あのどろどろ

円窓般若桜

あのどろどろ

ーあのどろどろ



天を摩(ま)する千年杖(せんねんじょう)。金紗羅(きんしゃら)鈴音(すずね)の狂言廻し。鈴懸金(すずかけきん)の高楼は、夜月に染まりて総紅(そうくれない)。高麗縁(こうらいえん)の紫縁(しえん)の神器(じんき)。春の嵐に散る神饌(しんせん)。二十五本の切り斑(ふ)の飛矢は、届け届けの願いは中有(ちゅうう)。麻紙拵(こさ)えた二片の心を、捧げし姫は声高らかに、

「妾(わらわ)、高楼(こうろう)天上の主(しゅ)!姿見(すがたみ)曝せよ、中有の覇者よう!」

然れど中有の瑞兆(ずいちょう)甚だ寡塵(かじん)。むうっと遺憾の捧げし姫は、姿見麗わし白拍子(しらびょうし)。名を発せずは不躾(ぶしつけ)と、牒状(ちょうじょう)返しの空返事(からへんじ)。

「妾は無常姫(むじょうひめ)なる者ぞ!ご慨嘆(がいたん)なさるな、曝せよ姿見!」

無常姫の声音(こわね)は高らか。中有貫き月まで届くが、望みし覇者の無文(むもん)の沈(ちん)は、風の前の塵に等しく。

緒環(おだまき)解(ほど)いた空に響目(ひびきめ)。射(い)ったりけるは冠従者(かんむりじゅうしゃ)。無常姫は破天(はてん)とし、従者見据えて伽藍(がらん)と曰く。

「いかに致すじゃ、中有の覇者の臍(へそ)を枉(ま)げては。痴(し)れ者めい」

冠従者は憮然と赤め、中有を睨みて怨嗟に曰く。

「姫様、無歯牙(むしが)はまったく不始末(ふしまつ)。何が覇者かの、射殺してくれるわ」

黒糸縅(くろいとおどし)の冠従者、滋籐(しげどう)の弓ひっきり構え、鹿角拵(コサ)えた鏑矢(かぶらや)を、中有に目指して蓮(おどろ)と引いた。

「お止滅(しめつ)なされ、お止滅なされ」

弁柄紅(べんがらべに)の無常姫、ふるると遷した桜の身、冠従者の腕(かいな)を取りて、己が身枕(みまくら)留め燠(おき)。舞った桜匂、姫肌柔触。冠従者は重心失し、無力の鏑矢失心果てて、ぴよんと高楼逆さ落ち。因果緒環奇瑞(きずい)の狂言、墜ちた鏑矢草を薙ぎ、睡りし辰の逆鱗に立つ。逆撫で辰は身重(みおも)の石。逆鱗ぱっくり無花果と、兜の割れて空性(くうせい)の朧身(おぼろみ)。夜より深き鉄漿黒(かねぐろ)の、世とは薄膜一重に隔て、散らめし胎種(はらだね)が粟散辺土(ぞくさんへんど)。

星の塵でも喰らうたか、黄金(こがね)に光りて粒流れ。鏤(ちりば)まる様、五億の鈴鳴り。薄膜那由多(なゆた)と空へと膨らみ、無形の怪(け)ものと都落ち。鏑矢主を望みてか、高楼舞台へ千尋登り。

行方不知の無常姫、塗炭の中有に現れし、夜より深い鉄漿(かね)黒(ぐろ)の、怪もの指差し従者に曰く、

「あのみょおんみょおんのどろどろは何じゃ?」

無常姫描きし中有の覇者は、閻魔大王由来の髭面。無形異形の黒薄膜は、得体の知れぬ空不吉。姫君背なに隠して従者。

「あれは魔の間の者なり」

己の拵えた悲哀に曰く、魔の間の者とはあれま頓狂。

魔の間の者と刻まれしどろどろ、中実の黄金の微塵子は、産まれし先に母を失した、辰の赤子の砕かれ細胞。導かれし花籠と、時めく守護を喪いて、惑うばかりの綺羅微塵。

受けし月光、翻す反光、放てし黄金は内なる銀河。

母魂に流離いし黄金は、閼伽(あか)の水を灌頂(かんじょう)と、被りし無常姫定め、盲目の触手ずずずと伸ばす。必衰の理あらわした、寂光院(じゃっこういん)の朝露に、濡れた重たき袂に並び、哀れな黄金の陽動は陰。

