カイーナ-Caina-

五十鈴りく

第1話

 乾いた風が吹き抜けた。

 誰かに呼ばれたような気がして、少年はふと立ち止まって振り返る。

 迫りくる人馬の足音が風に運ばれ、木々の隙間をすり抜けて耳に届いた。


 あの音は、敵の軍勢。この首をりに来る――。

 彼に残された時は少ない。少年の小さな手を、母親が力強く引く。


「立ち止まってはなりません、さあ!」


 普段、決して声を荒らげることのない淑やかな母が、まなじりをつり上げていた。それでも、母よりも美しい存在を彼は知らない。


「お急ぎください!」


 馬車のそばで軍服姿の兵士が急かす。この要塞にやってきてから、少年たち母子にとてもよくしてくれた青年軍人である。


「ハーク、あなたは……」


 少年は弱々しい声でたずねた。あなたは乗らないのかと。

 青年軍人は悲しそうにかぶりを振った。


「私はここで敵を食い止めねばなりません。公子、どうかご無事に落ち延びられますよう。あなた様だけが我らの希望なのです」


 そうして、少年はまたしても悲しい別れをするのだった。



 

 世界で最も広大な大陸、マエスティティア。

 その大陸において、少年の祖国ファールン公国は牧草地の多いのどかな国であった。心優しい父が治める、豊かで平和なその地が、ある日突如蹂躙された。


 北の隣国、ナハト公国の侵略である。七つもの公国が宗主国に仕える形で存在する大陸で、そのうちの二国間に争いが起こったのだ。宗主国の了承もなく侵略することなど、本来ならばあり得ない。


 各国間で一体、何が起こっているのか――。

 それを知るには、少年はあまりにも幼かった。


 少年は齢九歳。

 ファールン公国ただ一人の公子、リュディガー・フリードハイム。

 けれど、祖国が劣勢の今、その名に力はない。

 幼い公子は母に連れられ、城を落ち延びて西の要塞に逃げ込んだのである。


 ナハト公国からの追捕の手は、この要塞に到達した。

 要塞の外壁からは兵たちが追っ手に矢を射かける。皮肉にも、ここで敵方の死者が出れば出るほどに、リュディガーたちの生存率は上がるのだ。


 追っ手には援軍があるだろう。防ぎきることができるとは到底思えなかった。幼いながらにもそんなことだけは、リュディガーにもわかってしまうのだった。




 悪路を飛ばす馬車の乗り心地は最低だった。

 けれど、転がりそうになるリュディガーを、母が柔らかな体で抱き締めてくれていた。母の繊手がリュディガーの滑らかな黒髪を撫でる。不安げに母を見上げた息子に、母も同じ青い目を細めた。


