第37話


ウェリムの森。

 別名、迷いの森とも呼ばれる危険地帯だ。

 昔々に起きた大厄災の際――その時の魔王はトレント族から産まれ、暴走したトレント族は人類の居住地に浸食した。

 その際、人類の居住領域は5%ほど失われ、魔の森となった。

 そうして、ウェリムの森もまた、魔に浸食されて……おおよそ人の居住できる場所ではなくなってしまったと言う訳だ。

 

 ――厄災。


 魔物の中から邪神やあるいは魔王が突然変異的に発生する現象、あるいはそうして発生した規格外の魔物そのものを指す事もある。

 これに対して大厄災とは……種族の中から魔王や邪神が現れる事は当然として、種族全体が一代限りの突然変異を起こす事を指す。

 無論、有象無象の個体個体は魔王や邪神には遠く及ばないが、それでも数の暴力は凄まじい。

 例えば、ゴブリン。

 本来、それは小規模の群れであれば、ただの村人が鍬や鍬で武装して、村全体だけで対抗できるような、そんな魔物だ。

 が……ゴブリンの種族が大厄災となったかつての例によると……それはそれは凄まじいものだったらしい。

 ただのゴブリンがゴブリンキングとなり、ゴブリンキングがゴブリンエンペラーとなった。

 ゴブリンと言えば駆け出し冒険者のお得意さんであり、ゴブリンキングと言えば普通の冒険者のお得意さんである。

 まあ、ゴブリンキングですらも強い魔物ではないのだが……それでも数の暴力はとんでもないものである。

 そもそも、ゴブリンと言えば龍の里の洞窟の地下で1000匹単位で飼われていたようなレベルで繁殖力旺盛な、多数個体を誇る種族だ。

 そんなゴブリンの、その全てに大厄災の突然変異による底上げが行われた訳で……。

 必然的に、辺境の村々は為すすべもなく続々とゴブリンの軍勢に呑まれていった。

 そして……ゴブリンエンペラーと言えば幻獣種に認定されるようなレアモンスターだ。 

 龍族であっても、下級個体であれば不覚を取るような存在。

 そんなシロモノが各地に無数に存在するゴブリンの集落毎に1体、あるいは2体も現れたのだから、それはもう各国の騎士団は大忙しだった。

 が、まあ、それだけならまだ人類はゴブリンの脅威に対処できただろう。

 ゴブリンエンペラーとは本来はゴブリン種の最終到達地点――進化の執着地点に達しているはずの種である。

 が……大厄災の中心となったゴブリン族の頂点。

 元々からゴブリンエンペラーに君臨していたその個体は、本来は決して有りえないはずの進化を行ったのだ。

 その名はアルティメットゴブリン。

 その個体の力は上級邪神の領域にまで達し、ソレが率いるゴブリンの大軍勢によって次々と国が滅びていった。

 そうして、その大厄災の結果――大陸の版図の10%ほどが人類の勢力圏外となり、魔物の棲む領域となった。

 その際は、東西南北全ての勇者と、各国の抱えるSランク級冒険者の全てを動員してようやく討滅と相成った訳だが……。

 と……ここでお気づきだろうが、俺やコーデリアの住む世界はゆるやかに人類が衰退している世界だ。

 数百年~千年の単位で定期的に訪れる大厄災。

 その度に居住領域の数パーセントずつが失われていていて、今現在の人間の住む場所は大陸の50パーセントも存在しない。

 化学技術や魔法技術の進歩も、厄災の度に衰退しており現状維持がやっとというところで……。

 と……話は大分逸れたな。

 我らがアルテナ魔法学院の現在の校舎は、実は以前の場所から数百年前に移転して、今の場所に移ったと言う経緯がある。

 そうして、かつての所在地は大厄災の時に魔の森に呑まれて……迷いの森であるウェリムの森の中に存在すると言う話だ。

 で、何でこんな話をしているかと言うと――入学試験が終了してほどなく、入学試験の成績でクラス分けが行われた。

 リリスはコーデリアとの大立ち回りが認められて特待生クラスに入学したのだが……俺は最下位のクラスに入学と言う次第となった。

『村人だから……』という身も蓋も無い理由が学院側からの正式回答だ。

 何だかんだで大貴族の坊ちゃんが裏で色々と手をまわしているフシもあるので、そちらの方が本命だろう。

 まあ、それは良い。

 俺としてはコーデリアの動向がすぐに察知できる位置にいればそれで良い訳だからな。

 とりあえず、リリスが特待生クラスに滑り込んでいるので、現状はこれでオッケーだ。

 それで今現在、俺達最下位クラスはアルテナ魔法学院のグラウンドに集められているという訳だ。

 クラスの人数は40人強で、全員が登山用のリュックサックを背負わされている。

 少し離れて冒険者ギルドから派遣されてきた5名の強面の姿も見える。

「教官? 質問があるんっすけど?」

 俺達の対面で、灰色のローブに身を包んで腕組みをしている中年の男に俺は声をかけた。

 すると、教官は露骨に顔をしかめてこう言った。

「おい、小僧?」

「小僧……? 俺の事ですか?」

「他に誰がいるんだ?」

「……まあそれは良いっすけど……それで?」

「本日から最低でも一か月間……合宿を行う。この期間中……教官の命令は絶対だ」

「……?」

 そうしてニッコリと笑って、俺だけでなく周囲に向けてこう言い放った。

「良いか? お前等は――ゴミクズだ」

 良く通る、ドスの効いた低い声だった。

 そのショッキングな言葉の内容に、何事か……と一斉に教官に視線を集める。

「お前らの入学試験の成績は最悪だ。ぶっちゃけてしまうとお前等の中の半数以上は使い物にならない。そうして例年、実際にこの合宿で半数以上は自主的に退学となっている」

 確かに入学の説明の際に最下位クラスの待遇についてはそのように聞いている。

 が、しかしゴミクズって言葉を使うのは幾ら何でもやりすぎだ。

「学院がお前等を拾ったのには理由がある……お前らの大半は平民出身。系統だった魔術の訓練を受けた事が無い者達ばかりだ。故に、現時点での力はゴミクズだが、お前たちの中の何人かには……才能ある者が紛れている可能性がある」

 まあ……と自嘲気味に教官は言った。

「俺の仕事はドブ攫いって奴だな。糞尿塗れのドブ川にザルを入れて数少ない原石を探す……全く、我ながら損な役回りを押し付けられたものだ」

 うわぁ……と俺は思う。

 あまりにもな言いぐさに開いた口がふさがらない。と、そこで俺に向けて、教官はズカズカと歩みを進めてきた。

「おい、小僧?」

「何っすか?」

「先ほど、お前は『質問があるんっすけど?』と……言ったな?」

「言いましたけど?」

 そうして教官は大きく頷き、そして拳を振り上げた。

「合宿の期間中……教官に向けて言葉を垂れる時は口のききかたに気をつけろ。正しくは『教官殿! 質問よろしいでしょうか!?』……だっ!」

 右フック気味に繰り出される拳。

 欠伸が出るような打撃だったが俺は避けない。いや、避けてやらなかった。

 ゴッと鈍い音が響き渡り、そのまま俺の右頬にメリこんだ。

 周囲を眺めると、完全に空気は凍り付いていた。

 実際問題、こういったやり方も方法論の一つとしてはアリなのかもしれない。

 前評判通りだとすると、この合宿は結構な感じで無茶をさせると言う話だ。

 先ほどの教官の言葉通り、本当にここにいる半数以上は魔術の才能無しと言う事で、自主退学を強制させられる。

 俺達の現在の立場を正確に表現するのであれば、入学試験の延長戦と言う立場にある。

 使い物になるかどうか分からないので、少しの間教育を施した上で判断すると……まあ、そういう事なのだ。

 そんでもって、実際に使えるかどうか分からない連中のふるい分けを行う訳だから、それはもう必死こいて色々な訓練をさせる訳だ。

 で、そういった事を普通にやらさせていれば文句も出れば不平もでる。

 ――だからこそ、最初に一発……ガツンとシメる必要がある。

 上下関係を初っ端に強烈に印象付けて、そのまま従順にさせると。まあ、このオッサンがやってたのはそういう手法だ。

 そんでもって、俺はそういうやり方が気に喰わない。

 こちとら、日本時代から体育会に所属したことはなかったし、そういうノリは本当にノーサンキューだ。

 故に俺は、先ほどのこのオッサンの打撃を敢えて避けてやらなかった。

 それはともかく、とりあえず教官殿のファーストコンタクトは俺以外には有効に作用したようだ。

 証拠に、張り付いたような表情のまま多くの生徒は固まっていた。

 教官は、俺達に悟られないように努めて平静を装っているが……俺はその瞳の奥に映る困惑の色を見逃さない。

 ニヤリと笑った俺に向けて、教官はこう言った。

「お前……口を開けてみろ」

 なるほど、そういう風に思っちゃったのね……と俺は大人しく言う事を聞いてやった。

 俺の口の中に何もない事を確認すると教官は不思議そうに首を傾げた。

「どうかしたんですか?」

「……いや……何でもない」

 何とも言えない表情の教官。

 しきりに拳をさすっているのを見て、俺は吹き出しそうになった。

 俺の顔面を普通の人間が力任せに殴るって事はそれはつまり……鋼鉄の塊を殴るのと変わりがない。

 近接戦闘職の中で格闘家系統の職業でも無ければ、それは自傷行為に過ぎないのだ。

 まあ、見た所、軽い内出血位で折れたりはしていないようだな。





 最下級クラス総数45名。

 屈強な冒険者5名に守られながら俺達は迷いの森を行く。

 戦闘要員としての俺達の実力は最下層――まあ、当然ながら俺以外の連中はと言う意味だが――で、もしも魔物に襲われればひとたまりも無い。

 しかも、迷いの森と言われる程に複雑な地形で、なおかつ森全体に帯びた魔力で人間の方向感覚と磁場も狂っている。

 方位磁石が狂うような地形なので、よほど山歩きと魔境の散策に慣れた者でもないと遭難は確実だろう。

 何故にそんな森の中にあるという廃校舎を目指しているかと言うと話は簡単。

 脱走者を出さない為だ。

 と、いうよりもそういう環境に置いて、扱いの悪さを分からせたうえでの軟禁状態とさせた方が、言う事を聞かせやすいと言う事だな。

 まあ、それは良しとして行軍の直前――魔法学院のグラウンドで45名は9つの班に分けられた。

 基本的に合宿中の行動は5人一組で行うとの事だ。

 グラウンドで5人×9の列に整列させられて、自己紹介もしないままに俺達一同の行軍は開始した。

 どうにも、自己紹介は道すがら行えと、まあそういう事らしい。

「リュート=マクレーン……村人だ。よろしくな」

 行軍が始まってしばらくの時間が経過し、郊外の森に差し掛かった。

 そこで俺は意を決して、そう切り出したのだった。

「村人と同班かよ? こりゃあついてねーぜ」

 そう言ったのはアーサー=マーカム。

 肩までのブロンドの美しい髪を持つ優男で、貧乏貴族の3男坊だ。

 露骨に顔をしかめていたが、それでも握手には応じてくれただけ相当にマシだろう。

 俺は次に、白銀のボブショート程の髪を携えた、線の細い小柄な男に右手の掌を差し出した。

「……」

 小柄な男は俺の差し出された掌を無視し、顔を背けた。 

「どうしたんだよ」

「……無駄だ」

「無駄? 何が?」

「皆まで説明させるのか? まあ……それ自体が無駄なのだが……うーむ……まあ良い。この場合は説明した方が早いだろう」

「どういうことだ?」

 やれやれとばかりに銀髪の男――ブライアン=ショートは肩をすくめる。

「……君の職業適性は村人。ならば、確実にここで脱落する側だ。そして僕は上に上がる側だ。君と僕の人生はこの時以外に交わる事は無い。そうであれば言葉を交わす事も無駄だ。君と友好関係を築くことに今後の僕の人生に何のメリットも無い。故に――」

「故に?」

「僕は君と口はきかない。そう、挨拶を含めて……だ」

「――中々素敵な性格してんじゃねーか」

 流石にコレは……と俺のトサカに血の気が回った。

 あまり目立つのも良くないが、一発殴る位なら問題もそこまでないだろう。

 そう判断して俺は胸倉を掴んだ。

「職業適性:村人の分際で、職業適性:魔術師の僕に歯向かう等と……」

「何ていうかテメエは……幼馴染のクズ野郎と同じ香りがするんだよ」

 その時、俺とブライアンの間に割って入る影が一つ。

「あの、そのっ! 喧嘩っ! 喧嘩は良くないと思うんですっ」

 ――巫女がいた。

 紛う事なくそこには紅白の衣装に身を包んだ巫女がいた。

 上半身は白衣、そして下半身は緋袴。

 腰までの黒髪ロング……150センチに満たない小柄な体躯。

 そして、豊満な胸。

 ――三枝心春(さえぐさこはる)。

 東方の魔術師の家系で、はるばる西の果てまで留学に来たという女の子だ。

 コーデリアは健康的な美人で、花で例えるなら向日葵のイメージだ。

 そしてリリスは不健康そうな美人で、天体で例えるなら月のイメージが良く似合う。

 そして三枝心春……彼女はどう例えようか。

 何と言うか、美人と言うよりは可愛い系で……うーん、何と言えば分かるだろうか。

 小動物っぽい……いや、違う。むっちり……これも違うな、色っぽさはあるけれど可愛さが勝っている。

 うーん……ロリ巨乳……おっ?

