第15話 お守り
間島くんを家まで見送り、彼が無事に家の中に入っていくのを見届けても、私はそれで全てが終わったとは思えなかった。家の中にいても命を落としてしまうような出来事は起こりうるし、そうでなくてもなんだか胸のうちがざわついて仕方がなかった。
――こんなにあっさりと人の生死が覆ってしまっていいの?
私の中ではそんな言葉が渦を巻いていた。
これまで私が歩んできた人生を通して、「死」というものは誰もが避けることの出来ない人生の最終到達点だと言うことを知った。死に向かう経緯は異なれど、人は誰しも必ず死ぬのだ。そして、今回の間島くんに関わる繰り返しを通して、人の死はあらかじめ定められた運命なのだという、半ば諦めに近い考え方が芽生えつつあった。
だからこそ、今回は彼に直接死の運命を伝えるという最終手段を取り、これでどうにもならないのなら人の手には余るものなのだと手を引くつもりでいた。
けど、上手くいった。最後までどうなるかはまだ分からないが、なんとなくここまで来たらもう大丈夫なんじゃないかとも思いつつある。
そしてそれがあまりにもあっさりとしたもので、それが逆に恐ろしくあった。海が大荒れするまえには、それをまるで感じさせないかのように海は一度穏やかになると聞く。今、私達が直面しているこの状況も、そうじゃないのかと思えてならない。
根拠はない。ただ私の直観が警鐘を鳴らしていた。
「私の考えすぎなら、それでいいんだけど……」
一方で、「間島くんが助かった。それでいいじゃないか」と訴える自分もいる。
私の身体は疲れていた。繰り返しが起こる度、身体の状態は毎度リセットされるため肉体的疲労はなかったが、身体の中はそうもいかない。精神は何度も彼の死を目の当たりにしたことで、私の考える以上に摩耗していたようだった。彼を家に送り届けたことで、肩の重荷が下りたような気がしたのだ。
気がつけば、あの交差点まで来ていた。
間島くんはここで何度も命を落としてきた。今回は通らないという方法でそれを回避する事が出来たが、彼が何かの間違いで今日ここを通ることがあれば容赦なく命を奪いにくる見えない死神がいるんじゃないかと思える。
深く考えずに家に近い道を通って来てしまったが、別の道を通れば良かったな……。
けれど今さら引き返して別の道を通るのも面倒だ。私は立ち止まって信号が変わるのを待つことにした。
信号が変わる。しっかりと左右を確認して、それから私は足を動かした。
一歩足を踏み出した途端、私は言い知れぬ不安感に襲われた。
……なんだろう。嫌な感じがする。
私は思わず鞄に付けているおばあちゃんのお守りを手で握った。こうするとおばあちゃんが私のことを見守ってくれているような気がして心が落ち着く。
――さっさと渡っちゃおう。
歩く足を速める。
そして、私の感じた嫌な気配は実体を伴って私の前に現れた。
一台のトラックがこちらに向かって走ってくるのが見えた。言うまでも無く、車道側の信号は赤。普通なら停止線手前で止まるためブレーキをかけ始めるものだが、そのトラックの速度は落ちる様子がない。それどころか早くなっているようにも見えた。
幸いと言うべきか、彼我の距離はまだ十分にあった。今から何かしらの回避行動を取れば衝突は避けられる。来た道を引き返そうとも思ったが、このまま前に進んで横断歩道を渡りきってしまった方が早い。行動を決め、足を動かそうと――
「ああっ!」
焦る余り、地面に躓いてしまった。何もない地面でどうして、と足下に目をやると、何か固い物がぶつかって削れたような小さな穴があった。私はそれに足を取られたようだ。
それに気づいた時点で、私は身体のバランスを崩していた。前方に倒れつつある身体を支えるものは何もなく、無情な物理法則に従って私の身体は運動を行う。
――そういうことか。
死が目前に迫り、私の思考回路は焼き切れんばかりに最大出力で火花を散らし始めた。
あまりにも簡単すぎると思った。ただ通る道を変えるだけで人が死から逃れるだなんて、そんな上手くいくはずがない、何か私の知り得ない裏があるんだと思った。
その答えは単純だった。
今日死ぬ筈だった間島くんの代わりに、私が死ぬ。だから彼は助かった。単純な計算。一人の代わりに、別の一人が死ぬ。それが誰であろうと、数の上ではなんら代わりはない。それがこの世界を作った神が定めたルールなんだ。だとしたらなんて残酷なせ世界なんだろう。……けど、それも仕方がないのかも。もしかしたら、私が繰り返しなんて不可思議な力を持っているのも、その力を使って間島くんを助けて、そして死ぬのも、最初から決まっていた変えることの出来ない運命だったのかもしれない。……運命なら、しかたないよね。
数瞬先に訪れる運命を受け入れるため、私は目を閉じ、それからぎゅっとおばあちゃんのお守りを握りしめた。
そして――
「藤崎っ!!」
私の名を呼ぶ声がした。かと思うと、前に倒れる筈だった私の身体はグイッと後ろに引っ張られる。真っ暗な世界の中、額のわずか前方を巨大な質量体が高速で過ぎ去っているのを感じた。風が起こり、ブワッと髪がなびく。目を開いてみると、トラックはすでに通り過ぎ、私は横断歩道の中腹に立っていた。
何が起こった?