母の温みを誤識した、触手は夜より深き鉄漿黒。緩みし動きは圧縮と、世のあらゆる害悪と、地獄を連座し迫る迫る。冠従者に隠されし、無常の姫は躰震わし、然れどまなこは志操(しそう)に溢れ、滋籐の弓引っさげ構えし、冠従者に再び曰く。

「お止滅なされ、お止滅なされ。あのどろどろは何か変」

 


べん



所変わりて夏芙蓉。一国隔てた深化(しんか)の森の、榊がぐるりを巡らしつ、百間ほどの池の央(おう)、三十四間の大地が浮かぶ。

妙齢迎えた見事な大楓(かえで)、大地に根を張り池を吸い、月光木漏れしひと姿、神殿類いの大壮観。

三十四間の大地の蹄(ひづめ)、二畳満たない入り窪地、池の主魚(ぬしぎょ)の咀嚼し吐いた、土砂岩石の混合が、金剛の砂浜と変じ果て、独り小野子(おのこ)の寝床と休む。妙齢迎えた大楓は、神木(かみき)紛いの王気を発し、雷風神のお暴れに、乗じて乱する水氾濫(みずはんらん)。戦(おのの)く人は供物にと、水氾濫の源(みなもと)に立つ、淋しき神木に小野子を捧げた。

捧げし小野子の身分は紺掻(こうかき)。小野子の字を抱くのみ。神木守りの守護天と、宝刀、真染めの神羅(しんら)は青鉄漿(あおがね)。五色の糸で束ねた髪は、紺箔のつや尋常ならず。

月の清香の滴れ零れし、大地の浜は風の遊び場。留まり吹抜け竜巻し、吹き曝しては髪を梳き、吹き戻しては衣をめくる。

供物小野子の薄ら眼を、開けて感ずるは多幸の奇妙。偉大な什麽生(そもさん)に抱かれし夢見は、星の舟でも出帆したか。思わぬ幸もあるものと、薄ら眼小野子の見るものは、風に蕩けし水屑の幽香と、空の彼方に靡くどろどろ。

供物の巫女の転ばぬよう、榊のぐるりに立ち籠めし、焚かれた香は麻酔の線香。神殿紛いの大楓に、主魚の鍛えし砂の床。月の明かりは時めいて、風に蕩けし水屑が、躰すべてをねんごろねんごろ。薄ら眼開きし供物の小野子は、空の彼方のあのどろどろが、己の中を貫いてくれたら、どんなに狂おしいかと諸手を翳した。

掴むは左の手に淑景(しゅくけい)、透かすは右の手に飛香(ひこう)。降りしき刺さる月の槍、揺蕩う揺蕩う麻香(まこう)は空蝉(うつせみ)。風にさざ波深化の森の、杉や檜の舞い踊り、三千連鎖の金貨の降ったか、微かに響きし千年杖。

あのどろどろをお目当てに、金紗羅華嚴のねむり唄。風に揺られし池波(いけなみ)の、ゆりかご抱かれ供物の小野子の、薄ら眼に映すこの世は、夜より深き鉄漿黒の、窒息しそうな畏れ美と、青(あお)鉄漿(がね)衣(ころも)の届かない手のひら。



べべん



所変わりて高楼の下。突如と顕(けん)したどろどろに、恐慌男女が二百二十二。無常姫の乳母の父、太髭公(たいしこう)の大音声(だいおんじょう)。

「乱すなや、皆々様!彼は異星の者、此は戯論。算段通りの手筈をば!」

あたあためきの従者衆、ふたふためきの女房衆。回心重ねて算段通り、先ずはたいまつに火を灯せ。

「もはや、これは時空的縁起!世の理が瓦解した!」

高楼根元の天の下、桃薪梅薪桜薪(ももまきうめまきさくらまき)、十一脚の朱塗りの長脚、十一揃えの赤鉄漿(あかがね)の燭台。十一人の女房衆、十一束の月桂の炬火(きょか)。十一週の間中、十一尺の聖布で包んだ、十一本の右の腕。顕わに解いた恵みの手らは、月を覆す十一の鏡。十一日間燃やし続けた、炉の火を囲みて一斉採火。月桂の炬火、赫赫(あかあか)と、天まで爆ぜろと火の子の撥音(ばちおん)。太髭公の大音声、また。

