魔女狩り、目覚め 1-1 Kakuriyo
摩天楼の最上階は、肌を切り裂くような激しく、冷たい風が吹きすさんでいた。
星は見えない。街の明かりがあまりにも眩しく、人の作り出した光が夜空へと跳ね返されている。数えきれないほどの人の営みが、彼方へと吸い込まれているようだ。
だが人の営みとは、常に世に憚ってよいものだけではない。人目を掻い潜り、暗躍する者もまた存在する。それが例え、己が正義故の行いであったとしても。
某ビルの最上階にある立ち入り禁止区域の屋上で、眼下の街に蠢く異形を見下ろす二人がいた。一人は男。訝し気な視線を向けて、心配そうに相方を見遣った。
もう一人は女だ。平然とその光景を眺めながら、むしろ退屈そうに異形を蔑み、いつ夜の街へと身を落とすかのタイミングを伺っている。すなわち、摩天楼から飛び降りる時を待っているのだ。
「いつも言ってるけど、無茶だけはしないように」
言い慣れたセリフだった。彼とて何度同じことを言ったのか覚えてはいない。常套句と化しているから、言われた方も飽き飽きした態度だ。
彼女がこのビルの淵に立つのは、別段今日が初めてではない。おおよそ毎夜、こうして異形がいないかを際から目視で探している。
粛然として淵に佇む出で立ちに、雪解け水のように冷たい視線。ゆったりと前髪をかき分けながら、彼女は――。
慈愛に満ちた冷酷さをまとったまま、半分だけ振り返り答える。
「あなたに言われなくても、わかってる」
たったそれだけの言葉を
水の中で泳ぐように、何度か四肢をくねらせると、右手を虚空へかざす。同時に燐光が突如として現れ、白い光の軌跡を黒の中に描くと、その手に銀色に輝くものあった。
手品でもマジックでもない。知られざる現象として、呼び声に応えては顕現するもの。
名もなき銀色の剣、得物であるそれを
「――さて」
しばしの自由を堪能した後、ビルの壁を二度三度伝うように蹴り、背の低い建物の屋上に着地し、目撃者に警戒しながら地上に降りる。衝撃はしなやかな足に吸収され、また呼吸にも乱れはなかった。
人間とはかけ離れた身体能力を持っている彼女にとって、たかが五、六十メートルのビルから地上へ無傷で着陸することなど容易い。
天溟が着地した路地裏は大通りに比べて薄暗く、街灯もまばらにあるだけで、建物と建物の間ということもあり、通行するには適していない場所だった。無銘の銀を握る天溟にとっても、人通りの少ない場所は好都合だ。なにせ周りの目を気にせず存分に振り回せて、気の赴くままに異形たちを蹂躙できる。
薄れた喧騒の中に、かすかな呻き声が影から聞こえ、天溟の方へと近付いてくる。苦しんでいるのか、空腹を訴えているのか、もしくはその他の欲望をぶつけようとしているのか。理性を失い、肉体が溶け堕ちかけた「人だった」者たちの声が、街の淀みとなって、彼女を喰らわんと囲んでいた。
「ア、ア……ガ、ア、ハ……っ」
もはやまともな言葉など話せるほどの理性は残されていない。おおよそ人の形をした肉の塊、あるいは徘徊する死者。掠れ切った喉から吐き出される声は、彼女の耳に障る。
「人ならざるもの」たちは、今でこそ建物の陰に隠れて天溟を警戒しているが、放置していれば、いずれ人目に付く場所へと進出する。やがて一般人を襲い、混乱が撒き散らされる。人ならざるものとなった者は、もはや災害の一部となり、躊躇いなく平穏を乱すことになる。
だが、このような存在は秘匿されてきたからこそ、世は今日まで均衡を保ってきた。
つまり均衡を保ち、大衆の平穏を維持していくためには、維持するための武力、守護者が存在しなければならない。その役割の一端を担う者こそ、幽世天溟たちなのだ。
「悪いけれど」
無銘の銀、剣を構えて空を仰ぎながら。
「今日も死んでもらう」
跳躍。
過程の時間が切り取られたように、一瞬にして人ならざるものたちとの距離を縮めると、切っ先を心臓の位置目掛けて向け、そして貫く。骨などは一瞬にして砕かれ、抵抗する間もなく串刺しにされると、原油のように黒い体液を散らす。
天溟の頬に体液が飛び散ったが、厭うことなく剣を引き抜き、その勢いで貫かれた者の肉体を投げ棄てた。
「手ごたえないわね。本当に」
