第6話 彼女はアイドルらしい 2

「――それじゃあこれで帰りの会を終わりにする。気をつけて帰るように。部活に行く生徒は怪我しないように気をつけろよ。はい、じゃあさよなら」


 先生のその声で帰りの会が終わると、教室内は騒々しさを取り戻した。

「部活行こうぜー」

 連れだって部活動に向かう運動部や、

「あー部活めんどくせー」

 そう言ってギリギリまで教室で時間を潰している運動部、

「ゲーセン行くか」

 と友人を誘って教室を出て行く帰宅部。

 普段なら僕も帰宅部らしくすぐに学校を出て行くのだが、この日だけは違った。僕は次々と人が減っていく教室に留まっていた。藤崎の方を見ると、彼女も席に着いていて一向に動こうとしない。他に人がいなくなるまで待つということなのだろうと、テストも近いから待ち時間を有意義に使おうと、社会の教科書を開いて目で文字を追うことにした。

 …………全然頭に入ってこない。目は紙の上を滑り、紙の上に書かれた内容を咀嚼することができない。

 原因は分かりきっている。藤崎のせいだ。どんどん人が減っていく教室で、彼女と二人きりになるのと待っているせいで、どうしても気が散ってしまうんだ。変に緊張してしまう。

 緊張のせいか急にトイレに行きたくなってきたぞ。どうしようと、周りに目を配るとまだ数人が教室に残っている。当然藤崎もいる。……先にトイレに行っとくか。

 僕は椅子を引いて席を立った。すると途端に藤崎が僕の方に顔を向けた。彼女は一瞬「えっ」と驚いたような顔を見せた。僕が約束を反故にして帰ってしまうとでも勘違いしたのだろうか。すぐに僕の荷物が机に置かれたままなことに気がつくと藤崎はホッとしたようだった。


 用を足してトイレから戻ると、教室には藤崎しか残っていなかった。


「間島くん」


 藤崎が席を立って僕の名前を呼んだ。


「ついてきて」


 僕はてっきり、この教室でアイドルオーディションに関係する何かを見るのだと思っていたが違うみたいだった。教室を出て行く彼女の後に僕は続いた。

 放課後の学校は静かなものだった。通り過ぎる教室からは人の気配を感じず、僕と藤崎の足音がやけに大きく聞こえる。遠くからは吹奏楽部の練習する音が小さく聞こえ、開いた窓からは運動部の掛け声や、カンッと野球部のものと思われる鈍い金属音が時折聞こえた。

 藤崎はどこに向かってるんだろう。

 昇降口で靴を履き替え外に出る。唐突に教室に置いたままの荷物が少し心配になった。

 誰かに盗まれたりしないだろうか。

 ……いや、盗まれて困る物が入っているわけでもないんだけれど。自分の物が失われてしまうのは何であっても気分は良くない。例えそれが使い古した消しゴムの1つでも。


 藤崎は迷うことなく学校の敷地内を進んで行く。そして体育館の裏まで来るとようやく足を止めた。

 そこは体育館の影になっていて何だかひんやりとした空気が漂っていた。向かって右は体育館、左はフェンスの壁があってその先は雑木林が広がっている。


「大丈夫ここ。誰か来たりしない?」


 確かにここなら周りの人の目は届かない。しかし、だからこそ僕は心配になった。こんなところに二人でいるところを誰かに見られたら、変な噂を流されかねない。


「大丈夫。大きな声を出したりしなければ誰も来ないから」


 藤崎はそう言い切った。妙に自信のある言い方だった。

 それでも僕は不安を拭いきることができなかった。何事も絶対なんてことはない。例えば、僕たち二人がここに来る姿を誰かに見られていたら……。

 気が気でない僕をよそに藤崎は靴紐を固く結び直したり、足や腕を伸ばしたりとストレッチを始めた。それが終わると彼女は懐から携帯電話と、一対のワイヤレスイヤホンを取り出した。


「あ、それ」


 学校に携帯電話を持ち込むことは校則で禁止されている。僕がその事を指摘しようとすると、「バレなきゃいいの。それとも間島君はそんなことをいちいち先生に言いつけたりする人なの?」と悪びれる様子を見せることなくそう言った。正面切って堂々と言われると、正しいはずの自分が何だか悪い気がしてきて「いや……何でもない」とつい引き下がってしまう。


「はい、これ」


 そう言うと藤崎はワイヤレスイヤホンの片っぽを手のひらに載せて僕に向かって差し出した。彼女の手からそれを摘まみ上げると、彼女は自分の耳を指で示す。付けろということらしい。僕はそれを右耳に付けた。まだ音楽は流れていなかった。

 