 それだ! ロリ巨乳だ! そう! 例えるならこいつはロリ巨乳と言う形容が良く似合う!

 ――って、何を考えているんだ俺は……。

 と、銀髪の小男――ブライアンの胸倉を掴んでいた俺の手を掴んで、三枝は俺とブライアンを無理矢理に引きはがした。

「駄目なんですっ! 喧嘩は駄目なんですっ!」

 そうして、彼女は俺の手を両手で抱え込むように掴んでガッチリとホールドした。

「リュート君! 喧嘩は……喧嘩はダメなんですっ!」

 今現在、俺の右手は三枝の両手で抱え込まれるようにホールドされている。

 と、言う事は必然的に三枝の巨大なアレが、俺の右手を挟み込むように……巫女服越しにダイレクトアタックしてきている訳で……。

「分かった! 分かったからっ! 喧嘩はしないから……良いから離れろっ!」

 そこで三枝は満面の笑みを浮かべてその場で小動物のような動きでピョンピョンと飛び跳ねた。

 ……俺の手を離さずに。

「良かったです! 良かったです! 喧嘩が無くて良かったですっ!」

 ピョンピョン跳ねると言う事はポヨンポヨンと揺れると言う事だ。

 それはつまり、ダイレクトアタックの攻撃力も跳ね上がると言う事で……。

「良いから離れろっ!」

「何でですか?」

「あたってるんだよっ!」

「何が?」

 おいおい天然かよこいつ……。

 ならば致し方ない。この場合はハッキリと伝えないと分かってくれないだろう。

「胸がっ!」

「どういう風に?」

「ポヨンポヨンって……何を言わせるんだよお前はっ!」

 そこでようやく俺の言葉を理解した三枝は、瞬間湯沸かし沸騰機のように顔を真っ赤にした。

 そしてすぐさまに手を離して、口を開いてこう言った。

「……あほ……リュ……リュート……リュート君の……あほー!」

「いや、俺は何もしてねーだろっ!?」

 捨て台詞と共に彼女は、道を逸れて森の中に走り去っていこうとした。

 が……それを今まで一言も言葉を発していない、班員の最後の一人が肩を掴んで止めた。

「……貴方馬鹿?」

「えっ? 馬鹿? どういうことなんです?」

 甲高い声が森に響いた、

 灰色のローブ姿。

 深く被ったフードから水色の髪のショートカットが覗いている。

「……迷いの森で貴方が魔物に殺されようが野垂れ死のうが私には関係がない……。でも、今は行軍中。しかも教官の監視下。話によるとこの合宿では……班員同士の相互監視と連帯責任が強制させられるという話。いや、むしろ……だからこその班単位での行動となっている」

 そのまま、フードの人物は三枝の肩を掴んで、引きずり倒すように道に転がした。

「あいつ今……初めて喋ったよな? ってか……声色から察するに女だったのか?」

 貧乏貴族の3男坊の言葉に、銀髪の小柄な男が頷いた。

「……ええ、確かに誰が何を語りかけても返答しなかったですが」

 そうして、フードを目深に被った女は俺のところにチョコチョコと歩いてくる。

「……そもそもリュートに色目を使うなんて200万年早い」

 淡い頭痛を覚えながら俺はその女に語り掛けた。

「ところでリリス?」

「……何?」

「何故にお前が普通にいるんだ? お前は特待生クラスだろう?」

「……選択制」

「選択?」

「……このカリキュラムは選択制。最下級のEクラスの生徒は強制で合宿だけど、上位クラスなら選択で選ぶ事ができる……そして上のクラスだと敢えてこんな授業を選択する人間はいない」

「結果、この合宿は最底辺クラスだけでの授業になると?」

「そういうこと」

「で……どうしてお前がここにいるんだ? 俺はお前にコーデリアの護衛と周辺の警戒、そして俺への連絡を頼んでいたはずだよな?」

 バツの悪い顔をしてリリスはまつ毛を伏せた。

「……したから」

「したから?」

「メスの香りが……したから」

 そうしてリリスは地面に倒れている三枝にファックサインを決めた。

 やれやれ……と俺は溜息をついた。

 ――どうにも、こんな残念な面子に囲まれて……俺は1か月に渡る合宿をしなくてはならないらしい。





3時間ほどかけて歩きとおして、俺達は旧校舎に辿り着いた。

 外観はお化け屋敷とか吸血鬼の館とか、そういう形容が良く似合う古ぼけた建物だった。

 毎年使っているという事からか、内装はそれなりにきちんとしていた。が、至る所に1年分の埃が積もっていたのだ。

 と、なれば合宿生活での俺達の最初のミッションが、全員で校舎内と寄宿舎の隅から隅を掃除する……ということになることは必然だったとも言えよう。

 そうこうしている内に陽は沈み、夕食の時間となった。

 夕食を終えた後、始めてそこで寄宿舎の自室に入室する事が許された。

 部屋は4人用で、フローリング張りの床に、机が4つに2段ベッドが2つ。

 そこにあてがわれたのは3人。

 つまりは強制的に、班員同士での部屋割りとなっているという訳だ

「呉越同舟と言う所だな……」

 貧乏貴族の3男坊であるところのアーサー=マーカムはやれやれと肩をすくめた。

 と、言うのも銀髪の小男:ブライアン=ショートは相変わらず俺とは一言も口を聞かない。

 それどころか存在すら無かったように振る舞うのだ。

 別に俺も聖人君子と言う訳でも無し、売られた喧嘩であれば買う位の器量はある。

 そもそも、無視の原因が俺が村人だから話す価値もないと、そういう事だ。

 一発殴ってやろうかと思ったが、リリス曰く、学院内での暴力行為はかなりのレベルでのご法度らしい。

 しかも、この場合はあくまで態度だけでの挑発であり、それで実際に手を出したとなれば相当厳重な処罰が下される事は間違いないとの事だ。

 そうであれば必然的に――

 ――俺はブライアン=ショートにメンチを切る事になる。

 完全スルー仕様のブライアン。

 そして、俺は昭和のヤンキーも真っ青な程に、今にもキスになりそうな程にメンチを……事あるごとに30分に一回のペースで切っている。

 対するブライアンも敵ながらアッパレで、俺のメンチに対してもなお完全スルーを貫いているのだ。

 と、まあ、そんなこんなで冷戦が室内で勃発しているのだから、アーサー=マーカムの心労も相当な物だろう。

「……と言うか、ガキかお前等は」

 頭を抱えながらアーサーは俺の肩をポンと叩いた。

「それにな、リュートよ。ブライアンの言う事も……最もだと俺は思うぜ?」

「どういうことだ?」

「こう言っちゃあなんだが、俺もお前はここで消える側だと思うよ。なんせお前の適正職業は村人なんだろ? むしろ入学試験を突破したことを賞賛したいくらいだ」

 だがな、とアーサーは続けた。

「苦労して入学試験を突破したんだろうし、そこには敬意を払うが、入学してしまったからには同じ土俵だ。頼むから足は引っ張らないでくれよな」

「なるほど。お前もやっぱりそういう奴か……」

 ポリポリと頭を掻いて、俺は予め用意しておいた洗面セットを手に取った。

「……まあとりあえず、風呂入ってくるわ」

 大浴場から帰ってくると、寄宿舎の廊下は人で溢れていた。

 と、言うのも全てのドアの前に一枚の張り紙が張られていたのだ。

 そしてその紙を見て、ざわめきというか……どよめきが起きていた。

 ブライアンとアーサーの姿が見えたが、彼等とは口を聞かずに視線を張り紙に向ける。

「うお……マジかよこれ…………」

 張り紙には、次のような内容の記載がなされていたのだ。

・6時~7時半

 準備運動及ランニング10キロ

・7時半~8時半

 朝食

・8時半~9時

 ミーティング

・9時~10時

 筋トレ

・10時~12時

 魔法座学

・12時~13時

 昼食

・13時~14時

 ランニング10キロ

・14時~15時

 自重筋トレ

・15時~16時

 近接戦闘実践訓練

・16時~17時

 魔法実習

・17時~18時

 ランニング10キロ

・18時~19時

 夕食

・19時~20時

 器具筋トレ

・20時~21時

 ランニング5キロ及入浴

・21時~22時

 自由行動

・22時~

 就寝


 なお、訓練の際は『ゴルゴダの手枷』をはめること。

 つまりは、身体能力強化は無論の事、純粋筋力以外の一切の使用を禁止するものである。


「こいつは……ハードだな」

 率直な感想が思わず声に出してしまった。

 ちなみに、マジックポイントの一切の使用を禁止するとの文言は、それはつまり純粋な筋力のみで事にあたれと、そういう事だ。

 身体能力強化は筋組織について、マジックポイントを触媒とする事で一時的な強化を施し、基礎ステータスの倍率に基づいた爆発的な瞬発力を得る術式の事だ。

 そして、純粋筋力とステータス上の筋力とでは意味合いが違う。

 例えば、俺の場合は教官の鉄拳を受けても、逆に教官がダメージを受けてしまう程に体が頑丈にできている。

 と、いうか現代日本で言うと対戦車ライフルでも持ってこないとまともなダメ―ジは受けないだろう。

 考えてみてほしい、それがどれほどに異常な事かを。

 この世界におけるステータス制度の概念について説明すると非常に長くなるので割愛する。

 要は、身体能力強化のような特別な術式を使わずとも、ステータスに基づいて俺達はこの世界で自然に不思議な力で強化されているのだ。

 そして、ゴルゴダの枷とは――

「呪いのアイテムって……俺達は囚人か? ふざけてんじゃねえぞ?」

 分かりやすくアーサーが説明してくれたが、囚人なんかを収監、あるいは奴隷を扱う場合に大活躍するのがゴルゴダの枷だ。

 それは、ステータスによる強化を無視したところで、人間が本来、本当に素のままにもっている身体能力……純粋な筋力だけにとどめると言う呪いのアイテム。

 まあ、こいつらの場合は元のステータスが一般人と大して変わらないので、そこまで劇的な枷にはならねーが……。

 俺の場合は本当に笑えない位の弱体化が起きる。

 そんな枷をハメている最中に高レベルの魔物に襲われでもしたらマジで洒落になんねー。

 ――まあ、枷をハメられても1秒かからずに外せる術は既に習得済みだけどな。

「……しかし本当に馬鹿げていますね。私たちは魔術を習いに来たのですよ? 大半の時間が……ただの肉体トレーニングではありませんか。しかも近接戦闘に必要なステータスやスキル強化ですらない……」

