美学
昨日は朝にバナナを四本とトースト三枚、オレンジ三つ、ゆで卵二つ、昼にはミートソーススパゲティの大盛りとおにぎり二つとサラダ山盛り、夜には一人で三人前の鴨鍋を平らげてそのあとでどんぶり二杯分の雑炊も食べた。だが次の日の朝、トイレに行って排出したので、結局今朝の体重は六三キロ。その数字を見た棒山は、毎度のことながら自分の肉体の貧弱さに嫌気がさした。
棒山はその日、レスリングの大会を控えていた。六六キロ級で出場するにもかかわらず、体重は三キロも足りていない。といっても、六六キロ以下であれば計量はパスできるのだから、別に今の棒山の体重でも問題はなかった。しかし棒山は、六六キロ級で出場する以上、六三キロなどという中途半端な体重で試合に臨むなど、許せなかった。その三キロ分、試合で不利だと思った。そんな不利を背負って試合をしたくない。だが棒山は、何も、その三キロ分の不利によって試合で負けることが恐ろしかったわけではなかった。むしろ棒山は、自分が試合に出る以上、三キロ分の不利、などという無様なものを背負うことそのものが、精神的にどうしても嫌だったのだった。
とはいえ、こうした三キロ足りないままで計量するなんてことは、他の選手はいくらでもやっているし、なんならそうした不利を背負って優勝する選手だっていくらでもいた。つまり六六キロ級で出るからといって上限ギリギリにしなければいけないというきまりなんてないばかりか、上限ギリギリにすべきだという暗黙の空気といったものすら選手間にはほとんどなく、誰かが上限よりだいぶ軽い体重で計量をパスしたとしても、気にするようなやつは一人もいなかった。
にもかかわらず棒山は、この三キロ分の不利というものが許せなかった。棒山は別に、他人に馬鹿にされるのが嫌でこの三キロを嫌悪しているわけではなくて、ただ自分の中に存在する美学に照らし合わせて考えたとき、この三キロ分の不利を背負った状態で己が体重計に乗るというのがどうしても許せなかったのだった。棒山はそういう男だった。
そもそも棒山がレスリングを始めたのは、自分の貧弱な肉体が嫌で嫌で仕方なかったためだった。棒山は身長が180センチ近くあるにもかかわらずガリガリで、レスリング部に入部する前は体重がたったの57キログラムしかなかった。周りは高校に入って色気づき始め、棒山の周辺でもちらほらと彼女を作ることに成功するものが現れ始めていた。棒山はそれが羨ましくて仕方がなかったが、いざ彼女をつくるために何か行動を起こそうとしても、ふと鏡に映る自分の姿を見ると、その肉体のあまりの貧弱さに打ちひしがれ、こんなガリガリが女を抱き、性行為をする姿を客観的に想像してしまい、そのあまりの醜悪さに、俺に彼女なんて作れるはずがない、と諦めてしまうのだった。
そこで棒山はまず肉体改造に取り組むことにした。筋肉をつけるには格闘技をやるのがはやいと思ったので、緊張で飛び出そうな心臓を押さえながら、棒山は高校のレスリング部の扉をノックした。そしてその一週間後にはもう部員全員に投げ飛ばされまくっていた。棒山は焦った。レスリング部なのだからそりゃ強いとは思っていたが、ここまで歯が立たないとは思わなかった。俺はこの人たちに一生ボコボコにされ続けるのか。俺は所詮その程度の人間なのか。そう思うと棒山は、この世の終わりのような恐怖を覚えた。気づくといつの間にか肉体改造のことを忘れ、恐怖と焦りに駆られる棒山がいた。