「大丈夫。メルクーア公国のヴィーラント卿ならばきっと、わたくしたちを助けてくださいます」


 ドクドクと早鐘を打つ母の胸。リュディガーはぼんやりとヴィーラント卿の顔を思い出していた。

 メルクーア公国は西隣の国。メルクーア公ヴィーラント卿は母方の祖父の知己であった。口髭を蓄えた、笑うと優しげな皺に目が埋もれる、そんな人物だった。


「母様、私は平気です。母様をお護り致しますから」


 ギュッと母の背に腕を回す。母子は抱き合ってひどい馬車の揺れに耐えた。

 夜道も馬車は休むことなく走った。小さく心許ない灯りを頼りに。

 途中、獣に襲われそうな檜林ひのきばやしの道もあったけれど、馬車は無事に走り抜けた。


 しかし、馬車の動力は馬である。どれだけ鞭打とうとも、限界を超えては動けぬものは動けぬ。大きな振動があって、馬車が横転した。馬が潰れたのだ。


 リュディガーと母はそれぞれ車内に転がった。背中を打ったリュディガーはその鈍い痛みに耐えながら母を案じた。


「母様、お怪我は!?」


 側頭部を車体の壁にぶつけた母は、弱々しくも微笑み返してくれた。その顔を見てほっと息をつく。

 壁が床になった状態で立ち上がると、馬車の御者ぎょしゃが焦って扉を開けてくれた。そこから朝日が差し込む。


「も、申し訳ございません! ご無事ですかっ?」


 壮年の御者も一度放り出されたらしく、顔や破れた服の下は擦り傷だらけだった。血が滲む、そんな彼を責めるようなことは言えなかった。


「うん、私は大丈夫だ。あなたの方がひどい怪我だ」


 リュディガーがそっと声をかけると、高貴な存在に気遣ってもらえたことを彼が喜んでくれたように思う。


「こんなもの、唾でもつけておけばすぐに治ります」


 そう言って、動かなくなった馬車から二人を助け出してくれた。母は肌寒い外気に体を震わせる。


「馬車はもう使えません。申し訳ございませんが、後は歩いて頂くしか……あと少しではあるのです」


 リュディガーはちらりと倒れた二頭の馬を見遣った。どちらも汗ばんだ腹が大きく上下している。脚は、倒れた時に折れたのかもしれない。


「さあ、急ぎましょう」


 御者は荷物を担ぎ、腰に剣を帯びる。それだけで二人を護れるとは思っていないだろうけれど。


 馬たちを捨てていくことに強い躊躇ためらいがあった。リュディガーにすらあるのだから、御者にもあっただろう。

 けれど今、それを言える状態ではない。すべての命を無駄にしないため、リュディガーたちは急がねばならない。


 子供の足ではそう早くも動けない。しかし、傷だらけの御者に背負われるようなことはしたくなかった。リュディガーは必死の思いで進む。


 寒さや空腹、疲労、不安――。

 立ち止まっても許されるのではないかと思える理由はいくつかあった。それでも、リュディガーたちは皆の希望を託された身である。

 この程度のことで休んでいては、今も戦い続ける兵や侵略に怯える民たちに顔向けができない。

 だからこそ、夜の闇に阻まれる道を一歩ずつ着実に進んだ。


 そうして、ようやく国境付近に辿り着いた。メルクーア公国の砦にさえ辿り着いてしまえば、ナハト公国の手も及ばない。下手に手を出せば、二国を相手取って戦うことになるのだ。迂闊に手を出せないはずである。


 気づけば雨が降り出した。冬の雨は冷たく鋭く身を打ちつける。吐き出した白い吐息と雨に熱を奪われていく。けれど、足を止めてはならぬのだ。ぬかるむ土を、小さな足で蹴って走った。

 母に手を引かれながら。



 どれくらい進んだことだろうか。外套がいとうのフードを被っているとはいえ、それで雨を防げるでもなく、全身はずぶ濡れで体力はほとんど残されていなかった。休みたいと強く思う。そんな心を隠して足を動かし続けた。


 グラグラと揺れる視界。

 けれど、見上げた先に小さな明かりが見えた。


「止まれ!!」


 公道をひた走る三人に恫喝するような厳しい声が飛んだ。ビクリと体を強張らせると、灯りの下、こちらに向かって目をすがめる番兵の姿があった。

 まるで魔界へ続く入り口のほどに重々しく暗い大きな門。

 その前で、番兵は誰何すいかする。


「お前たちは何者だ? ここから先はメルクーア公国の領地となる。許可なき者が通ること、まかりならん」


 母はリュディガーの肩を抱きながら、毅然とした瞳を番兵に向けた。


「ヴィーラント卿にお取次ぎください。『ルーツィエ』と申せばおわかり頂けるかと存じます。ルーツィエが卿を頼りにやって参ったのです、と」


 母の名を、ヴィーラント卿は思い出してくれるだろうか。

 そんな不安がリュディガーの中にあった。細く頼りない糸を手繰り寄せるような心境だった。

 リュディガーもヴィーラント卿に会ったのはただの一度である。本当に救いの手を差し伸べてくれるのだろうか。


 番兵たちはボソボソと話し合って、そうして三人を狭くて質素な部屋に通した。兵の詰め所であったのかもしれない。

 それから、濡れた体を拭くための布を手渡し、暖を取るために暖炉のそばへ招いてくれた。 濡れ鼠になって体力を奪われている三人に対する人道的な行いであった。こんな状況であるからこそ余計にリュディガーは他国の兵士に感謝した。


 この雨の中を伝令が走ってくれたのか、卿からの返信は素早かった。これはヴィーラント卿の方でも他国間の動きに耳を澄ましていたからではないだろうか。今にファールン公国の方から援軍の要請か、保護か、なんらかの援助を求めてくると構えていたのだろう。


 雨避けのフードを被った屈強な男性が詰め所へやってきた。男はフードを取り払う。

 整えられた髭と精悍な顔立ちをした彼は、騎士のようであった。白地に金糸の軍服――位の高い立派な騎士だ。

 彼は優雅に微笑むと、母子の前にひざまずいた。


「ご無事にこうしてお目にかかれましたことを神に感謝致します、ファールン公夫人、公子。御両人をメルクーア公ヴィーラント様の命によりお迎えに上がりました」


 その瞬間に、母の細い双肩から力が抜け落ちた。唇から小さな呻き声が漏れる。そんな様子を騎士は慈しむように見つめ、うなずいた。


「さあ、参りましょう」


 リュディガーたちを運ぶのは、関所から出る馬車である。祖国から共に抜け出してきた御者は二人の少ない荷物を使いの者に手渡し、そしてその場から二人を見送った。彼はここまでということらしい。

