第5話 建国の父達の時代 その2

【ハミルトンとジェファーソン】


 ワシントン大統領のもとで初代司法長官を勤めたのは、トーマス・ジェファーソン、後に第3代大統領になる。財務長官を勤めたのがアレクサンダー・ハミルトン。ハミルトンはフェデラリスト*の盟主として、第2代大統領になったジョン・アダムズらと共に連邦党を創設しその党首となった。それに対抗する形でジェファーソンはジェームズ・マディソンらとリパブリカン党(民主共和党、後の民主党)を作りそれを率いた。彼ら二人は政治に対する考えはことごとく違っただけでなく、その生い立ちもまた違った。


 ジェファーソンはバージニア入植者の古い家系の富裕な家に生まれ、約5,000エーカー の農園と数十人の奴隷を相続した。名門ウィリアム・アンド・メアリー大学を優等で卒業、バージニア法廷弁護士となった。

 それに対してハミルトンは、英領西インド諸島のネイビス島に生まれた。父親はスコットランド貴族の四男という経歴を持つが、小さな島の小商人に過ぎなかった。両親は正式な結婚ではなかった。しかものちに破産し零落していく。1768年には孤児となり、ニューヨーク商人のセント・クロイ島にある店で働きはじめ、4年後には店主に代わって店を任されるほどに経営能力を発揮した。その能力を認められ、店主や親類縁者の援助により、ニューヨーク市のキングズカレッジ(現コロンビア大学)に入学し、行政学・政治学を学んだ。在学中に独立戦争がはじまったことから、これに参加して総司令官ワシントンの副官を務めるまでに頭角を現した。


 ジェファーソンはアメリカ独立戦争が始まった直後、第二次大陸会議のバージニア代議員の一人になり、独立宣言*の5人の起草委員会のメンバーになり、筆が立つところから初稿執筆者に選ばれた。その雄弁な前文はその後の人権宣言の規範になった程である。

 1779年から1781年までバージニア邦知事を務め、1783年、バージニアの連合会議代表に指名される。1785年から1789年まで駐フランス公使を務めていたので、フィラデルフィア憲法制定会議には出席できなかった。しかしマディソン(第4代大統領になった)から経過を知らされていて、大筋で憲法草案に賛成した。


*注 独立宣言前文

「我らは次のことが自明の真理であると見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主(神)によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられていること。これらの権利を確保する為に、人は政府という機関をつくり、その正当な権力は被支配者の同意に基づいていなければならないこと。もし、どんな形であれ政府がこれらの目的を破壊するものとなった時には、それを改め、または廃止し、新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方で、新しい政府を設けることは人民の権利である。」


 この憲法制定会議をリードしたのがニューヨーク邦大陸会議議員に選出されたハミルトンやアダムスらのフェデラリスト*たちであった。

 ハミルトンの連邦党はその名の通り強い連邦政府をめざした。そのためには農業国家ではなく、イギリスのような産業国家になるべきだと考えた。これに対してジェファーソンは州権に重きを置き、農本主義的国家像を考えていた。

外交については、当時ヨーロッパではフランスとイギリスは鋭く対立していた。ハミルトンはイギリスとの仲を大事に考えた。これに対してジェファーソンは駐仏の経験からフランス革命を支持しフランスよりであった。このとはイギリスとの間で結んだジェイ条約の支持(ハミルトン)不支持(ジェファーソン)の対立になる。


*注 フェデラリストとは『ザ・フェデラリスト』を著作した人たちとその考えに同調する人たちをいう。これはアメリカ合衆国憲法の批准を推進するために書かれた85編の連作論文である。この中心になったのがハミルトンである。

『ザ・フェデラリスト』は、憲法で提案されている政府の仕組みについての哲学や動機を明確で説得力有る文章で綴られているために、現在でもアメリカ合衆国憲法の解釈では一次資料であり続けている。


 財務長官時代、ハミルトンは国家財政の確保と商工業の振興を目指した財政金融政策を打ち出し、その一つに合衆国銀行(中央銀行)の設立があった。これにはジェファーソンらの反連邦派が猛烈に反対した。合衆国銀行が北部商工業者の特権階級によって利用されることを恐れたのである。結局20年の期限付きで設立の妥協が図られた。その後民主共和党の時代が続いたので期限延長はされなかった。しかし経済恐慌が起きたマディソンの時代にその必要性が認識され第2合衆国銀行が設立され、今日の銀行制度に繋がるのである。