 まあ、確かにブライアンの言う通りだ。

 手っ取り早く強くなるには、純粋筋力を鍛えるよりも魔物を狩ったりしてレベルを上げてステータスを上昇させる。

 あるいは、身体能力強化関連の術式を鍛えた方が効率的だろう。

 純粋筋力は鍛えても……まあ、タカが知れている。

 どれだけ鍛えても、ただそれだけでは100メートルを10秒前後で走る事ができるのが人類と言う種の限界なのだ。

 ちなみに、この世界では戦闘職を名乗るのであれば、魔法職でもそのラインが最低線となる訳で……。

 ブライアンの言葉を受け、アーサーは怒りをあらわにした。

「教官たちは俺らを鍛える気なんてないんだ……絶対そうだって! 無意味な嫌がらせをして、苛め抜いて……そうして自主退学に追い込むんだ」

「……ええ。恐らくはそうでしょう。にわかには信じがたいですが……ここに至ってしまえばそう判断せざるを得ません」

「ここは……魔術師として使えるか使えないのかを選別する場所じゃなかったのかよ……これじゃあ、ただのシゴキだ! 無茶苦茶だっ!」

 が、しかし、俺はニンマリと笑ってこう言った。

「へえ……ここは意外にまともな施設だったんだな。っていうか、ここまで教官が優しい……というか、俺達の事を親身に考えているとは思わなかった」

「あ? 何言ってんだお前?」

 肩までのブロンド髪を振り乱し、アーサーは俺を睨み付ける。

「いや、俺は本当に悪くないと思うぜ?」

 やれやれと肩をすくめる俺に、銀髪の小男――ブライアンが口を開いた。

「強くなるための方法……セオリーまで知らないとはね。まさか、頭まで悪いとは思わなかった。君と同じ班であることは無意味どころか有害らしいな」

 二人にすごまれて、心の底からの溜息と共に俺は部屋のドアを潜る。

「まあいいや、そろそろ俺は寝るわ……スケジュール表によると明日は早いみたいだしな……お休み」




 翌朝。時刻は6時。

 旧校舎のグラウンドに底辺クラスの45名が集められていた。

 簡単なストレッチを15分ほど行った後に校舎の外周を3周する事になっている。

「しかし、リュート君……不思議ですね?」

 東方からの留学生であるところの三枝が俺にそう問いかけてきた。

 ちなみに、昨晩からアーサーとブライアンとは口をきいていない。

「不思議? 何が?」

「ほら」

 そう言いながら三枝は校舎の外を指さした。

「外周壁……校舎から50メートルも離れると……そこは別世界なんです。迷いの森とも呼ばれる、魔物が闊歩する大樹海なんです。でも……」

「校舎内……というか外周壁から50メートル内には樹木も魔物も侵入してきていないって話か?」

「そうなんです! そうなんですっ!」

「前回の大厄災の時、ここの校舎が国一つが放棄されるかどうかの最終防衛ラインになっていたらしいからな。異常に強力な神聖結界が張られてるんだよ」

「ふむふむ」

 心底興味深いと言う風に三枝は上目遣いで何度も頷く。

「ってか、オリエンテーションで言ってただろ? ちゃんと聞いとけよな」

 そう言って俺はゴツンと軽くゲンコツを三枝の頭に落とす。

「うぐぅ……痛いです……」 

 何故だろう。こいつからはリリスと同じ匂いがする。

 何と言うか、ゲンコツで叩いても許されると言うか、叩かないと話が進まないと言うか……。

「まあ、それは良しとして……リリスは? お前らも女子寮で相部屋なんだろ?」

 俺の問いに、ポンと三枝は掌を叩いた。

 そして気だるそうな表情を作って、声色を変えてこう言った。

「……低血圧。朝練……パス」

 ちょっと似ていて、俺は吹き出しそうになった。

 ただの小動物と思っていたが、三枝は中々あなどれない特技を持っている様だ。

 と、そこで違和感に気付いた。

「パスって言って……パスできるもんなのか?」

 ええ、と三枝は頷いた。

「彼女は特待生クラスですからね。それで特待生はこの合宿は選択制なんですよ」

「ああ、そうみたいだな」

「そして……特待生は訓練の項目すらも選択制なんです。選択しなければ全て自習に差し替えられるんです」

 おいおい……と絶句した。

「マジかよそれは……」

「できる人間は自由にさせた方が伸びるということなんでしょうね。逆に言えばダメな人間はとことんまで締め上げる……と」

「まあ……一理はあるな」

 軽く溜息をついて、そして俺は断言した。

「まあいいや、明日からあいつにも参加してもらうから」

「どういうことなんです? リリスさんは実際に優秀で、こんな無茶苦茶な純粋筋力を鍛えるようなトレーニングをするよりも独学で魔法を磨いた方が……」

「悪くないんだよ。ここの生活は」

「……どういうことなんです??」

「だから、悪くないんだよ。このトレーニングメニューは」

 しばし考え、三枝はこう尋ねてきた。

「どうしてそう思うんですか?」

「ここのシステムって、学院側の定める基準を超える事ができれば1か月で合宿終了……そして基準を満たさなければ更に1か月延長ってシステムだよな?」

「そうなんです。確かにそういう風に聞きましたです。それで6か月たってもクリアーできない場合は自主退学……なんです」

 ぶっちゃけた話……との前置きで俺は三枝に語りかける。

「ここにいる連中の中で、王宮魔術師や超一流の冒険者になれるほどの才能がある奴なんてどれだけいるんだ?」

「……ほとんどいないです。そもそも、そんな人は最初から上のクラスです」

「無事にここをクリアーしたとする。そして普通課程に進んで卒業しても、良い所が冒険者稼業で3流ってのが相場だろう?」

「……恐らくはそうなんです」

「そしてここで脱落するとする。そうすると、労働者かあるいは4流冒険者か」

「……」

「ここをクリアーしようが、あるいは脱落しようが、どちらにしても泥臭い仕事をするやつが大半だ」

「それで?」

「で、成長期の半年なら、ミッチリ鍛えれば体はある程度仕上がる。クリアーしようが、脱落しようが、冒険者になろうが、労働者になろうが……どの進路に進もうが…………ここで鍛えた事は無駄にならねーだろうがよ」

「……なるほど」

「それに、魔術の才能の片鱗を見るというのが……ここの主目的だ。才能の開花までに時間が数日の奴もいれば数か月の奴もいる」

「……」

「そりゃあ全員が才能があれば、初っ端からガッツリと魔法関連の訓練でいいかもしれねーが、それだと落ちこぼれの方に……完全な無駄になると、まあそういう事だ」

「……凄い……ですね。リュート君は」

 感嘆の溜息とでもいう風に、艶っぽく三枝は息を吐いた。

「私……そんな事を考えた事も無かったです」

 そして、しばし考え三枝は小首を傾げた。

「ところで、リリスさんは何故に明日から私たちと一緒に? 才能がある人はやっぱり独学でも魔法技術を磨いた方が……」

「特殊なんだよ。俺とリリスは」

「……特殊?」

「まあ、いずれ分かる」

 ぶっちゃけた話をすると俺は、強くなるために出来る事はやりつくした感がある。

 リリスについてはまだ伸びる余地はあるが、少なくとも魔法学院の設備でできるような事はとっくの昔に修了している。

 そして、俺もリリスも純粋筋力は後回しにしていた分野で、必然的に都合が良かったということになる。

 聞けばコーデリアは全ての基本として筋トレを日課に加えていると言うし、実際に俺もそれなりに意味がある行為だと俺も思う。

 だから、1か月のブラッシュアップ期間は本当に悪くない。

「さて……そろそろだな」

 校舎の外壁に備え付けられた時計を見るに、時刻は6時15分。

「…………朝のランニング……ですね」

「ああ、7時半までに完走できない場合は連帯責任で班員の朝飯が半分の量になるからな。アーサーやブライアンに何を言われるか分からねえ。とは言え……まあ、たかが10キロだ。普通の体力なら何とかなる」

 実際、1000メートルのペースに換算すると7分半。

 純粋筋力が軽視される世界とはいえ、日常生活を普通に営んでいる16歳の青年にこれができないなんて事はないだろう。

 見た所、極度の肥満もいないし、恐らくは全員が余裕をもってクリアーできる。

 まあ、それが一日に何回もあるので、晩飯後のランニングになると疲労はかなりのものだろうが……まあ、そこは回復魔法である程度はどうとでもなる。

 そこで、三枝はまつ毛を伏せて消え入りそうな声になった。

「その事なんですけど……」

「ん?」

「私……お箸とお茶碗よりも重たいものを持つような事がないような環境で育ったんです」

 言っている意味が一瞬分からなかった。

 故に、俺は聞き返した。

「……えっ?」

「当然、走る事はおろか、長距離を歩くようなこともロクにした事がありません」

 しばしのフリーズ。

 数秒してから、三枝の言葉が意味のある言語として脳内で反芻される。

「……つまり?」

 心の底から申し訳なさそうに三枝はこう言った。

「10キロなんて……絶対に走れないんです」

 さすがの俺もこれには降参せざるをえない。

 そう、東方からの留学生:三枝心春は――箱入り娘が過ぎて運動が全くできない子だったのだ。




 結局、三枝は1キロも走らずにギブアップした。

「うわぁ……」

 俺だけでなく、全員が絶句した。

 流石にこれには教官も開いた口が塞がらない。

 前代未聞の事態だったらしく、怒る事も忘れてしばしの間、呆然自失に空を眺めていたような状況だ。

「とりあえず、お前の班員は全員……朝食半分だ。お前自身の処遇については……上司と検討する。これはあまりにも……」

 その言葉を残し、フラフラとした足取りで教官は校舎内へと消えていった。

 そうして俺達は寄宿舎に戻り、軽く水浴びをした後、大食堂に移動した。

 それはともかく連帯責任……これはキツい。何しろ、朝飯が半分抜かれるのだ。

 具体的に言うと、パンが無い。

 干し肉2切れと、乾燥野菜のスープしかない。

 糖尿病対策の糖質制限食なる言葉を聞いたことがあるが、多分こんな感じの食事なんだろう。

 っていうか、主食が無いので純粋にカロリーが足りない。これが続くと腹が減ってロクに動けねえなと俺はため息をついた。

「……何故、パンが無い?」

 班員5人が席についている正方形のテーブル。

 俺の隣に陣取ったリリスは怪訝にそう尋ねてきた。

「運動ができない女の子が一人いたんだ。それも結構アレなレベルで……」

「……なるほど……コハルがやらかしたと……了承した」

 それだけ言うとリリスは無言で干し肉をフォークに突き刺し、口に運んだ。

「お? 三枝に文句言ったりはしないのか? 今後もずっと飯が半分なのかもしれないんだぜ? と、いうかその確率は非常に高い」

「……無い物を……無いと喚いても何も始まらない。コハルに文句を言っても……できないものはできない。で、あれば……今後、お腹が空いたとして自力で何とかするのが一番早い」

 確かに、リリスの言う通りに俺達には反則級の裏技がある。

 色んな魔境や秘境を渡り歩いているおかげで、俺達のサバイバル技術は結構なモノとなっている。

 普通の生徒は危険だから迷いの森に入る訳にはいかないが、俺達にとってそこは全く危険な地域では無い。

 必然的に、狩りでも採集でもいくらでもできる。

 が……と、俺はアーサーとブライアンを眺めた。

 先ほどから終始無言を貫いているが、表情と態度を見れば相当なレベルで怒りが溜まっているのが分かる。

 と、そこで三枝がやらかした。

「あの……その……アーサー君?」

「……何だ?」

 貧乏貴族の3男坊、肩までのブロンド髪のアーサーに上目遣いで三枝は申し訳なさそうに口を開いた。

「私の干し肉……一枚要りますか?」

「要らねーよ」

「いや、でも……このままじゃ私……申し訳が立たないんです」

 そういって三枝はフォークに干し肉を突きさして、アーサーの皿に持っていこうとした。

 と、その時、三枝の巫女服の袖が野菜スープの皿に引っかかり、中身がテーブルにぶちまけられた。

 更に悪い事に結構な分量の汁がテーブルから流れ落ち、アーサーの膝にぶちまけられた。

 うわっちゃァ……と俺はその場で両掌で目を覆った。

「あわっ……あわわわっ……」

 そうして三枝はテーブルの上の布巾を手に取る。

「ご……ご……ごめんなさいです。ごめんなさいなんですっ!」

 そしてアーサーの膝に手を伸ばした所で、その手はアーサーは自身に掴まれて止められた。

「運が良かったな……女は殴るなと、親父からガキの頃から教え込まれている」

 そうして、アーサーは三枝の胸倉を掴んで睨み付けた。

「逆に言うと、教え込まれていなければ……殴り飛ばしているところだ……この……グズ女っ!」

 言葉を受け、三枝は完全に固まった。

 そして、声にならない声で涙目になってこう言った。

「……ぁう……ぁ…………」

 そうして三枝は口を掌で押さえて、どこかへ――方角から察するにトイレだろうか――走り去っていった。

 涙を流す為か、あるいは突発的なショックで吐き気を催したか。

 と、俺は周囲に視線を送る。

 無言で朝食を続けるリリスとブライアン。

 そして苛立ちながら布巾で膝を拭くアーサー。

「……こいつは良くねえな」

 そう言って、俺は肩をすくめたのだった。




 朝食を終えた俺達は体育館に集められた。

 本来なら朝食後の30分はミーティングの時間だが、初日の今日はどうにも勝手が違うらしい。

 と、言うか体育館の設備説明の時間に30分が使われると言う話だ。

 要は筋トレを行う施設なんだが、体育館の天井は異常に高い。

 恐らくは空中戦も含めた所での魔術戦闘実践まで想定されているようで、その高さは30メートル程はある。

 そして、俺達の視線を一身に集めているのは天井から吊り下げられた、直系5センチ程度の縄だった。

 興味深そうに見つめる俺達に、教官はニヤリと口元を歪めてこう尋ねてきた。

「この縄の使い方は……靴を脱いで裸足になった状態で、両手と両足の力だけで登っていくんだ。これを突破した奴は今まで数えるほどしかいない。そうだな、これも一興だ――挑戦者はいないか?」