 けれど、ここへ彼一人を残していってもいいものだろうか。一緒に乗り越えた連帯感がある。リュディガーは振り返って小さな声で言った。


「一緒に――」


 そんな彼の手を、母が引いた。


「わがままを言ってはなりません。行きますよ」


 そう言われてしまえば、リュディガーにはもう何も言えなかった。笑顔で見送ってくれた御者と別れ、母子はヴィーラント卿の待つ要塞へと歩を進める。




 ヴィーラント卿は貴族であると同時に勇猛な聖騎士でもある。卿自ら国境近くの要塞に常駐し、ファールンの趨勢すうせいを見極めていたそうだ。リュディガーたちは騎士に連れられ、メルクーアの要塞へと運ばれた。

 その堅牢な佇まいに気後れしつつ、リュディガーは母に手を引かれて馬車から降りた。


 案内された通路。立派な赤い毛氈もうせんを踏み歩く。泥にまみれた靴が筋をつける。リュディガーはそれを申し訳なく思った。

 そうして、マホガニーの扉の前で騎士は恭しく声を張り上げる。


「ヴィーラント様、お二方をお連れ致しました」


 すると、重厚な響きの声が入れと促した。

 騎士は扉を開き、こうべを垂れて二人を中へ通す。母は――凛と前を向き、リュディガーの手を放して歩んだ。


「ご無沙汰致しております、ヴィーラント卿。こうしてお目通りをお許し頂き感謝致します」


 リュディガーは母を見上げた。淡く透けるような髪は濡れそぼり、目立たぬ地味な装いであるにも関わらず、それでも母は美しかった。ヴィーラント卿はガタリと席を立つ。


「いや、戦火が上がったと報告を受けて案じていたところだ。公子を連れ、よくぞ落ち延びてくださった。私にできることはなんなりと助力致そう」


 喜びに打ち震えるヴィーラント卿。その顔に嘘はなかった。

 リュディガーはここへ来てようやく、母と我が身の安全を得ることができたのだという気がした。

 ここで援軍を集い、未だ戦い続ける父のもとへ援軍を送ることができるかもしれない。


「ありがとうございます、ヴィーラント卿」


 安堵からか瞳を潤ませた母。そんな母にヴィーラント卿はそっと告げた。


「そのままではお体に障る。湯浴みの支度をさせよう」

「お気遣い痛み入ります」


 リュディガーも礼儀正しく礼を言った。ヴィーラント卿はニコニコと笑顔を向けてくれた。


「髪の色こそフリードハイム家のものだが、ますます母上に似てきたな」

「そう、でしょうか」


 勇敢な父のようになりたくて、剣術の稽古も欠かしてはいない。けれど、母譲りの線の細い容姿は未だ健在である。

 あと十年もすれば立派な男になれると思うものの、十年の歳月は長い。




 先にリュディガーから湯を使わせてもらえることになった。

 もちろん一人で入れるはずもなく、数人の侍女に体を洗って服を替えてもらったのだが。優しい手つきに包まれて、リュディガーはしばらく戦争を忘れてゆったりと過ごした。


 湯殿を出て侍女に案内されるがままに進むと、その廊下で壁にもたれかかりながらこちらを見てる青年がいた。侍女はそんな青年には目もくれない。

 けれど、その青年はあまりにも目立つ容姿をしていた。


 服装は黒尽くめ。細身だが引き締まった体に沿った、艶やかな黒の布の素材が何であるのか、リュディガーには判別できなかった。

 青味の強い銀髪をゆるく束ねて背中に流し、世にも稀な紫色の瞳がリュディガーを見据えている。白皙はくせきの美しい青年ではあるけれど、どこか作りものめいて、美しいと感じるよりも薄気味悪いと思った。


 それでも、女性をひと目で魅了するような容姿ではある。だというのに、やはり侍女は彼に見向きもしない。まるで壁にかかった絵画よりも価値がないかのようにして、侍女は彼を無視する。リュディガーはそれを不思議に思ったけれど、その青年もまた侍女には目もくれず、リュディガーにだけ視線を向けている。


 その視線を振りきるようにリュディガーは顔をそむけた。本来、公子であるリュディガーにそのような不躾な視線を送ることは不敬である。声をかけなかったとしても、それは仕方のないことだ。

