第2話

「予定が狂っちゃった。まずは手を洗わないと」

 手を繋いで屋上から立ち去り、校舎内の一番近い水道に立ち寄る。

 父親の眼孔に突っ込んだという両手を洗い流した小津は「制服のはもう、こびり付いちゃって無理だねぇ」と笑った。

 紺色のブレザーは目を凝らさなければ汚れているかわからないものの、純白のシャツは罪を主張するように赤が目立つ。

「よし、着替えに私の家行こうか。恭子もそのままじゃダメだから、私の服を貸してあげる」

 言われて私達は、四十分を掛けて小津の家まで歩いた。本来なら電車を使う距離だろう。何故そうしなかったのか、私は小津に聞かなかった。

「お邪魔します」

「どうぞどうぞ~何もありませんが~」

 小津の家は木造二階建てで、周囲にある家よりも随分古く、汚れて、小さく見えた。

 中に入るとまず感じたのは、臭気。人生で初めて嗅いだそれは、明らかに異常なソレだった。

 リビングと思しき部屋が怪しい。ドアのガラスに血が付いているからだ。

「そこは開けない方がいいよ。きっとトラウマになっちゃう」

 凝視している私に気付いた小津が、ケラケラと嗤いながら言う。そのまま階段を上がっていくので、大人しく着いていくことにした。

「何か飲みたい?」

「小津が飲むなら、同じものを」

「おっけー」

 二階にある小津の部屋には、何もなかった。

 厳密に言えば布団と、服を入れるタンスはあるものの、それ以外なにもない。

 彼女という存在を知るためのパーツは、どこにもない。彼女が私と同じ女子高生だという確証も持てない。

 模範囚の部屋、という言葉がぴったりだった。

「それじゃ、私達の出会いに」

 やがて部屋に戻ってきた小津は、紙パックに入ったオレンジジュースと、プラスチックのコップを二つ抱え、注ぎ、音のしない乾杯をする。

「改めて……短い間だけどよろしくね、恭子」

 一口でジュースを飲み干すと、小津はコップを置いた。

「これから二人で行動するにあたって、して欲しい約束が一つ、聞きたいことが一つ、もらって欲しいものが一つ。いいかな?」

「うん」

 私も緊張で乾いていた喉を潤すために、オレンジジュースを流し込んだ。その味はひどく薄い。

「まず一つ、約束ね。明日、私達は死ぬ。場所はどこだっていい。死に方も問わない。この約束をたがうなら私は恭子を許さない。一緒に死にたいって言ってくれたのは恭子だし、問題ないよね?」

 珍しく真剣味を纏って放たれた言葉に思わずたじろぐも、小津はまた表情を戻して付け加えた。

「まぁ恭子が怯んでも私はさっさと死ぬと思うから、私がいない世界で恭子が何をしようと自由だけど」

 紙パックから新たにジュースを注ぎ足し、空いている私のコップにも同じ量を注いだ小津。

「次に聞きたいこと。恭子、足は早い?」

「学年では上位十位に入ると思うわ」

「わぁお、それは頼もしいね」

 父が求める完璧な人間として、苦手な運動も必死に努力した。陸上部の上位成績者でなければ、短距離走のタイムで負けることはないだろう。

 しかしその質問の意図はわからない。

「結局法律で守られない世界で必要なのは身体能力だからねぇ。足の速さは大事だよ。小学生の男子よりも、私達の方が切実に必要」

 疑問符を浮かべた私をからかうように、小津は要領の得ない付け足しを行った。

「じゃあ最後にもらって欲しいもの。このヘアゴムあげる。恭子の髪、綺麗だから切るの勿体無いし、これで括っておきな」

「ん、ありがとう」

 百円で複数個入っていそうなヘアゴムを一つ手渡され、言われた通り括る。満足そうにそれを眺めて、小津は遂に立ち上がる。

「よし、じゃあお洋服貸してあげる。着替え終わったらさ、温泉行こうよ」

「えっ? 温泉?」

「ははっ、恭子ってばやっと驚いてくれた」

 これまでのやりとりや雰囲気からは百八十度真逆に位置するワードを突然出され、私は自分が想像している以上に、共学の表情を浮かべてしまったに違いない。小津の笑い声も一際大きく、私を赤面させた。

「恭子、本当にいいんだね」

 着替えも終わり、小津の部屋から出る直前。再び頬に手が添えられ、真剣な表情で問われる。

「恭子が想像している以上に、きっと……んっ」

 小津が何かを言い出す前に、今度は私から唇を重ねた。これ以上の問答に、きっと意味はない。私の狭まった視界にはすでに、小津しか写っていないのだから。

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