第79話 スナック・カオリ
カリカリカリ…
今、私の執務室では、ペンを走らせたり、紙を捲ったりする、事務作業する音だけが聞こえる。朝からこんな状態が2時間程続いており、私は未だかつてない程の緊張感を持って仕事をしている。
「次の交易品のリストと、商談先の一覧よ」
トーカがまとめた書類を私に回してくる。
「ありがとうございます。トーカさん。その書類はセクレタさんに回してもらって」
私は事務的に礼を述べる。
「マール様、できました」
私の左隣に臨時に設置された席から、ラジル君が背筋を伸ばし、クリクリした目で私の顔を伺いながら、答案用紙を渡してくる。
「分かりました。では次にこの本を読んでもらえますか?それで、分からない言葉があれば、こちらの紙に書いて下さい」
ラジル君は、ぴくっと動いた後、丁寧に本を受け取り、真剣な眼差しで本を読み始める。私はラジル君の様子に微笑んで、受け取った答案をチェックし始める。
「マールちゃん。私が採点しましょうか?」
右隣の席のセクレタさんが、私に申し出てくれる。
「大丈夫です。セクレタさんはそちらの集計をお願いします」
私はセクレタさんにそう返して、ラジル君から受け取った紙に目を通す。これは算数の問題を解いてもらった答案である。今現在、ラジル君がどれだけの学力を持っているかテストをしているのである。ちらっと見る限り、簡単な四則計算は出来てそうだ。小数点や分数は厳しそうだが、分からないなりに努力はしている。
まぁ、ラジル君がいるだけなら、皆、緊張もせず、微笑ましい空気になるのだが、そんな事にはなっていない。なぜなら、ソファーの所で、ツール伯と夫人がずっと様子を窺っているからである。
すごい、やりづらい…
何故、こんな事になっているかと言うと昨日の晩餐会での事だ。ツール伯がラジル君に仕事を見せて欲しいと言い出したのだ。その時は貴族の家庭ではよくある事だから、安請け合いしたのであるが、まさか、二人が付いてくるとは思いもしなかった。
逆に、こちらが日程の事や馬車が帰った事を尋ねても、『見極めるまで』とか『馬車は呼べば来る』とか何とも言えない返事が帰って来た。
そんな状態なので、本来の目的である養子縁組の件については、全く進展しなかった。
もしかして、ツール伯のあの可愛がり方だと、ラジル君を手放すのが惜しくなったかとすら、考えた。まぁ、その時はその時で、別の養子や婿取りの事を考えれば良いだけだ。こちらも誠意は見せたので、ツール伯は文句は言ってこないであろう。ただ、また転生者達が騒ぎ始めると思うが…
そして、そうこうしているうちに、午前中の仕事が終わり、昼食の時間となる。今日の昼食もやはり、ツール伯たちとの会食になる。貴族との会食なので、皆には申し訳ないが、少し豪華な食事となる。ただ、緊張の為、味わって食べる事は出来ないが…
しかし、こう考えると変なものである。転生者が来てから、交流の為に会議室を使った食堂で皆と食べるようになったが、最初はさらし者ような気がして、落ち着かなかった。でも、今となっては静かな食事や、一人の食事が寂しく感じてしまう。だから、ツール伯との会食より、皆との食事の方が良いと思ってしまう。
そして、昼食が終わり、午後からラジル君はトーヤと剣の稽古である。こちらも晩餐会の時にラジル君本人からの要望があり、トーヤが快く引き受けてくれた。私達にとっても、ツール伯から解放されるので大助かりである。
「息が詰まりそうだったわ…」
昼食を終えて、執務室に戻って来たトーカがそうぼやく。
「私もですよ… だから、剣術の稽古を引き受けて下さったトーヤさんには足を向けて、ねむれませんね」
トーカの言葉に私がそう返すと、トーカは嬉しそうな顔をする。
「マールちゃん、それより、あの子のテストはどうだったの?」
やはり、元々家庭教師が専門であったセクレタさんは、ラジル君の学力の事が気になるようだ。
「悪くはないと思いますよ。特に読書については、結構読めるようですね」
そう言って、ラジル君の答案をセクレタさんに手渡し、セクレタさんはその答案をささっと確認していく。
「なるほど…あの馬鹿の息子にしては、及第点ね… 読解については、誰かに読み聞かせをしてもらっているのね… まぁまぁだわ」
私はあの歳にしてはよくできていると思ったが、セクレタさんの基準は厳しい。
「セクレタさん、厳しいですね。ラジル君頑張っていると思いますよ」
「他の子だったらそれでいいけど、マールちゃんの養子になる子よ、これぐらいでは駄目だわ」
ラジル君ごめん、私のせいで厳しくなりそうです。
そんなこんなで、午後の仕事をこなしていく。ツール伯がいなくて伸び伸びと仕事が出来る反面、ツール伯がいない内に終わらせなくてはいけない仕事もあるので、手早く仕事をこなしていく。
そして、午後の四時を回った頃、扉がノックされる。
「マールさん、よろしいかしら?」
リリーナ夫人の声である。扉が開かれると、リリーナ夫人一人だけの姿があった。
「リリーナ夫人。どうされましたか?」
「主人…シンゲルは来てないかしら…」
夫人の言葉は、ツール伯がここにいるものと思って来たのに、姿が見えないので不安になっている様子であった。
「いえ… こちらには、ラジル様とどこか御一緒されているのでしょうか?」
「ラジルは今、部屋でメイドに預けていますの…」
という事は、ツール伯は今、一人でウロウロしている訳か…
「部屋から出られる時に、行先を仰ってましたか?」
「それが、ラジルの稽古が終わった後、一緒にお昼寝していて、おきたら姿が見えないものだから…」
なるほど…二人が寝てしまって暇だから、館の探索して、迷子にでもなっているのであろうか…
「それとね… シンゲルのいない今の内に話しておかなくてはならない事もあるのよ」
夫人の言葉からすると、何やら秘密にしていた事があるようだ。確かにツール伯の今回の言動については謎が多かったがやはり、何か理由があるのか。
「どの様なことでしょうか?」
私がそう尋ねた時、部屋の扉が激しくノックされ、アメシャが姿を表す。
「マールさにゃ! 伯爵さにゃとカオリさにゃが大変にゃ!」
アメシャの言葉にリリーナ夫人の顔が青ざめる。
「シンゲル… シンゲルは無事なの!?」
「アメシャ! すぐに案内して!!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「な…なんですか…これは…」
「…シンゲル…どうして…」
アメシャに案内された場所は、温泉館の脱衣所から出た、涼む為の広間であった。
「おっちゃん…頑張った… よう我慢したなぁ…」
「…ありがとう…ありがとう…」
ツール伯とカオリが肩を並べて座っており、カオリがツール伯の頭髪の不自由な頭を撫でており、ツール伯はポロポロと涙を流しながら何度も礼を述べている。
この二人にどんな出会いがあって、どの様な理由があれば、この様な状況になるのか全く想像か付かない。
「ちょっと…飲んでいるわよ…この二人」
セクレタさんが顔を覆って、眉を顰める。セクレタさんの言葉に二人の前のテーブルを見てみると、空になった牛乳瓶とならんで、酒瓶も並んでいる。
なるほど…この二人は昼間から、湯上りにお酒を飲んでいたのか…
「あっ! マールはんや! ちょっと、聞いたってもらえる?」
カオリのご機嫌な声が響いた。
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