 けれど、本当は不敬だなどと思ったわけではない。

 ただ、恐ろしかったのだ。その瞳が――。


 彼のそばをすり抜け、侍女は表情など浮かべずにリュディガーを要塞の最上階へ案内した。塔の一角であるその部屋は、暗いばかりか冷えていた。すぐにでも湯冷めをしてしまいそうだ。侍女はきっちり一礼すると言った。


「只今、火をお持ち致します」

「ああ、ありがとう」


 静かに扉は閉まった。

 その寂しい部屋にリュディガーは一人取り残される。暗いこの部屋では自分の指先さえ、目を凝らさねば見えなかった。

 とりあえず、リュディガーは座り込んだ。その床には申し訳程度の薄い敷物が敷かれているのみである。


 急な来訪であった。受け入れる側に支度もなかったのだろう。それでも受け入れてくれたことに感謝こそすれ、不快になど思うはずがなかった。




 そこでしばらく、膝を抱えながら待った。侍女は支度に手間取るのか、遅かった。湯浴みを終えた母ももうそろそろ来るだろうか。

 リュディガーがそんなことを考えていると、部屋の中にぽうっと青白い光が浮かんだ。ひらひらと断片的に、踊りながら姿を現す。蝶のはねのようなそれは、リュディガーを照らすと、不意に形を変えた。


 光は次第に膨らみ、見る見るうちにそれは人の形になった。先ほど廊下で出会った彼である。

 彼は人ではなかったのだ。侍女の目に、彼は映っていなかったのかもしれない。


「あなたは何者だ?」


 リュディガーは恐れる前に怪しい青年に問うた。得体が知れず不安はあれど、今のリュディガーにとっては敵国の兵よりはいくらかましな存在である。

 幼子に見合わぬ落ち着きを青年はどう見たのか。表情を浮かべずに長い髪を払う。


「俺か。俺はお前たち人間が悪魔と呼ぶ者」

「え……」


 悪魔。信仰を妨げ、人を惑わせる悪しき存在。

 愕然としたリュディガーに、悪魔はクスリと笑う。


「その考えを否定はしない。ただ、人はよく信仰を口にするが、神がお前に何をしてくれたというのだ?」


 まるで心を覗かれたような気がした。

 リュディガーはギュッと服の胸元を握り締める。


「何と……こうして私たちが無事にこの地へ辿り着けたのは神の御業だ。私たち母子をお救いくださった」


 悪魔になど惑わされない。リュディガーは強い意思を持って悪魔の声をね退ける。

 けれど、悪魔は薄く笑った。


「愚かな子供だ」

「っ!」

「お前はこれを助かったと言うのか? この部屋を見ろ。この部屋が大事な客人に与えられるものか? 明かりもなく暖も取れぬ場所に閉じ込められたのは何故か、お前にはわからぬか?」


 閉じ込められた。鍵がかけられているというのだ、この部屋には。

 茫然自失のリュディガーに、悪魔は言った。


「ここの主はお前をどうすべきか考えあぐねている。けれど、それも時間の問題だろう」

「どういうことだ?」


 心臓が冷えて、硬く小さく縮むような感覚だった。冷や汗がじわりとにじむ。

 まさか。

 そんなこと――。


「お前たちがここへ逃げ込むことなど、少し考えれば子供でもわかる。引き渡せと迫られれば、あの男はお前を敵国へ差し出すことだろう」


 ヴィーラント卿の優しげに崩れた顔を思い出した。けれどあの目は、リュディガーを見ていただろうか。その境遇を憂えてくれていただろうか。


 ここは安息の地ではなかったのだ。それを願ったからこそ都合のいい夢を見た。友愛の手は偽りであった。

 幼すぎる自分には、それを見抜く力もない。


 そう考えてハッとした。悪魔の言葉を鵜呑みにするのかと。まだ希望を捨ててはいけない。


「か、母様は――」


 すると、悪魔はさらに、さも可笑しいと言わんばかりに笑った。その声がリュディガーの不安をあおる。


「お前の母か。美しいお前の母のことを、ここの主はずっと忘れられずにいた。その小鳥が自らの手に飛び込んできたのだ。お前の母の命はおびやかされることなどないだろう」


 その言葉から答えに行き着くには、リュディガーは幼すぎた。それすらも嘲笑うかのように悪魔は言う。


「今頃どうしているかな。お前の母は求められるまま、体を武器に公へ嘆願しているのではないか? 自分たちを助けてくれと」


 けれどな、と悪魔は言った。


「あの女にとってお前はすべてではない」

「何を――」

「お前を護り生きてきたのは、それが自分を豊かにするすべと知り得ていたからだ。ここへ来て、お前が自らの足枷あしかせとなると気づいた時、切り捨てることもあり得るのだ。子ならまたはらめるのだと。他の有力者の子を宿しさえすれば、自身の安全は約束される。そうした時、滅びゆく国の血であるお前の存在は不要になる」

