第3話

 数日後。

 私は由香と共に待ち合わせ場所に立つこととなった。

 改めて話をした吉野くんは本当にいい人だった。話題も豊富で話していて楽しい。彼と会話する時間はあっという間に過ぎていった。


 吉野くんは誰にでも優しく人当たりがいい。

 酒とギャンブルに溺れ、機嫌が悪くなれば怒鳴り当たり散らし、気まぐれに家族の中で一番弱かったまだ幼い日の私を標的に暴力を振るって来た父とは雲泥の差だった。

 彼と会えば会うほど、私の胸の奥で主張し続けていた男性像がガラガラと崩れていく。


 ふわりと優しく笑う彼に、心の中の頑固な凝りがじわじわとほぐされていくのを感じた。いつでも自分より他人を尊重しようとする吉野くんは本当に素敵な人だ。

 気付けば、由香を介さずとも会う約束をするようになっていた。新しくできた素敵な友人。その関係が変わったのは二人で会う様になって五回目の事だ。

 帰り道の別れ際、彼から告白をされた。


 どこまでも誠実な人だった。あやふやな関係を進めるでもなく、かといって急速に距離を詰めてくるわけでもなく。私のペースに合わせてくれていたんだと思う。

 彼の気持ちに答えたのは、彼なら好きになれるかもしれないと思ったからだ。彼ほど誠実で優しく素敵な人を私は知らない。実際、五回のデートでより深く知る事となった彼は、とても尊敬ができる人だった。私の中の男性像をぶち壊す程に。

 やっぱり恋愛感情を抱くことはできなかったけれど、彼と過ごす日々は穏やかで楽しかった。


 付き合い始めると言うことがどういう事か、よくわからないまま告白に答えた私だったけれど、付き合い初めて何か特別に関係が変わる事はなかった。

 デートして穏やかに会話する。そんな日々が続いた。多分付き合い始めた後も私のペースに合わせてくれていたんだと思う。

 付き合いはじめて最初のデートで手は繋いだ。どことなくぎこちなかっただろう私に、吉野くんは何も言わなかった。ただ、穏やかに見守ってくれていたように思う。

 馴れていないのを察してくれたのか、それ以降二人の関係が急速に進むこともなく、ただ手を繋いでデートする関係がしばらく続いた。

 けれど、彼のご両親を紹介されるのは早かった様に思う。恋人とは家族ぐるみのお付き合いをするものらしい。それを知らなかった私は大層慌てた。

 何故なら、彼がとても暖かく仲のいい家庭で育った事を知ってしまったからだ。彼のご両親も、彼そっくりな、穏やかで優しい人達だった。こんな私にも嫌な顔せずに接してくれる暖かい人達。

 その暖かさとは反対に、私の心は冷えていく。どうしよう。そんな不安が胸の中に広がった。

 私には、こんな穏やかな家庭で育った彼に、理想の家庭を具現化したようなこの家族に、紹介できる家族はいない。

 酒乱で何をして来るかわからない父親。私の事にはさほど興味のない母親。私の事を馬鹿にする弟。隠さなければいけないと思った。絶対にばれてはいけないと。家族にも愛されないグズで駄目な私を。知られたら嫌われてしまう。

 恋がどういうモノなのかわからない癖に、嫌われる事には人一倍敏感で最低な私を、隠さなければ。

 相談できるのは由香だけだった。恋人には両親を紹介しなきゃいけないものなのか、私の家の事を知られないように遠回しに聞いてみた。由香は一瞬ぽかんとした後、「人それぞれじゃないかな?」と首をかしげた。

「私は彼氏の両親に合った事ないし、合わせた事もないよ?挨拶にいくなら多分結婚する時だと思う。吉野くんは家族ぐるみのお付き合いをしたい人なんだね」


 どこまでも誠実な人だと思う。家族ぐるみのお付き合いをするのも、遊びではないからだ。大事にされている。そう思う度に心が重くなっていった。本当の私を隠さなければ。そんな焦りだけが募っていく。

 結局、吉野くんに私の両親を紹介することは出来なかった。なにかと理由をつけてはぐらかし続けた。

 行動でも気持ちでも。彼と同じだけのモノを返せないのがただただ辛かった。

 ハグは出来た。けれど私には、それ以上の接触が無理だった。キスも、抱き合って眠る事も出来はしなかった。

 吉野くんの事は人として好きだ、大好きだ。尊敬しているし、素晴らしい人だと思う。けれど、どうしても触れた指先からじわじわと這い上がってくる、恐怖にも似た嫌悪感が消えてくれない。

 恋心を抱けなくてもお付き合いはできると思っていた。尊敬し信頼できる人だから、大丈夫だと。それなのに。最低だ、私は。

 やんわりと拒絶を続ける私に、傷ついた顔を押し押し隠して柔らかく笑う彼に甘えていた。


 付き合いはじめてから一年弱。

「愛衣はさ、俺の事好きじゃないよね?」

 感情を押し殺して、ただ悲しそうに微笑む彼。それまでの私の態度を考えれば長く続いたと思うこの関係に、吉野くんは終わりを告げた。

 あぁ、傷つけた。それだけはわかった。恋することも出来ないくせに彼に依存した身勝手な私。その報いを受けたのは私ではなく、被害者である彼だった。

 うまくやっていけていると思っていたのは私だけ。彼が、ハグ以上の事を許さない私に悩んでいたのも、家族を紹介しない私に不信感を抱いていたことも。身勝手な私は何一つ気付いていなかった。

「ちがうの、ごめん、なさい。でも……でもね、ちゃんと、すき、だった。好きだったよ」

 気付けば震える私の唇は、言い訳がましい言葉を紡いでいた。この期に及んで『嫌われたくない』と思う私はどこまでも浅ましかった。

 そんな私の言い訳を聞いた吉野くんは、眉を下げて困ったように、何もかも諦めたかのような顔で微笑む。

「でも、それは愛じゃない」

 最後の最後まで父親のように怒鳴る事はなかった。

『お前からは愛を感じない。愛衣に関わる人達は可哀想。あなたは人を不幸にする』

 その代わり、彼の言葉と、幼い頃投げつけられてから、ずっと脳裏に焼き付いて離れない母親の声が重なった。

 散々親に言われ続けていたことを彼にも言われた。言わせてしまった。だとしたら、私は本当に『愛』という感情が欠落しているのだろう。

 両親の事は家族として愛していたつもりだった。いくら怒鳴られ罵られても愛しているつもりだった。

 彼の事は信頼し、敬愛しているつもりだった。

 私なんかの為にも親身になってくれた由香には友愛を感じている。そのつもりだった。

 その感情は全て偽物なのだろうか。私が恋愛できないのは愛情がないから?


 愛とはいったいなんなのだろう。


 欠陥品の私には、もう何もわからない。わかるのは私が最低な女であるということだけ。彼を傷つけて、追い詰めて。それでもまだ、私は自分の事ばかりを考えていた。

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