壬宮側で内部抗争があったり、南杜側でも他所の学校との戦争があったりで、しばらくは平穏なものだったが、最近になって南杜生の動きが活発になっていた。


「……ここいらが壬宮の内庭だって知ってて、してんだろうな?」


「びびって仲間呼ぶかァ? テメェらの学校ガッコ、坂上がってすぐなんだろ?」


「知ってんぞ、壬宮は三年が壊滅して、戦力激減したんだってなァ。いつまでもデケェ顔してられると思うなよ!」


 へらへらと見上げてくる先頭のリーゼントに、朱音が目を遣る。


「オイ! さっさと財布出せやァ! 痛い目見ねェと——がっ!?」


「——さっきから、誰にたかり掛けてんだコラァ!」


 横ぎの一撃が、リーゼント頭の一人を叩きつぶす。


 分厚い鉄板仕込みの鞄をまともに受けて、頭から血を流した相手が倒れ伏した。


「テンコォ! 喜べ! 飯代がからよォ! デザートも付けていいぞ!」


「な!? なにしやがるテメェ——」




「——勘定かんじょうは、!」




 激高した一人——木刀を担いだ金髪——の鼻面を殴り飛ばす。


 残った二人が動き出す前に、甲高い哄笑が響いた。


「きゃははは! 運動した方が、ゴハン美味しくなるね!」


 鈍い音に遅れて、端の一人が坂を転がっていった。


 天子の右手には、既に愛用の金属製警棒が握られている。


「壬宮の御堂とテンコにたかり掛けてェ、五体満足に帰れると思うなよォ!」


 折れた木刀で金髪を滅多打ちにしながら、朱音が叫ぶ。


「ここで殺されるかァ! 出すもん出して半殺しで済ますかァ! どっちか選べやコラァ! ハアァン——!?」


「久々のケンカ楽しいね! 朱音さん!」


「こ、こいつら……御堂と須子川だ……!」


「か、ぶッ!? かん……勘弁してくれ! 財布なら出すからァ!」


 たっぷりと五分ほどたわむれてから、朱音と天子がその場を立ち去る。


「この前の三年生と違って、弱いねー。きゃははは!」


「帰って大将に伝えとけ。壬宮には勝てませんでしたってな。はっは!」


 立ち上がれなくなった四人はそのままだが、あの様子では他の壬宮生が面倒を被ることもないだろう。


 不揃いな四つの財布を手元でもてあそびながら、朱音が鼻歌をこぼす。


「ふんふんふふーん——っと。今日はラッキー・デーだな。いいこと尽くめじゃねェか」


「よかったねー! 朱音さん!」


 完勝の余韻にひたりながら、喫茶店のドアベルを高らかに鳴らす。


 出迎えた店員に、軽く挨拶を交わした後、奥に通された。


「朱音さん! あたし、メロンソーダ飲みたい! アイス乗ってるやつ!」


「おー、頼め頼め。十杯でも二十杯でも飲んでいいぞ。金ならある」


 メニュー表を見て目を輝かせる天子に、朱音は笑って胸を叩いた。


 注文からこっち、ずっとそわそわしていた天子が、運ばれてきたナポリタンを豪快にかきこむ。


 あれだけ口元をケチャップで化粧しながら、制服には一滴も飛ばさないのだから、大したものだ。


 店自慢の一品であるカツサンドを頬張りながら、朱音はその様子を呆れつつも微笑ましく思っていた。


 出会ったばかりの頃からは、考えられない。


「朱音さんも! ん!」


「はあ? いいよ、あたしは」


「んー!」


 差し出したフォークを強引に突き付けてくるものだから、仕方なく口を開く。


「きゃははは! 美味しい?」


「美味いよ、ちくしょうめ」


 笑いながら喜ぶ天子に掛かれば、御堂朱音も形無しだ。


 中学からの付き合いであるこの妹分を、朱音はどうしても甘やかしてしまう。


 唯一の救いは、当の天子がその弱点に気付いていないことか。


 あるいは、無自覚でやってくる分、余計にたちが悪いというべきか。


「朱音さん! 見て! アイスの底が緑色になってる!」


「あー、見てる見てる」


「きゃははは! 不思議だね!」


 うるさそうに目を向けてきたサラリーマンにガンを飛ばす。


 慌ててそっぽを向いた背中に鼻を鳴らして、炭酸を流し込んだ。


「朱音さん! プリンも頼んでいい?」


「満足するまでやってくれ」


 袖を掴んで揺すってくる天子が、また笑った。


 注文を取り終えた店員が、新たなドアベルの音に声を返す。


 その時、天子の肩越しに信じられないものを見てしまった。


「——おい、テンコ」


「なに?」


 ストローをくわえて遊んでいた天子に、あごをしゃくる。


「見ろヨ。珍しいこともあるもんだぜ。これも、ラッキーってやつか?」


 首を傾げて振り返った天子が、弾んだ声を上げた。




「——ッ! ショーコちゃん!」




 入口の傍。


 おさげ髪を肩に垂らした小柄な少女が、驚いた顔でこちらを見ていた。




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