第3話 アメリカ独立戦争と憲法制定会議


 この独立戦争(1775~1783年)は、13植民地が本国に対して起こした戦いであり、アメリカ合衆国を成立させた戦争であった。同時に独立宣言で自由、平等、幸福の追求などの基本的人権と圧政に対する革命権を高らかに宣言したもので、市民社会を成立させたブルジョワ革命であることからアメリカ独立革命とも言われている。


 戦争の背景としては、イギリスがフランスとの間で展開した英仏植民地戦争(カナダの奪い合い)や、ヨーロッパ本土での七年戦争(1756~1763年)等で生じた国債などの償還が必要となったため、植民地に対してさまざまな課税を強化してきた。1765年には印紙法(条令)に対して、ヴァージニア植民地議会はパトリック・ヘンリーの提唱した「代表なくして課税なし」が決議され、対立は明確になった。

 1773年の本国政府による茶法(茶条令)制定に反発したボストン茶会事件が起こったことで直接的衝突へとエスカレートした。さらにその後のイギリスによるボストン港封鎖・強圧的諸条令と続いた締めつけに反発して、74年に植民地側はフィラデルフィアで大陸会議を招集、イギリス製品ボイコットを決定する。75年、イギリス軍は植民地人が武器を貯蔵しているとして、マサチューセッツのコンコードに部隊を派遣した。警戒していた植民地民兵*と衝突し、戦端が切って落とされた。


 これを受けて、フィラデルフィアでは第2回大陸会議に13州が招集され、ワシントンを司令官として独立戦争を戦うことを決意した。国内には独立に反対する勢力(王党派)も存在した。

 そのようなときに、76年1月、トマス・ペインが発表した『コモンセンス』は、アメリカの独立が人間の権利にもとづく正義の戦いであると論じ、多くの植民地人に自信と勇気を与えた。第2回大陸会議は同年7月4日にアメリカ独立宣言を全会一致で採決し、新しい国家の独立を宣言した。しかしこれですぐにアメリカ独立戦争が終わったわけではない。


 組織化された本国軍の前に苦戦が続いた。アメリカ軍の本拠地フィラデルフィアを占領される始末であった。大陸会議は州の西部に避難、ワシントン軍はフィラデルフィアの近郊バレーフォージという小村で飢えと寒さに耐えなければならなかった。

 77年10月、カナダから南下したイギリス軍を迎え撃ったアメリカ軍はサラトガの戦いで大勝し、戦局は転換した。それまでフランスは密かな武器・弾薬の支援にとどまっていたが、このアメリカ軍の勝利を知り、78年2月、ルイ16世が正式にフランスの参戦を宣言した。これによってこの戦争はヨーロッパでも英仏間の戦争に拡大した。さらにスペイン、オランダが同じくアメリカ側に参戦し、国際情勢はアメリカ独立に圧倒的に有利となった。

 81年、フランス艦隊の協力を得てヨークタウンの戦いの勝利で、アメリカの独立は決定的になった。83年の講和条約でアメリカは独立を正式に認められ、さらに国境をミシシッピ川まで伸ばすという勝利で終わった。


 フランスの参戦決意は、アメリカ大陸に於ける植民地回復の好機と考えたからであった。しかしアンシャンレジーム期のフランス国家財政はルイ14世の一連の戦争政策ですでに深刻な状態になっていた。アメリカ独立戦争への参戦によって財政難は決定的となり、その危機を逃れる苦肉の策として1789年、三部会を召集したことからフランス革命が勃発する。このようにアメリカ独立戦争とフランス革命は密接に関係していたのである。

 また、独立軍に義勇兵として参加したフランスのラファイエット伯爵がフランス革命では一躍時代の寵児として活躍するのである。


【憲法制定会議】(1787年)


 戦争には勝ったが、その後のアメリカをどのように運営していくのかが問題になった。Stateは「州」、イギリス領植民地ではあったが、それぞれに独自の議会をもつ自治州的なものであった。13州はイギリス本国との戦争危機事態に対して集結したに過ぎなかった。

 大陸会議が第1回、第2回と開かれ、この会議が中央政府の役割を担った。1776年、独立宣言を採択し、最高規定としてアメリカ連合規約を制定し、各州の批准を経て1783年、パリ条約によって正式にアメリカ合衆国が成立した。


 フィラデルフィアで開催されたこの会議は、後に憲法制定会議と呼ばれているが、連合規約を改正するものとして招集された。会議は5月から9月まで続き、長い論争となった。一層強力な連邦政府を求めるアレクザンダー・ハミルトン率いる連邦派(フィラデリスト)と州の主権を重視し、連邦政府の強大化に反対するジェファーソンらの反連邦派(リパブリカン党)が対立したのである。当初案は人口比で州に議員数が割り当てられる1院制であったが、反連邦派がこれに反対し、人口数に関係なく、各州議会から2名の議員で構成される上院が設置されることになった。下院の人口比問題を巡っては奴隷制が問題となった。南部州の方が白人数が少なかったので、そこで南部州に配慮し、黒人は5分の3にカウントされたのである。これらの妥協案は『偉大な妥協案』と呼ばれている。


 強い連邦か、州権の重視か、奴隷制を巡っての南北対立はこのあともアメリカ合衆国の重大なテーマとなって行く。ともかく、憲法制定にこぎつけられたのは議長役をしたワシントンとフランクリンの二人の賜物であった。二人は別格の尊敬を集めていたのである。

 初代大統領には独立戦争の英雄、ワシントンが選ばれた。



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