モラトリアム人形

Barufalia

モラトリアムの俺達

 仕事終わりの夕暮れ。俺は同僚たちと軽く挨拶を済ませ、疲れた足取りで帰路に着いた。

 今日もまた、無事仕事を終えることが出来た。安堵感で思わず大きな息を吐く。

 別に特別な仕事など何もしていない。ただのデータ管理業だ。そんな大層なことを口走るような内容など、何一つとしてしてはいない。

 だが、俺は日々こんな壮大な思いを抱えながら仕事に向かい、無事仕事が済むことに安堵を覚えていた。

 ふとスマホを取り出すと、一通の着信があった。一人の少女からの、いつものような何気ない内容だった。そんな何気ないことでも、俺にとっては重要なことだった。


あれは、もう三年前の話になる。



・・・

 

「モラトリアム」。大学五年目に入った俺を形容するのに、最も最適な言葉だろう。そして、出来ればその言葉を知ることなく沈んでいきたかったものだ。


 社会人猶予期間。今の俺にとって大学はそのための場所でしかなかった。それを感じたのは四年のころだ。その時までは、俺は普通に就活もして、必要な単位も取って、卒論に手も付けていた。

 きっかけはもう思い出せない。ただ、ひたすらに恐怖を感じたのは覚えている。

 社会人というものは、これまで経験してきた生徒、学生としての存在とは一線を画すようなものに感じたのだ。およそ50年もそう生きていく必要があるのだ。

 そのステップは、俺にとってはまるで一度死んで、新たな責任や、能力や、居場所を与えられて蘇るようなものに感じられた。

 そう考えた時には、もう俺は留年を決意していた。

 簡単なことだった。ただ大学から距離を取ればいいだけだ。ほとんど完成していた卒論も、提出しなかった。当然卒業資格などもらえなかった。

 親に留年の事ともう一年通いたいことを説得するのはそれなりに骨が折れたが、バイトして学費を半分だすことを条件になんとか許しを得た。

 

 こうして俺はもう一年猶予を得た。またすぐにその時が迫る恐怖と戦うことになるだろうが、今はこの猶予を得られた喜びを感じていたかった。

 そうしていたかった。しかし、実際そうなったのはほんの三日程度だった。

 ふとした時に英語の勉強をしようなんて考えたのが間違いだった。そこに乗っていたのが「モラトリアム」だ。

 その時まで、俺はどういう立ち位置にいるのか把握することを意識的に除外していた。しかし、それを見た瞬間、その意味が俺みたいだと感じた瞬間、強烈な焦りが俺を包み込んだのだ。

 この社会から一線を引けていた空間が心地良いものであるのと同時に、自分がカテゴライズされているものに対して強い拒否感を示していた。

 友人はいないわけではなかったが、皆卒業してそれぞれの進路で頑張っていることだろう。それに、後半になってほとんど顔を見せなくなった俺のことは、最初は心配してくれたものの、既にその興味を無くしていた。

 どうしようもなくみじめな気持ちなのに、それを慰めてくれる人間も俺にはいなかった。正直何もしたくなかったが、この一年しか留年は認められていない。

 とりあえずせめて社会に出るなら大学卒業の肩書きくらいは欲しい。

 これ以上みじめになるのだけは嫌だ。その一心でなんとか気持ちを持ち直して俺は取り合えず大学に行く決意を固めた。

 

 ゼミはくくりとしては変わらず四期生と言うことになる。つまりは、一年年下のやつらと同じグループとなって活動するということだ。

 これ以上は嫌な気持ちになりたくないと思った矢先に随分と大きな洗礼をくれるものだ。いきなり引きこもりたくなる気持ちだったが、その中に一人、見覚えのある人間がいるのに気付いた。

 彼女は柊瑞葉。前から確かゼミの仲間だったはずだ。しばらく会っていなかったから一瞬わからなかったが、間違いなかった。

 つまりは、彼女も留年しているということなのだろう。それも、わざわざ四年の時に。

 人間は仲間というものがいると途端に元気になるものだ。世界に取り残された虚無感から解放されたとでも言おうか。とりあえず彼女の存在のおかげで、なんとか俺は引きこもりという思考から脱却することに成功した。なんともひどい話だ。

