第11話 最悪な日のはじまり
その日の始まりは最悪だった。数日前から読み始めた小説が思いの他面白かったせいで寝るのが遅くなり、目覚まし時計に叩き起こされた。
「……うるさい」
目もくれず、時計に腕を伸ばして耳障りな騒音を止める。
そのまま二度寝を決めようと布団をかぶり直してから今日が平日であることを思い出した。ゆっくりと、未だ睡眠を欲する身体を律してのそのそと布団から這い出る。
カーテンを開くと明るい光が私を迎えた。
「……っ」
陽光の眩しさにおもわず目を瞑る。
私は目覚ましの時間を比較的早くにセットするようにしていた。朝起きて登校するために家を出るのが八時なら、朝の支度の時間に一時間かけると仮定して、さらにその一時間早くに目覚ましをセットする。つまり今は朝の六時。
部活動に所属しているわけでもないからそんなに早く起きる必要はないけど、私はそうしていた。意味はある。そうすることで万一繰り返しを行った際、使える一日の時間が増えるからだ。
気を抜けば布団に戻ってしまいそうな身体に鞭を打つと、洗面所のひんやりとした冷水で鈍った感覚を目覚めさせ、リビングで母が入れてくれたブラックのコーヒーで内側からも覚醒を促す。
やっと頭が冴えてくると私は、今日の新聞を開いて1面に目を通す。
『通り魔 5人が死傷。犯人自殺』
大きな文字でそう書かれた見出しが一番に視界に飛び込んでくる。その記事から目を逸らし、私は他の記事を読んだ。
それから母が用意してくれた朝食を食べ、登校時間が近づくと私は「いってきます」と家を出た。
この日の天気は快晴。雲一つなく青々とした空と光を放ち続ける太陽だけが上空にある。けれど、すっきりとした空とは対照に私の心と足取りは重かった。
それも全て、あの新聞記事のせいだ。記事の中身までは見てないが見出しだけでそれがどんなものか分かってしまった。新聞社の工夫の賜物だろうが、見たくも無いものを見てしまった私としては良い迷惑だ。
思わず足下に転がる石ころを蹴飛ばす。石はころころと転がっていき、やがて道路の側溝に落ちて見えなくなってしまった。
「ああもう……」
――どうして私はこんなに心を乱されているのだろう。
原因はわかりきっている。あの新聞記事を目にしたせいだ。
――私にはどうしようもないことがあることは、分かってる。
自分のことなら簡単だ。繰り返せばいい。そうすれば簡単に変えてしまうことができる。
だが、自分以外のこととなると違う。他人の行動に大きな影響を与えることは難しい。私はそのことをこれまでに身をもって知った。だが、理解する事と実践することは違う。
だからこうして、自分とは全く関係のない人の死を知り、心を乱されている。
幼い頃の私はそれこそこの力を使えば何でも出来ると思っていた。たとえ一回失敗しても、その日を何度も繰り返してしまえば何回か目には失敗も成功に変えられた。ある種の全能感に似たものが私の内にはあった。たぶんあの頃の私は、周りから見たら嫌なやつだったと思う。
そして、私が小学四年生のとき、おばあちゃんが死んだ。病気だった。まだ七十になったばかりだったおばあちゃんは、前触れのない病魔の手にかかってこの世を去った。
おばあちゃんが死んだその日、学校から帰ってきた私はその知らせを聞いて泣いた。そして、もう一度その日をやり直そうとした。
けれど、おばあちゃんは死んだ。母に黙って学校を休み、一人おばあちゃんの家に向かった私の前で息を引き取った。何度繰り返しても、おばあちゃんの死は変わらなかった。
その時初めて私は無力感に包まれた。なんでも出来ると思っていたが、そうじゃなかった。人の死という運命には逆らえない。もしかしたらおばあちゃんの死因が、病気ではなく他の外的要因によるものであれば違ったのかもしれないが、そんなものは確かめようがない。分からないことについて考えても意味はない。
私が人の死に対して人一倍敏感になったのはそれからだった。テレビやニュースで人の死が私の目の前に現れる度に、おばあちゃんの影が現れて私のことを無力感が包み込んだ。今でもそうだ。見ず知らずの遠い他人の死を知っただけで、名状しがたい気持ちに襲われる。
そのたびに私は「どうしようもない。それが運命だったんだ。それに、すでに昨日の出来事だ。何度繰り返しても昨日には戻れない。誰にもどうすることもできないことなんだ」と、自分で自分にそう言い聞かせ、おばあちゃんから貰った手製のお守りを握りしめた。
今にして思えば、私が周りの人と積極的に関わらなくなったのはそのことも関係していたのかもしれない。もし自分の知っている人が死んでしまったら、きっと私は耐えられないから。
学校に着く頃にはなんとか無力感から脱することができた。
クラスメイトたちから漏れ聞こえる無邪気な会話が、朝から摩耗した心には丁度良かった。
心が落ち着くと、今度は一度は追い払った筈の眠気が再び勢力を増してくる。そのせいで授業中は居眠りしてしまわないように気を張っているので大変だった。