言いながら次の標的へ剣を差し向け、首を刈り取るように切り裂き、そしてまた心臓を抉るがごとく串刺しにして、躊躇いなく腹を蹴り飛ばす。その片手間で次の標的の腕を切り落とし、また心臓を破壊する。
一瞬も休むことなく、そして無駄のない挙動で確実に始末するために乱舞する。白銀の線が仄暗い闇の中に光芒を描き、残像の跡にはあまりに脆くなった異形が倒れた。
人ならざる者たちは天溟に触れることすらできない。足を一歩踏み込むたびに縮めているのは、幽世天溟との距離ではなく、死への時間だ。
「不意打ちなんて、そんな無駄な思考を」
その一言は絶対的な服従を命じるような、意志を持つ氷結の言の葉か。
背後から飛び込んできた敵に向けて呟くように言い放つと、見開いた目を向けて、長髪を翻しながら肘で顎を砕く。怯んだ隙にすかさず肩から両腕を落とし、両手で持ち手を掴み心臓から串刺しにすると、勢いよく刺さった屍人を投げ払った。
もはや人としての扱いではなく、まとわりつく泥を振り払うように、近くにあった古いコンクリートのビルに全身を叩きつけられる。あらゆる関節が奇妙な方向に曲がったソレは、もはや糸の切れた人形が折り重なっているように見えた。
手を伸ばせば斬り落とされ、牙を向ければ斬首される。彼らを始末することは、彼女にとって非常に容易いことだった。なにせ、理性を失っているので単純な行動しか取れない。凝った作戦も策も案も、彼らには存在しないので、ただ力で圧倒すればいい。
強者にのみ許された蹂躙、既に彼女を囲っていた者は誰一人立っておらず、ほとんどが四肢を欠損した状態で地に伏せていた。
そして、人ならざるものたちの死体は残らない。斬り棄てられてしばらくすると、やがて死体は灰色の石膏のようになり、間もなくして粉々になった。灰塵と帰した彼らの肉体は残らず、街の風によって散らされ、残ったのは黒くドロッとした体液のみである。
「どうせなら、この汚れも消えてくれればいいのに。帰ったらすぐにシャワーを浴びないと」
そう言いながら頬に付いていた黒い体液を指で拭う。
異形となった彼らとて、もとはただの一般人だ。何者かによって人でないものにされ、始末され、灰となり消滅する。最後には然るべき人物たちの手によって、行方不明者として扱われる。不運という言葉に尽きるが、理不尽な話だ。
今日も『あの男』がいないのを確信すると、天溟は状況の報告をすべく携帯電話を取り出そうとした時だった。
「随分と鮮やかな動きじゃねえか、イイねあんた。才能あるよ」
予め目視していた数の異形たちは全て始末した。周囲に目撃者になりうる一般人もいなかった。だからこそ闖入者の声に天溟は顔を微かにこわばらせ、取り出しかけていた携帯電話を仕舞い、声の方向を見る。
「剣を振るのに迷いもない。しかも連中を殺すのに、一切の躊躇いもなかった。殺し慣れてるやつの動きだ」
「ええ、毎日殺していくうちに慣れたから。誰かさんのせいでね」
路地裏の奥にある、存在すら忘れられたような小汚いコンクリートの階段の上に、亡霊にしてはやけに目立つ風貌の男がいる。髪を赤く染め、黒いサングラスをかけており、シワが一切ない高級なスーツを身に纏う男は、暗がりでもその姿をよく判別できた。
異様な雰囲気を漂わせる男は、天溟の全身をじっくりと舐めるように見る。
「動きも熟練してる、付け焼刃で得られるようなものでもない。あまり表には出ちゃいないが、体の作りもしっかりしている。ガキの頃から仕込まれて、完璧な型に仕上げられたってところだろ。そっちの得物も気になるな。銀色の剣……いや、取り立てて特別なものには見えんな」
観察していたとはいえ、こんな暗所で動きを見ながら経歴まで推測する洞察力と推理力に、天溟は猶更警戒せざるを得なかった。
「随分と観察されていたのね。いたことに気付けなかったのは不覚だったわ。それであなた、何者なのかしら。たまたま遭遇してしまった通行人、と言うには無理があるけど」
「さてな」
曖昧な返事をする赤い髪の男に、天溟は警戒せざるを得なかった。こんな場所にいる時点でさっきの質問は不毛だ。この男もまた、自分の同類なのだと察しがついている。