 シンと体育館内は静まり返った。

 ドジを踏めば連帯責任で飯が半分になるのは周知の事実。

 初っ端のランニングで我が班の三枝心春が既にやらかした後なので、無警戒に手を挙げる訳にもいかない。

「教官殿? 質問よろしいでしょうか?」

 ああと頷き教官は言った。

「質問を許可する。何だ? アーサー=マーカム学生?」

「先ほどの教官の発言から相当な難易度と察します。しかるに……成功すれば……何か報酬はいただけるんでしょうか?」

 ふむ、と教官は顎に手をやる。

「修了試験の際に加点してやろう」

 そこで全員が色めき立った。

「教官! 私も挑戦したいです」

「教官殿! 僕にもぜひ挑戦を!」

 堰を切ったように口々に参加を表明する連中を教官は手で制した。

「ただし、3分の1まで登れなければ……逆に減点だ。それも大幅に……な」

 その言葉と同時に学生たちのボルテージは急速に下がっていく。

 が、そこでアーサーは歩き始め、教官の前まで進み出た。

「教官殿……挑戦してもよろしいでしょうか?」

「ほう……お前、偉い自信だな?」

「貧乏貴族の3男坊……魔法の才能も無い、剣術の才能も無い、金も無い、知恵も無い、無い無いづくしで全てが無い……それが私です」

「……ふむ?」

「ですが……私は、だからこそ、強くなるために必要な事は一通りやっています――純粋筋力を鍛える事も含めて……ね」

 そう言うと、アーサーは縄に向かって歩き始めた。

 靴を脱いで、裸足の状態になる。

「もう始めてもよろしいでしょうか?」

「ああ、始めても構わんよ」

 そうしてアーサーは縄を掴んで登り始めた。

 両手で縄を掴み、両足で、これまた縄を挟み込む。登り方にコツもあるだろうが、これは完全に短距離走的な筋力一発勝負だ。

 言いかえるのであれば、変則的な懸垂とも言える。

 開始してすぐに、聴衆にざわめきが走った。

 それはそうだろう、物凄い勢いでアーサーは縄を登り、そして数十秒で教官が言っていた減点回避ラインである10メートルをクリアーしたのだから。

「凄いです! アーサー君は凄いんですっ! 頑張れーー!」

 三枝が満天の笑みを浮かべながらそう叫んだ。

 お前、さっきアイツに胸倉掴まれたばっかだろう。何で普通に応援してんだよ……。

 アホの子かもしれないという疑念が更に強まるが、それはさておき、俺はリリスに視線を送る。

 すると、リリスもやはり俺と同じことを考えていたようで首を左右に振った。

 そうして、30メートルの内の半分、15メートルに達したところでアーサーのスピードが一気に鈍化した。

 懸垂なんかをやってみれば分かるが、数回は苦も無くスイスイといったりするものだ。

 そして、筋疲労というものは前触れなく突然に襲い掛かってくる。

 懸垂であれば『キツいな……』と思ってから、1回で『こりゃあダメだ』に変わる。

 そこから、根性で抗えてもラスト1回位のものである。で、それ以降はテコでも腕は動いてくれない。

 つまり、アーサーは……もう終わりと言う事だ。 

 そこで教官は、アーサーに向けてこう言った。

「こう見えても俺は昔はCランク級の冒険者だった。風魔法でクッションを作ってやるから……安心して落ちて来い」

 実際にCランク級冒険者と言えば、それなりのもんではある。

 例えば、昔に俺がぶっ飛ばした――王様の弟である大貴族が護衛に従えていたのがBランク級冒険者だ。

 分かりやすく言うとドがつく田舎のギルドなんかだとCランク級と言えば最強クラスだったりする。

 そして限界を迎えたアーサーは落下した。

 教官の作りだした空気の膜に優しく包まれ、そして上半身を起こし、呆然自失の表情でこう言ったのだ。

「馬鹿……な……俺は……俺は散々に体を苛めて鍛えてきたはず……」

 そんなアーサーに、教官は言った。

「アーサー=マーカム学生? 実際にお前は大したもんだと思うよ? 初日でここまで行った奴は俺が最下級クラスの合宿を受け持ってから……お前が初めてだ」 

 だが、と教官は首を左右で振った。

「純粋筋力は魔術よりも遥かに才能は関係がない。鍛えれば誰でも相当な水準に達する事はできる」

 そして、鼻で笑いながらこう続けた。

「色んな境遇の人間がいたが、これをクリアーできた者は数える程度しかいないんだよ。けれど、クリアーできた者も存在する――つまり……純粋に努力が足りなかったって事だ。身の程を知ったか? 井の中の蛙君?」

 アーサーはぐったりとうなだれる。

「……ぐ……ぅ……」

 さて……と一人ごちた教官は周囲を見渡して大声でこう言った。

「茶番はここらで終わり――」

 と、そこで俺が教官に言葉をかける。

「良いっすか? 教官?」

「何だ? リュート=マクレーン学生? 後、お前は本当に言葉遣いをきちんとしろ。初日の時のように殴られたいのか?」

 まあ、殴れば痛いのはアンタだけどな。

 と、それはさておき、俺は教官にこう問いかけた。

「――俺も参加して良いっすか?」

「ん……先ほどのアーサー=マーカム学生を見ていなかったのか?」

「見てましたよ。でも、俺はどうしてもこれをクリアーして、教官から報酬を頂きたいんっすよ」

「報酬? お前も……点数が欲しいのか?」

「いや、飯を……普通に喰わせてもらいたいんですよ」

「飯?」

 はてな……と、教官は首を傾げた。

 そこで俺は三枝を指差しこう言った。

「こいつ多分……今後の訓練で絶対に何かしら…………ドジるんでね。俺がクリアーすれば飯抜きの罰ゲームは今後一切ナシって事にしてもらえませんか?」

「ふむ。なんだか良く分からんが……好きにしろ。どうせ初日からこれができる奴なんていない」

 と、俺はパンパンと掌を打ち鳴らし、縄に向かって歩を進めた。

筋疲労の原因には諸説あるらしい。

 激しい運動の結果乳酸が発生し、そして溜まる。その結果、乳酸が悪さをして筋肉が動かなくなると言う話は有名だ。

 最近の研究では、激しい運動によって、体内のカルシウムイオンとカリウムイオンの濃度に変化が生じると言う説がある。

 激しい運動の結果、神経伝達系のイオンに異常が生じる。

 その結果、神経の電気信号伝達が機能不全に陥り、筋肉収縮に問題が生じると、そういう話もある。

 ……ともかく。

 限界に近い負荷を与え続けると、人間の筋肉は馬鹿になって言う事をきかなくなる――これは誰しもが体感できる事実だ。

 人間は生まれて育ち、そして老いて死ぬ。

 それと同じレベルで、それはあらかじめに定められた摂理であり、どうしようもないことだ。

 つい先刻、アーサーは30メートルの道のり中、15メートルで筋疲労に捕まり、そして17メートル地点で落下の憂き目にあった。

 俺だって、ステータスやら身体能力強化がなければ普通の人間だ。

 完全にやりきる自信は無いが……まあ、とりあえず、ここで俺がやらねば三枝が更に不味い立場に立たされる。

 それに、現時点での俺の筋力がどんなもんなのかも気になる。

 確かに、俺は強くなる手段として効率のみを重視した。結果、純粋筋力は後回しになったきらいはある。

 けれど、あくまでそれはきらいがあると言うだけであって、ちょくちょく腕立て腹筋なんかの基礎エクササイズは、申し訳程度に片手間程度にやっていたと言えばやっていたのだ。

 で……アーサー曰く。

『貧乏貴族の3男坊……魔法の才能も無い、剣術の才能も無い、金も無い、知恵も無い、無い無いづくしで全てが無い……それが私です。ですが……私は、だからこそ、強くなるために必要な事は一通りやっています――純粋筋力を鍛える事も含めて……ね』

 そうして、奴は17メートル地点で撃沈した。

 ぶっちゃけた話、俺は俺の歩んできた道には自信がある。

 龍の里のドラゴンゾンビ以降――血反吐も吐いたし、血涙も流したし、血のションベンも流した。。

 そういう意味では俺は、ある意味では浮世離れしているとは思う。

 アーサーもまた、恐らくは真剣に自らの強化には勤しんだのだろう。

 そして、俺とアーサーの致命的な違い、それはチュートリアル経験の有無と、そして膨大なトレーニングに関する知識量の違い。

 そこがあるので、そもそも俺とアーサーを比べる事は可哀想なのだが……それでも、気になる。

 アーサーの言う、必要な事は純粋筋力までを含めて鍛えているとの発言と、そして、俺が思うに……申し訳程度に片手間で行っていた筋力訓練。

 通常人と、俺との感覚の違いはやはり気になる。

 ――パンと両掌で両頬を叩く。

 そして縄を掴み、感触を確かめる。

 ゴワゴワとした色気の無い感じが心地良い。

 そのまま俺は飛び上がり、縄を掴み、両足で縄を抱え込む。

 上半身――主に広背筋の力と、申し訳程度の下半身の力をサポートに上に上にと登っていく。

 これは、要は限界に近い負荷の連続だ。

 長丁場で考えるべき性質のエクササイズではなく、一点突破の短期決戦だ。

 息継ぎすらも忘れて、半ば無酸素状態で、上へ、上へと一気に登る。

 と、そこで眼下からどよめきが起きた。

 見ると、縄には20メートルを示す朱色のラインが見える。

 と、そこで俺は2の腕と背中に違和感を感じた。

 ――これは良くない。

 この手の負荷トレーニングの場合、疲労を感じたと同時、次の瞬間に腕は動かなくなる。

 故に、俺は身体が限界を告げる前に更にペースをアップさせる。

 俺の加速に、更に眼下からざわめきが走る。

 現在、25メートル地点。

 残り5メートル登ればミッションクリアーだが……そこで腕の動きは止まった。

 ――やべえ……。

 腕が動かない。

 それどころか、ピクピクと腕と広背筋が小刻みに痙攣を始める始末。

 が……そこで、下から三枝とリリスの会話が聞こえてきた。

「……コハル?」

「なんなんです?」

「……疲労は溜まりきり、筋肉は本来のパフォーマンスを最早発揮できない……それがリュートが置かれている現在の状態」

「と、なると、やっぱりさっきのアーサー君みたいに……落下するんです?」

「……そんな訳が無い。私の相方……リュート=マクレーンには……ここから先がある」

「相方……? まあ、それは良いとして、どういうことなんです?」

「ステータスを封じられていても、魔力使用を禁じられていても、身体能力強化を禁じられていても……リュートにはアレがある」

「……アレってなんなんです?」

 と、そこで俺は気合いと共に咆哮した。

「オッシャアアアアアアアアアアラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーっ!!!!!!!」

 腕が動かない?

 広背筋が痙攣?

 だからどうした? 俺は世界最強の村人なんだよ!


 ――スキル:不屈発動っ!


 乳酸がナンボのもんよ!

 カリウムイオンととカルシウムイオンの濃度がナンボのもんよっ!

 今の俺には筋疲労なんざ――秋のそよ風に等しいんだよっ!

