カラガシン

 かつて西日本のある地域に、非常に古びた寺があった。しかし加速していく森林開発の影響からはその由緒ある古寺も逃れることはできなかった。

 ある日、開発の下見に向かっていたある作業員が奇妙なものを見た。長い石段を登り切った先に見える荘厳な佇まいの寺の裏側、今になってはとうに人の手など加えられるはずもない、百足が躍っているような薄闇に、それは微かに顔を覗かせていた。それは下等な作業員が目視してから通り過ぎれる程そこらにあるものではなかった。

 「何だ……これ………」

 普段家と工事現場を行き来しながら、監督に頭を下げる毎日を送っていた彼には、その存在はにわかに信じ難いものだった。


 それは巨大な穴だった。


 枯れ葉の重なったじめじめとした湿地に、空間が歪んだかのように不自然な暗黒が広がっていた。

 男はしばしそれを見たまま体を硬直させていた。こんなものは見たことも聞いたこともない、と男は思った。

 男はそれから、冷静になってこの穴について考えた。まずすべきは穴の深さの確認だろう、男はそう思い、小石を手に取って穴に向かって落とした。案外、深さはそうでもないのかもしれない。

 しかし、男の予想は外れた。石が穴の底に落ちる音は待てども待てども聞こえてこなかった。聞き逃したか、そもそもここまで届かないような小さい音だったのかもしれないと、もう二回り大きな拳大の石を落としてみた。男はその音を聞き逃すまいと耳を澄ませたが、やはり、音はしなかった。



 男はその日の仕事を早めに終わらせて、さっさと家に帰った。あの穴のことは上司にも同僚にも言わなかった。男は今の生活に飽き飽きしていた。ゆえに、今日のことのような非日常的なことを欲していた。

 翌日は休日だった。男はどうしてもあの穴を調べたいと思い、起きて早々家を出た。こんなに朝早くから外出するのは久々だった。

 男は早速作業に取り掛かった。家から持ってきた紐に石を括り付け、頑丈に縛った。紐は工事に使うような、かなりの長さがあるものを持ってきた。これならばそこの深さが分かるだろう。男は意気揚々とその紐を穴に吊るした。

 予想外のことが、起こった。穴はその紐をすべて飲み込んでしまったのだ。すべてとなると、この穴の深さは1500メートルを超えることになる。非日常的なことを欲していた男でも、さすがにこれはおかしいと思った。

 男は家に帰ってから何とかあの穴を使って何かできないだろうか、と考えた。人に聞く事はしたくないし、どんな本にも巨大な穴のことは書いていなかった。

 調べていく内に、段々と失意の念が積もった。あんなに巨大な穴があっても、何の役にも立たないのではないか、そう思った。

 ふと、ある本の表紙が目に入った。本棚の奥にあった、男もとうの昔に忘れていた本だ。

 男は昔、学者を目指していた。最も、それを叶えるには幾分か学力が足りなかったから、今こんな生活を送っているのだが。大学でその研究をしたこともあったから、その方面については人より詳しいつもりだった。

 本の表紙にはこう書いてあった。


 「**県立地学研究所 論文一覧 199*年~200*年

  地質調査依頼は***-**-****まで」


 その研究所は男が大学生だった時に贔屓してもらっていた教授が後に建てた所だ。あの教授のつてをたどれば、人に知られたくないという男の希望も通りそうだった。



 依頼してからは話が早かった。

 男が昔教授に贔屓されていたこともあっただろうが、何よりその調査依頼の特異性が原因だろう。研究所の所員も気分が高まっているようであった。

 調査にはかなり大型の機器が使用された。聞くと、それは研究所でも最大のものらしい。男は会社にばれたらまずいからと、できるだけ早く終わらせるように言った。

 調査結果はまたしても衝撃のものだった。研究所をもってしてもその深さは分からなかった。


 この結果を知って大層驚いたあるずる賢い所員が、この穴を有効活用する方法を男にそっと教えた。

 その方法とは、この穴を国に売ることだった。


 聞くとこの穴の深さは、たとえそれが通常人体に害を及ぼすような危険な代物でも、この穴に入れさえすればその影響は全くなくなるという程の深さらしい。つまり、例えばウランやプルトニウムなどの放射性物質をこの穴に捨てると、毎年議論されている原子力発電による環境問題なんかは簡単に解決してしまうのだ。

 男はそれを聞いて歓喜した。そんなものなら、自分にどれだけの金が入ってくるか、想像するだけで疲れた。



 実際に売却するのは、買い取り金を山分けするという条件でその所員がすべてやった。詳しくは聞かされなかったが、どうやらその界隈には顔が広いらしい。任せているだけで莫大な金が入ってくるというのだから、男は気分が良かった。

 男はその金をどう使うか綿密に考えた。まずは家だ。今の床や壁が軋むようなアパートは引っ越して、首都圏のタワーマンションに住む。一生遊んで暮らしても使い切れないほどの金だったから、仕事も辞める。家事もやめる。金で女を誘おうかとも思ったが、孤独に余生を過ごしたかったからやめた。


 男は幸福だった。





 かくしてその巨大な穴には国にとって不都合なもの、例えば溢れるプラスチックごみなどが次々と捨てられていった。もはやそれは国にとって無くてはならないものになっていた。長年のごみ問題は思わぬ方法で解決した。

 政府はこの不可思議なもののことを永らく最重要機密事項にしていたが、その状態も長くは続かなかった。民衆が急激にごみの排出量が減少したことに疑問を持ったのだ。

 無論政府は感づかれぬよう尽力していた。が、それも虚しいほどにこの穴の影響は凄まじかった。

 しかし、こんな非現実的な方法でごみ問題を解決していたことを知った民衆の反応は意外だった。秘密が暴かれた当初こそ困惑の空気に包まれたが、それも時間が経つにつれて薄まっていった。

 一般人にも広まった穴の存在は少しずつ存在意義が変わっていった。

 これまでごみの処理場だったものが人々のあらゆる不満の受け皿になった。絶対に見られたくない手紙や、果ては大量の死体まで、この穴に入れさえすれば決して見つかることはなかった。穴の深さの調査も同時に行われたが、依然として底があるかないかさえも分からなかった。

 しかしもはやそんなことはどうでも良くなっていった。嫌なものを無限に捨てられる場所があるのだからそれでいいじゃないか。民衆の考えは固まり、生活も豊かなものになっていった。


 全てはあの穴のおかげだった。









 男はマンションのバルコニーで優雅に寝そべっていた。こんなにいい生活が始まってから数年が経った。あの穴には感謝しても感謝しきれない。隣に置いてある上等のワインを飲みかけのグラスに注いだ。


 その時、男の隣で物音がした。何かが落ちたような音だった。何だろうと思ってそれを探した。瞬間、男は視界の端にわずかに見覚えのあるものを見た。


 それは間違いなかった。


 穴の深さを調べるときに落とした、拳大の石だった。


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