光陰矢の如し #3
広く静かな鍛錬場に響く小さな嗚咽。ひとしきり泣いたあとで、木刀を支えに立ち上がる。
泣いていたところで、今を悲観していたところで、どうにもならない。死にたくなければ――強くなるしかない。
そんな生活を丸三年。三年も続けていれば、さすがに父上の癖や斬撃の早さにも慣れてくる。前よりはいなせるようになったし、躱すことも出来るようになってきた。動体視力も鍛えられ、全ての攻撃が見切れるようになった――とはいえ、見切れたとて避けられねば意味などないが。
しかしまあ、当たり前のように身体中は傷だらけになったし、手のひらは固く、厚く、タコだらけになり、大型のネコ科のようなしなやかさと強靭さを感じさせるような、我ながら立派な筋肉が、身体をおおった。胸に発育し始めたふたつの膨らみがなければ、局部を隠していれば、女とは到底思えぬ身体だ。いや、胸とて胸筋と偽ってしまえばどうにかなるかもしれん。現に今、社交界デビューを控えてはいるものの、面識のある貴族たちはいるわけで。その貴族たちのほぼ全てが俺を男と認識している。
当たり前だ。髪を短く刈り、硬い、剣士特有の手のひらを持ち、そしてなにより、男の服に身を包んでいるのだから。分かれという方が無理がある。
しかし、俺は男として生きねばならぬのだから、それでいいのだろう。これで間違えてはいないのだろう。これから胸はもっと膨らむだろうし、骨格や体格、声から女と隠せぬ日は必ず来るのであろうが、今はこれでいいのだ。
閑話休題。そこからさらに二年経ち、俺の齢が十に至った頃、稽古で使用されていた木刀が、真剣へと変わった。いよいよ俺を殺す気になったのかと思ったが、その頃にはそんなことどうでもよくなっていた。
何故なら、父の攻撃は全て読めるようになっていたのだから。
どの角度から打つか? 打撃の次は? 斬撃の踏み込み具合は? これはカウンターが出来る。だがさらにカウンターが来るな? しかしカウンターをさらにカウンターで返された時はどうか?
全て理解していた。もはや髪の毛一本すらも、父に切られることはなくなっていた。むしろ、そう、むしろ、俺は父相手に手加減をし始めていた。
攻撃が当たらず、返され、いなされ、全てが通用しなくなった父は、相当に焦っていて、それが酷く矮小な存在に見えた。そんな父に、一度だけ反撃をしたことがあった。自分なりに手加減をして、腹に中段蹴りを叩き込んだ。一発。たった一発。それも手加減をした、たかが十歳のガキによる反撃。それでも尚、父は避けきれず、受けきれず、まともに受けては、いつかの俺のように、膝を着いて激しく咳き込んだ。この時、気付いた。
俺は、軽く撫でてやるだけで、父を殺せる。
同時に思う。なんて、弱く、脆く、儚く、哀れなものかと。忌み子鬼子と謗り虐げてきた相手に、妻の仇という、憎む大義名分は十二分にある相手に、こんなにもあっさりと、こんなにも簡単に、懐を取られるのか。
こんな風に、敵の目の前で膝を着いて両手を腹に当て蹲っていたら、簡単に首は取られるだろう。そんなことが分からぬ馬鹿でもあるまい。つまり、そうつまり、俺は勝ったのだ。この、独裁者に。支配者に。俺という存在を牛耳っていた、天下人気取りの男に。
この日から、父の稽古と称した暴力はなくなった。死体にたかる死蟲を見るような目もなくなった。代わりに向けられるようになったのは、恐怖と畏怖。
父と刃をかわすと、必ず首を取れるようになった。もちろん比喩だが。これが戦時中なれば確実に首を跳ねている。そんな稽古にすらならぬ肩慣らしの日々が数日続いた頃、俺の部屋を珍しくも訪れた父が、低く感情の読めぬ声でこう告げた。
「貴様に、もう稽古は要らぬ。教えられることはない」
言うだけ言ってさっさと出ていった父を、無感情に閉められた扉を見て確信する。
俺は、地獄を乗りきったのだ、と。
それからは、ただひたすら技を練習し、魔術の訓練をし、剣を振るい、己の腕を磨き続けた。さすがに勇者なだけあって素質に恵まれているのか、書物の見様見真似でも技は会得できたし、魔術も使えた。振るい続けた剣は斬撃すら飛ばせるようになったし、朝から晩まで稽古をしていようが、体力も魔力も切れなくなった。そんじょそこらの騎士――いや、魔王にすら、負ける気がしなかった。
そんな日々を、早幾年。十八になった歳の春、俺は社交界へと連れ出された。言わば社交界デビューだ。
そしてそれはつまり、貴人として一人前と認められたということ。
長かった。
とことん軽量化に拘りながら実用性を損なわない、匠の技が光る洗礼鎧に身を包み、身の丈程もありながらしっかりと手に馴染む大太刀を背負って、剣士の装備と呼ぶには些か軽装すぎるほどの軽装で、黒いフード付きの外套を羽織りながら、俺は膝つきこうべを垂れていた。
「国王陛下より賜りしこの剣にて、さらに腕を磨き、必ずやかの魔王を討ち取ります」
もう、畏怖も侮蔑もどうでもいい。魔王のことすら今まで眼中になんてなかった。未来の敵より今の脅威。当然だ。
そして俺はその"脅威"に認められたのだ。『一人前の勇者』だと。それはすなわち、王国内で最強と、軍が束になってかかっても適わぬと、国王をもってして、『驚異になり得る存在である』と。そう認められた。つまり? そうつまりは、
誰も俺に敵いはしない。誰も俺に仇なすことはできない。誰の刃も俺の首には届かない。
俺は、生きた。生き延びた――やり遂げてやったのだ。
ああ、嗚呼! 長かった。今日に至るまで、本当に長かった!