 彼女も俺の存在は比較的好意的に見ていたらしい。彼女も気持ちは同じだった。大きくいえば社会に出たくない。同じモラトリアム人間として、必然的に俺たちの距離は縮まっていった。

 

 五年目だけあってバイトや必要な授業を受けても俺たちには十分すぎるほどの時間があった。俺たちはその時を少しでも長引かせようと、この気持ちを少しでも忘れようと、出来るだけ同じ時間を共にした。

 やりたいことは大体やった。年相応に色々とはしゃいだものだ。思えば異性との交流もほとんどなかったものだから、その時間を取り戻すように片っ端から行動していった。

 意外な共通点から関係をもった俺たちだったが、付き合ってみるとその時間はとても有意義なものだったように思う。迫る時を忘れるように、俺たちはその時間をひたすら大事に思っていた。その考えが、俺たちの距離を縮めるのに役立ったのだろう。

 残念なことがあるとすれば、彼女と逃げ続けることを選択したせいで、結局社会に出る覚悟を全くできなかったことくらいか。


「社会に出なければいけない。そんなことは頭で

 は十分理解してるはずなのに。なんでこんなに

 も恐怖を抱くことがあるんだろうな」

「さあ、それを乗り越えていない私にはいいアド

 バイスなんて出来ないと思うな」

「・・・そうだな。きっと、俺は社会に必要とさ

 れないのを恐れてるんだと思う。社会という第

 二の人生は、ある意味免罪符だ。学生生活とい

 う一度目の人生で失敗しても、まだ社会ならや

 り直せるかもしれない。そう思えれば今の生活

 を極端に悲観することはない」

「・・・確かにそれは言えてるかもね」

「でも、社会に出ても誰からも必要もされなくな

 ったら、社会に必要な人間に慣れなかったら、

 もう逃げ場はない。ずっと、自分でありながら

 自分ではない何かとして生きていかなくちゃな

 らない。それが、俺は怖いんだと思う」


 ある時、俺たちは社会への思いを吐露することにした。気づけばもう在学期間は三か月に迫っていた。否が応でも、その時は来ようとしていた。逃げ場のない社会が。

 口を閉じた後、俺たちにしばらく静寂が訪れていた。瑞葉は俺の言葉をよく咀嚼するように何か考えているようだった。

 そして彼女は、笑顔を俺に向けて口を開いた。


「私は君のこと、必要にしてるんだけどな・・・

 難しいものだよね。社会って」

「・・・今、なんて言った?」

「え・・・・?」


 雷にでも打たれたような、衝撃が俺を襲った。それは、これまで完全に俺を殻に閉じ込めていた何かを粉々に砕いたような気がしていた。

 社会に踏み出すのに、覚悟なんて初めから必要なかったのかもしれない。ただ自分を必要としてくれる人間がいてくれるなら、それだけでも前を向くには十分すぎる。

 

「瑞葉・・・俺もお前のことが必要だ。だからこ

 そ、俺は社会に出る。お前のために、前に進み

 続けて見せる」

「・・・始めて君のことがかっこいいなんて思っ

 ちゃたな。私も、頑張ってみるよ。いつまでも

 閉じこもってたら、笑われちゃうもんね」


 その日から、社会から逃げるための俺たちの恋は、社会に向かうための準備へと変わった。実際にやってみるとそれはそれは難しいものだ。それでも、互いに励ましあって何とか卒業して就職までこぎつけた。

 あれだけ恐れた第二の人生は、もう目の前に迫っていた。


「・・・こわい?」

「怖いに決まってるだろ。あんなに逃げてたん

 だ」

「正直だね。でも、おかげで私も素直に怖いって

 言えるよ」


・・・


 瑞葉とはしばらく会わないことにした。五年後の28歳になった時、まだお互いのことを必要としていたら、その時は・・・そう約束した。


 三年経った今でも、社会への恐怖は消えていない。重圧というのは中々慣れないものだ。

 でも、もう恐れて立ち止まってはいられない。

 彼女のために、俺はこの恐怖と希望の間で踊り続けよう。例え誰から笑われようとも、瑞葉は、俺を必要としてくれて、俺もまた、彼女のことを必要としているから。

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