文庫結び

増田朋美

文庫結び

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今日はこの秋一番の冷え込みであるようで、もはやブラウス一枚では、対応しきれなくなっているほど、寒い日であった。男性が着物を着るときは必ず羽織を着るものであるが、蘭は羽織の上に、二重廻しを着込んで、ショッピングモールへ出かけたほどである。一方、杉ちゃんのほうは、相変わらず、黒大島の着流しを着ていて、馬鹿は風邪をひかないと公言していたほどであった。そんなわけだから、それでは、寒くないのかと周りの人に言われたくらいであったが、それでも平気な顔をしているのが、杉ちゃんならではである。

「それにしても、本当に杉ちゃんって、寒さに強いんだね。ほんと、この寒いのによく平気な顔をしていられるな。」

と、蘭は、タクシーの中で、そういうことを言った。

「それ、夏にも同じセリフを言わなかったか。杉ちゃんって、暑さに強いなって。」

そういわれてしまうので、蘭は、それ以上言うことはできなかったけれど、杉ちゃんという人は、あまり気候というものを感じないらしい。いつの季節にでも、黒大島をきて、黒足袋をはき、下駄をはくというスタイルである。

ちょうど、杉ちゃんと蘭が家の前でタクシーを降りると、ちょうど、杉ちゃんと呼ぶ声がするので、何かと思って杉ちゃんたちが、振り向くと、浜島咲と、一人の一寸太り気味の女性がいた。

「ああ、浜島さん。どうしたんですか?」

と蘭はそういうと、

「どうしたって、こっちのセリフよ、其れは。三十分前から、ここでまたされたのよ。近所のおばさんに聞けば、すぐ帰ってくるっていうし。」

と、咲が、一寸強気で言った。

「ああ、そうか。すまんすまん。其れはすまなかったな。それなら、すぐ家に入ってくれや。お茶でも飲んで落ち着いてくれ。」

と、杉ちゃんは、急いで家のカギを開けて、さあどうぞと二人を部屋の中へ招き入れる。段差のまったくない玄関なので、何のためらいもなく入れてしまうのが、うれしいところだった。咲は、何も気にしないでいいのよ、と言いながら、彼女を部屋の中に入れた。

「まあ、素敵なお家じゃないですか。なんか、和風のものが、たくさん置いてあるんですね。ほら、壁に凧とか、窓際にでんでん太鼓とか、可愛い民芸品がたくさん置いてある。」

と、咲は、杉ちゃんの家をほめた。確かに、そういうものがたくさんおいてあるのである。

「いやあねえ。旅行に行ってさ。必ず何か買っちゃうんだよね。そういう地方の民芸品みたいなの。まあ、ただの悪趣味と言えばいいかな。」

と、杉ちゃんが、二人にお茶を入れながら、そういうことを言った。

「悪趣味なんて、そんなこと言うもんじゃないわよ。そんなこと言ったら、可愛い民芸品が、台無しになっちゃうじゃない。」

と、咲は、杉ちゃんにいうが、杉ちゃんはそれには反応しないで、

「それでは、お前さんたちは、なんで今日、僕のうちに来たんだよ。」

と、急に話しを変えてしまった。

「ああ、其れはねえ。一寸相談があってきたのよ。彼女の着物の事で。」

と、咲は杉ちゃんにもらった緑茶をすすりながら、そういうことを言った。

「はあ、着物の事って、なんのこと?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ、まあ、担当直入に言えば、彼女の着ている着物に間違いがあるかどうか、それを見ていただきたいの。」

と咲は言った。はあ、と言って、杉ちゃんも蘭もその女性の着物を見る。彼女は、エメラルドグリーンの羽二重の色無地を着て、銀色の袋帯を、二重太鼓に結んでいる。確かに、伊達衿もしっかりついているし、帯締めも帯揚げもしっかりついていて、特に非難すべきことはない。

