第80話 二人の呼び名が気になって、話が入ってこないのですが
世の中には、お酒を飲んで、酔っぱらった次の日、記憶を失う人と、記憶を失わない人がいる。ツール伯は、どうやら後者の方で、昨日の出来事を覚えていて、ばつの悪そうに、リリーナ夫人に肩を抱かれながら、私の目の前に座っている。
昨日の出来事があって、次の日の朝、関係者だけを集めて、執務室で話し合いの場を設けている。出席者は私とセクレタさん、リリーナ夫人と渦中のツール伯とカオリである。
カオリの方をチラリと見ると、お酒は残っておらず、ツール伯と同様に記憶もあるようだ。ただ、何が言いたげにうずうずしている。
「えぇっと…」
私はそこまで声に出して、次に何を言うか思い悩む。今まで威厳あるツール伯に接してきたので、あの様な醜態を晒した後のツール伯に、どの様に言葉をかければ良いか思い浮かばない。
「先ずは、どうしてあの様な事になっていたか、どなたか説明してくれるかしら?」
私が悩んでいる所に、セクレタさんが冷静に提案してくれる。
「うちが! うちが言う!」
カオリが声を弾ませて述べる。
「よろしいですか?」
セクレタさんがツール伯に尋ねる。
「あぁ…」
ツール伯は俯いたまま答える。
「聞くも涙、語るも涙の話やねん…」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
うちは、牧場での手伝いをしとったんやけど、馬にじゃれつかれて、どろどろになったから、温泉館にお風呂入りに来とってん。そしたら、脱衣所の前でウロウロしてる伯爵のおっちゃんがおってん。
「おっちゃんもお風呂入りに来たん?」
うちがおっちゃんに声を掛けると、驚いたようなちょっとムスっとしたような顔をしとった。
「おっちゃん。そんなんで腹立てたらあかんで、ここの温泉館はなぁ、みんな裸になって、一緒に湯船つかってくつろぐ場所なんや。だから、裸になったら身分も立場も関係あらへん。みんな身体一つや」
おっちゃんはうちの言葉に、一瞬、口を開いとったけど、直ぐに何か飲み込むような感じで頷いた。
「そうか…わかった…」
「うんうん、で、こっちが女湯でそっちが男湯や。日によって入れ替わるから、気をつけてな。あと、脱衣所の中はいったら、籠があるから、脱いだ服はそこに入れて。棚にあるタオルは使ってええから」
おっちゃんはうちの説明に、脱衣所の扉を少し開けて確認する。
「なるほど、分かった」
おっちゃんも理解したようやし、うちも女湯に向かったんやけど、途中で大事な事を思い出した。
「そや!、おっちゃん、湯船は身体洗ってから入るんやで。みんなが入るところやから」
うちがそう言うと、おっちゃんはふふっと笑って脱衣所に入っていった。
「みんな、警戒しとったけど、話の分かるええおっちゃんやん」
うちはそう思いながら、お風呂に入った。
しばらくして、お風呂から上がったうちは、脱衣所でた所の広間で牛乳飲みながら涼んどった。そしたら、おっちゃんがほっこりした顔で男湯から出てきた。
「どやった?おっちゃん。ええ湯やったやろ?」
「あぁ、生き返った気分だ。露天風呂というものが、こんなに良いものだとしらなんだ」
おっちゃんはご機嫌に答える。
「ほな、ここにおる間は、毎日、好きな時間に入りに来たらええで、温泉つこてるから、24時間いつでも入れるで」
「そうか! それは楽しみだ! 毎日入らせてもらうぞ!」
おっちゃんは満面の笑みになる。
「せや、おっちゃんも牛乳飲むか? 汗かいて喉乾いとるやろ?」
「是非とも、頂こう」
うちは広間に設置されとる水桶に手を突っ込んで、牛乳瓶を取り出して、おっちゃんに手渡す。
おっちゃんは手渡れた瓶の冷たさに、ほぅっと声を漏らした後、一口付け、その後、一気にあおっていく。
「ぷはぁー! 風呂上がりの冷えた牛乳が、こんなに美味い物だとは思わなんだ!」
「牛乳も毎日一本づつ飲んでええから」
「そうか! それはありがたい。しかし、酒であれば… もっとありがたいのだが…」
おっちゃんは空になった瓶を物足りなそうに見つめる。
「あっ、やっぱり、おっちゃんもそう思う? お酒飲みたい?」
「あるのか!?」
おっちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「みんなにはないしょやで」
うちはそう言って、水桶に腕をつっこんで、水の中の底板をちょっと持ち上げて、その下から酒の瓶とグラスを二つ取り出す。
「おっ! 酒か? 本当に良いのか!?」
「ええねん、ええねん。毎日、ここの水桶を冷やして、牛乳を補充してるのはうちやから、これぐらい役得やねん」
そういって、水を切ったグラスをおっちゃんに手渡して、瓶の中身を注いでいく。トクトクと音と共に、黄金色の液体が、シュワーっと小さな気泡を立てながら、グラスに満たされていく。
「おっちゃん。ほな、どうぞ」
おっちゃんは目を見開きながら口をつけ、ゴキュゴキュっとうちにも聞こえる音をたてて飲み始め、次第にグラスと頭をを大きく傾け、目をぎゅっと閉じて、喉に流し込むように飲み干していく。そして、空になったグラスをたんっとテーブルに叩きつけ、顎を引き戻す。
「くはぁぁぁぁ! ふぉぉぉぉぉー! 美味いぃぃぃ!」
「どや? ええやろ?」
「湯上りの、冷えたエールは最高だな! 長年生きてきたが、初めてしったぞ!」
おちゃんの喜びっぷりを見とると、うちもうれしゅーなってくる。
「おっちゃん、ほな、もう一杯いくか?」
うちはおっちゃんに瓶を差し出す。
「是非とも! しかし、其方は飲まぬのか?」
「それは…うちはまだ仕事中やから…」
「一人だけで、こんな美味い酒を飲むのは心苦しい… わしと飲むのも仕事を思って、付き合ってくれぬか?」
「そこまで言われると、しゃーないなぁー 付き合うわ」
「がはは、それはありがたい! しかし、実は最初からそのつもりで、自分のグラスを持ってきておったのであろう」
「あっ、やっぱり、ばれてた? まぁ~ええわ、ほな、二人で乾杯でもしよか!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「という訳やねん」
カオリがそう述べる。
「えぇっと…どこに泣くところがあったんですか?」
私は困惑して尋ねる。
「そやそや、話はまだ続きがあるねん。こっからが泣けるねん」
しかし、そのカオリを、ツール伯が制止する。
「カオリン…ここからは自分自身で説明する」
「ええの? シゲリン…」
「あぁ、自分の尻ぐらい自分で拭かんとな」
えぇっ!? カオリン? シゲリン!? なんですか! その呼び名は!!