「十一巫女さま、光に添えたれ!」

十一柱の炎柱に、浮かぶは檜の大舞台。酒精(しゅせい)の仮漆(かしつ)に磨かれし、床面反する炎は紅。炎上まぎれの大舞台、十一巫女は畏み畏み、頭(こうべ)を垂れて祈祷の手合い。

竜笛(りゅうてき)の音吹(ねぶ)きが湧き処(どころ)、単楽奏す時雨(しぐれ)の調べ。太鼓音頭の単発合図に、三人芸女が表舞台。引きの振袖、鯨髭(げいし)の胴締め、孔(あ)いた胸口覗き見る、がまの油に塗(まみ)れた女性。

三人芸女の真央(まお)の君、萌黄(もえぎ)の振袖振り鳴らし、どろどろ染まりのあえかなる、空に向かって放つ律声。首を切られた赤鹿の、咆哮にも似た歌声は、滅紫(めっし)の振袖振り鳴らす、右衛(うえ)の君の胸声(きょうせい)と、退紅(あらぞめ)の振袖振り鳴らす、左衛(さえ)の君の裏声と暈なり、月の裏まで辿る様。

三人芸女の放つ旋律、表現するは素晴らしき恩寵。水精で拵えたびんささら、下がりの階律、天から降る様。上がりの階律、空へ昇る様。猫の皮で紡ぎし胡弓は、流れる河に溶ける日輪。帚木(ははきぎ)追うかの輪唱は、時空の揺らぎを送気して、夜空に棚引くどろどろが、あえかなこの世にとどめをさす。

高楼の上、無常の姫と、高楼の下、太髭公の願いは一つ。姿見曝せし中有の覇者を、捕らえて閉じ込め喰らうこと。口伝に伝わる中有の覇者の、血肉は不老の秘薬と云い、味めは千年の愉悦と云う。驕れ極めし人々の、襲(かさね)の欲は止め処無し。

どろどろ睨みし太髭公、中有の覇者と違えて曰く。

「さあさあ客人、こっちゃ来い。さあさあ客人、こっちゃ来い。甘い甘い菓子もあるぞよ。甘い甘い和(あ)えぎもあるぞよ」

歌い続ける三人芸女、炎上紛いに揺らめく舞台。

末摘花(すえつむはな)の姫君も、蠱惑と惑わすゆったりと長い髪。幻影舞台は声と美と、性と悦とが入り乱れ、天と地とが入り入り乱れる。

淫らな絢爛と清冽な耽美。風の寂光思わする、風光明媚が像を成し、小鼓、笙(しょう)と神楽の鈴が、降臨誘いの打ち鳴らし。五億の楽音、天駆け上る。

然れどどろどろ、ぴたりとも動かず。墨が織布を淫す様、ゆっくり裾野を広げるばかり。あのどろどろを待ち焦がれ、中有の覇者と見定めし、高楼の下の人々の首は、はてな。

四諦(したい)の智慧か生無(しょうむ)の寂静か。佇むどろどろとぷんと鳴って、紫震える急落下。高楼下の人々は、慌てふためき葵に逢う日。楽奏歌声悲鳴と変わり、天(あま)の沼矛(ぬまぼこ)、降る大混乱。三人芸女の歌い手は、汗衫(かざみ)を乱して虚ろの瞳。声高らかの太髭公、七剣かざして抗う抗う。