 そうして、俺は更に加速。

 ……とはいえ、あんまり無茶すれば肉離れやらで深刻な事態に陥るから、無茶はココ一回だけだ。

 物凄い勢いで高度を上げる。そうして、天井へとタッチと同時、こう叫んだ。

「教官――クッションは任せたっ! 俺はこのまま落ちるからなっ!」

 ちなみに、ゴルゴダの手枷によるステータスへの束縛は、天井にタッチした瞬間に強制的に俺の意志で解除した。

 何が悲しくて、現代の日本人と大して変わらないような肉体強度で30メートルの高度からダイブせねばならんのだ。

 しかも、下で受け止めてくれるのは教官ときたもんで、非常に頼りない事この上無い。

 まあリリスが大事を取って幾重にも落下速度を殺す術式を展開させているだろうけれど。

 ふわり、と、そこで教官が作った風の防壁が俺を包み込む。

 と、同時に着地。 

 周囲のざわめきが耳に届いてくる。

「やりやがった……」

「……マジ……かよ……」

「これをクリアーした奴は今まで数えるほどしかいないって……しかもここで純粋筋力を鍛えた後の連中で、その上で数えるほどしかいないって話……それを初日で……」

 そんな言葉を背に受けて、俺は教官に向けてこう口を開いた。

「俺の班員……三枝のドジに関する連帯責任については……今後、免除でお願いしますね」

 しばし考え、教官は頷いた。

「まあ……そうだな。ここで報奨をケチれば全体の士気にもかかわるだろう……認めてやる」

 うん、と俺が頷いたところで――アーサーが俺に近づいてきた。

「どうして村人のお前が……地獄の鍛錬を経験した俺を越える事が……?」

 そうして俺は苦笑した。

「あいにくだが……やっぱり、俺の鍛え方は普通じゃなかったみたいだな。教官も言ってたろ? お前の言う地獄がどの程度か俺は知らねーが……努力不足だってことだ」

 しばし何かを考え、そしてアーサーは露骨に表情を崩した。

 そして、教官の方を向いてこう言った。

「教官殿!? 午後の近接戦闘訓練では、ゴルゴダの手枷を使えとか……そんな事はさすがにおっしゃいませんよね?」

 教官もその問いに首肯した。

「ああ、それではさすがに戦闘訓練の意味がなくなるからな」

 ニヤリと笑って、アーサーは俺に嘲笑の笑みを向ける。

「……戦闘訓練は二人一組……俺とペアを組んでくれないか? リュート=マクレーン?」

「どうして?」

 フン、と鼻で笑うとアーサーはこう言った。

「筋肉馬鹿の村人風情が……貴族の俺に勝った気になられると不愉快なんだよ」

 なるほど。

 基本的に俺は目立ちたくもないし、弱い者いじめは好きでも無い。

 でも、まあ……自分から恥をかきたいって言ってくる奴に気を遣う必要もねえか。

「……仕方ねえな。了承したよ」

 そこでアーサーは心底楽しそうに言った。

「怪我をさせるかもしれないが、文句はないよな?」

 俺は言葉を発しずに、かわりに呆れてように肩をすくめる事で応答した。

 それはつまりこっちのセリフだ馬鹿野郎……と。





昼の食堂に三枝の絶叫が響き渡った。

「村人さんが勝てる訳ないんです!」

「……」

「相手は腐っても貴族の子供なんですよ? 子供の時から鍛えられていて……村人さんが勝てるわけがないんですっ!」

「……」

「勝てる訳がないんですっ! 無謀なんですっ! 今すぐ模擬戦を辞退するべきなんですっ!」

「……村人、村人、村人、村人……だからどうした?」

「だから、村人さんが戦うのは無茶なんですっ!」

「……いい加減に黙れこのメスブタ」

 三枝に向けられた言葉に、俺はおいおいと即座にツッコミを入れる。

「何でお前がキレてんだよ……リリス……」

「旦那を侮辱されて怒らない嫁がどこにいる?」

「……旦那?」

 薄々とは俺も……爆弾を抱え込んでいる事実には気がついてはいる。

 でも、それを今この場所で白黒はっきりさせてしまうと、色々と取り返しのつかない事になる訳で。

 さあ、どうしようかと考えている時、銀髪の小男――ブライアンが口を開いた。

「しかし君も馬鹿だねえ」

 俺とリリスと三枝は顔を見合わせる。

 そうして俺は恐る恐ると言う風にブライアンに問いかける。

「お前……俺と口をきかないんじゃなかったのか?」

 そこでブライアンは親指を立たせてウインクした。

「今回は他人の不幸で楽しめるんだよ? そんな細かい事はこの際……おかまいなしさ」

 なるほど。

 死ね。このクソ野郎……要はそういう事らしい。

「で? 何が良いたいんだ? ブライアン?」

 俺の問いかけに、ブライアンは饒舌に語り始めた。

「彼は貧乏貴族の3男坊だ」

「知ってるよ」

「そして彼の父君は……先代まではとある王国の騎士団長だったらしい」

「……ほう」

「まあ、オークキラーと呼ばれる男に追い落とされたようなんだが。そこから彼の父親は失脚を繰り返し……そして現在の貧乏貴族に至ると」

 ああとそこで俺は納得した。

 オーク=キラー……俺の剣術の師匠、バーナードさんか。

 めっちゃ懐かしいな。

 今度、顔を出しに行かなきゃな。散々止めたが、はたして酒は止めてくれたんだろうか。

 とりあえず、仙酒のストックはあったよな。まあ一晩位は飲ましても大丈夫か。最悪、肝臓へのダメージは仙酒のエリクサー割りで何とかなるか……。

 と、そんな事に俺が思いを馳せているとブライアンは得意げに続ける。

「彼は幼少の頃から剣術・身体能力強化に特化した訓練を受けている」

「……一応、筋力で俺はあいつを抜いたんだけどな?」

「君の場合は村人だから……ステータスやスキルを鍛えても伸びる余地が無くて、どうしようもないという消去法で、馬鹿みたいに純粋筋力を鍛えていたんだろう?」

 ともかく、とブライアンは掌を叩いた。

「彼は貴族の家系。産まれながらの戦闘民であり、そしてそのように育てられてきた――村人に勝てる道理はない」

 そして、昼食を終えた俺達は10キロのランニングを終える。

 後、14時――近接戦闘訓練の時間となった。

 体育館で俺とペアを組んだ俺とアーサー。

 午前中の俺達のやりとりはこの場の全員が知る所である。

 事前の説明によると、20を超えるペアに分かれ、教官の合図と共に全力を尽くして近接戦の乱取りを行うと言う事になっている。

 普通は怪我をしないように加減をするのだが、俺達の場合はお互いが怪我をしても文句を言わないと言う、半ば私闘や決闘に近いノリでこの場に臨んでいる。

 だからこそ、必然的に教官も含めて全員が俺達の一挙一動に注目している訳だ。

 と、アーサーは俺の対面で模擬剣を構えて得意げに笑った。

「おい、村人? お前は知ってるか?」

「何を?」

「身の程って……言葉をだ」

 はぁ……とため息をついて、俺もまた模擬剣を構えた。

「ところで……お前も知ってるか?」

「何だ? 村人?」

「無謀って……言葉をな」

 はてな、と言う表情を浮かべるアーサー。

 恐らく、アーサとしては自分はライオンであり俺は草原に走る兎かガゼルなんだろう。

 だが、その認識は誤りだ。

 ――お前がライオンなら……俺は怪獣映画のキングギドラも裸足で逃げ出す超怪獣だ。

 と、そこで教官の凛とした声色が体育館に響き渡った。

「開始っ!」

 言葉と同時に――



 ――ストン



 軽い打撃音と共にアーサーはその場に崩れ落ちた。

 俺がやった事と言えば、一瞬でアーサーの背後に回り込み、そして模擬剣で首筋を殴打。

 アーサーの頭蓋の中では脳みそがシェイクされ、一瞬で彼の視界はドロドロにとけて――そしてそのまま夢の国へと飛び立ったと。

 まあ、そういう事だ。

 体育館内に静寂が訪れる。

 そして響き渡るざわめき、そしてどよめき。

 そこで、近くにいたブライアンが俺の下に駆け寄り、半ば悲鳴のように叫んだ。

「……何ですっ……て……? ベテラン冒険者と呼ばれるDランク級冒険者……いや、流石にそれは言い過ぎにしても、僕達の年齢で……それでも一人前の冒険と呼ばれる……Eランク級冒険者程……そうでないと、アーサーがここまで一方的にやられるという……つじつまが合わない」

 そして、ブライアンは肌を蒼ざめさせて俺にこう問いかけてきた。

「貴方は……Eランク級の冒険者と肩を並べるような……実力があると言うのですか?」

「……Eランク……おっ……おう……そうかもしれねーな」

 ブライアンの言葉に俺は正直、反応に困った。

 見ると――リリスは必死に笑いに堪えている。

 ちなみに、彼女は学院からC+級冒険者相当として特待生クラスに迎えられている。

 中級魔法の常識外れの連打を評価された訳だが……。

 上級魔法や龍族の秘術を披露させずに本当に良かったと思う。

 もしもそうなっていたとすれば、相当に面倒な事になっていたことは請け合いだ。

 ちなみに、コーデリアの評価はBランク級冒険者というレベルと言う話だ。

 俺の見立てでは魔力暴走制御時のコーデリアはAランク級の中位~上位には達している気はする。

 今なら、邪龍アマンタも単独で余裕をもって討伐できるだろう。

 まあ、それはそれとして。

 そこで、教官が俺の下に駆け寄り、そして唾を飛ばしながら喚いた。

「お前……何をした? 何をしたんだっ!?」

「怪我をさせないように相手を無力化させた。それだけだぜ?」

「いや、お前……アーサー=マーカム学生は駆け出し冒険者程度の実力はあるんだぞ? それを無反応で一蹴するなぞ……Dランク級冒険者程度の実力は必要……」

 なるほど。

 教官は今の動きをDランク級冒険者の近接職相当だと判断したようだ。

「だから、怪我をさせないように相手を無力化させた。それだけだぜ?」

「……お前は一体何者なんだ? お前のような輩が……何故にこんなところに……?」

「俺か? 入学試験の結果、最底辺クラスに入れられた……村人だよ?」

 と、そこで俺は肩をすくめてこう続けた。

「……まあ、次の修了試験でここからはすぐに出ていくがな。それまでは……筋トレの指導はマジでよろしくお願いします」





 翌日の朝、俺は憂鬱と共に起床した。

 昨日の俺のアレコレは諸々衝撃を与えたようだ。

 ブライアンは再度、俺に対してだんまり――嘲笑の無視ではなく、畏怖の無言に変わったようだが――を決め込んだ。

 そしてアーサーは俺を見る度に何とも言えない表情で浮かべて、ただ無言で挨拶かのようにペコリと頭を下げるようになった。

 想像してみてほしい。

 俺と、アーサーと、ブライアンは同部屋だ。

 しかも同い年で、寮生活だ。

 更に言うなら、割とキツイ感じでの訓練機関の共同生活だ。そして、部屋と言えば少ない自由時間を過ごす場所だ。

 本来、みんなで和気あいあいと配給の甘味を食べたり、あるいは好きな女子の名前を言ったり、そういう……キャッキャウフフな時間を過ごす場所のはずだ。

 だが、俺達には会話が無い。

 俺が上半身を起こして周囲を見渡すと、俺よりも先に起きていたらしいアーサーがベッドの腰掛けたままペコリと頭を下げる。

 そして、これまたやはり俺より先に起きていたブライアンは俺の顔を見ると、どうして良いか分からないと言う表情を作る。

 そうして、ブライアンは布団を被ってそのままベッドに潜り込んでしまった。

 ……これは気まずい。

 深く溜息をついて、俺は天井を見上げた。

 で、朝6時のランニングに間に合うように俺達は無言でグラウンドに出る。

 本来、準備運動とランニング10キロが行われる時間なのだが――我らが教官殿はとんでもない無茶振りを仕掛けてきた。

「……本日はメニューを変える」

 グラウンドに並べられた登山用リュックサック。

 そして、リュックサックの近くに並んでいる護衛の冒険者達。

「本日のメニューは迷いの森での100キロ歩行だ。当然、全員にゴルゴダの手枷をつけ、純粋な筋力のみで挑戦してもらう。そして登山用リュックには水が5キロ。砂袋が15キロとなっている」

 そして……と、息を吸い込んで教官は続けた。

「できなかった者は……自主的に退学してもらう」

 なるほど、と俺は頷いた。

 先日、教官は前代未聞の負の意味での運動能力を叩きだした三枝に対し『上と相談して協議する』と言っていた。

 恐らくは、その協議した結果が突然のメニュー変更なのだろう。

 つまりは運動オンチの三枝だけを絞って狙い撃ちにしてきやがったと言う事だ。

 そうして、俺達はリュックサックを無理矢理に配給され、そして背負わさせられる。

「大丈夫か……三枝?」

「……大丈夫に……見えるです?」

 基本、三枝は小柄だ。

 そしてリュックサックの重量は20キロ。

 今にも重心を崩してコケそうな感じで、俺は不安に顔をしかめる。

「でも、まあ、仕方ないんです……頑張るしかないんです」

「……まあ、とりあえず自力でいける所までいってみろ」

 そうして、俺達の100キロ歩行は始まった。

 案の定と言うか、当然の出来事と言うべきか。はたして、開始2キロで三枝の歩行ペースが乱れ始めた。

 そして開始5キロで三枝はその場にへたり込んでしまった。

「コハル=サエグサ学生? ここで辞めるなら自主退学だが――良いのか?」

 教官の問いに、俺が三枝に代わって答えた。

「俺が三枝の面倒を見ます。みんなは先に行っててください。状況を判断した後……三枝のリタイアについて回答しますから。10分でいいから時間をください」

 俺の言葉を受け、教官は護衛の冒険者に合図をする。

 すると、俺達の近くに冒険者2名が歩み寄ってきた。迷いの森ということで普通に魔物もでるから監視兼護衛というところだろう。

「三枝? どうしたんだ? 本当にもう限界なのか?」

 座り込んだ三枝は靴を脱いで足裏を確かめる。

 そして涙目で俺に向けてこう言った。 

「血豆が……できちゃったんです」

 俺は三枝に歩み寄り、彼女の背負うリュックサックに手をかける。

「貸せ。持ってやるよ」

「でも……リュート君が……大変なんです」

「お前という存在自体が俺にとっては大変なんだよ。良いから貸せ」

 しばし押し黙り、そして三枝は気恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに笑った。

「……リュート君。ありがとうなんです」

「血豆。見せてくれるか?」

「……?」

「初歩的な回復魔法を俺は扱える。まあ、簡単なものだがな」

 俺の言葉を理解したのか、三枝は溜息をついた。

「私……本当に……昔からダメな子で……ごめんなさいなんです」

 心底申し訳なさそうにそういう三枝に、俺は回復魔法を施しながら問いかける。

「ところで三枝さ?」

「なんなんです?」

「どうしてこんな最底辺クラスに……お前みたいなAランク冒険者レベル……北の勇者:コーデリアと同じ領域の化け物がいるんだ?」

 言葉を受け、三枝はしばし固まる。


 そして――引き攣った笑みを浮かべた。


 そうして三枝は諦めたように空を見上げる。

 遠く空を眺める彼女に俺は問いかける。

「東方の巫女……三枝の一族。神代の時代から祭祀を司り、遥か古代に神々と契約を行い……血族遺伝の特殊スキルを獲得しただったかな?」

「倭国においても大っぴらにはされていない事項なんですけどね。精神世界にチャンネルを開く事ができる、降霊……口寄せの特殊スキルを持つ……それが三枝の巫女なんです」

「口寄せって確か……死んだ人間の魂を現実界に寄せて自らの肉体を依代にする。そして遺族だかなんだかと話をするんだけっか?」

「そのとおりなんです。三枝神社の主な業務は遺産分割協議のお手伝い……となっているんです。他にも、殺人事件の犯人探しに狩りだされたりすることもあるんです」

 えらく現実的に口寄せと言うか、イタコの技術は行使されているらしい。

 そこで三枝は怪訝な表情を作り、俺にこう問いかけてきた。

「何故私が北の勇者であるコーデリアさんと同じ領域の化け物だと思うです? 私たちの一族はただの口寄せ師で……」

「お前の親戚はイタコ……口寄せのスキルだけしか持ってないんだろうが、お前はそうじゃねーだろ? 三枝神社を中心とする里は深い山中にあって、わざわざ関所を設けてまで外界との接触を制限されるような特殊地域に指定されているはずだ。それはどうしてだ?」

