第29話.お労しい


「本当に一人で大丈夫だったのだろうか?」


 やはり私も行くべきではなかったのか? 隠密行動などやった事はないが、それでも黒猫殿を一人だけ敵地へと向かわせるなど帝国貴族男子として恥ずべき事ではないのか。

 いやしかし、足を引っ張るだけと分かりながら自らの誇りを優先するなど、補佐官としても失格か。

 自分を信頼してこの任務を託してくれた陛下の顔にも泥を塗る事になるだろうし、公人ならば職務を優先して当然。

 やはり、ここは信じて待つしかないか。


「……本当に小さかったな」


 自分の手のひらを見詰め、ポツリと呟く。

 黒猫という名称を聞く様になったのは今年に入ってからだというのに、既に陛下やベルナール様から多大な信頼を勝ち取っている優秀な暗部。

 どれ程の手練れかと思えば、その姿形はまるで女子供の様で……握手の際に触れた手は自分が予想していたよりも小さく、細く、滑らかで頼りなかった。


「……いや、詮索は良くないな」


 彼女なのか彼なのかは分からないが、黒猫殿は暗部に所属する身。ならば自分の正体について詮索されるのは非常に嫌がるだろう。

 黒猫殿はあの妃と違って仕事が出来て優秀なのだから、陛下の強力な味方となってくれるあの方の邪魔をしてはいけない。

 ……そういえば、あの妃も黒猫殿とそう変わらない背格好をしていたな。中身は全く違うが。


「――連れて来たぞ」


 急に背後から聞こえて来た声に驚き振り返ってみれば……そこにはレオノーラ皇女殿下と思われる女性を背負った黒猫殿が居た。

 隠密の素人であろう殿下を背負いながら、ここまで近寄られるまで存在や気配に気付かなかった事に冷や汗が出る。流石は黒猫殿だ。


「私はもうダメよ、死ぬしかないの――」


「殿下はどうしたのだ?」


 何やら不穏な言葉をブツブツと呟いている様子が目に入り、彼女を背から降ろす黒猫殿に問い掛ける。


「あー、と……なんて言えば良いのかな……まぁ、長期間の軟禁生活で疲れてたんだよ」


「なるほど、帝室の方がこのようになるまで追い詰めるなど……男爵め、恥を知れ」


「あー、うん、そうだね」


 お労しい……どれほど辛い日々を送れば人はここまで病んでしまう事が出来るのか。

 どんな理由があろうとも、帝室の方を拐かした時点で極刑は免れぬというのに。


「シルベル? ベルシルに決まってんだろ馬鹿がよ! うっ、頭が――」


「お気を確かに!」


「……」


 おのれ、何をされたらここまで人は壊れてしまうんだ!


「えっーと、それじゃあ当初の予定通りに後は頼むね」


「あ、あぁ、コチラは任せてくれ、絶対にレオノーラ皇女殿下を帝都まで送り届けると誓おう」


「てい、と……? ていと、帝都? いやっ! イヤよ! 会いたくない!」


「殿下! お気を確かに! ここには殿下を傷付ける者は誰も居ません!」






「ありゃ重症だな」


 暫く二人が山を下るのを見守っていたけど、アレンは周囲への警戒を怠っていないし、他にも協力者が居るからここいらで別れても大丈夫だろう。

 問題は皇女殿下の方だけど……まぁ、いずれ正気に戻るでしょ。

 そんな事よりも私はアレン様にも伝えていない、重要任務の方を遂行しますかね。


 今頃は見張りが全員気絶してて大騒ぎになっているだろうし、その騒ぎに乗じて重要参考人である男爵本人を拉致して来いとのベルナール様からのご命令だ。

 皇女殿下と違って手荒な真似が出来る分、連れ出すだけなら簡単なんだけど、絶対に途中で戦闘になるんだよなぁ。


「ま、頑張ろう」


 これが終わればボーナス弾んでくれるってベルナール様が約束してくれたしね。

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