何でも無い日常が、なんでもないことのように過ぎ去っていく。朝の気分の悪さとは異なり、この日の学校は平和そのものだった。とくに大きな事件が起こるわけでもなく、私が眠気と戦ってウトウトしている間に時間は過ぎていった。
あっという間に六時間あった授業は全て終了し、教室の教壇の上には担任の先生が立っていた。いつもは長く感じる学校だが、眠気に抗って過ごすと瞬く間なのだと新たな境地に目覚めつつある私をよそに、
「――それじゃあこれで帰りの会を終わりにする。気をつけて帰るように。部活に行く生徒は怪我しないように気をつけろよ。はい、じゃあさよなら」
と。先生の言葉でその日一日の学校が終わりを迎えた。
出来ることならこのままこの場で眠ってしまいたいという衝動に駆られたが、流石にそれはまずいと私の中の理性が仕事をした。机の横に掛けておいた鞄を手に、教室を出た。
「ふあぁ、眠い……」
湧き上がったあくびを噛み殺さずにそのまま吐き出す。一度表に出すと、それは際限なく湧き続けた。
どうしてこんなに眠いのだろうと考える。
もちろん根底の原因は昨日の夜更かしであることに間違いないけれど、それにしても学校に来てからというもののより一層睡魔が力を拡大した気がしてならない。けどまあ、それも全ては私の気の持ちようなんだと思う。学校を退屈だと思うからそうなってしまう。現に、周りのクラスメイト達はいつも楽しそうにしている。……いや、授業中はそうでもないか。一部の人を除いて、授業中は私も含めてみんな退屈そうだ。
学校を出てからそんなどうでもいいことに脳の領域を割いていると、唐突にキィーッと音がした。かと思うと、それから二度、ある程度の質量体が何かにぶつかった音が聞こえてきた。
気づけば、もやのように頭を包んでいた眠気は消え去り、私は音の正体を確かめようと身体を動かしていた。身体に汗が滲むのを感じる。これは身体を動かしたことに起因するものか、あるいは……。
音のした現場はすぐに分かった。私の家から少し離れた交差点だった。最初の甲高いブレーキ音のようなのを発生させた原因と思われるトラックが、歩道に乗り上げて止まっていた。
私と同じように音を聞きつけて来たのか、すでに人が集まりつつあった。私と同じ制服を着た、同じ中学の生徒も中に見える。近づくと、彼女達の話す声が聞こえた。
「……あそこに倒れてるのって、二年の間島先輩じゃない……?」
「えっ、マジ? ってか知り合いなの?」
「知り合いっていうか……家が近くで、小学校のとき同じ登校班で……」
間島?
その名前には聞き覚えがある。確か同じクラスに間島俊というクラスメイトがいたはずだ。話したことはないが、よく何か言いたげな視線を私に向けていることがあり記憶に残っていた。その彼が、倒れている?
私はそれを確かめようと、壁となっている人をかき分けてその中心に進んだ。集まった野次馬たちは事故の現場を中心に円状に集まっていたようで、数人をかき分けるとすぐにその中の有様が視界に飛び込んできた。
「どうしようどうしようどうしよう……」と携帯を片手に右往左往するトラックの運転手とおぼしき男性と、その側に、赤黒い血溜まりの上で寝そべる制服を着た男の子が見えた。ここからではそれが誰であるかは視認できない。
私の心臓はバクバクと大きな音を立てていた。うるさいくらいに自分の身体の中から心臓の鼓動が聞こえた気がした。けれど、自分でも意外なことに頭は冴えていた。
一度、大きく息を吸い込んで肺の中の空気を入れ換えると、私はゆっくりと倒れた人へと近づいた。
「お、おいっ!」
誰かのそんな声が聞こえたが、構わず私は倒れている人へと近づいた。その人が身に纏っているのは私と同じ中学校の制服。その身体の側には、その人のもとの思える学生鞄が転がっていた。口は半開きで、中から教科書やノートの類いが外に顔を出している。
私はその一つを手に取った。裏返してみる。
裏表紙の下の方に「2-2 間島俊」と律儀にボールペンで記名されていた。
間違いない。倒れているこの男は同じクラスの間島くんだ。
それから私は彼の身体を見た。……胸は動いていないように見える。そして次に、彼の腕を取る。私が少し力を入れると、彼の腕はだらんと持ち上がった。冷たい。生きている人にあるべき体温が感じられない。恐る恐る、手首の辺りに指を回す。
…………脈がない。
目の前の現実が私に告げる。同じクラスの男子、間島俊は死んでしまったのだ。
そして気づけば、私の身体はベッドの上にあった。見慣れた自室の天井が私の視界に映っている。
身体に掛かった布団を払いのけて上体を起こし、ベッドの脇に置いてある目覚まし時計を乱暴に掴む。
7月4日。その日付は昨日のもの。正確にはついさっきまでのもの。つまり繰り返しが起こったのだ。
「やっぱり最悪な一日だ……」
両手で膝を抱え、ベッドの上で私はそう呟いた。
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