そのうち棒山の性格はどんどん暗くなり、その代わり、狂ったように練習に打ち込むようになった。投げ飛ばされるたび、一人で何かをぶつぶつ呟きながら起き上がってくるので、部員はみんな気味悪がった。いつしか棒山の動きは俊敏になり、動作は合理性を増していき、根性だけは元々あったのも幸いして、次第に投げ飛ばされる回数は減っていき、逆に相手を投げ飛ばすことが多くなった。暗くて不気味なやつではあったが、スポーツをやる人間は努力家で強い人間をないがしろにはできない。このころには自然、棒山は部の仲間に受け入れられるようになっていた。
そうしてある日部員の一人が、「棒山、シャツ脱いでこっち来てみろよ」と言って、道場にある大きな鏡の前で自らの筋肉を誇示し始めた。周りの部員もそいつに負けじと、上半身裸になり、自らの筋肉量を比較し始めた。こういうことは格闘技をやっているだけあって日常的に練習の中で起こっていたが、棒山がこうした輪に自然と誘われたのは初めての事だった。棒山は何気なく汗だくのシャツを脱いで、鏡の前に立った。すると数か月前の自分とは打って変わった筋肉質な肉体がそこにあった。まだ線は細いとはいえ、周囲の学生と比較しても、圧倒的な筋肉量だった。
棒山は当初の目的であった肉体を手に入れて束の間の満足を得た。俺も捨てたもんじゃない。これで俺もいよいよ彼女を作れるかもしれない。棒山はそう思ったが、しかしその次の週には、棒山にとって初めてのレスリングの試合が控えていた。
棒山は大会の組み合わせを決める抽選会に赴き、驚愕した。自分と同じ階級の選手たちが抽選会には勢ぞろいしていたが、その皆が、棒山より屈強な肉体を持っていたのだった。棒山は今まで自分がどれだけ狭い世界でもがいていたのかを知った。学校の部員なんて、県大会に出るような選手たちと比べれば、取るに足らないほどのヒョロヒョロだったのだ。棒山はそのヒョロヒョロと比べてやっと、筋肉が目立つというだけの存在に過ぎなかった。
打ちひしがれた棒山は、頭を抱えて家のベットにうずくまった。まだ足りない。俺はまだまだ駄目な俺のままだ。ちょっと筋肉がついただけの何のとりえもない男だ。そしてその筋肉ですら、圧倒的に人に劣っているという情けない男だ。
夜通し考えた棒山は、背水の陣ともいえる結論を得た。大会で全員倒すしかない、と棒山は思った。大会で全員を俺が倒せば、やつらの肉体は見せかけだということが証明される。そうすれば俺はくだらない人間じゃないと証明できる。
大会は一週間後だった。棒山はいつもに増して練習に打ち込み、チームメイトをいっそう気味悪がらせた。それと並行して、体重の増量にも取り組んだ。棒山の体重は六二キロしかなかったのだ。出場階級は六十六キロだから、四キロも足りなかった。もう一つ下の六十キロ級に減量をして出場するという選択肢もあるにはあったのだが、ただでさえ細い自分の体をさらに細くして試合に出るなど、棒山からすれば不合理なこと極まりなく、最初から論外だった。棒山はその日からがむしゃらに食料を摂取しまくった。元々食が細かったにもかかわらず、毎日茶碗五杯の白米を食べるというノルマを己に課し、苦しみながらも胃に流し込んだ。
だが所詮は一週間という限られた時間でのことだった。しかも棒山は元々肥りにくい体質で、試合当日、計量前の早朝、家の体重計に乗った棒山が見たのは六十三キロという無慈悲な数字だった。しかも棒山の腹の中には、昨日消化しきれなかった食物がまだ満杯に近いほど溜まっていて、それを加味しても六十三キロという体重なのだった。
