第10話 God Save The Queen

 レイカさんもきっと心配しているだろうことは簡単に想像できた。

 先週の金曜日、あたし1人でレイカさんの所に行ったときのレイカさんの様子はやっぱり少しおかしかった。じゃなきゃエリに断りもなくエリのプライベートなことを話したりはしないだろう。少なくともレイカさんがそういうことをするタイプだとは思えなかった。


 次の金曜日まで少し日が空いてしまう。

 レイカさんに何も伝えないわけにはいかないから電話でエリは大丈夫だってことと細かいことは次の金曜日に話すと伝えた。


 その後はエリとトレウラの話をしながらエリのお母さんが用意してくれた紅茶とお菓子を美味しくいただいて、それから帰ることにした。


 エリの部屋のドアを開けると、エリのお母さんと外国人の男の人が立っていた。あたしはびっくりして一歩後ずさる。



「あ、ごめんなさい。この人がどうしてもアカネの友達…神城さんに一目会いたいって言うから…。」



 エリのお母さんが男の人の方を向く。あたしもつられてそちらを見る。



「こんばんハ。エリザベスの父デス。アナタが、エリザベスのオトモだちデスか?」



 見た目よりもずっと優しい声だった。



「エリザベス…?」



 エリのお母さんのことだと思った。



「あなた、ダメよ。この子、小学生の頃のことがあってから、学校の子たちには知られないようにしてるんだから。」



 エリのお母さんがお父さんを叱る。



「オゥ。ごめんネ。でも、神城サンはそんなこと気にするような子ニハ見えナイデス。」



 エリのお父さんは申し訳なさそうに頭をかいた。



「ちょっと待って。なんで、エリザベスって呼ばれてるの?」



 あたしは振り返って、エリに訊いた。



「わたしのフルネーム『桜澤・エリザベス・朱音』って言うんだ。」



 エリは恥ずかしそうに言った。



「ワタシの母国の女王陛下と同ジ名前デス。」



 そう言ってあたしに向けてウインクした。エリのお父さんはお国柄なのか相当にお茶目な人みたいだ。つまり、エリはイギリスと日本のミックスで、本名が『桜澤・エリザベス・朱音』ということか。



「じゃあ、あだ名の『エリ』って…?」



「うん、エリザベスのエリ。お父さんはアカネよりエリザベスの方が呼びやすいんだって。小学校の時は桜澤・エリザベス・朱音って普通に名簿にも書いてたし、自分でも名乗ってたんだけど、それで結構嫌な思いをしたから中学からはパパとママが学校にお願いしてくれて、名簿とかは全部『桜澤朱音』にしてもらったの。エリっていうあだ名だけは残っちゃったけどね。」



 エリがいじめられていた、と言うレイカさんの話を思い出した。エリの言う嫌な思いというのはきっといじめのことだろう。



「パパには本当に悪いんだけど、できればあまり知られたくないなって…だからナナカも内緒にしてて。」



 エリは、お願いするように手を合わせた。


 今日は色々なことがあったけど、ある意味で1番驚いたことかもしれない。

 後になって聞いたことだけど、エリの髪はもっと明るい色で、目の色も碧いらしい。それをわざわざ黒髪に染めて、カラーコンタクトで黒目にしているんだそうだ。そうまでして目立たないようにしているということだ。嫌な思いをしないために。


 あたしは、エリとエリの両親に遅くまでお邪魔してしまったことを詫びた。


 エリのお父さんはあたしを家まで送ってくれると言ったが断った。なんとなく1人で歩いて帰りたい気分だった。お母さんには学校を出るときに遅くなると連絡してあるから今更急いで帰る必要もないだろう。