 ハミルトン対ジェファーソンの対立は、南北戦争に繋がる南北の対立構図そのものであった。南北戦争で北部が勝ち、連邦制のもとで急ピッチにアメリカが産業国家になっていく過程をみれば、ハミルトンに先見性があったといえる。しかし当時のアメリカを考えると、ジェファーソンに現実味があった。事実、ジェファーソンが作った民主共和党(民主党)の政権が南北戦争まで続いたのである。

 大統領時代のジェファーソンの最大の功績は今の国土の四分の一に相当するルイジアナの購入である。連邦議会の許可を得ていたら遅いと、独断でミシシッピ川以西のルイジアナをフランスから1500万ドルで買収したのである。ジェファーソンはアメリカの安定は自営農民の育成にあると考えていたからこれを決断した。事実、これによってアメリカのフロンティアは開始されたのである。


 ナポレオンはこのルイジアナをカリブ海の領有するハイチと結びつけることで植民地帝国の建設を考えていた。ところがハイチで黒人初の独立革命で黒人国家が出来て、その計画を破綻させることになってルイジアナ領有の意味も無くなり、差し迫ったイギリスとの全面対決に備えて資金を確保する必要に迫られたのである。

 アメリカの小学生用歴史教科書にはジェファーソンは、「わが国のために、おそらく史上最大のバーゲン品を買い上げた」と紹介されている。


 ワシントンが3選を辞退した1796年の大統領選挙では、副大統領を勤めていた連邦党のアダムスがジェファーソンに勝って選ばれた。ジェファーソンは副大統領になった(当時の選挙では第2位になったものが副大統領になることになっていた)。


 今のように党内での予備選があって、連邦党はアダムスとサウスカロライナ州知事を務めたことのあるトマス・ピンクニーとで争われアダムスが大統領候補、ピンクニーが副大統領候補になった。ここで党首であるハミルトンはなぜでなかった?ということになる。

 切れ者のハミルトンには味方も多かったが、敵も多かったのである。年齢が41歳と若すぎたことや、その出自の問題、それと北部州の出身者を立てたかった連邦党の事情もあった。アダムスは連邦党に属していたがハミルトンよりかなり年長で、二人の仲は決して良いとは云えなかった。ハミルトンは自ら出馬はしなかったが、ピンクニーに肩入れしたのである。

 当然、アダムスは怒ることになる。普通なら党首ハミルトンの名前が組閣の中にあってもおかしくはない。アダムスはハミルトンを外したが、閣僚の中にはハミルトンの影響を受けるものも多かった。


 ハミルトンは財務長官の任期中にマリア・レイノルズ事件(人妻との不倫関係で、その夫に強請られる)を起こしたが、幸いハミルトンの名声にとって致命傷にはならなかった。しかし、ワシントンの2期目、ハミルトンは6年で財務長官を辞している。これは下院で職権乱用や資金の不正利用に関する審問に問われたのである。結果は潔白になったのであるが、それほど敵も多かったのである。その後、ニューヨークで弁護士に転じ、ワシントンの在任中は度々建議もしている。


 1799年、長年の庇護者であったワシントンが亡くなり、1801年、長年対立してきたジェファーソンが大統領に就任すると、ハミルトンの政治的な影響力は急速に減退していく。しかしその考え方は後のホイッグ党や共和党の系譜に繋がっていったのである。

 1804年、ジェァーソンの1期目の副大統領アーロン・バーは2期目には立たず、ニューヨーク州知事に立った。バーとハミルトンは弁護士時代からの政敵であった。これを地元メディアが面白おかしく煽ったことで、名誉を傷つけられたと感じたバーは決闘を申し込み、ハミルトンは銃弾に斃れてその波乱に満ちた人生を49歳で閉じた。

 

 暗殺という銃弾で倒れた大統領はあるが、決闘で亡くなった大統領は彼だけである。バーはその後殺人罪には問われたが無罪になるが、アメリカを一時離れ、帰って来ては国家反逆罪で問われたり(無罪)して失意のうちに死んだという。


*アレクサンダー・ハミルトンは「大統領になりそこなった男」として語られるが、今、ブロードウェイミュージカル『ハミルトン』で名を馳せている。



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