「……」

「お前は確かにただのイタコとしてここに入学したんだろうよ」

「……はい……なんです」

「本命のスキルの方は隠匿したまま……なんだろう?」

「……」

「戦巫女(いくさみこ)。口寄せの技術が転じ、神界も含めた精神世界にアクセス。そして三枝の一族が遥か古代に契約をしている神をその身に降臨させ、神の意志の下に地上現界にて絶大な力の行使を行う……」

 大きく三枝の目が開かれる。

「口寄せの話だけであればリュート君が知っている事は理解できます。でも、どうして……? 西の果ての大地の、しかもこんなところで……三枝が何者であるかを正確に知っている人間がいるんです?」

 龍王の図書館にある『世界希少血族一覧』。

 強くなるための方法を模索していた時に出会った一冊なんだが、そこでは三枝の名前は相当上位のレアスキル持ちにランクインされていたんだよな。

 まあ、その事については……教えないほうが良いか。

 ちなみに、冒険者ギルドのランクに換算すると神を降臨させた状態で恐らくはAランク級冒険者と言う所だろう。

 これは国家レベルで管理がギリギリ可能という意味であり、戦争時に局地的な戦況を単独でひっくり返せてしまうような戦術兵器である事を意味する。

 つまりは、控えめに言っても化け物なのは間違いない。

「そして、血族遺伝。血族全体の代表として、三枝の直系の長女は神を身に卸す事ができる。まあ、一族全員が神を身に卸せてしまうとそれだけで世界征服が真面目に可能みたいなトンデモ能力だろうからな。一人だけしか使えないってのは良くできたシステムだ」

 そこで三枝は、はてなと小首を傾げた。

「……でも、どうして私が……直系の長女だと分かったんです?」

 はは、と笑って俺は三枝の肩をポンと叩いた。

「ここにいるのは……どいつもこいつも新米冒険者以下のヒヨコ連中ばかりだ。そんな中で一人だけ大怪獣が混じっていれば嫌でも分かる」

「…………」

 三枝は真顔で無言になった。そして納得いかないと言う風に眉をひそめた。

「どうしたんだ?」

「私も馬鹿じゃないんですよ? リュート君がとんでもない力を持っている事はわかりますです」

「……」

「でも、その力の底が見えない。全容が全く分からないんです。こんなことは初めてで……私が大怪獣なら、リュート君は……何者なんです?」

「……ただの村人さ」

 そこで三枝はプっと吹き出した。

「どこの世界にそんな村人がいるんですか」

 ここの世界にいるんだが。まあいいか。

「で、本題だ。どうしてお前はこんな所にいるんだ?」

 ふむ……と三枝は顎に手をやり、キリっと眉を吊り上げ真剣な表情を作った。

「結論から言うとですね」

「……?」

「何故に私が魔法学院の最底辺クラスにいるかと言う事ですよね? 答えは単純です」

「……単純?」

「実際に今の私は雑魚も良い所なんです。ですからこれは実力どおりなんです」

「どういうことだ?」

「現在……この地上に三枝の一族は私の知る限り数人しかいないんです」

 はてなと俺は首を傾げる。

「確かお前等の集落……っていうか、里か? まあいいや。ともかく、三枝神社を中心として山奥に里が形成されていて、里の人間は全員が親族か関係者で構成されているんじゃなかったのか?」

