第15話 闘うナージャ

「それまで!」

 格納庫にケイリー・マツダ班長の声がこだまする。


 白いジュージツ道着に身を包んだナージャの下で、仰向けにマットに伸びているサンドロは既にグロッキーだった。


 警備会社であるヴェヌス・セキュリティの警備員は、当然、日頃から鍛錬を重ねている。

 今日は月に3回ある格闘術訓練の日だ。


 リフターが並ぶ格納庫の一角にマットを敷き詰め、その上で隊員たちは乱取りを行っている。


 逮捕術の元になっているのはジュージツだ。

 レイモンのボクシング、イスマイルのトルコレスリングなど、武道のバックボーンが違う者もいるが、逮捕術の基本的な動きや技はジュージツのものが主に使われている。

 だから訓練では皆、道着を着用して闘う。



 ウォーレンはさっさと待機要員に名乗り出て見学に回っていた。

 持ち回り交代制で待機しているジョージと並んで訓練風景をのんびりと眺めている。


 ここ数回訓練に参加していないウォーレンをジョージが揶揄する。

「そろそろ訓練しとかないと、身体動きませんよ」

「俺はもう引退だ。引導渡された」

「大げさな」


 バシイ!と激しい音がして、レイモンの大きな身体がマットに叩きつけられる。

 ナージャの投げ技は、ケイリー班長を除く隊員たちとはまるでスピードが違う。

「初対面であんな投げを喰らったら、やる気も出ねぇ」

「セクハラするからですよ」

「尻の一つやふたつ、減るもんでもなし。ネンネかよ」

 悪態をついているがナージャに注がれる眼は(彼にしては)穏やかだ。


 ナージャの入社時に挨拶代わりに彼女の尻を撫で、硬い床と仲良くする羽目になったウォーレン。彼女の実力を見抜けなかったことで、オレも焼きが回ったかなと感じていた。


 そろそろ若い奴らの時代だな。



 ナージャの相手はイスマイルに代わった。

「よし来い!」

「行きます!」

 彼は元々、学生時代にトルコレスリング軽量級の選手経験があるそうだ。トルコレスリングヤールギュレシは強靱な腕力がモノを云う。組み付いた後の攻撃力は一級品だ。

 だがナージャはその体勢すら許してくれない。袖を取ったはいいものの、凄いスピードで懐に入られ、肩に担がれ、まるでパズルのような巧みな動きでいつの間にか転がされてしまっていた。

「ヘイ、イスマイル、何でお前はいつまで経ってもジュージツが上達しないんだ?!」サンドロが野次を飛ばす。

「うるせー、俺が下手なんじゃねぇ……!」

 何度も投げられているが、この鮮やかさには未だに付いていけない。

「も、もう一丁!」

「はい!お願いします!」



 隊員たちの訓練ぶりを見守るケイリー班長。

 ヴェヌスの隊員は全員3年以上の実務経験を持つ優秀な警備員だ。ならず者の数人など、ものともしない実力がある。


 だがその中でもナージャの強さは群を抜いていた。

 ナージャが入社してまだ3ヶ月余りだが、実際の話、生身での徒手空拳道で彼女に勝てるのはもはやケイリー・マツダ行動班長しかいないのだ。

 班長にしても、ナージャに対しては余裕を見せつけることはできず、気を抜けば一本取られてしまう状態だ。


 ナージャがあの若さで使いこなす、第5アルテラのジュージツというものは、ただのスポーツ格闘技ではないように思えた。殺気すら感じさせるその技の切れ味からは、かつてケイリー班長が務めてきた、軍隊格闘技の匂いがする。


 これが幻と呼ばれた第5アルテラの必殺格闘術か。大変な奴が入ってきたものだ。


 班長自身、勝ち越している要因が単なる男女の体格差であることを自覚していて、体力の差が関係なくなるリフター戦においては、彼女はいとも簡単に自身を上回ってしまうだろうという確信があった。


 だからこそナージャには期待を掛けていた。

 ファイターとしての感情からは忸怩たるものがあるが、彼女の能力は同じ警備員の仲間としてこの上なく頼もしい。

 だからこそ、早くモノになってもらわないとならないのだ。一人前の「守護者ガーディアン」として。


 男に囲まれて道草を食っている場合ではないのだ……。




「ナージャ!……あー、ちょっといいか?」

 一日の勤務が終わり、ロッカールームから出てきたナージャをレイモンが呼び止めた。

「何か予定があるか?この後、一緒に飯でもどうだ……?」


 不器用に切り出すレイモンの誘いをナージャは固辞した。

「ごめんなさい、レイモンさん。あたし、スクールがあって」

「スクール?」

 予約が入ってるの、じゃ。とナージャは小走りに玄関を出て行く。


 レイモンは困惑する。

 あいつが習い事?!