 1人で歩いていると色々なことが頭を駆け巡った。感情の浮き沈みが激しい1日だった。それでも最後に残ったのはエリの笑顔とまたエリと一緒に過ごせるという安堵だった。



 翌日、エリは約束通り学校に来た。

 エリカがエリに何かするようなことはあたしが見る限りなかった。


 1つ大きな変化があった。

 エリはそれまではあたしのことを気にしてか、あたしの周りに人がいるときはほとんど話しかけてくることがなかった。だけど、この日は朝一番に「おはよう。昨日はごめんね。」と話しかけてきた。とても自然だった。あたしはそれが無性に嬉しかった。


 それ以降も、もう鬱陶しいくらいに「ナナカ、ナナカ」とあたしの周りに付きまとって一緒に行動するようになった。もちろん全く嫌な気はしなかった。だけど、そのおかげであたしの周りにエリ以外誰も寄りつかなくなっていることにしばらく気がつかなかった。


 気がついたのは、5時間目の授業でグループになって話し合った結果を発表しなさいという課題が出たときだった。


 すぐに同じグループの女子があたしを無視していることに気がついた。あたしが意見を言っても反応しない。普段仲良く話している子もあたしとは目を合わせない。朝は普通に話していたように思う。いつのまにか無視が始まっていた。


 授業が終わってから確かめてみると、なるほど、あたしが近くに行くと話しかけられないように離れる子、大きな声で話し出し話しかけるなというオーラを出す子、それぞれ方法は違うが、あたしを遠ざけているようだった。


 きっと、エリカの根回しだ。それならそれで構わないと思った。どうせもうすぐ卒業だ。同じ高校に進学する子はあまりいないだろう。


 エリも薄々は感づいているようだったけど、何も言ってこなかった。あたしの方からもそれに触れることはなかった。


 友達は、エリだけで十分だと思った。


 学校はもともと退屈だった。だけどこれからは毎週金曜日にレイカさんのスタジオでベースが弾ける。そのことを考えるだけで顔がにやけるのがわかる。まだまともに弾けるわけではないけど、あたしはすっかりベースと音楽に魅了されていた。楽しみで仕方がなかった。

 エリにはすごく感謝している。


 そして、金曜日の放課後。

 エリと初めて行って以来、エリとレイカさんのスタジオに2人で行くのは2回目だった。前回と同じようにエリが、インターホンを勢いよく押す。



「はいは~い、もうスタジオにいるから降りておいで。」



 元気のいいレイカさんの声が響いた。


 玄関横の階段を降りてスタジオに入る。ドアを開けるとレイカさんは体育祭の日と同じように小さなアンプに腰かけていた。それを見てあたしは借りて帰るのを忘れていたことを思い出した。



「いらっしゃい。アカネ~~。日曜日はどうしたのさ。体育祭終わったら来るんじゃなかったの?電話にも出ないで。ナナカも心配してたよ。もちろん私も。私に心配かけるなんていい度胸してるよ〜。」



 そう言って笑うレイカさんはとても嬉しそうだった。言っていること自体は責めるてるようだが、声はどちらかというとおちゃらけていた。



「ごめんなさい。色々あって…わたしはもう大丈夫なんだけど…これ…。」



 エリはカバンの中から折れたスティックを取り出した。



「折れちゃった…ごめんね、レイカさん。せっかく借りてたやつなのに…」



 エリは折れちゃったと言った。折られちゃったとは言わなかった。エリの優しさと強さが表れているような気がした。

 エリが言い終わる前にレイカさんは豪快に笑った。



「あははははは。そんなの気にしなくていいんだよ。スティックは消耗品なんだから。またあげるからさ。まぁどうせ、あんたのことだ、練習のし過ぎで折っちゃったんでしょ?それともどこかにぶつけて折れちゃった?」



