第2話 メイフラワー号
アメリカ建国のシンボルとして知られるメイフラワー号が新大陸アメリカを目指してイギリスを出発したのは1620年9月16日のことだった。180トンの3本マストの船で大西洋を渡ったのである。30名ほどの船員を除いて102名の乗船客であった。その三分の一は信教の自由を求めて渡航する清教徒たちで、66日間の厳しい航海を経て、ケープコッドの先端に錨をおろしたのは11月21日であった。
本来の目的地はハドソン川河口であった。ここにはすでにジェームズタウンの植民地が出来ていたのである。しかし、嵐のためコースを外れてしまい、ケープコッド湾に留まって船中で越冬することを余儀なくされたのである。この長い越冬は食糧不足を起こし、壊血病、肺炎、結核などの病気を発生させ、過酷な運命を強いたのであった。生き延びたのは約半数の53人で、乗組員も約半数が死んだ。1621年3月31日に入植者らはマサチューセッツ湾の一部プリマスに上陸した。
この入植に当たって「船上の誓約」をなしたのである。この誓約には41名が署名している。誓約文はこのように書かれた。
神の名において、国王ジェームズ1世 (イングランド王)の忠実な臣民と記して。
《神の栄光とキリスト教信仰の振興および国王と国の名誉のために、バージニアの北部に最初の植民地を建設する為に航海を企て、開拓地のより良き秩序と維持、および前述の目的の促進のために、神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし、我々みずからを政治的な市民団体に結合することにした。これを制定することにより、時々に植民地の全体的善に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する》
法による統治の方針をこのとき、この人数で誓ったのである。彼らはニューイングランド植民地開拓の基礎をつくったピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)として、今日讃えられているのである。
ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地には先住民インディアンのワンパノアグ族が暮らしており、ピルグリム・ファーザーズに食糧や物資を援助した。ワンパノアグ族の一人がイギリスに連れられて行った経験があったため英語を知っており、ピルグリム・ファーザーズに狩猟やトウモロコシの栽培などを教えた。
1621年には収穫があったため、ピルグリムファーザーズは収穫を感謝する祝いにワンパノアグ族(酋長マサソイト)を招待した(これが感謝祭のもとと云われている)。両者の間は友好的に推移したが、白人移民が増え、入植地が拡大していくうちに利害は衝突し、酋長マサソイトの息子との間で「フィリップ王(白人側がつけたあだ名)戦争」が起きた。この戦争は周辺部族も巻き込み、1676年に終結するまで、ピルグリムとインディアンの両方共に多くの犠牲者を出したのである。
プリマス植民地は、1691年に隣接するマサチューセッツ湾植民地に吸収合併された。
アメリカの原型13州(State)
アメリカはUnited State of Americaである。アメリカを理解するときこのStateが重要に思われる。入植地は亜寒帯から亜熱帯にかけ、気候もさまざま、入植時期も違い、植民地形態も違った。植民者はまずタウンという共同体を作り、教会や集会場を作り、住民相互の取り決めをおこなった。それを広くしたのがカウンティ(郡)である。これは郡裁判所を中心とする単位とした。「アメリカではタウンがカウンティ以前に、カウンティが州以前にあった」と『アメリカの民主政治』を書いたトクヴィル*は述べている。
ヨーロッパからの移民たちは議会制度をすでに知っていたし、タウンやカウンティで住民自治を実践し、政治意識は高かったと言える。タウンミーティングと云う言葉は直接民主制の地方自治を指す言葉である。
州は国家であった。勿論上にはイギリス王国が存在したが・・
イギリス本国から過酷な条件を突き付けられ、独立戦争を行うため連合したのである。戦争後のアメリカをどうするかは、勝ってからの次の問題であったのである。
資料1 13州は次の3つに分けられる。
ニューイングランド植民地群:ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット。
中部植民地群:ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア。
南部植民地群:メリーランド、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア
資料2 イギリス領北米植民地の三類型
最初に建設されたのは、1607年のヴァージニア、最後が1732年のジョージアである。当初は国王から特許状を得た会社による植民(会社植民地)が多く広く自治が認められていた。他に領主植民地(貴族が国王から特許状を貰って、地代収入を得る)があったが、次第に王領植民地(国王が総督・議員を直接任命)が増加していった。
*資料3
アレクシ・ド・トクヴィル:1831年、25歳のときアメリカの刑務所制度を研究させるためにフランス政府から派遣された。フランスはフランス革命によって共和政が出来たがすぐに王政復古し混乱が続いた。トクヴィルはアメリカはその共和政が混乱なく続いていることに関心を持ち、刑務所についてだけではなく、アメリカの経済・政治体制を含む同国社会のあらゆる側面についてノートした。
3はいよいよ独立戦争
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます