秋風が立つ

「ただいま」

「おかえり!」

 ドアを開けると、すぐに千香がリビングから出てくる。早歩きで駆けよってくるさまはまるで子犬のように愛らしい。

「どうだった? 上司さんとお食事……」

 かばんを一旦床に置き、腕を広げる。

「うん。少し肩」

「最低!」

 直後に聞こえる金切り声。同時に無理やり右を向かされる。普段の戯れに染まった声音ではない。びりっと壁が振動する。

 かじかんだ手を頬に持っていく。そこは随分と熱くなっていた。

「本当は誰と会ってたの? たばこの匂い、いつものと同じだよ! こうやって遅く帰ってくる日と同じ!」

 千香の顔は見えない。見ない。だがきっと大きな目から大粒の涙を零し、赤い唇を震わせているのだろう。その剣幕は『毎回同じ上司と食事だった』が通じようもない。

「私、知ってたよ。ううん、真奈美が気づかせようとしてたんだよね! だって匂いだけだもん! 酷いよ!」

 千香の叫びを聞きながら、ずっと斜め下を見る。淡いベージュのフローリングに、小さな埃が落ちている。

 熱かったはずの頬は、痛みだけを残して冷えていく。

「真奈美が隠し通せないわけないじゃん! スマホのメールもメッセージも残ってないし、連絡先で増えたのは取引先の男性だけだし! なのに! なのになんでたばこの匂いに気づかないの? どうして隠し通してくれないの?」

「……ごめん」

「ごめんじゃない! 私が欲しいのはごめんじゃない! 今日だけって言ったよね? はーいって言ってたよね?」

 そんなことも言ったなと、あの日を思い返す。表情筋が死んだように動かない。左手も動かない。その態度を見て、千香の唇が震える。視界の端で微かにとらえる。

「相手は誰? 結婚式で出会ったんでしょ?」

「……あたし、レズじゃないよ」

「……え?」

「バイなんだ」

 その場に久しぶりに沈黙が訪れる。千香の体が固まったように動かない。真奈美の体も動かない。

「なにそれ!」

 次の瞬間、全てを理解した千香の怒声が耳を貫いた。左手が重力に従う。垂れさがる腕に痛む頬。右を向いたままの顔。千香の涙。埃。

 分離したままのそれらは決してまぐわうことはない。

「意味わかんない……、ずるい、ずっとずるいよ、真奈美は……」

 千香の荒い息が聞こえる。一方で真奈美の吐いた息は恐ろしいくらいに落ち着いていた。すっかり勢いを失った千香の嗚咽が廊下に染みていく。

 そっと顔を上げて、千香の姿を見る。酷く小さかった。元々華奢な体格をしているが、今はそれ以上に細く小さく見える。綺麗な瞳を何度も擦っている。明日赤くなってしまう。

 そうやって千香を見ていると、潤んだ瞳に睨まれた。

「出てって。真奈美の顔見たくない。帰ってこないで!」

 弱い力で叩かれる。抵抗もせずにいると、あっという間に玄関の外に押し出された。廊下に置いたままのかばんを投げつけられ、無慈悲にドアが閉まる。鍵の音とチェーンロックの音がした。

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