 ドキンと心臓が鳴る。レイカさんにはまだ体育祭の日に何があったかのか伝えていない。



「ううん。違うの。レイカさんに前に話したことあったよね?その、わたし学校で浮いてるっていうか…。」



「あんたがいじめられてるって話?」



 レイカさんの顔から笑みが消え真面目な顔になる。遠慮がちなエリとは対照的にレイカさんには遠慮がない。



「そんなにはっきり言われるときついけど、うん。そう。それで体育祭の日なんだけどわたしリレーで転んじゃって。それでクラスが優勝できなかったんだ。」



 レイカさんは腕を組んで黙って聞いていた。

 あたしも時折頷くだけで黙っている。



「わたし遠山さんって女の子と絶対にリレーで勝つって約束してたんだよね。だけど、転んじゃったから、だから…その…遠山さん怒っちゃって…。」



 正しくは脅されて、約束させられたのだと思うけど黙っておく。



「それで?」



 レイカさんは優しく先を促した。



「うん。それで体育祭が全部終わったあと遠山さんに呼び出されたの。話があるって。遠山さんに呼び出された場所まで行ったら、いきなり倒されて…。殴られたり蹴られたりした。酷いこともたくさん言われたけど、我慢してたら終わるって思って、ただ時間が過ぎるのを待ってたんだ。そのうち遠山さんたちは疲れたみたいで静かになった。」



 淡々と話すエリの表情からは感情を読み取ることができなかった。時折苦笑いのような泣き笑いのような表情を見せることはあったけど、怒りや悲しみといった感情を感じさせないようにしているようだった。



「そうか。それは、大変だったね。転んじゃったあんたが1番悔しいはずなのに殴られるなんて理不尽だ。私がその場にいたらその遠山って子にきつく言ってやるんだけどね。」



「ありがとう。しばらく何も起こらなかったから、今日のところはこれで終わりかななんて思って顔を上げたら遠山さんはわたしのバッグを持って立ってた。それでドラムのスティックを取り出してなんだこれはって。気持ち悪いとか言われて…。」



 そこまで言ってエリは下を向いて黙ってしまった。レイカさんも何も言わずに黙っている。


 時計の秒針が刻む機会的な音だけが室内に響いていた。

 あたしにはどうすることもできない。ただ、エリがどうするのかを見守るしかできなかった。


 しばらくしてエリが意を決したように顔を上げた。



「ドラムスティック、レイカさんに貰ったドラムスティック、折られちゃった。それで捨てられちゃったの。わたし一所懸命探したんだけど見つからなくって、事務の先生に帰りなさいって怒られたから…諦めた訳じゃなかったんだけど…でも、ナナカが見つけてくれたんだよ。わたしよりも真っ黒になって見つけてくれたの。だから、その…つまり…壊れるまで練習できなくてごめんなさい!!」



 エリは一気に捲し立てた。考えをまとめる前に感情的に溢れ出るままを表現した言葉は、さっきまでの無感情なエリとは全く違っていた。怒りも悲しみもそして、喜びもごちゃ混ぜになった無茶苦茶な言葉だったけど、あたしには響いた。レイカさんにだってきっと響いたに違いない。

 言葉よりも先に意味が伝わるような感覚。魂の叫び。



「事情は良く分かったよ。あんたはよく頑張った。」



 レイカさんはそれだけ言って、エリを抱きしめた。

 あたしは1人取り残されたような気になって、もじもじしてしまう。


 なんとなく2人を見ているのが気まずくなって、さっきまでレイカさんが座っていたアンプに目をやった。よく読めばそこには黒地にピンクの字で『Tre UNLine』と書かれていた。エリに教えてもらったエリの大好きなバンド。



「あ、あのロゴ。レイカさんもトレウラ好きなのかな。」



 声に出すつもりはなかったが、思わず口をついてしまった。



「ん〜?なに?ナナカ。」



 そう言ってレイカさんは抱きしめていたエリを離した。あたしは少しホッとしていた。



「あ、いえ。アンプのステッカー。トレウラのだからレイカさんも好きなのかなと思って。」



 レイカさんとエリは顔を見合わせると稍あって同時に吹き出した。



「ナナカ…レイカさんはね、トレウラのドラマーだよ。」



 エリは笑いながらそう言った。

 トレウラのドラマーがレイカさん…?というのはどういうことだろう。そういえば、エリの部屋で見たポスターに写った女の人の1人がレイカさんに似ていたような……。目の前のレイカさんを改めて観察してみる。髪型こそ違うが、よくよく思い出してみればあれはレイカさんだった。