母を失っしたどろどろは、どうやら魂喰らうらしい。賀茂の葵の葉が揺れて、十一の炎柱消えたのは、炎に魂の有るという事。

所変わりて高楼の上。どろどろ見守る無常の姫は、白拍子の赤裳裾、手繰りて白足晒してあたふた。

太酢漿草(かたばみ)の丸欄干、そこまで寄りてどろどろに曰く。

「お下落(げらく)なさるな!お下落なさるな!楼下の者共、死んでいってる!妾は高楼の無常姫!」

「僕の名も無常」

落下するどろどろの、金紗羅黄金の粒がひとつ、空の上、月天城から木霊する声、で応えて曰く。

「君らが殺して、君らが生誕させた。姿見(すがたみ)で識れ。邪悪だ」

酢漿草欄干手掴みの姫は、滋籐の弓構えて絞る、冠従者を制して曰く。そも流体のどろどろの、どこを狙って射ようと云うのか。

「おなじ名かえ、なんと数奇な。仲良くしよう。定めし其方は邪悪に見える。其方から見た、妾も邪悪か?」

無常姫の声掛けに、無常と云う名のどろどろは、落下を暫時ぴくりと停めて、月天城から応えて曰く。窮地に及んで滅相(めっそう)してはいけないもの、それは思考と言葉と知って。

「美しく、聖光に見える。僕とは真逆様(まっさかさま)の姿見だ。だから僕は自分を邪悪だと思う」

忘れる勿(なか)れこのどろどろは、産まれる前の辰(たつ)の落とし子。母の乳の温もりを知らぬ。母の声の愛を知らぬ。白拍子の無常姫、声の臥(が)する月天城、それでは無くて眼前の、どろどろの中の黄金に曰く。

「無常の名を持ち、お嘆きなさるか。其方は無常を、佩き違えてはいませんかえ?」

夜、皓々(こうこう)と深まるというのに、赤紫と橙の、夕顔ぱっとぱっと咲き零れ、月天城から木霊する声、微かにふるふる震えて曰く。

「無常なんて、虚ろだ。つまらなくて、惨めな、邪悪だ」

「あっはっはっは!なんと幼気(いたいけ)な!あっはっはっは!」

褄火(つまび)やかなる風防の、葦(よし)の簾(すだれ)に打ち掛かる、夜花風(よるはなかぜ)より高らかに、笑う無常の姫の曰く。その瞳は菩薩を湛えて。

「よいかえ、無常の名の者よ。常けさ無きこそ無常ぞな。光り輝く悲しみも無常、法螺を吹く喜びも無常、陽も無常、陰も無常。雨の無常、星の無常。無常とは偏在して介在する、全く全てをそう呼ぶのだよ」

したり顔目の無常姫、月天城は伏魔殿、あのどろどろの声が死んだら、高楼の下悉(ことごと)く虚無に喰われる。

だのにと云うのに無常姫、高座の息吹で重ねて曰く。

「其方は只今陰に寄り、妾は陽に寄っているだけじゃ。お嘆じなさるな、無常の者よ。月夜が無き日陽を見よ。皆ことごとくはひっくり返るぞ」

空中浮遊のどろどろは、氷結紛れの黄金の粒を、どろどろの内で巡らせて、月光に塗れた黄金の粒が、回遊する様嬉しげで、鉱山に涌く泉の様で。

「僕だって、君みたいに成れるかな」

空に座します月天城、くぐんだ声は清浄と、汚濁を踏んだ声と変じて、変じて空降る五億の鈴音。鈴音の声と回響す、黄金の粒は凍てついた、どろどろの内で、ひとつに塊り玉魂(ぎょくこん)と成る。

玉魂、夜空に重く輝き浮かび、高楼の下人々は、星の乗り物顕われりと、心に描く者夥しく。

玉魂、顕われると時同じ、紫黒のどろどろ弾けて爆ぜて、高楼巡りの森林や、大楓神殿巡りの榊の、樹冠(じゅかん)にびちゃびちゃ打ち掛かり、無常の姫の言の葉は、無常と云う名のどろどろを、極めた絶(ぜつ)の頂(いただき)へ、けっこうけっこう導き果てた。