棒山はどうしても許せなかった。六十六キロ級という階級に、六十三キロで出るという行為自体が、己の競技に対する不誠実さを表しているような気がした。レスリングという競技に取り組む以上、不誠実な態度で臨むなどということはあってはならない。なぜ俺は、六十六キロ級に出ると決めたその時から増量に取り組まなかったのか。棒山は過去の自分を呪った。ぴったり六十六キロに合わせてきた選手たちの中に、俺だけが六十三キロの情けない体で登場し、右往左往する。仮にそれで俺が勝てたところで、努力して六十六キロに合わせてきた選手たちは何と思うか。あんな六十三キロで出場するようなふざけたやつに負けた自分のことを呪いたくなり、さらに六十三キロで出場したおちゃらけた俺のことをも呪い殺したくなるに違いない。気づくと棒山は、自分以外の全ての選手がぴったり六十六キロに体重を合わせてくる前提で思考し、自己を追い詰めているのだった。
試合会場に着いた棒山は、体育館の席に大量のビニール袋を持ち込み、その中身を広げた。バナナ五房、おにぎり十個、ウィダーインゼリー十個、おかゆ五パック、スパゲッティ三種類、プロテインバー十本、菓子パン十個、そうした食物が次々あたりに並べられ、レスリング部の面々は目を丸くした。計量まであと一時間ある。棒山は目を血走らせながら、片っ端から食物を胃に押し込み始めた。そもそも腹がいっぱいなので、すぐに気持ちが悪くなった。だが嗚咽が漏れそうになった時には、手で口を押え、何とか我慢して飲み込んだ。棒山は涙と鼻水を垂らしながら飯を食い続けた。水を飲んで体重を増やすという手もあったが、それは単に栄養の無い重りを胃に流し込んだのと変わらないので、しっかり増量した状態で試合に臨むという当初の目的からすれば不純であるように棒山には思えた。もちろん今こうして計量直前に飯を胃に押し込み六十六キロ級に出ようということ自体、棒山にとってみれば不純ではあるのだが、かといって開き直って何の努力もせず六十三キロで試合に出場することの方が、棒山にとって確実に許せないことだった。
チームメイトははじめ棒山の行動を不審げに見守っていたが、棒山の目が血走り、息が荒くなり、嗚咽を漏らし始め、それでもなお棒山が食べるのをやめないという常軌を逸した状態を見て、棒山の行為を止めさせようとしはじめた。棒山の左右に部員たちがとりつき、棒山が飯に伸ばす手を何とか抑えながら、棒山に「やめろ」「試合で動けなくなるぞ」「体調を崩すぞ」と常識的な言葉を叫び続けた。そんなチームメイトの言葉を聞くたび棒山の怒りは募った。こいつらはついこの間レスリングを始めた俺に追いつかれ、投げ飛ばされ、そのくせへらへら笑って鏡の前で筋肉自慢などをして、一丁前に彼女を作って、増量も減量もせず生半可な気持ちで試合に出て、自分たちより屈強なやつらに投げ飛ばされても大して何も感じないまま日々をやり過ごしている。俺はこんなやつらとは違う。俺はこんなやつらと同じにはなりたくない。
「ほっといてくれ!」
棒山はそう叫んで、両脇の部員を突き飛ばすと、バナナを二本同時に頬張った。そのうちおかしなやつがいるということで会場の注目が集まり、他校の選手や監督やその他大勢といった、会場全体の人が奇怪なものを見る目で棒山を見つめた。どうせこいつらには分からない。俺は戦っているんだ。一人でも戦うんだ。棒山はやけくそになってバナナを咀嚼し、飲み込もうとしたが、もう限界だった。胸の辺りから不快な濁流が押し寄せ、慌てて手で口に蓋をしたが、勢いは止まらない。堤防は一挙に決壊し、棒山は衆目に晒されながら長い長い嘔吐をした。棒山の嘔吐を見たものは、誰もが嫌悪に顔を引きつらせた。
棒山は胃液まで吐いて、涙と鼻水を流しながら、自分の情けなさに打ちひしがれていた。なぜこれしきで吐いてしまったのか。なぜもっと我慢できなかったのか。お前は最悪の根性無しだ。このくらいのことが達成できないでいったいこの先何ができるっていうんだ。
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