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時は少しさかのぼる。これは俺が15歳くらいの頃の話だ。夜半に館自慢のローズ庭園を眺めていた。
ひら、視界の端で、その場にそぐわぬ黒いレースが舞った。それだけならメイドかなにかだと気にもとめなかっただろう。
それだけなら庭師がなにか夜半に手を入れて居るのだろうと見過ごしただろう。
「待て!」
ひらひら、ひら。黄金の髪を靡かせて、黒いレースのドレスをまとい、まるで花の園を踊る蝶のようなその少女。くるりと振り返ったその顔は、思ったよりも幼く人形のような双眸をしていた。
見惚れた、いいや、見惚れかけた。しかしここは我が庭園。部外者であるなら。腰の剣に手をかける。
「お前、気配がない。魔族……それも相当の上位だな?」
剣を抜いて鋒を突きつける。生ぬるい初夏の風が頬を撫で、一筋の汗が伝った。
「おかしな事を言う」
鈴を転がすような声で、少女は笑った。
「魔族だからなんだと言うのじゃ? 妾はこうして、花と戯れておるだけではないか」
ころころと、さもおかしいと言わんばかりに少女は笑う。その手にはいつの間にか赤いバラが一輪手折られていた。
「では聞くが、そこのそなた、そなたは人間であろ?」
「!? あ、当たり前だ! 俺は……!」
ふわりと、白魚のような人差し指が、俺の唇を縫い止めた。──早い、まるで見えなかった。まるで、反応できなかった。
「よいよい、皆まで言うでない。妾はただ、興味があっただけじゃ。そう、興味がな?」
「……興味……?」
「時にそなた、生娘であろう?」
「!? ば、や、なにを、俺は男だ!!」
「隠さずとも良い。妾にはわかる。それに男というならなおのこと……気になるのではないか?」
するりと、白い肩が露出した。赤いバラがはらりと舞って、金と赤。そして白と黒の織り成すコントラストが、俺の思考を停止させる。
「どうじゃ、一夜の戯れと興じようぞ」
「は……。た、戯れ……?」
頭がクラクラする。バラの香りのせいか? それとも、この女がなにか妖術を使ったのだろうか。
するりと首筋に腕が這わされ、いつの間にか鋒は地面とキスを交わしていた。
「勇者よ、名をなんと言う?」
パサりと、ドレスが落ちる音して。
「は……魔族に教える名などない」
「くはは!そうかそうか!では名前も知らぬもの同士……存分に楽しむこととしよう」
どさりと、いつの間にか俺はこの女に押し倒されていた。プチプチとリズム良く外されるボタンの音を聞きながら、初めて見る女体の美しさに惚れ惚れとしていた。
「!? ん、ぅ、」
「……ふ、ん」
ぽけっとしていたらこれまたいつの間にか唇と唇が合わさっていて、柔らかく湿ったその感触に、ブチりと何かが切れた音がした。
気が付けば俺は肩で息をしながら、金髪の女を組み敷いていて、ああどうしたらいいか分からない。でもそれでも、ただ、思った。
欲しい。
「ふふ、乗ってきたではないか。それでは改めて……名も知らぬ勇者よ」
「くそ、くそ……! これも魔族の術か……!」
「……そう思うならそれで良い。さ、楽しもうぞ。なあ?」
「夜が開けるまで」
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