第14話 家庭教師

 昼過ぎくらいから、ガーゴは少し落ち着かなかった。


 今日は、ナージャが家に来る。


 この前の食事で、ナージャから資格取得の愚痴を聞いたことで、週一回、週末だけではあるものの、ナージャに物理学を教えることになったから。

 遊びじゃないんだと自身に言い聞かせているものの、やはり女性を家に呼ぶというのは若造ガーゴにとって心を乱される出来事だった。



 雑念だらけの頭でその日の仕事を何とか終わらせ、急いで待ち合わせのメトロ・アレーセ駅に向うと、時間ぴったりにナージャが改札から現れた。

 いつも通りの澄ました表情でガーゴの前に立つ。

「待った?」

「いや、今来た」

「お腹空いたわ」


 前にも来たアレーセ街のバル「カミーチェ・ロッシ」に入り、2人はピッツァとカプチーノで腹ごしらえする。


 食事中、ナージャは個人授業の謝礼を払いたがったがガーゴは拒否した。

「まだ何も結果なんか出ていないんだから」

 それに、他人行儀で心外だったから。


 でもそれではナージャ自身が納得できないようだった。

「じゃあ、このバルの払いはあたしにさせて」


 夕食代わりのバルの代金はナージャが持つと言って聞かないので、やむなく甘えることにしたガーゴ。



 店を出ると街は夕闇に包まれていた。

 週末の繁華街はまだまだこれから人々を受け入れる賑わいに満ちているが、2人はネオンサインに背を向けて、夜の街をガーゴのアパルトマンに向かう。


 並んで歩く2人の間の微妙な距離。

 遊びに行くんじゃないから。


 それでもナージャは見慣れない地区の夜景をそれなりに楽しんでいた。

 ガーゴの家までの道中には教会堂ドゥオーモがあり、古めかしい礼拝堂と尖塔がライトアップされていた。ナージャはちょっと足を止め、厳かな光景に見とれる。


 繰り返すが遊びじゃないぞ。

「ナージャ」ガーゴは先を促す。

「まだ遠い?」

「あと5分くらいだよ」



 ソムニア街に面する四角い素っ気ないアパルトマンがガーゴの自宅だった。

 殺風景なコンクリートの階段を登り、3階にある自室にナージャを招き入れる。


 彼女にとって異性の部屋に入るのは初めてだったが、第一声は容赦なかった。

「きたねぇ!」

「そ、そう?!」

 ガーゴの部屋には別にゴミが散乱している訳でもなく、物が多すぎて溢れかえっているわけでもない。


 だがナージャに云わせると、整理整頓、収納が全然なっていない、理に適っていない整頓は整頓じゃないとダメ出しされるのだ。

「あんた、理系なのに、なんでよ?」


 ちょっと、これここに必要?ああ、これ邪魔。ランドリーはどこ?ちゃんと入れときなさいよ。


 いきなり母親のようにあれこれと片付けを始めるナージャに困惑する。

 放っておくと風呂場まで整理しそうな勢いなので、

「ナージャ」

 ガーゴは壁時計を指差した。

「時間がない」


 不承不承手を止めるナージャをダイニングテーブルの前に座らせ、向かい合う。

 授業開始だ。


 ガーゴは参考書付属の筆記テストを手渡し、60分で回答するよう申し渡した。

 まずは彼女の実力を把握しないと。


 携帯端末で時間を測り、テストを開始する。

「用意。……始め!」



 どんな形でも、自分の部屋に美人の女の子がいるとあれば、心が華やぐのは仕方がない。

 いつもの部屋になんだかいい匂いが漂う。


 小さいダイニングテーブルの向こう側、目の前に私服のナージャがいる。

 丸みのある肩の曲線がわずかに揺れている。

 やや前屈みで課題に向かう彼女の、豊かな胸がテーブルの上に乗っかっていた。無意識に放たれる色香に、ガーゴは色んなところが熱くなる。


 いや、そんなのに見とれてる場合じゃない。


 ナージャが問題を解いている間、ガーゴはリフター試験対策の参考書に目を通している。

 今の問題傾向を把握して、重点になる例題をアドバイスするつもり。


 やるからには俺も真剣に、全力で教える。



 携帯端末からアラームの音が響く。

 筆記テストの時間が終わり、ナージャはペンを置いて答案ペーパーをガーゴに渡した。

 あまりいい顔をしていない。落ち込むのを何とか取り繕っているような表情で不自然だ。

 手元に寄越された、空欄が目立つ答案を見て、ガーゴは不安に襲われた。



 ……採点してみたガーゴは嫌な予感が的中したことを知った。

 22点。

 ひどい。赤点だ。


 さすがにナージャも赤面し、無言でうつむいてしまった。


 予想以上の不出来に、ガーゴは念の為と思って用意していたテキストを取り出した。

「これを練習して」


 それは中等学校用の計算ドリルだった。

「……ちょっと、これ!」

 中等学校の文字にナージャが反応して不平を漏らす。

「約束したろ?授業方針には何でも従うって言ったのは誰?」

 うっと言葉が詰まるナージャ。


 彼女の場合、まずは四則計算に慣れることからだ。

「1章から2章まで、2130までにやって。今日はそこまでだ」



 30分ほどかけて計算ドリルを解き終わったナージャ。

 さすがにこのドリルの答案に空欄はなかったが、採点すると74点しか取れていない。

 まずは基本的な計算を完璧にできるようにならないとだな。

 ガーゴは改めて、加減乗除のルールからナージャに教え直す。


「残りは宿題だな。来週までにやってきて」

「……うぅ、わかった」

 然しものナージャもテンションが低い。

「このままじゃ、学校の恩師の先生に顔向けできないぜ。頑張ろう」



 帰宅するナージャを玄関口に見送る。

 夜も更けており、ガーゴはエスコートを申し出た。

「帰り、送るよ」

「いいわ」

「でも、危ないから」

「大丈夫よ」

「いやしかし……」


 心配顔のガーゴにナージャは苦笑して、

「あんたじゃ護衛にならないのよ」

 ハッキリ言われてしまった。


 言い返せないのが情けない。事実だから。


「心配いらないわよ。……今日はありがとね」

 明るく手を振ってナージャは帰って行った。




 夜の街をアレーセ駅へと向かうナージャ。

 来たときは気付かなかったが、この地区は意外と治安が良くないみたいだ。ホームレスが路地に寝そべり、若者がたむろして騒いでいる。


 歩道を行くナージャに電柱にもたれて酒を飲んでいた若い男が絡んできた。

「姉ちゃん、遊ばないかい」

 無視して先を急ぐ。

「なあ、ちょっとでいいからさあ」

 馴れ馴れしく男はナージャの肩に手をかけた。


 次の瞬間、男の視界が急回転し、訳が分からないまま彼は仰向けに横たわっていた。


 眼下は街灯が灯る夜空。

 視界の端にナージャが何事もなかったかのように歩み去っていく。


 ざけんなテメ!っと追いかけようとした男だったが、身体を動かした途端もの凄い痛みが腰と背中に走り、路上でのたうち回った。


 目にも留まらぬ鋭さで決まった投げ技に通行人も呆気にとられている。

 ギャアァと響く男の悲鳴も、もうナージャの耳には届いていない。

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