「一体どうしたんですか。彼女の着付けに、何か問題があったとでもいうのですか?」

と蘭は、咲に聞いた。

「ええ、それがね、彼女、うちの教室に、この格好で来たんだけど、帰りのバスの中で、中年のおばさんにこういわれちゃったんですって。若い癖に、年寄りの着物を着るのか、生意気だ、若いくせにってね。」

「はあ、なるほど。いわゆる着物警察に遭遇したのか。で、その着物警官は、着物姿だった?それとも洋服?」

杉ちゃんが聞くと、

「いえ、洋服姿でした。洋服で、黒いワンピースを着ていました。」

と、彼女は答えた。

「そうなんだねえ。まったくよ。そういうひとがいるから、着物を着る気もなくなっちゃうよな。其れよりも、着物は楽しく着れたらいいのにね。まあ、しいて指摘するなら、お前さんは、独身か?それなら、確かに、間違いはある。二重太鼓は既婚者の結び方で、独身者はしない。」

と、杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「ええ、あたしはまだ、未婚です。彼氏も誰もいません。そうなると、二重太鼓という結び方は、間違いなんですか?」

「おう、間違いだ。其れは一寸気を付けた方が良いな。着物は、既婚者と未婚者で、かなり違うからな。二重太鼓じゃなくて、ほかの結び方をすること。其れを守れば、生意気とは言われない。そうだな、例えば文庫とか、立矢みたいな、そういう結び方をして、今度はお稽古に参加するんだな。」

と、杉ちゃんが言うと、彼女は、又困ったような顔をする。

「あのう、文庫とは何でしょうか。」

「ああ、文庫というのはね、蝶結びみたいな結び方の事をそういうの。本を開いたように見えるから、そういう名前がついたんだ。」

「もしあれなら、文庫結びで検索してみたらどう?ネットにたくさん載っているはずよ。」

と、咲が助け舟を出した。急いで彼女は、スマートフォンを出した。咲が、文庫帯結びで検索してみて、と、彼女に言って、その通りにすると、確かに、蝶結びのような結び方の帯結びの写真が現れた。

「でも私、帯結びができないから、作り帯にしてもらうしかなくて。」

と、彼女は言った。

「はあ、その時、呉服屋に、作り帯にしてもらうときに、文庫にしてくれって頼まなかったの?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、作り帯にしてくれって帯を持っていったら、二重太鼓っていうんですか、その形で帰ってきたんです。」

と、彼女が言った。なるほど、着物の帯結びは、もう二重太鼓しか決められていないようになっているらしい。老婦人であれば、それで間違いないのだが、若い人には、二重太鼓という結び方は適さないのだ。

「そうなのね。その時に、どんな形にするかとかも、聞かれなかったの?」

咲がそう聞くと、

「はい。言われませんでした。私は、帯結びなんて、其れしかないと思っていたので、疑わずに契約書にサインしてしまいました。」

と、彼女は言った。

「そうですか。それでは、まるで若い奴は来ないでくれとでも言っているような感じだな。本当はそんなことないんだけどね。二重太鼓が、帯結びのすべてではないんだけどなあ。それで、なんでも正しいと思ってしまうようだけど、本当はもっとバリエーションが在って、楽しい世界なんだぜ、着物ってのはな。」

「確かに、若い人が取り組もうとすると、一寸入れないのが困ったところよね。日本の伝統は。其れは私も、そうだと思うわ。着付け教室に通うとか、そういう事をすると、変な扱いをされて、肝心の

ことは学べないってことは結構あるのよねえ。余分なものを買わされたり、着物のサークルみたいなものに、無理やり入らされたりしてさ。」

杉ちゃんと咲は、そういう風に、出来るだけ軽い気持ちで言うように言った。そうしないと、日本の伝統の世界にとどまらせるのは、難しい気がした。今は、日本の伝統何て、まったく触れなくても生きていくことができる。其れは、何かきっかけがないと、とどまることをやめて、平気でやめてしまえるということになる。