 コクリと三枝は頷いた。

「……里が滅びたんです」

「滅びたっつーと?」

「そもそもですね。三枝の一族が何故に山奥に引っ込んでいるのか。そこは知っていますです?」

「東方の厄災個体……ヤマタノオロチだったかな?」

「……本当に何でも知っているんですね」

 呆れたように三枝は笑った。

 ただ、いつものような明るいというか馬鹿っぽいと言うかそういう感じではなく、憂いの色が帯びていて妙に艶っぽい。

 三枝も何だかんだで女なんだな……と、一瞬だけ息を呑む。

 と、そこで俺は『いや……』との前置きの後にこう続けた。

「何でもは知らねーよ」

 知ってる事だけ……と続けようとしたが、三枝にはこのネタは絶対に通じないので辞めておいた。

 と、冗談はさておき、里が滅びたという話は穏やかではない。

「……で?」

「かつて数多の村落を呑みこんだ8つの頭を持つ怪竜……それが三枝の里の近くに封印されていたんです」

「要は、お前らの役割は厄災……ヤタノオロチ専用の守り人って事だな?」

「ええ。ご先祖様が神様からその使命を授かり、そして私たちは先祖代々、その時々の帝(ミカド)の庇護を受け、オロチの監視と封神を司っていますです」

「で、そのヤマタノオロチの封印が解かれ、お前等は交戦し、そして……里が滅びたと?』

 フルフルと三枝は首を左右に振った。

「オロチの封印が弱まり、その復活が秒読みとなっていた事は事実なんです。でも……結局、オロチは復活を遂げなかったんです」

「……?」

「いや……最後の定期観測ではむしろ復活の予定時期は……予定よりも数百年後になるような……後ろ倒しにされたといいますか、そういう……ありえない事が起きたんです」

「じゃあ、何がお前らの里を滅ぼしたんだ?」

「……鬼の群れが里を襲ったんです。ここいらではオーガと言った方が通じますですかね?」

「鬼? 厄災の守り人を任されるような人間がいる里が……? どうしてそんな連中に滅ぼされるんだ?」

 オーガと言えば、確かに決して雑魚ではない。

 駆け出しの冒険者であれば見かけた瞬間に逃げるのが常道だし、ある程度の経験を積んだ冒険者がパーティーで個体を狩るのが通常だ。

 とはいえ、一国の騎士団クラスであればむしろ、オーガの群れは討伐遠征のお得意さんであり、通常の、地方レベルの軍隊機構・警察機構であれば十二分に対処ができる。

 むしろ、オーガが大量発生すれば年貢の増加の良い口実になると地方領主であれば喜ぶような代物だ。

 俺の考えを読み取ったかのように深く三枝は頷いた。

「鬼の進化形態……鬼将なんです」

 オーガジェネラルの事だと思う。

 冒険者ランクで言うとCランク級の実力で、ベテラン冒険者が徒党を組んでようやく討伐できるかどうか……というところだろう。

 恐らく、ここの教官でようやく一対一でどうにかできるかどうかのレベルの魔物だと思う。

「いや、だからさ。オーガジェネラルにしても……お前はAランク級の実力を持ってんだろうがよ。話がイマイチ読めないぞ?」

 しばし押し黙り、そして大きく息を吸い込んでから三枝は口を開いた。

「……私たちを襲った鬼の群れ。その数は50を超えていたと思いますが……その中に鬼はいませんでした」

 本当に意味が分からない。

 若干の苛立ちと共に俺は三枝に尋ねた。

「オーガの群れに襲われたのにオーガがいない? 意味わかんねーんだが?」

 三枝は頭を手で軽く押さえる。

 と、同時に彼女の顔から血の気が引いていく。

 どうにも、嫌な事を思い出したらしい。

「正確には鬼ではなく、鬼将の群れだったんです。いや……場合によっては……ひょっとするとあの中には鬼王もいたのかもしれないんです」

「……オーガキングが率いるオーガジェネラルの……群れ……だと?」

 オーガキングと言えば冒険者で換算するとB+~A-だ。

 地方領主単独では全滅覚悟の殲滅戦でも返り討ちの憂き目にあう危険性すらあり、通常の戦力運営の範囲内でははっきり言ってしまえばそ手に負えない。

 本国に応援要請を行うような、そういった次元の超危険生物なのだ。

 と、そこで俺は嫌な予感に背中を湿らせた。

 かつて、ゴブリンキングを率いるゴブリンエンペラー……その群れが世界中に大量発生して世界を席巻したことがある。

 ゴブリンがゴブリンキングに。

 ゴブリンキングがゴブリンエンペラーに。

 そして、ゴブリンエンペラーがアルティメットゴブリンに。

 一個体の突然変異によって、一代限りの種族全体の進化が促され、世界のパワーバランスが大きく崩れる――あの現象の名前が脳裏によぎる。

「まさか……大厄災か? いや、でも……東方でそんな事が起きたと言う話は聞かねえな」

「分からないです。でも、あの日あの時……里を守るはずの屈強なはずの男衆は鬼将の群れに……瞬く間に呑まれました」

 東方の巫女は、神を身に宿している最中以外は無力だと言う話だ。

 そして、神格の降臨にはかなり時間がかかる。

 そうであれば普段、彼女を護衛する為の男衆は必要だろうし、いざ、厄災との決戦の際に神を降ろす為の時間を稼ぐ面子は必要な訳だ。

 当然、その面子は厄災に対峙してもある程度は持ちこたえる事の出来るような歴戦のツワモノで有り、普通の魔物に里が襲われて程度で全滅するわけも無い。

 と、なると三枝の言葉は恐らく本当なのだろう。

 ところで……と俺は三枝に問いかける。

「オーガジェネラルの群れだけなら、お前一人でも何とかなっただろう? いや、オーガキングがいても恐らくは……どうとでも対処できたはずだ」

「……」

「それに、どうして……オーガキングがいたのかも知れないって……そういう言い方になるんだ? 無論、お前が先陣切って戦ってたんだろうよ?」

 何とも言えない哀しい微笑を作り、三枝は肩をすくめた。

「……分かりましたです。論より証拠……ですよね?」

 それだけ言うと三枝は白衣をゆるめて、胸元をはだけさせる。

 こぼれ落ちるように白肌に包まれた巨大な胸がブルンと揺れ、そして俺はドギマギとしながらこう言った。

「おい、三枝っ!? 何で帯をといて、胸元を……っ! って、おいっ!?」

 それどころか三枝はそのまま上半身に纏われていた白衣の全てをはだけさせて――それはそのままの意味で上半身の脱衣と言う状況となった。

「だからおいっ! って……三枝っ?!」

 危なかった。

 ギリギリのところで……マシュマロのような胸の中心部にはピンク色の何かは見えなかった。

 胸にはサラシが巻かれていて、意外に露出は多くは無い。

 と、そこで俺は三枝の左肩に巻かれている包帯に気が付いた。

「これを見てもらえれば全て分かると思いますです。何故に私がこんなところにいるのか。そして……そのままの意味で役立たずの雑魚になってしまっているのか」

 三枝は包帯を解き、そしてそこから現れたモノを見て俺は絶句した。

「……なるほど。そういう事か」

 東の勇者と三枝の一族、ヤマタノオロチと言う厄災の復活延期……。

 そして大厄災の影。

 ――コーデリアの護衛だけでこちらは手一杯なんだがな……。人間同士のイザコザなんてやってる場合じゃねえだろうが……。揃いも揃ってアホばっかかよ……。

 やれやれと俺は深く溜息をついた。

三枝の肩には直系10センチほどの紫色の斑点が描かれていた。

「……論より証拠的にそれを見せるって事は、それが何かって事は十分に分かっているんだよな?」

 三枝は沈痛な面持ちと共にコクリと頷いた。

「少なくとも三枝の長女にとっては最悪バッドステータスなんです」

 だろうな、と俺も首肯する。

「その左肩に描かれている斑点。それはあらゆる身体強化術式、強化スキル、そして強化アイテムを無効化する……呪いの術式だよな?」

「……はい……なんです」

 はぁ……と俺は深いため息をついた。

「おい、三枝?」

「何なんです?」

「恐らく、体表……皮か指先か手足……どこかしらに身体欠損の症状は有るよな?」

 その言葉で三枝は完全に固まった。

 そりゃあそうだろう、本来、それは他者には知りえない事実で……まあ、俺には龍王の図書館というチート級のチートがあるから知ってるんだが。

「どうして……知ってるんです?」

 苦笑しながら俺はこう言った。

「さあ、どうしてだろうな? とりあえず……どうでも良いから見せてみろ」

 ヘソの辺りにも巻かれていたサラシ。

 三枝がサラシをほどき、中の状態を確認して俺は眉をしかめた。

「……こりゃあ酷いな」

「皮がめくれて、半ば膿んでいますからね」

 簡単に言うと、三枝は今現在、呪いによる穢れの為に神を受け入れる事ができない。

 そして、その呪いと言えば数年、あるいは数十年単位をかけてネチっこく事前準備をされたうえで――例えば、髪の毛を奪われるとか。

 あるいは、霊的な因果を含んだ何かを経口摂取させられるであるだとか。

 はたまた、長期間――寝所の東西南北の魔術的な要所の要を全て取られたうえで、気の遠くなるような時間をかけて呪術を仕掛けられていたのか。

 ――俺の見立てではその全てだ。

 ここまで酷い汚染をされると言う事は……三枝の一族は優秀な厄災の守り人ではあったのだろうが、対人関係ではあまりにも脆かったと判断せざるを得ない。

「で、この犯人は?」

「……分からないんです」

 ああ……と俺は天を見上げた。

 三枝家に敵対するような連中を考えればすぐに分かる。

 そもそも、三枝家は東方の土地に置いて最も無害な……ただの守り人の集団で、私欲も無くコストもかからない集団だ。

 それを目の敵にするのであれば、純粋に三枝家の持つその戦力に対して腹にイチモツを持つ者に限る。

 東の勇者は代々陰陽道の開祖の家系に生まれるはずで、神道職の最上位である三枝とは目の敵。

 ――そして、俺が見る限り、このネチっこい独特な術式は……陰陽道のソレだ。

 と、なれば犯人はソレしかいない訳で。

 そこで、三枝は神妙な表情を作りこう言った。

「三枝が使える神は、太陽神を祭る神社なんです」

「知ってるよ」

「……私の役目は、戦の時に……里のみんなを守る戦巫女なんですよ」

「知ってるよ」

「私たちの里は鬼将に囲まれたです。男衆はみんな戦う為に外に出ましたです。そして私も……戦巫女としての初陣に立とうとしたんです」

「……」

「みんな、みんな……散っていったです。私に神が降臨する時間を稼ぐために……散っていったです。私を信じて、私が神様の力を身に宿しさえすれば……と」

 三枝の肩に目をやる。

 そして……何とも言えない表情を俺は作った。

「――――肝心要のその時に、私には……神は降りなかったんです」

 そりゃあ神聖強化魔法の一種を……強力な呪術を喰らっている状態で発動できるわけも無い。

 三枝はまつ毛を伏せて、若干の狂気の色を混ぜた半笑いでこう言った。

「ねえ、リュート君? 私……何もできなかったんですよ? 里のみんなが鬼に襲われて、蹂躙されて、穀物を、金銭を、全てを奪われて、そして女衆が攫われて、犯されて……それなのに、私は何もできなかったんですよ?」

 そして、と三枝は続けた。

「小さい子供からは巫女姉さま。似たような年齢の子からは心春様。年上の人からは巫女様。そしてババ様やジジ様からは戦巫女様。笑っちゃいますですよね? 巫女様、巫女姉様って……みんなが私に良くしてくれて、慕ってくれたのに」

 三枝は唇を噛みしめ、そして唇から血を流した。 

「……私が神を降ろせない事に気付いた大人たちは……本当に……怒りを、そして優しさを、更に諦観を……全ての表情を込めて、その上で優しく笑って、みんながみんな……そして……」

 彼女の瞳から涙がこぼれる。

「そして?」

「悲し気に、でも……優しく笑って……私を神社の地下の座敷牢に閉じ込め……そして…………鬼将と鬼王の群れに呑まれ、里は壊滅したんです」

「なるほど。大体の事情は分かったよ。それで、お前はどうして、こんな東の果てまで来ちまったんだ?」

「里が壊滅した後、私は都に召喚されて陰陽道の学舎に入れられましたです。神は降ろせないとしても、それでも腐っても三枝……魔法の適正はあるはずだと」

 それが事実なら無茶振りも良い所だなと思う。

 三枝は産まれてこの方、神を身に卸す事を前提にカスタマイズされている特殊な立場にある。

 魔法への適性はあるかもしれないが、普通の魔法使いとは全く異なる術式とスキルで脳内魔術回路が覆い尽くされていて、普通の魔法なんて扱えるはずがない。

 どうにも東の勇者――陰陽師の性格は最悪のようだ。

「それでどうなったんだ?」

 俺の予想通りの言葉を三枝は続けた。

「どうもこうも、私みたいなドジに普通の魔法が扱えると思うです?」

 うん、思わない。

「そうして、私は晒し者になりましたです」

「晒し者っつーと?」

「……数千年を誇る伝説の巫女の家系のその筆頭が初歩魔法もロクに使えないグズだと……その事実が白日の下に晒されたんです」

 っていうか、まあ、普通に考えて三枝は特殊技能枠だからな。

 得手不得手があって……いや、そこは言っても仕方ないか。

 そもそも、そうなるように最初から仕向けられていたんだろうからな。

 どこかの誰かさんが東方での絶対唯一の最強である為には、三枝が邪魔だった。

 これは恐らくはそういうレベルのくだらない話なのだから。

「で、どうしてお前はここに?」

 そこで三枝は儚げに笑った。

「私が失ってしまった力……三枝の力って……私だけのものなんかじゃあ決してないんです。私の血族が遥か古代に神々と契約と盟約を結び、そして手に入れた圧倒的な力なんです」

 そうして拳を握りしめて三枝はこう続けた。

「たまたま、私は長女に産まれただけなんです。この力は血族全体で獲得し、そして血族全体の力で次代に継承されてきた力なんです。私は……その力をみんなの代理で、代表として受け取っているだけなんです」

「……で?」

「みんなが私を守る為に散ったのは私の中の力がそういう力だって分かっているからなんです。みんなが死んだ理由は私と、そして私に眠る三枝の存在意義を守る為なんです」

「……そうかもしれねーな」

「でも、私は……いや、三枝は倭国では役立たずの代名詞となってしまったです」

「それは分かったからそろそろ質問に答えてくれねーかな? 何でお前は西の果てで魔法学院に入学しているんだ?」

「――術式が違うからです。東方の魔術でダメでも西方なら……三枝の一族は厄災を封じる由緒正しき戦巫女の血族なんです。例え神を降ろせなくても……努力すれば必ず――三枝を馬鹿にした連中を見返す事はできるんです」

 ああ、と俺は溜息をついた。

 こいつは本当にただの馬鹿だ。それがどれほどの無茶なワガママであるかを……全く理解していない。

 血族遺伝のスキルというものが何故に強大過ぎる力を持っているのか、そしてそれほど強大な力を手にしていながら、更に通常人の扱う魔術の力までを手に入れようとすることがどういう事なのか。

 その意味を全く何も分からないまま……こいつは遠路はるばる、西の果てまでやってきた訳だ。 

「最後に尋ねるが……お前が神を降ろせなくなったのは肩に現われている呪いの影響なんだよな? どうして状態異常を回復しない?」

「できるものならとっくにやってるですよ。お医者さんにみせても、高名な祓い師に見せても、何を見せてもみんなお手上げでしたです」 

 自分の為でなく、一族の汚名を晴らすためにだけに東の果てから西の果てまで留学してきたその根性には脱帽せざるを得ない。

 っていうか、俺自身が泥水をすすってようやくここまでこれた人間だから……頑張っている奴は嫌いじゃない。

「しゃあねえな……」

 そのまま俺は三枝の肩をマジマジと見つめる。

 呪いの類としては10段階で評価するなら7って所か。

 人間界の知識だけで、ここまでの術式を組めるなら大したもんだ。

 そりゃあ、人間界の誰に頼んでも基本的にはサジを投げられるだろう。

 っていうか本当にネチッこい方法で、ありとあらゆる事前準備を、気の遠くなるような時間をかけて行ったんだろうな。

さて……と、この状況を何とかできそうな手持ちの駒を整理する。

 仙術の起動式はリリスが必須なので今この瞬間の仙術の行使は不可能――と、なれば。

「喰うしか……ねーか」

 肩をすくめて俺は右掌を三枝の患部に近づけていく。

「え? リュート君?」

「ちょっと黙ってろ」

 右掌の中心部――ピンポイントで体内に巣食う大喰らいのバケモノの封印を解放する。

 すると、三枝も肩口からドス黒い霧が噴出し、そのまま俺の掌に吸い込まれていく。

「掌に……瞳が? リュート君……何をしたん……です?」

「巫女にかけられた呪いを解いた。そんだけだよ」

 そうして三枝は自らの肩に目をやった。

 傷口はそのままだが、先ほどまで傷を覆い尽くしていた負の魔力――呪は完全に消え去っている。

 そしてしばし考え、三枝はポカンと口を拡げてこう言った。

「でも、どうして……?」

「喰った」

「食ったって……え……あ……え?? どーーーいうことなんです!? 倭国で色んな高名な先生を訪ね歩いて、全部……全部ダメだったんですよ!?」

 と、そんなに驚かれても、事実食ったとしか言いようがないのだから困る。

「って言われもなァ……説明すると余計にややこしいし……」

 ベルゼブブは魔法を喰らう。

 そしてベルゼブブの能力は、必然的に主従関係を結んでいる俺が扱える事になる。

 結果として、大体の魔術師の攻撃は俺の前では無為に帰するということだ。

 リリスにはチートに過ぎると呆れられている。

 まあ、あいつは魔術師系統だからな……この能力には納得ができない部分は多々あるだろう。

 で、中途半端に神の降臨の知識がある三枝が相手だ。

 ベルゼブブの領域の神格を、助太刀をお願いすると言う形の降臨では無く、飼いならしていると言う事実はちょっと刺激が強すぎるので説明できない。

 ――7大罪を司る魔王。

 それを体内に飼いならしているなんて、そんなヨタ話を笑って呆れてくれるのはホスト侍――龍王くらいの話だ。

 いや、まあ、2か月前……討伐の際には本気で苦労したがな。

 リリスですら危険すぎるから1キロ離れた遠方で全開で防御魔法陣を張らせていたし……。

 とはいえ、仙術を通り越した闘仙術抜きでは100パー勝てなかったし……、それはリリスがいないと発動できないし……。

 で、そんな感じで俺とベルゼブブも戦いの余波を1キロ先で窺っていた……そんなリリス曰く。

『……少しは人間の……せいぜいがA~Sランク級冒険者程度の次元でしかない私の事を気にして欲しい――私のレベルでお前等の次元のレベルの全力の戦いの爆心地の余波を――たった1キロしか離れてなくて……全力で防御魔法を張ってたとして……耐えられると本気で思う?』

 そして、右ストレートと共に俺はリリスにこう言われたのだった。

『……殺す気かっ……この馬鹿っ!』

 まあ俺はその時始めてリリスのマジ切れを見た訳だ。

 ちなみに、初めてその時俺はリリスに『お前』と言われたので、ビックリした。まあ、それは良いや。

 と、そこで三枝は何とも言えない表情で肩をすくめた。

「のらりくらりと……まったく……リュート君って人は……」

「で……本来の力を取り戻した訳だよな、お前は?」

 言葉を受け、三枝はどうしていいか分からないと言う風な表情を作る。

「いや、正直……分からないんです。確かにそんな気もしますけど……」

「で、そこで提案があるんだよ、三枝」

「提案?」

「お前の里は、鬼――オーガにやられたんだよな?」

 ええ、と三枝は頷いた。

「主に鬼将……そして、あるいはそれを率いる鬼王……なんです」

 そうして、俺は右手で北の方角を指さした。

 迷いの森ってのは、基本的には人間界に寄っている場所で魔の気配は薄いんだが……。

「あっちにオーガジェネラルがいるんだよ。しかも……恐らくは斥候として」

 通常、オーガジェネラルと言えば相当な危険生物だ。

 だが、俺が感じた気配は数十の単位で、そして全てがオーガジェネラル。斥候でこの数なのだから背後にはとんでもない数がいる。

 間違いなくオーガキングも存在しているだろう。

 東方の時と全く同じ事象だ。そしてこれは人為的に起こされている。今回、恐らく狙いはコーデリア……。

 そこで俺は溜息をついた。


 ――俺もいい加減に学生と一緒に遊んでいる訳にもいかないらしい。


 とはいえ、これは三枝の復活には良い機会だ。

 三枝の手を引きながら少し歩くと、視界の先にオーガジェネラルの姿が見えた。

 その時、森全体に響き渡るような音響で低温が響き渡った。

「お前等逃げろっ! オーガジェネラルだっ! 俺一人では手におえんっ!」

 完全に存在を忘れていた。

 そういえば、俺らから少し離れた位置に、俺らの護衛として教官がDランク級だかEランク級だかのベテラン冒険者を置いていったんだっけか。

 ぶっちゃけ、非常に迷惑だ。足手まとい以外の何物でもない。

「俺が感知している数は30程度だ……とりあえず、お前が5体も対処したら後は俺も手伝ってやる。リハビリにしては上出来だろう?」

 クスリとそこで三枝は笑った。

 まあ、本気を出せば三枝は恐らくAランク級冒険者相当の業前だ。

 対するオーガジェネラルはせいぜいがCランク級程度で一対一であれば話にすらならない。

「リュート君? 私は本当に……今……神と接続ができるんです?」

 俺は頷いた。

 と、いうかそれは三枝も何となく分かっているのだろう。何しろ、自分を今まで束縛してきた呪術が一瞬で消えたわけだ。

 例えるのであればそれは風邪の諸症状が一瞬で消えた程の……いや、強い麻薬で痛みの全てを消し飛ばしたような有りえない爽快感に体中が包まれているはずだ。

「……分かりましたです」

 喜色の表情を三枝が浮かべたその時、森の中に再度の大声が響き渡った。

「ヒィっ!!! 言ったからな!! 俺は逃げろって言ったからなっ! ってか、何でオーガジェネラルを目視して逃げないんだよお前等っ! 自殺志願者なんざ守れるかよっ!」