「もしかしてこの異形たちに関係があるのかしら。だとしたら、いくつか聞いておきたいことがあるわ」
すかさず無銘の銀を構える天溟に、男は静かに嗤う。
「なんだ、俺があれのお仲間だとでも思ったか?」
「いいえ。あなたがもし人ならざるものなら、そんな軽口だって叩けない。私が言っているのはアレを生み出す存在のこと」
「……さあ。色々と口外しないようって言われててね、肯定も否定もしない。勝手に決めつけてりゃいいさ」
赤い髪の男はそれだけ言うと背を向けて、場を去ろうとする。すかさず天溟は無銘の銀を構えて、男の首筋に向けて一閃を狙い澄ました。
「俺を斬るつもりか? いいぜ、やってみな」
彼女の方を振り返ることもなく、たんっとコンクリートの地面を蹴ると姿を消した。足が速いという次元ではなく、それは言葉通りの瞬間移動、空間跳躍で、常人を逸した視力を持っている天溟でさえ目で追えない程の速度。
「この動きは――能力者……!」
「しかしな、そこらの能力者とも違う」
「……っ!」
男は路地裏の奥へと姿を消したように見えた。実際は目で追えなかったがために、彼女は向いていた方向から、路地裏へ逃走したのだと思い込んでいた。
だが声がしたのは前でも右でも左でもなく、彼女の背後。いつの間に自分の後ろにいたのか、即座に後ろへ薙ぎ払う。
――それなのに、もういない。
忽然と姿を消しており、さっきの声は幻聴ではないかと一瞬彼女は自分を疑った。空を切った直後、突風に似た何かが彼女の横を通り過ぎ、ナイフのように肌を切りつける。
「そんなノロマなんじゃ、俺を斬るなんてできねえよ」
またも彼女の背後から、挑発するような男の声が低く響く。斬られた肌の血を親指で拭うと、それを舐め取った。野暮ったい血の味が口の中に広がり、一度剣を下ろして振り返ると、飄々とした態度の男が腕を組んで立っていた。
「瞬間移動……ではないわね。さっきの風にこの傷、信じられないほどの速度で指定した場所に転移してるのかしら」
「正解とまでは言えんが、あながち間違ってはいない。七十点ってところだ」
「へえ、じゃあ残り三十点分も教えてもらおうかしら」
「教えてやってもいいが代償は払ってもらうぜ? 骨の何本かは覚悟できるってなら、答えてやってもいいが――おっと」
軽快な電子音が鳴り響く。赤い髪の男が持っている携帯から流れた着信音だ。
「ったく、こんな時に……おう、なんだ。……ああ、はいはい。わかってるっつーの。せっかくこっちも面白いものを――」
話半分で携帯電話を耳から話すと、男は大げさに嘆息した。
「チッ、一方的に話しといて切りやがった。悪いが雇い主がさっさと戻ってこいとのことでな、惜しいがあんたとの手合わせはまた今度だ」
「聞き入れるとでも?」
「止めたきゃ止めな、だが」
体側に携えるように片手だけ拳を作って数秒、突如忽然と姿が消失。直後、天溟の眼前へと現れる。だが次に現れたのは、弾丸のような速度で射出された
これに反応できたのは、幽世天溟が飛びぬけて優れていたからだろう。並みの人間では、弾丸に似たそれを認識する前に、体が宙を舞うか、あるいは拳が胸を貫通している。
「嘘っ…!」
衝撃が金属の内側から反響を生み出す。金属同士をぶつけ合ったような感触に、剣の持ち主は眉を顰めた。
拳を受け止めたのは持っていた剣だ。しかし人の拳など刃物で受け止めれば、普通はどちらが有利かなど子どもでもわかる。肉の方が切れると、誰もがそう思うはずだ。
「そんななまくらじゃあ、俺の拳は止められねえ」
特別硬い素材や細工のされたグローブをはめているわけでもなく、ただの素手が当然のように剣と拮抗して受け止めていた。
「おっと、心配しなくていい。本当にその剣がなまくらってわけじゃねえ。それと前言撤回だ、それはただの剣じゃない。奥の手として真髄を隠しているのか知らんが、いくつか機能を持っているはずだ」
「もしかして私が切れ味なんて心配しているとでも、思っているかしら」
少しでも押し上げようと力を込めるが、微動だにしない。男の方は顔色一つ変えず、拳の骨と筋肉で受け止めている。
「ほう……刃毀れすらしていない。殴ってわかったが、想定外だ。実のところ俺はその剣をへし折るくらいのつもりでいたんだが、傷一つ入っちゃいねえと来た。どんな細工をしているんだか。もしやそれがあんたの能力なのか」