咲は、生徒が減ってしまうのは、悲しいことだと思った。其れは単に金儲けのためということではなくて、伝統文化に触れ続けてほしいという気持ちでそういうのであった。

「まあそれでは、確かに、伝統文化の世界は、こういう風に、敷居が高いという気持ちになっちまうよな。でも文庫だって、作り帯にちゃんとできるから、心配しないで。通信販売でも、呉服屋でもなんでもいいから、安い袋帯を一本買ってこいや。あ、名古屋帯はダメだよ。文庫が作れるのは袋帯だけだぜ。」

と、杉ちゃんは、そういうことを言った。多分、カールおじさんの店でも紹介するのかなと蘭は予測したが、咲がすぐにタブレットを取り出して、

「ああ、それではすぐ買っちゃいましょ。通販という手もあるでしょ。店に行って、又傷つくより、

通販で買って、楽しく買い物した方がいいわ。袋帯とインターネットで検索してみてよ。たくさん出てくるはずよ。」

と、彼女に勧めた。彼女も自分のスマートフォンを出して、検索欄にいそいで袋帯と打ち込んだ。確かに、その通りにすると、きれいな金銀入りの袋帯が、いろいろ出てくる。確かに数万するものもあるが、中には、1000円とか、2000円とかで買えてしまう帯もある。

「これがいいわ。」

と、彼女は、青に金を入れた、袋帯の画面を指さした。青というのもまた珍しい。青は、なかなか見られない、貴重な色の帯である。青に金で羊歯模様が入れてある。羊歯模様というと、比較的古典柄でもあり、縁起のいい柄の一つでもある。値段は、1000円、税込みでも1100円だった。急いで、彼女はそのサイトの注文ボタンを押した。

「じゃあ、帯が届いたら、持ってきてくれ。それを、文庫結びの作り帯に仕立て直すからな。」

と、杉ちゃんが言った。彼女はありがとうございますと言って、うれしそうな顔をする。

「あ、あの、仕立て直しって、いくらするんでしょうか。其れを教えてくれませんか。それはやっぱり、お支払いしないと。」

と、彼女は急いで財布を取り出そうとするが、

「いやあそうだな、材料費だけ払ってくれれば、それでいいや。」

と、杉ちゃんは言った。

「おい、蘭。腰ひも二本と金具にするためのハンガーと、あと糸一巻きでなんぼになる?」

「えーと、」

と蘭は、急いでスマートフォン電卓アプリを起動させる。

「腰ひもは、400円、ハンガーは、100円ショップで買えるし、糸も100円ショップで買えるよな。だから、ちょうど千円になるかな。」

「じゃあ、千円。それでいい。」

と、杉ちゃんは言った。杉ちゃんというひとは、何でこういう風に金儲けとか、そういうことには縁がないんだろうと蘭は思う。

「それでいいんですか?」

と、彼女はそう聞くと、杉ちゃんはいいよといった。彼女は、急いで杉ちゃんに1000円札を渡した。

「じゃあ、帯を持ってきてくれたら、それを文庫に仕立て直すよ。必ず持ってきてね。」

にこやかに笑ってそういう杉ちゃんに、彼女は、大変うれしそうな顔をした。良かったわね、ひとみさん、咲もにこやかに笑っている。ちょうど、お昼を告げる鐘の音がしたため、咲とひとみさんは、そろそろお暇しますと言って、椅子から立ち上がった。杉ちゃんたちは、彼女たちが帰っていくのをにこやかに見送った。

「しかし、杉ちゃん。」

と、蘭は、杉ちゃんに聞く。

「なんで1000円でもうよいとしてしまうんだ?せめて、ほかの金額をとっても良かったじゃないか。」

「ああ、だって、誰でもそうだけど、伝統文化は金持ちの老婦人のものになっちまってるだろ。其れは、いけないよな。」

杉ちゃんに言われて、蘭は、はあなるほどねえと思った。杉ちゃんも杉ちゃんなりに、考えているんだなと思った。




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文庫結び 増田朋美 @masubuchi4996

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