「う、嘘だ」

「嘘なものか。世の中を知らぬ子供だ。睦み合うねやの様子でも見せてやれば俺の言葉を信じるか」


 蔑みに満ちたその瞳に、リュディガーはゾクリと身を震わせる。それでも、悪魔の声はやまない。


「何故、大切な血族である公子のお前が屈強な護り手もなく、戦えもしない母と落ち延びたのか、考えてみろ」

「それは、戦い続ける父様のもとから兵を奪ってはいけないと――」

「お前の母が言った言葉はもっともらしく響いたか。兵力を割けなかったのではない。落ち延びた後、変節すればその兵が邪魔になる。ついてこられては都合が悪かったのだ」


 あれは狡猾な女だ、と悪魔はわらう。

 悪魔の言葉は真実か。それとも――。


「どうして私にそんなことを告げる? お前は何を企んでいるのだ?」


 思わずそう問うと、悪魔は失笑した。


「まあ、気まぐれだ。気まぐれでお前に声をかけた。上がった戦火のおかげで俺も血がたぎるのかもしれない。久々に力を振るいたくなった」

「力?」


 すると、悪魔はさらににやりと笑った。薄い唇がゆっくりと、獲物を前にして舌なめずりするかのようにして動く。


「お前に力を貸してやろう」


 悪魔の力。それは何を意味するのか。


「すべてを粛清する力を」

「しゅく、せい?」


 きょとんと目を瞬かせると、悪魔はああ、とうなずいた。


「お前を追い詰め、陥れた者に復讐してやろうと言うのだ」


 復讐。

 それをして、その先には何が待つのだろう。


「何が待つのか、そんなことは関係ない。このままではお前に訪れるのは死だけだ。それを回避するために俺の手を取れ」


 するり、と細い指の整った手を差し出す悪魔。リュディガーはその手と悪魔の顔とを交互に見た。


 この手を取らねば死ぬ。そうなのかもしれない。

 自分はすでに囚われの身である。ヴィーラント卿がナハト公国につくつもりならばリュディガーはよい手土産になる。


「この手を取らぬのならば、いっそひと思いにその胸を貫いてやろうか。そうすれば、これ以上の痛みを知ることはない」


 引き渡された先で、リュディガーはどのような目に遭うのだろう。戦い続ける父の前に無残な姿で放り出され、その戦意を殺ぐことになるのだろうか。


「ああ、お前の父が投降を拒めばそうなるか。父親の前で惨たらしい死が与えられるだろう」


 ――ようやく確信した。

 やはり、この悪魔は人の心を読む。

 リュディガーはキッと悪魔を睨みつけた。それは精一杯の強がりであった。


「お前の手は取らない」

「……それでは、死ぬぞ」


 この時、悪魔は少し悲しげにそれを言った。そのことがリュディガーにとって意外であった。

 道端で見つけた美しいはねをした蝶が、猫に狩られるのを嘆くようなものであったのかもしれない。そんな程度の小さな愛着を、悪魔は不遇なリュディガーに感じたのだろうか。


「それが私のさだめ。お前の手を取れば、私は天門を潜ることもできない大罪を犯す。だから、お前の手は取らない」

「その幼い声でよく言う」


 悪魔は呆れたのか、深々と嘆息するのだった。

 母と無事に落ち延びたと喜んだのも束の間。気づけば絶望の淵に一人で佇む。


 母が自分を捨てるなら、自分も母を捨てればいいとは思わない。

 護ると誓ったのだ。この命を母に返す。


「私を引き渡せねば、母様の身が危うくなるかもしれない。それならば、私はこのままここで静かに自らの運命を受け入れる」


 逃れた先に幸せはもうない。

 ならば運命を受け入れ、短い生を閉じる。リュディガーはそれを選択した。


「愚かだな」


 悪魔には人の情など愚かなものなのだろう。

 リュディガーも、それは否定のできない事実であるように思えた。


「お前は私の弱い心が生んだ幻だろう。さあ、もう消えてくれ」


 朝日と共に悪魔の影は消えた。

 暗闇に差し込む光をリュディガーは見上げる。悪魔の手を退けた自分の魂は天上へ行けるだろうか。


 コツンコツン、とドアを叩く音がした。

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