 考えてみるとナージャは免許挑戦中なので、それの試験勉強ということは想像がつく。

 だが、スクールって何だ?

 誰かに教わっているというのか?どんなことを?!


 モヤモヤが収まらないレイモンはロッカーに引き返した。

 格納庫の一角にあるトレーニングスペースでひたすら筋トレして紛らわすつもりだった。




 ガーゴは3回目になる個人授業の、冒頭の実力テストを採点していた。

 ドリルの効果でナージャの計算力は向上しているが、点数は一進一退だ。


「……47点……ってとこかな」

「ああぁーーもう!!」

 ドリル本の上に突っ伏すナージャ。大きな胸が本を圧し潰し、開いていたページが折れ曲がった。


「前回より3点下がってる。ちゃんと復習した?」

「したわよ!」

 負けず嫌いの彼女のことだ、嘘はないのだろう。

 それだけ苦手ってことだ。


「何でこんなに難しい数学が必要なの!」

「無重力空間では、いざという時、全部自分で計算してリフターを制御しないとならないからさ」


 もう何度繰り返されたかわからない恨み言に、毎回ガーゴは同じ言葉で説き伏せている。

「II(イナーシャインテリジェンス)がもし故障しても、帰ってこれないといけないんだよ」

「そんなのあり得るの」

「ないとは限らない。絶対はない」



 彼女が「生身の状態の0G空間機動(いわゆる宇宙遊泳)」の成績は極めて優秀だったのは聞いている。

 つまり、彼女の体内のコンピュータ……運動神経はそれに無意識に苦もなく適応してしまっているということだ。

 その無意識の情報処理を答案の上に再現するのが学科試験だ。


 ……それが出来たら誰も苦労しないんだよな。


「大丈夫。ナージャならできる」

 結局そんな慰めしか口に出せない。

「気休めヤメてよ」

「いや、できる」

「やめてったら」

「できると思わないと、前に進まないよ」


 むっと口を尖らせたナージャだが、真剣なガーゴの目と視線が合う。

「……そうね」

 言葉に力が戻り、放り出したテキストを引き寄せ、彼女は再び問題に向き合った。

「諦めたら負けだね」


 改めてさっきの答案の間違い箇所を見直す2人。

「6-3の処の正答率が悪い。どこが分からない?」

「運動エネルギーの仕事量のとこがちょっと」

「そこは、こうだ」

 ガーゴはノートに数式と図式を書いて噛み砕いた解説を試みる。

 唸りながらナージャも懸命に付いていく。

「2200になったら一休みしよう。コーヒー入れる」

「……うん」




 ガーゴのアパルトマンを出るともう真夜中近くになっていた。

 街灯もまばらなソムニア街を家路を急ぐナージャ。


 バス停の横を通り抜けた時、隠れていた人影がすっと彼女の背後に回った。

 ハッとして振り返ろうとすると、脇腹に尖ったものを押し付けられる。

「いや、俺は別に気にしてないんだぜ?でもこいつの機嫌はどうだかな?」


 思い出した。

 この前のチンピラだ。


 この前恥をかかされたことの復讐か、小さい奴。

 心中で唾棄したが、相手はナイフを持っている。


 得物のせいかチンピラはやけに余裕ぶっている。

「こいつに免じて、謝ってもらやぁいいんだがな?」

 調子に乗って彼女の体をまさぐってくる男。


 頭にきた。


 恐怖で固まっているフリをして、突然、踵で急所めがけてチンピラの内腿を蹴り上げる。

 苦痛で身体を折った男の手首を掴み、捻り上げてナイフを封じ、さらに肘を入れる。そのまま奥襟を取って下半身を刈り払い、一気に投げ飛ばした。


 ナージャは手加減しなかった。チンピラは後頭部からまともに落ちた。


 目の前に星が飛んだチンピラ。グニャグニャに歪んだ視界の中で、ナージャが自分のナイフを掴んで、振りかぶるのが見えた。

 そのまま顔面目掛けて振り下ろす。


「……!!」

 声になってない悲鳴を上げるチンピラ。

 こ、殺される!!


 バチンと鈍い音が響いた。


 ナイフは男の両の鼻の穴を一つに繋いだだけで止まっていた。

 ナージャがもう片手を当てて寸止めしたのだ。


 鼻血と泡を吹き、小便を漏らしてチンピラは気絶していた。


「没収よ」

 ナイフを排水溝に捨て、ナージャは振り向かずに去ってゆく。


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