困惑し、心の中で絶叫する私を置いておいて、ツール伯が説明を始める。
「実はわしは… 家を放逐されてしまったんじゃ…」
「放逐!? 当主なのに!? どうなっているのかしら!?」
セクレタさんは驚きの声を上げる。するとカオリが横から説明の言葉を告げる。
「セクレタはんと同じや…」
「私と同じって… まさか、帝都の大暴落に巻き込まれたの?」
「そうだ、あれで家の資産をかなり溶かしてしまった… そこに、当主の座を狙っていた長男リーゲルに責任を取らされて、当主の座を奪われてしまったのだ…」
そう言って、ツール伯は力無く項垂れる。
「わしは今まで、情ではなく、力で一族を支配しておった… だから、力を失った後、わしに付き従う者などおらず、逆に疎まれていた… そして、長男リーゲルは、減った資産を言い訳に、余計な人員を切り捨てると抜かしよった… リーゲルにとって、余計な人員とは、つまり、ラジルの事だ。あ奴は、ラジルを放逐するといいよった」
ツール伯は物悲し気な目をして拳を握りしめる。
「今に思えば、わしが行動も想定した上での事であろう、わしが止めに入ったら、当主に逆らった咎でわしに対してまで、放逐を言い放ちよった。そして、わしとラジルは館から追い出されるはめになったのだ。だから、最後の望みを託して、マールの所に手紙を出したのだ…」
「でも、よく馬車を使わせてもらえたわね」
「そこは、追い出したわしとラジルが、目のつく範囲でうろつかれるのを嫌ったのであろう。また、わしの臭いのするものもいらんと、衣服を積んで、出来るだけ遠くにいけと言われたわ… しかし、わしにも見落としがあった… それは、お前だリリーナよ…」
ツール伯はリリーナ夫人に向き直り、その手をとる。
「シンゲル…」
リリーナ夫人は手を握り返し、ツール伯を見つめる。
「リリーナ、お前は放逐などされなかった。だから、館に残ればよかったものを… わしに付いてきてしまった… わし一人であれば、ラジルの召使がわりとして、余生を過ごすつもりでいたが、お前まで、わしのように身を落とす事をさせられぬ… だから、わしたちが地位を失い放逐された事を気付かれぬようにしておったのだ…」
ツール伯の言葉にリリーナ夫人は涙を零す。
「今まで、ずっと髪が白くなるまで付き添って来たのに、今更、貴方を見捨てるなんて出来ないわ… 私たちの仲はそんなものではないでしょ?」
「そうであったな… それなのに、気付いてやれずに済まぬ…リリーナよ…」
そういって、二人は互いに涙を浮かべながら、肩を抱き合う。
「ええ話やぁ… シゲリン、自分一人で頑張って、自分一人で悪者になって、家族を守ろうとしとったんや…」
カオリも二人の姿に貰い涙を流して、腕で涙を拭う。
「なるほど…だから、手紙に夫人の事が書いてなかったのね… それに、自分自身の威厳を示すのが好きな貴方が、フルネームの名乗らなかったのは、地位を失ったことを隠すためだったのね… さて…困ったわ…これから、ツール伯達をどう扱えばいいのかしら…」
セクレタさんはふぅと溜息をついて、私に向き直る。
「マールちゃんはどう思っているの?」
急に私に話を振られて、考えていた事をそのまま口にしてしまう。
「なんで、カオリさんとツール伯の呼び名が、カオリンとシゲリンなんですかねぇ…」
「マールちゃん?」
「えっ? なんでしたっけ?」
私は慌てて口から漏らした事を誤魔化そうとする。
「ツール伯…たちの処遇の事よ」
「あぁ、その事ですね。そのままうちにいればいいと思いますよ」
私の言葉にツール伯とリリーナ夫人が顔を上げる。
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