第3話

「やるじゃん、お嬢様のくせに」

 小津は仕返しとばかりに舌をねじ込み、大型犬を愛でるようにわしゃわしゃと私の頭を撫で回したあと、指を絡ませて部屋を出る。

「……」

 階段を降りてすぐの場所にある――妙な気配を発する――リビングには、やはり意識が行ってしまった。

「今日ばっかりは、あのクズがクズで良かったなって思うな。世界から消えたところで一日じゃ誰も気づかないんだから」

 強引に視線を切らせるように私を引っ張った小津は、家を出てもその手を離さない。

 電車に乗り、ターミナル駅に着き、乗り換え、改札を出るときですら私の右手と彼女の左手は繋がっていた。

「じゃじゃーん、今日はここでお休みするよ~。現世の疲れも汚れも落とそうではないか」

「ここが……温泉?」

「あはは、本当の温泉行けると思った?」

 駅から十分程歩いた先には、どう見ても高層ビルにしか見えない建物しかなかった。

「いわゆるスーパー銭湯って言うのかな。でもね、設備は充実してるし、お湯だってちゃーんと温泉のやつなんだよ」

 小津は降りてきたエレベーターに慣れた手付きで触れ、止まることなく十階へ。

 入り口で靴を脱いでロッカーに入れた小津を真似て後に続く。鍵を手にすると受付へ。

「いらっしゃいませ」

「フリータイムで」

「ありがとうございます。ご利用方法についてご説明いたしますか?」

「結構でーす」

「かしこまりました。それではこちら館内着とロッカーキーになります。どうぞお寛ぎくださいませ」

 流れるように館内へと入れば、平日の夜でもちらほら人がおり雑然としていた。

「来たことあるんだね」

 失礼かもしれないが、見渡す限りハワイアンな雰囲気を孕んでいるこの建物は小津に似合わない。

「んーん。ここにきたのは初めて」

 小津は見透かしたように私の瞳を捉え、

「こんなところより下町の銭湯が似合っているって言いたいんでしょ」

 と、笑って言った。まだ彼女について情報を揃えていない私はどう返そうか逡巡したものの、口を開く前に小津が続ける。

「まっ似たような施設は腐る程あるしね。大事なのは応用だよ。それにさ、裏技って一回しか使えないものだし」

 いまいち要領が掴めないため「なるほど」などと適当に相槌を打ち小津の背中についていれば、縦長のロッカーが無数に並ぶ脱衣所に辿り着いた。

「さっ、まずはお風呂入っちゃおっか」

 指定されたロッカーを開ければ、小津はすぐさま全ての衣類を取っ払った。体には痣や切り傷と思われるものが無数にあり、家庭環境の劣悪さを物語っている。

「恭子の体、綺麗だね」

 恥ずかしがってしまっては負けたような気分になるので私も脱ぐと、小津は私の体を人差し指で弄びながら笑う。

「んっ」

 特に嫌な気持ちもしないため、されるがままにしておくと、不意に触れられた部分から甘い痛みが奔り思わず声が出てしまった。

「あはは、ごめんごめん。勝手に盛り上がっちゃった」

 タオルで体を隠すことなく浴室へ向かっていく小津に付いていくと、入り口にある部屋の看板が目に入った。

「あ、アカスリじゃん。私やったことないんだよねぇ。恭子は?」

「ないよ」

「じゃあやってみようよ」

「いや……私はいいかな」

 知らない人に体をベタベタと触られて垢をこそぎ落とされるなんて、想像するだけで気持ち悪くて鳥肌が立つ。

「ふぅん。どうせ死ぬんだしやってみればいいのに」

 アカスリを受ける前に湯船で体を温めておくのが基本らしく、体を洗った私達は炭酸泉に肩まで浸かった。

「「はぁ……」」

 快感の吐息が同時にこぼれる。

 大浴場に入るのなんて、中学の修学旅行ぶりだろうか。あの時はもっと人の目が怖かったし、ここだって赤の他人がいるのだから居心地は良くないはず。それでもプラスの感情が上回っているのは、小津のおかげかもしれない。

「あっ、私だ」

 一言も交わすことなく、私は瞼すら落として温浴を堪能していると、アカスリの部屋から何やら番号が呼ばれて、小津が立ち上がる。どうやらロッカー番号でいろいろと管理されているらしい。

「んじゃ、ちょっと行ってくるね」

「うん」

 私はそのとき、妙な違和感を抱いたものの、その正体が判明しないことにどこか確信めいたものがあったため、気にせず体を温め続けた。

 このままでは寝てしまうかもしれないな、なんてだらしない想像をしたところで、小津が踵を返して私の隣に戻ってくる。

「どうしたの?」

「ダメだってさ」

「ダメ?」

「うん。断られちゃった。体に傷が多すぎるって。外国の施術師さんだったんだけど、カタコトの日本語で必死にさ。あーあ、残念」

 なるほど。確かにこの――明らかに外傷の多い――体に圧を掛けて摩擦による施術をすれば、どこの傷がどんな風に開くかわかったもんじゃない。施術師の懸命な判断だろう。

「まいっか」

 それは本当になんでもないように、発せられた言葉。

「じゃあサウナ行こうよサウナ、もうすぐロウリュっていうのがあるんだって」

「うん」

 小津の発言によれば、彼女は人生でアカスリを体験したことがなく、明日死ぬんだしせっかくだから受けてみようとアカスリに向かったはず。

 それを断られ、本当になんでもないように『まいっか』で済ます。

 この『まいっか言葉』一つで、彼女は一体どれだけのことを諦めてきたのだろうと、邪推せずにはいられなかった。

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