周りを見渡すと、私の後ろには見知った顔があった。
「あっ、ぶなかったぁ! にしてもあのクソトラック、いったい何考えてんだ!? 見てないのか、信号!?」
私の腕を掴んだままの間島くんは、遠ざかっていくトラックを睨み付けている。トラックに対する悪態をつくと、今度は私の心配を始める。
「それより、大丈夫!? 怪我とかない?」
「…………」
「手とかぶつかってないよね? 見た感じだとどこにも怪我はなさそうだけど……って、やばい信号がまた変わっちゃう。とりあえず、こっち行こう」
彼は半ば強引に私の手を引っ張り、横断歩道を引き返し始めた。私は手を引かれるまま彼の後に続いた。私達が歩道に戻ると、信号は赤に変わった。
「――ねえ、大丈夫だよね? さっきから何も言わないけど……」
「……どうして?」
「ん?」
「どうして……ここにいるの?」
私が訊くと、彼は少し照れくさそうにして笑った。
「どうしてって、聞かれると難しいんだけど……なんていうか、嫌な予感がしたんだよ。家に帰って、部屋の中にいたら、どうしてか分からないけど誰かに頭の中で囁かれるような、不思議な感じがして。それで、悪いとは思ったけど藤崎の後を追ってきたんだよ」
「家にいろって言われたけど、出てきてごめん」と彼は少しバツの悪そうな顔する。
「――けど、正解だったな。あのままじゃたぶん、藤崎がトラックに轢かれてたし。……きっと神様が知らせてくれたんだな」
「……そんなはずない」
「え?」
そんなことがあるわけがなかった。
「神様がそんな優しいはずがない」
「けど、じゃあなんで僕たちは無事なの?」
彼は言う。
「神様が人に優しい存在でないなら、僕たちはさっきトラックに轢かれててもおかしくなかった。でも、実際はそうならなかった。それは神様のおかげってことじゃないの?」
「違う。そんなはずがない」
だってもし仮に神様が人のことを考えているなら、もっと簡単に事は済んでいたはずだ。それに、それだったらおばあちゃんの病気だってなんとかなったはずだ。だけど、そうはならなかった。神はおばあちゃんのことを見放した。……だから、そんなはずがない。
いるかも分からない神に怒りを抱き、思わず私は両手を握った。そして気がつく。
「……あれ?」
強く握った手の中に違和感がある。おばあちゃんのお守りを握っていた方の手だ。お守りは間違いなの握った手の中にあるのだが、何かが変だ。
手を開いてみる。
ずっと握りしめていたことで袋にしわが寄ってが、見たところ何かが変わった風には見えない。
「それ、大事なものなのか?」
手のひらに乗ったお守りを見て、不思議そうに間島くんが訊いてきた。
「うん……」
「どうかしたの? もしかして、壊れたとか?」
「そうじゃないと思うんだけど……」
「一応確認してみたら?」
「そうだね」
勧められるがまま、私はお守りの口を開いてみた。今まで明けて中身を見たことはなかった。お守りは明けたら効果が無くなってしまうというらしいが……。
開けた口から中を覗いてみると、お守りの中身は小さな長方形上の木の板だった。それを手のひらの上に出して見る。
真ん中から二つに折れたと思しき木の板が二片出てきた。折れ目を合わせてみると一致した。これが違和感の正体だった。元々は一つだったものが、二つに折れ、それで感触が変わったんだ。
「あー、完全に折れてるね」
それを見て、間島くんが言った。
「けど、そのお守りは無事に役目を果たしたってことだね」
「役目?」
「うん。神様のおかげじゃないっていうなら、きっとそのお守りが守ってくれたんだよ。……あれ、でもそれって結局――」
私は手のひらに乗せた、今はもう壊れてしまったおばあちゃんのお守りを見る。そして、もう一度それを強く握りしめた。
――そっか、おばあちゃんが。おばあちゃんが間島くんに知らせて、私を助けてくれたんだね。……ありがとう、おばちゃん。
「間島くんも、ありがとう」
そう言って彼に向かって頭を下げる。彼は突然のことにすこし戸惑っていた。
「いや、別にそんな。そもそも礼を言うのは僕の方で……あ、ほら信号変わったよ」
照れ隠しなのか、間島くんはそう言って青に変わった信号に話題を逸らした。
そして、もう一度横断歩道を見る。今はもう、さっき感じた嫌な感じはしなかった。
「送るよ」
間島くんはそう言った。
けど、私はそれ断った。
「大丈夫。きっともう大丈夫」
「でも」
「忘れてない? 間島くんもまだ安心するには早いんだよ? 本当は家を出るのも控えて欲しいっていったよね」
「それはそうだけど……」
間島くんはそれでも食い下がろうとしたが、私の思いが伝わったようで、
「……わかった」
とおとなしく引き下がってくれた。
「けど、気をつけてね」
「うん、分かってる」
「じゃあ、また明日。藤崎さん」
「うん。また明日、学校で」
それから私は横断歩道を渡った。今度は途中で転ぶことも、信号無視した車が突っ込んでくることもなく、無事に向こう側まで渡りきる事ができた。後ろを見ると、横断歩道の向こう側で間島くんがまだこちらを見ていた。彼が手を上げる。それから彼は踵を返した。
「間島くん!」
気がつけば、私は背を向けた彼にそう声を掛けていた。私の声に彼は振り返る。
「――明日からは、藤崎、で。呼び捨てでいいから! 本当はずっと頭の中でそう呼んでたんでしょ!」
少し前から、何度か彼が私のことをそう呼んでいたことに気がついていた。いつもは「藤崎さん」と呼んでいるが、咄嗟の時には「藤崎」と呼んでいたから、本当は頭の中でそう呼んでいるんだと思った。
間島くんは少し驚いたようだった。
「……わかった! じゃあ、その代わり、藤崎も僕のことは呼び捨てでいいからさ」
私はそれに笑って応えた。
そして今度こそ私たちはそれぞれの家路に着いた。
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