「どうかしら。そっちこそ、斬られているのに骨どころか肉も、いえ、皮膚すら切れていない。本当に人間なのかしら。拳をぶつけておいて刃毀れしていない、何て言ってくるの、きっとあなたくらいよ」
刀身で受け流して切り返し、白銀が男へ衝突する。すかさず男も弾丸を装填するように一度腕を引っ込めて――射出する。
形も質も違えど、その両方が閃光となって炸裂した。衝撃は風圧を生み出しては電線を揺らし、周囲にあった空箱やポリバケツを吹き飛ばした。
両者共に見合ったまま、一歩も退かず踏み止まり、斬撃と打擲の連撃と相殺を繰り返す。どちらかが少しでも油断すれば均衡が破られる程の、緻密な力の衝突。
「俺の体は特別でね、刃物だから断ち切れるなんて理屈は通じねえぞ。悪いが、あんたが手加減してる限り、おそらくは俺を殺せないってことさ」
「化け物ね」
「それはあんたも同じだろう?」
天溟に手を抜いているつもりなどない。手の内を明かせないがためにいくつかの制約を自身に課しているが、だからと言って致命的に全力の状態よりも劣るというわけではない。
加えて、男の持っている能力はこの鋼のごとき体ではなく、おそらく指定箇所への転移と天溟は推測している。すなわち、剣の刃すら受け止めるこの身体は、男の鍛錬よるものか、あるいは外部による補助のどちらか。もしも前者であれば、天溟は肉体面においては圧倒的に劣る。また後者であれば、先程男が言っていた雇い主によるものだろうか。
斬撃と鉄拳の応酬。先に膠着を打ち破ったのは男の方だ。そして彼の顔には、余裕の表情が浮かんでいる。
「っと、気ィ抜くなよ。ビビってんのがわかるぜ。足の踏み込みが浅くなった」
金属の弾かれる音、直後天溟は仰け反った。ここで男が追撃してくると覚悟して奥歯を噛み締めたが、拳は飛んでこない。
「あんたの切り札を拝めておきたかったが……ちと長居しすぎだ。いずれ機会はあるだろうよ。今日のところは引かせてもらうぜ」
三歩ほどの距離を引き下がると、高速移動によって建物の屋上へと移動し、劣勢を強いられた彼女の方を一度見下ろした。
見下ろされていた当人は、黙って見逃すことしか許されていない。ここで追ったところでまず能力の差から追いつけないし、追いついたところで質問に答えてもらえるほど、この男に対して優勢になれないと悟っていた。それに、これからの動き方を考えると、ここで全力を出すわけにもいかない。
「時間切れだ、じゃあな」
籠から解き放たれた鳥のように、一瞬にしてその場から姿を消すと、いつの間にか聞こえなくなっていた微かな街の雑踏が、路地裏の入り口から流れ込んできた。
今度こそは誰もいなくなったのを確信すると、無銘の銀は光の砂のようになって姿を消し、彼女の手元から離れる。身軽になった彼女は建物の壁にもたれかかって、深呼吸をした。
「結局手掛かりは得られず……か」
当初の目的は果たされたが、それ以上の成果は得られなかった。求めている答えに近づけないもどかしさが、撫で下ろした胸の中で燻る。もしかするとあの赤い髪の男は、この街で密かに起きている騒動の関係者、黒幕に近い存在だったのではないか。そう思うと、取り逃がしたことが正しかったのかと、後悔した。
腕時計で時刻を確認する。予定よりも戻る時間が遅くなったのに気付いた彼女は、携帯電話で零夜に繋ぐ。相手はすぐに電話に出た。
「ごめんなさい、報告が遅くなったわね」
『何かあったのか? その様子なら大事には至っていないようだが……』
「指が少し痙攣してる、けどこれは多分疲れが原因ね。特に問題ないわ。それと報告しなきゃいけないことが一つある。後で話すから、先にマンションに戻っててもらってていいかしら。
『わかった。じゃあ先に戻っておく』
「ええ」
そう言って通話を切ると、闇の中に一人だけ取り残された彼女は、鬱陶しく点滅する街灯に群がる羽虫を眺めながら、路地裏の奥へと姿を消していった。
表を歩くには、あまりに汚れすぎていた。
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