私が彼女を犯す時
燈外町 猶
第1話
怖い。死ぬのは怖い。とても怖い。だけど、これから先の長い時間を生きていくのは、もっと怖いことだった。
「おっと先客」
だから屋上に出て淵に立ってみたけれど、死ぬのはやっぱり怖くて、西日が強くなっても私は飛び降りることが出来ずにいる。
「あーどうぞどうぞ、気にしないで。ごめんね、大事な時間邪魔しちゃって」
ドアが開く音の後に飛び込んできたその声はあまりに剽軽で、生と死の狭間で暴れ狂う心音に支配されていてもすんなりと聞き取れた。
「ん~でもね、アドバイスさせてもらうと、そっから飛び降りても死ねないかも。たぶん花壇に着地しちゃうんだよねぇ。全然手入れされてないからさ、クッションが多すぎるわけ。クソだよね、そんくらいちゃんとしとけっての。っというかそっちが目的? 自殺未遂でみんなを困らしちゃおーってやつ。いいねいいね、大変かもしんないけど頑張って」
たははと笑って、私と同じ制服を纏った彼女は、反対側にあるフェンスを飛び越えて、一秒だけ空を仰ぐと、まるでなんとも無いように――朝目覚めて上半身を起こすように――通学のために電車へ乗り込むように――その身を傾けた。
「待って!」
「っ」
今まで生きていた中で最も大きな声が、無意識下で発せられた。彼女は身体をビクンと跳ねさせ、後ろ手にフェンスを掴んで落下を留まる。
「びっっっくりしたぁ。何さ~いいところだったのに。あっもしかして私が邪魔しちゃったから意趣返し? 綺麗な顔してやることがみみっちぃねぇ」
「どうして?」
「?」
結局飛び降りることなく安全地帯へ戻った私は、突き動かされるように彼女の元へ駆け寄り、フェンス越しに手を握りしめていた。
「どうしてそんな簡単に、死ねるの?」
「えっいやまぁ……やらなくちゃいけないことがあるし」
「やらなくちゃ、いけないこと?」
死ぬことで果たされる復讐、のようなものだろうか。にしてはあまりにも悲壮感がない。
「殺したい人間がいてさぁ、一回殺したんだけど全然足りなくて。さっさと追いかけて殺さないと」
狂気じみた言葉と声音。それらを咀嚼するため、興奮していた鼓動と脳が冷静になっていく。
やがてそれらは感覚器官を正常化させ、吐き気を催す鉄の匂いと、粘着質で不快な液体が私と彼女の手と手の間にあることを知った。
「なら……私も一緒に連れて行って」
最早理解は諦めた。彼女が飛び降りる理由も知らなくていい。ただ、死を恐れていない彼女に手を引いてほしかった。
「えぇ~それはなんか……ダサくてやだなぁ」
彼女はしばらく俯いて地上を眺めたあと、こちらを振り向いて、女子高生らしい笑みを浮かべて言う。
「でも……一緒に死にたいって言ってくれたのは嬉しいかも。ちょっとだけお話しよっか」
彼女もまたフェンスを乗り越えてこちらに来ると、血脂で濡れた両手で私の頬を包み、有無を言わさず行ったのは――長く甘い、口づけ。
「君を私の、初めての友達にしてあげる。そんなわけでファーストキスもあげちゃった」
こうして、私にとっても初めての友達とやらができ、ファーストキスの味は血腥い鉄の味だと知った。
×
「ふむふむ、教育熱心なお父さんねぇ。
彼女は自分を
父からの重圧、未来に待ち受けるであろう困難の連続が、それ以上の幸福に繋がらない絶望。
言語化できないそれらをなんとか紡いだところ、小津は流すように笑った。
「しかし人間、恵まれすぎて死にたくなることもあるんだねぇ」
「小津は? どうして?」
「私はもうやりきったから」
「どうしてそんなことがわかるの?」
同じようなことを誰かに聞かれたことがあるのだろうか。小津は私を見て鼻で嗤うと、虚空に向けて淡々と語る。
「わかるよ。それとも恭子はさ、死ぬ寸前で『あぁ、あれもできなかったこれもできなかった』って後悔するのが正しい死だと思う? 私は違う。たとえそれが他人から見て足りないソレだったとしても、当人が満ち足りたと感じたタイミングで死ぬのが正しい死、正しい人生だと思うんだ~。まっ私の主観なんだけど」
同意も否定もできないその意見の中に、彼女が正しさというあやふやな概念に拘っていることを気付く。
得体の知れない狂人だと思っていたからこそ、年相応の感性も持っていることにどことなく安心を覚えた。
「……私にも、教えて」
「何を?」
「小津が、人生をやりきったと言えるまでに、行ったこと全て」
この発言を受けて小津はようやく、一瞬だけ笑みを消して私の瞳を見やった。
「全部は難しいかなぁ」
すぐさま――まるで仮面を付けるように――定位置へ戻った口角で、小津は答える。
「でもそうだね、恭子が知らない世界を教えてあげるよ」
それに何の意味があるのかはわからない。小津は私の後頭部に手を添え、唇を交わし、舌を絡ませ、唾液を流し込み、言葉を続けた。
「姑息で醜悪で汚くて、関わったあらゆる人間に害を成し、綽々と罪を犯す世界を」
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