「私が合図したらこの再生ボタン押して」


 藤崎は左耳にイヤホンの片割れを付けながら、そう言って僕に携帯電話を渡した。彼女の携帯の画面には今巷ではやっているアイドルグループの楽曲とジャケット写真が表示されていた。

 藤崎は僕から少し離れて、靴をトントンと地面に数回打ち付ける。そして一度大きく深呼吸すると、


「いいよ」


 それから僕は再生開始ボタンを押した。

 僕の右耳から聞き覚えのある音楽が流れ始める。テレビのCMに起用されているやつだ。

 音楽の再生と同時に藤崎は足を、手を動かし始める。藤崎が動く度に、彼女の黒髪が、制服のスカートが動きの軌跡を残す。彼女が右に動けば左に、上に跳ねればそれに追従して流線状の軌跡が生まれる。

 藤崎の肌に汗が滲み始めていた。耳元で流れる音楽がサビにさしかかる頃には顎先から汗の粒が地面に落ち、動きながら肩で大きく息をしている。

 彼女が用意した音源はショートバージョンだった。けれども、約1分半もの間止まることなく踊り続けた藤崎は息も絶え絶えに、「……どう、だった……?」とタオルで汗を拭いながらそう訊ねてきた。


「…………」


 僕はなんと言おうか迷った。それから少しだけ考えて、僕は言った。


「良かったと、思うよ。所詮は素人の感想だからアテにはならないだろうけど。藤崎さんの頑張りが伝わってきて、良かったと思う。うん」

「……そう」


 それからまた少しして藤崎の息が落ち着いたのを見ると、携帯とイヤホンを彼女に返す。藤崎は受け取った携帯で時間を確認すると、何かをたしかめるように小さく頷いた。


「――じゃあ、戻ろっか。教室」


 そして僕たちは教室に戻り、二人で学校の校門をくぐった。どちらから言い出したのでもないが、自然と二人で下校する流れになっていた。聞けば藤崎の家も僕と同じ方向らしく、成り行きでそうなった。わざわざ別々に帰る理由もなかったから。


 帰り道、僕と藤崎の間に言葉は少なかった。一言二言何か言った気はするが、大した内容はなかったからあまり覚えていない。たしかさっき流れたアイドルグループについてだったような気がする。僕が名前くらいしか知らなかったせいで全然広がらなかったけど。

 僕から何か話を振ろうともしたけど、それはできなかった。どうしてもさっき藤崎が見せてくれたダンスのことが脳裏に焼き付いて、他のことを上手く考える事ができなかった。

 それが顔に出ていたのか、横断歩道で信号が変わるのを待っていると藤崎が言った。


「……さっきのダンス、ヘタだったでしょ」

「え」


 思わず藤崎の顔を見る。


「そ、そんなことないよ。さっきも言ったけど、僕は全然ダンスとかに詳しくないからちゃんとした感想を言えなかっただけで……」

「いいよ、気を遣わなくて」


 藤崎は笑った。


「あれでも結構練習したんだ。けどやっぱり向き不向きがあるのかな、どうしても。あれが私の限界。私にアイドルは無理だね」


 そう言って藤崎は笑ったんだ。僕は何て返せばいいか分からず、つい黙ってしまった。

 そして横断歩道を渡り終えると、


「――ここまでくれば大丈夫かな……。じゃあ私の家こっちだから」


 藤崎はそう言って来た道を戻ろうとする。彼女の家はこっちじゃないのか。それなら、なんでわざわざ一緒に横断歩道を渡ったんだろう……


「帰り道に気をつけて。――っあ、あと、明日になってもこのことは誰にも言わないでね。他の人には秘密だから」

「あっうん。わかった。……じゃあ」


 僕はそれしか言えなかった。

 どんどんと藤崎の背中は遠ざかっていく。「私にアイドルは無理だ」と自分で言って笑った藤崎が、一人でその気持ちを抱えたまま帰っていく。二人で渡った横断歩道を、一人で渡って引き返していく。

 歩行者用信号が点滅を始めた。

 このまま時間が進めば数秒としないうちに藤崎と僕の間の道は経たれて、彼女は1人で行ってしまう。いいのか。それでいいのか。このまま何も言わないまま藤崎を帰らせていいのか。明日になってからじゃ遅いんじゃないか。藤崎がいつも授業中眠そうなのは、ダンスや歌の練習をしながらテストの成績も維持するために夜遅くまで勉強してるからじゃないのか。これまで誰にも言わなかった秘密を僕にだけ教えてくれたのに、このまま何も言わないままでいいのか。


 気がつけば僕の足は動き出していた。

 まだ間に合う。信号は赤には変わっていない。僕は遠ざかっていく藤崎に向かって走り出した。


「待って! 藤崎っ!」


 周りを歩く人が僕を見た気がした。離れていた藤崎も僕の方を見た気がした。

 そして、耳元で何か大きな音がした気がした。


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