007 月震
千明が研究所で装備の確認を行っている頃。
モントサフィール学園の講堂で、ひとりの女子生徒が悩んでいた。
「はぁ、やっちゃった……」
嘆息混じりに呟く少女は、アルティ・セイクリス。深蒼の髪にワインレッドの瞳、そして抜けるような白い肌を持った少女だ。
だが今はその整った相貌をわずかに顰め、鞄の中を睨んでいる。
「ア~ルティ! 一緒にご飯食べよ~」
そんなとき、少女の背後から能天気な声がかかり、背中にぽすんと衝撃を感じた。
後ろから抱きつかれたアルティは小さくため息を吐いて振り返って。
「キリア……」
「ん、どうかしたの?」
親友であり、恩人の娘であるキリア・ファルスマイアーのにこやかな深緑の瞳と視線があった。
「午後の講義で提出する課題を忘れたみたいなの。多分昨日復習していたときね」
この友人の態度はいつものことだと早々に諦めたアルティは、次第を告げる。
課題自体は休みの前日に終わらせていた。しかし、昨夜復習で取り出したときにそのままにしてしまったのだろう。
目を見開いたキリアは壁にかかる時計を眺めて。
「おぉ、それは一大事! でもまだ時間はあると。取りに戻るの?」
コロコロと表情を変える親友に毒気を抜かれたアルティは苦笑し、
「そうするわ。だから悪いけど……」
「うんうん、たまにはそういうこともあるって」
だが、キリアは気遣わしげな表情を浮かべ、
「……前みたいなことがないように、気を付けてね」
数年前にアルティが誘拐されそうになったことを言っているのだろう。以降、それまで以上に気遣ってくれるキリアは、アルティの中で非常に大きな存在だ。
「……ありがとう。キリア」
返答の代わりに、緑髪の少女はアルティの肩に顎を乗せて、
(うん、やっぱり千明には勿体ないよ……)
「キリア?」
「ううん、気にしないで。いってらっしゃい」
アルティを解放し、ポンポンと肩を叩いて見送ってくれるキリア。
親友に手を振り、鞄を持って足早に講堂を出たところで。
「あらアルティ、ご機嫌様。慌ててどうしたのかしら?」
「エリス……」
また別のクラスメイト――エリス・スィアプロードと遭遇した。
最近クラスに編入して来た、見事な白髪の少女だ。アルティのものとは違う色合いの赤い瞳も相まって、良家の令嬢のような、ミステリアスな雰囲気の持ち主である。
向けられる笑みに、アルティは内心の動揺を何とか隠して。
「……部屋に忘れ物をしたみたいなの。だから今からちょっと、ね」
「まぁ、大変。気を付けていってらっしゃいな」
アルティは実のところ、この友人が苦手だった。
ことあるごとに向けられる観察するかのような視線。まるで自身を丸裸にされたような気分で、落ち着かないのだ。
「ええ、ありがとう」
言葉短にエリスと別れたアルティは、そそくさと学堂を後にした。
この学園は
学園の門の守衛に事情を話し、敷地を出るアルティ。
「少し、急がないと」
小高い丘の上に敷地を構える学園からは
結界の淡い光に照らされた街並みは、白く画一的なもの。だが、この街で育った少女にとっては見慣れた光景だ。
そしてアルティは、そんな街並みが大好きだった。
学園前広場で開かれる露店市場を抜け、通い慣れた喫茶店の横を足早に通過。商店街では、店員の格好をしたセレムレスが客引きを行なっている。
軽く息を弾ませた少女は、やがて自身の下宿部屋へと辿り着く。鍵を開けて中へと入り、目的のものを探し始める。
物が整頓された簡素な部屋には、ベッドと机、幾ばくかの書籍と着替え。
「良かった。ここにあったのね」
そしてその机上には、提出予定の課題があった。ファイルに挟み鞄へと押し入れ、アルティは部屋を出る。
玄関を抜けるとき、下駄箱の上へと目を向けて、
「――行ってきます。お父さん、お母さん」
写真でしか知らない、幼い自身を抱いた両親へと声をかける。
部屋を出て鍵をかけたアルティは、元来た道を取って返す。往路で急いだ分、戻りは少しゆっくり歩こうと思って足を踏み出した矢先、
――大きな揺れが辺りを襲った。
「――きゃッ⁉」
咄嗟にしゃがみ込み、アルティは転倒を免れた。
しかし、揺れは収まるどころか逆に激しさを増していく。周囲の人々からも悲鳴が上がり、少女同様にしゃがむか、建物に掴まって堪えている。
短くも長い時間の後、揺れは唐突に治まった。
周囲の建物には亀裂が入り、石畳も各所が裂けている。少女は何とか自身の安全を確認して。
「一体何だったの……? 〈
アルティの知る限り、この規模の災害は過去に起きていない。あったとしても、月震という微かな揺れを感じる程度のものだ。
「……ともかく、学園に戻りましょう」
学園は、災害発生時の避難場所に指定されている。人が集まり始めると、戻るのに時間がかかってしまう。
考えをまとめたアルティは、立ち上がって学園へと駆け出し――
――眼前に発生した黒球が、少女の行手を阻んだ。
「っ――⁉ 今度は何なのっ⁉」
咄嗟に距離を取って身構えるアルティ。
目の前で黒球は揺らめいて消え、中から現れたのは――〈黒い異形〉。
三メルナを超える体高のそれは熊だろうか。両手に鋭い爪を持ち、〈青い目〉で周囲を物色するように見回し咆哮を上げる。
それは色こそ違えど、ニュクス・セレーネの人々が危険視する――
「――マガツキ⁉ 結界の中なのに⁉」
事態に気付いた住人たちが恐慌に陥り、場は一気に騒然となる。混乱に乗じてアルティは、咄嗟に近くの建物の影へと身を潜めた。
だが、そんな少女たちを嘲笑うかのように、黒球が次々に出現。
数を、種類を増し、それらは街を――そして人々を傷つけてゆく。
響き渡る阿鼻叫喚に、赤いペンキのようにぶち撒けられる血潮。建物の外壁に刻まれた傷痕や破砕痕。
一瞬にして崩れ去った、人々の平穏。
身を隠したアルティは、震える手でポケットから通信端末を取り出す。誘拐未遂以降ヒューゴたちに持たされた、非常時用の備えだ。
救援信号を飛ばす対象は――自身を育ててくれた、ファルスマイアー夫妻。
本来であればアルティも霊奏術の使い手で、戦う術を持っている。だが、現実味のない悪夢のような光景に、
「うっ、ふ、ぐ……」
口元を押さえ、涙目で震えるしかできなかったのだ。
やがて辺りを蹂躙し尽くした異形たちは場を離れ、被害を広げてゆく。
ポツンと残されたアルティは、隠れていた物陰から恐る恐る顔を出して。
「――アルティ・セイクリスだな」
唐突に声をかけられた。
驚いたアルティは周囲に視線を走らせ、並び立つ一〇人の人影を認識する。相手は一様に青いローブをまとい、アルティを包囲していた。
硬直する少女を他所に、話しかけた男は懐から端末を取り出した。
「……情報通りだな。運がいい。我々と一緒に来てもらおう」
と何事かを確認し、おもむろにに近づいてくる。
「こ、来ないでッ!」
身の危険を感じたアルティは咄嗟に後ずさって手を翳し、制御陣を構築。
途端、周囲の人影が一斉に身構えて。
「相手は霊奏術師だ。抵抗するなら多少は痛めつけても構わない。決して殺すなよ」
無情に、宣言したのだった。
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