 脱兎の如くに冒険者は駆けていく。

 良し。他のオーガジェネラルのいない方向だ。

 迷いの森は基本的には雑魚しか出ない魔の領域だ。で、あればベテラン冒険者の彼ならば恐らく逃げきれるだろう。

 と、そこで三枝は呪文の詠唱を開始した。

「旧き盟約によりて――」

 それは、呪文というよりも歌に近かった。

 併せて空中に魔法陣を指先で描いていくのだが、その動きは日本舞踊のそれに近い。

 これが月夜の祭事であれば本当に幻想的な……そんな舞いだった。

「我は願いそして奉らん――」

 甲高い声で三枝は歌うように言葉をつむいでいく。

「ほう……」

 思わず俺は溜息をついた。

 三枝を包んでいる気の毛色が変わっていく。

 清廉にして静謐。

 迂闊に汚い手で触れればタダでは済まないような、俺ですらもそう感じるような……そんな高貴であり、鋭利な冷たさを持っている。

 オーガジェネラルは三枝に小走りに駆けよっていく。

 見た目だけならこれだけの上玉だ。恐らくは攫って巣に連れ帰り、子種の苗床にでもしようと考えているのだろう。

 オーガジェネラルと三枝の距離差は10メートルを切った。

 と、その時、彼女は首を左右に振った。

「ダメなんです」

 言葉と同時、三枝に周囲に集まった高貴なる気が飛散して消えていく。

「……どうしたんだ三枝?」

「足が震えて……上手く……術式が構成できないなんです……」

 顔色はいつの間にか血の気が引いて、酷いものとなっている。

 そういえば、里はオーガジェネラルに全滅させられたって話だな。

 魔法全般に言える事だが、魔術ってのは脳内で回路を走らせて外界に干渉する訳だ。

 必然的に脳内の状態に非常に左右される訳で……。かつてのトラウマで精神状態がズタズタ。そして相手はそのトラウマの対象。

 しかも久しぶりの発動とあれば、まともに機能するわけも無い。

 ちょっと、無茶振りをさせすぎたらしいな。

 その時、三枝の小柄な体躯をオーガジェネラルが小脇に挟んで抱え上げた。

 そしてそのまま踵を返して元来た方向に走り帰って行く。

 オーガの股間部はついさっき確認したが……痛い位に血液が一点に集中しているのが良く分かった。

 このまま三枝を巣穴に連れて帰らせると寝覚めが悪いな。なんせ子供を産むマシーンを地で行くような、そんな生活が必定ときたもんだ。

「……しゃあねえな」

 俺は軽く手を振るった。すると、背中から衝撃を受けたオーガジェネラルはそのまま三枝を取り落して――10メートル程ボロ雑巾のように吹き飛んでいく。

 地面に投げ出された三枝は呆れたように問いかけて来た。

「――何を……やったんです?」

「遠当て」

「いや……相手は……相当な危険生物の……鬼将ですよ? 一撃って……しかも遠当てで……?」

「しかし面倒だな」

 俺は溜息交じりにそう呟いた。

「面倒と言うと? どういうことなんです?」

「俺が持つ周辺索敵のスキルで完全に把握したところによると、半径50メートル圏内にオーガジェネラルの総数は28……」

「鬼将が28……? それって国家権力による……ちょっとした討伐隊が組まれるレベルですよね?」

「おい、三枝? ちょっと頭下げとけ」

「へ?」

「良いから下げろ」

 シュっ。

 効果音と共に俺は回し蹴りを放った。

 高さは俺の胸の当たりで、範囲は円状――360度だ。

 シュパッ、シュパッ、シュパッ、シュッパと半径50メートル圏内の全てが真空の刃に飲まれていく。

 オーガ達は一瞬で殲滅され、そしてズシンと、ズシン、ズシン……と、次々に周囲の樹木が次々と倒れていく。

 つい先ほどまでの森林は、開墾予定地よろしく無数の切り株と横倒しになった樹木が並んでいた。

 三枝は呆然とその場で立ち尽くして、呆れるように呟いた。

「……何をやったんですか?」

「旋風脚。遠当ての応用だよ」

「……やはり無茶苦茶ですね」

「無茶苦茶? 何が?」

「Aランク級に数えられる本来の私ですら、鬼将の集団を文字通りの一蹴なんて……そんな事はできないんです」

「……」

「リュート君はSランク級と呼ばれる……戦略級の戦力を個人で保有していますですよね?」

「……さあ、どうだかな?」

「全く……のらりくらりと……」

 どうやら、Sランク級のその上が存在する事は三枝の一族でも知らないらしい。

 龍王を初めとして、仙人のジジイとか禁術使いのロリババアとか俺以外にも結構いるんだけどな。

「ところで三枝? お前は一族の汚名を晴らしたいんだよな?」

「……そうなんです」

 そうして俺は地面に置いていたリュックを背負い、そして三枝には自分のリュックを背負うように顎で促した。

「なら、まずはここを一発で卒業しなきゃな?」

「……はい」

「だったら、トラウマとか怖いとか、そういうことを言ってる場合じゃないよな? 実力を隠してる場合でもないよな? Aランク級の人間がどうして劣等生のフリをしているのか理解できないんだが……」

「……」

 俺のその問いかけには三枝は応じない。

「はっきり聞いちゃうけどさ? お前……どうしてそんな運動オンチのフリなんてしてるんだ?」

 しばし三枝は押し黙る。

「……リュート君……知らないんですか?」

「何を?」

「巫女は……神を降臨している時以外は本当に無力なんです」

「とは言っても限度があるだろう? 戦人の家系なんだろうに」

 いいえ、と三枝は首を左右に振った。

「戦巫女は泥臭い事は一切行いません。何故なら降ろす神様自体が高貴なる神なんです。従って……戦巫女は度が過ぎた箱入りとして育てられます。純粋な筋力は当然の事、降臨時以外の通常ステータスも……一般人と変わらないといいますか、一般以下なんです」

 確認の為に俺は聞いてみた。

「100キロ歩行は……序盤も序盤だ。つまり……お前は……まさか……?」

「ええ、2キロ時点で限界状態……これが私の全力全開なんです。もう歩けないんです」

 さて、どうしたもんかと俺は頭を抱えた。

「……とりあえずいけるところまでいこうか。俺も俺の修練の為にゴルゴダの枷をハメている。まあぶっちゃけた話をすると俺とリリスであればバレないように着脱自在だが……」

 そこで三枝は固まった。

「っていうかそもそも、これ……外せるんです? 罪人さんとかを捕まえる為のモノなんですよね?」

「外すって言うか、ステータスを無力化している呪いに干渉するって感じかな。秘術関係の中ではそれほど高い秘匿レベルでもないんだけどな……むしろ、三枝家レベルの名家で外す方法を知らない事に驚いた」

 そこでムスっとした表情を三枝は作った。

「はいはい、どうせ三枝家は代々山奥で生まれ育って引きこもっている……シーラカンスみたいな一族ですよ」

 言葉の端々にトゲがある。

 どうやら俺は地雷を踏んでしまったようだ。

「気を悪くしたなら謝る。で、俺は本当にどうしようもない状況になるまでズルはするつもりもない。だから、行けるところまで行こう……」

 俺の言葉に三枝は頷いた。

「はいです。いけるとこまで……歩いてみるです……」





 ――23時間後。

 100キロ歩行の終着点は旧校舎のグラウンドとなっていた。

 学生たち全員が地面に突っ伏し、ヘトヘトとなっている中で、教官は満足げに頷いていた。

「サエグサ学生とマクレーン学生はここでリタイア――自主退学のようだな。まあ、彼らは……同行しているベテラン冒険者が安全に連れて来るだろう」

 と、そこで、地面に腰を下ろしていたリリスが億劫そうに立ち上がった。

 膝が若干笑っている事から、彼女にとってもステータスに頼らずに肉体の力のみで行軍をしたことは相当に応えているらしい事が窺える。

「……教官?」

「どうしたんだ? リリス学生?」

「……リュートを自主退学って……正気?」

「ん?」

 ひょっとこのような表情を作り、教官は不思議そうにリリスに尋ねる。

「君は……特待生クラスなのに最底辺クラス用のこの合宿を選択した変わり者……」

「……そう。そして私は問うている。貴方に正気かと問いかけている」

「はてな……? 100キロ歩行開始の前に私はそう言ったはずだが? できなかった者はリタイヤだ。まあ、マクレーン学生は非凡な戦闘能力を秘めている様だから……惜しいと言えば惜しいが、それでも規律は絶対だ」

「……例えばコーデリア=オールストンよりも、更に強い力を持った才能がこんな最底辺クラスにいるとする」

「そんな前提はありえないが……それで?」

「そんな人間を貴方が、貴方の権限と判断で自主退学に追い込むとする。そして、数年後……いや、数か月後に、その者がコーデリア=オールストンを遥かに超えるような力を見せて、世界中にその名を轟かせる……そうなれば貴方はどうなる?」

 リリスの言葉を教官は鼻で笑った。

「クビでは済まないだろうな。まあ、有りえない前提だが」

 言葉を受け、リリスは気だるそうにこう呟いた。

「……悪い事は言わない。自主退学をさせる前に、リュートには何か試験を与えた方が良い。ゴルゴダの枷を外して、どんな無茶振りでも良いから……魔物討伐系みたいな分かりやすい課題を与えれば良い」

「……?」

「今は私の言葉を理解しなくても良い……やらせれば分かるから」

 そして、リリスは半ば呆れるようにこう続けた。

「……別に私たちはこの場所に固執する必要も無い。ただ、この場所がこれからコーデリア=オールストンが巻き込まれる世界的規模の厄災の一連の騒動に一番近いからここを選んだと言うだけの話……まあ、忠告はしたから」

 と、その時グラウンド内にどよめきが起きた。

 彼らの視線の先――正門から遥か前方の森の道にリュート=マクレーンの姿が見えたからだ。

 いや、彼らがざわついているのはそれだけが原因ではない。

 数分の後、リュートがグラウンドに到着したと同時に教官は彼に駆け寄った。

「お前……こいつと……こいつの荷物をおぶって……?」

 教官が驚くのも無理はない。

 今現在、リュートが背負っている重量は三枝が40キロ、その荷物が20キロ、そしてリュート自身の荷物で20キロ。

 総計80キログラムの荷物となっている。

「人間を運んじゃいけないってルールは無かっただろうに?」

「……サエグサ学生を背負い始めたのは何キロ地点だ?」

「20キロ地点だな……それでも、こいつは根性を見せてくれたと思う。血豆も潰れて酷い状況だった。でも……途中で意識を飛ばしちまってな。こいつは頑張って無茶を通そうとしたんだよ。だから、俺がこいつの無茶をこういう形で引き受けた」

 しばし考え、教官はリュートに問いかける。

「村人でありながら我がアルテナ魔法学院の入学試験を突破し……この前見せた模擬戦の動き……そしてその筋力と精神力。本当にお前は人間なのか……?」

 リュートは呆れ笑いを浮かべ、三枝をゆっくりとグランウンドの地面におろした。

 そして自らも登山用リュックサックを脱ぎ捨てて、その場で倒れ込むように突っ伏した。

「人間っつーか……村人だよ……後……すまんが……俺は……寝る……」

 リリスがリュートに歩み寄ってきた。

 そして無言で彼女は自らが羽織っていた外套をリュートにかける。


「ともかく……疲れ……た……も……う……限……界……だ」


 そうして、リュートはリリスの外套に包まれて、満足げな表情で静かな寝息を立て始めた。




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