 レイカさんはお腹を押さえて笑っていた。



「え~~!!?レイカさんって芸能人なんですか?」



 あたしは驚いて頓珍漢なことを言ってしまう。



「芸能人といえば芸能人かもしれないね。けど、私の顔を見て分かる人なんてほとんどいないんじゃないかな?もうだいぶ前にバンドは活動休止してるしね。」



 ようやく笑いが収まったのかレイカさんはいつもの冷静な調子でそう言った。



「わたしは、見てすぐに分かったよ。」



 エリが横から自慢げに言う。



「あんたは異常だよ。まぁ、たしかに私はトレウラのドラマーだけど、その辺はあんまり気にしないでよ。」



 まだ頭が混乱していた。なんでそんな人が今、目の前にいてドラムやベースを教えてくれるというのか、理解が追い付かない。



「レイカさん、大丈夫、大丈夫。だってさ、ナナカはトレウラ知らなかったもんね。」



 エリはいじわるにそう言った。レイカさんは、なぜだか嬉しそうに微笑んでいた。


 エリの言う通りあたしにとって、レイカさんが何者かなんてどうでもいいことだった。トレウラのドラマーだろうがなんだろうが構わない。毎週ここでエリと一緒に音を鳴らせる、レイカさんに教わりながら音楽がやれる、それで十分だった。



「びっくりです。あたしいつかトレウラの曲も弾いてみたいです。」



 思いついたことをそのまま口に出す。あたしにしては珍しいことだと我ながら思った。



「お、嬉しいこと言ってくれるね。それならしっかり練習しないとトレウラの曲はなかなか難しいよ。」



 レイカさんは満更でもなさそうだ。



「まずは曲聴かないとね。CD貸してあげるから。」



 エリもレイカさんに負けないくらい嬉しそうに言った。さっきまでの神妙な空気はいつのまにかどこかに消えていた。



「あのね、借りるんじゃなくて買ってね。私の収入になるんだから。」



 レイカさんは腰に手を当ててそう言うと今度は改まってお辞儀をした。



「改めまして、これからあなたたちにドラムとベースを教えます。秋光伶花あきみつれいかです。よろしくね。」



 急な挨拶に戸惑ってしまったがあたしもエリもそれぞれ姿勢を正してレイカさんに挨拶をした。



「神城七夏です。こちらこそよろしくお願いします。」



「桜澤エリザベス朱音です。よろしくお願いします。」



 2人揃って丁寧に頭を下げた。




「エリザベス…?」



 レイカさんが首を傾げる。



「あ、言ってなかったっけ?わたし本名は桜澤エリザベス朱音って言うの。隠してた訳じゃないんだけど、ごめんね。」



「エリザベス、カッコいいじゃん。そうか、だからエリなわけね。謎が解けたわ。なるほどね〜。今更だけどさ、ナナカのコウジロっていうのはどういう字を書くの?」



 よく訊かれる質問だから答え慣れていた。



「神様のお城でコウジロです。」



「なるほどなるほど。じゃあ今回のことはまさにGod Save The Queenってわけだ。」



 あたしもエリも意味が分からず顔を見合わせる。



神城神さまエリザベス女王さまを救ったんでしょ?ただの言葉遊びだよ。」



 あたしとエリはほとんど同時に吹き出した。くだらないダジャレだとは思ったけど、最高だ。

 だけど、本当は違うとも思った。あたしもエリに救われた。何をどう救われたのか説明するのは難しいけど、そんなふうに思う。



「そうだね〜。せっかくだからナナカに基本的なことを教えたら、最初に演る曲はピストルズのGod Save The Queenにしようか。」



 異論なんてない。大賛成だ。

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