玉魂光るは黄金の鈴色、鞣(なめ)し表皮は鵺卵(ぬえらん)に、金箔まぶし、蜥蜴蝣(とかげろう)の茹でた皮で磨いた艶。所構わず発光し、小さな日輪咲いたかの様。

納得いかぬは冠従者。三人芸女の内ひとり、萌黄の君は実の姉。狩衣まとった目で見遣れば、高楼の下、表舞台は真っ先狙いの壊滅必至。

三人芸女の歌い手は、三者同容両膝撞いて、振袖だらりと下げ散らし、どろどろ触手にもたげられ、虚ろまなこで口はご開帳。全ての孔から体液だらり。

見るも哀れな陵辱様よ。狩衣まとった冠従者、赤鹿狙いの弓引き絞り、声掛け続ける無常の姫の、必死姿の背後から一閃、滋籐の弓構えて引いた。

鏑矢風切り、姫の声切り、玉魂目がけて夜を切り、無常姫が振り向いて、冠従者をなじるより先、矢は玉魂を貫いた。冠従者の放った鏑矢、鏃(やじり)は先尖形粧(せんせんげしょう)の青銅。然れど邪恋の怨嗟の塊、憎しみが澄み切った鏃の硬度、たたら女の鍛えし鉄にも勝る。

玉魂、佳音を一発鳴らし、思いの外に砕け散り、夜の森の樹冠あちこち、ちりばまる様、澪標(みおつくし)。言葉の遅れた無常姫、砕け散った玉魂を、眼下に見据えて俯瞰に曰く。

「嗚呼、死んでしまわれた。けれどまあ、あながち綺麗よの、無常の者よ」

不貞腐れの無常姫、勇ましきかに堂々と、既に矢放ったままの弓構えたままの、冠従者を一睨み。冠従者、不瞠のまなこで、中有に向かいて堂々曰く。

「あれはこの世のものでは無いものなり。この世のもので無いものの、役目はこの世の罪悪を、ひとつ曵き連れ浄化させること」

冷潔な、無常姫の睨み目は、弓なり上弦象を変えて、こもれ漏れるは笑い声。

「間の物と云うかえ、狂恋とは恐ろしげじゃのう。間物も殺したわ」

萌黄の君と冠従者、血の澱む恋情互いに狂わせて、さと匂う罪に身を尽くし。

玉魂の爆風飛ばした夏芙蓉、宮中洛花とけざやかに舞台を舞う。滋籐の弓すっきり降ろした、冠従者は瑜伽(ゆが)に曰く。

「楼下をご覧なされ姫様、彼女は魂喰われて間物となった。二人芸女を道連れにな。あれを産んだは我らが罪障、ご覧じたろう無常の姫様。猿の死血よりどろどろじゃ。猪の髄よりどろどろじゃ」

六根(ろっこん)気冴えの冠従者、雲居の成りで拳を握り、守護の役目はここで最期と、主人の許しを待つ請眼。欄干端えの花瓶に差した、梅が枝手折りの無常姫、配下の者の不倫の悪も、己が間物を射殺し浄め、やれ煌々と貫かれては、美称と成して輝く澪標。

「下がりや、射竜(しゃろん)。ただひとつ、聞かせておくれ。身を尽くした果ての、其方の心はどうじゃ?」

冠従者の名は射竜。元より竜を射る者なり。

「叶うことなら洛芭(らくは)の君と、夢の威力に空酔いしたかった。が、ご覧じなされ無常の姫様、この有様よ」

萌黄の君の名は洛芭。都の花を意味に持ち、落下する葉を音に持つ。どろどろ触手も消滅し、胸襟はだけ寝転ぶ死姿(しすがた)は、死を舞台に括り染め、半分開いた世を見ぬ瞳、まるでなにかを待っている様。

冠従者の手には滋籐の弓、ただそれのみが握られて、死の果てに待つ萌黄の君の、差し出された手を捕まえに、一目散に飛びたいと、縛る忠義に心が叫ぶ。曰く。

「無様よ、姫様」

白拍子の無常姫、烏帽子を解いて豊髪夜離(よが)れ、過去是までに良く仕えし、愛する配下に微笑んで曰く。

「あいわかった。下がりや、射竜」

冠従者、辞儀を一発。狩衣一閃擦れ音を響かす。狂るり向いた背姿は、死神天女の双方憑いた、まさしく無常の姿に見えた。



べべべん



所変わって時遡り、届かぬ手のひら翳した小野子。榊の若菜が月光に、激を刺されて精胚を、一際むくりと剥き出したと同時、きらっとなにやら光ったと思えば、見上げ届かぬどろどろが、弾けて爆ぜて遠野の野分け。

ぐるりと囲む幾何数の榊、池の神殿真央の大楓に、びたりびたりと打ち掛かり、妖しき煙を立ち昇らす。

漸く大呪(たいじゅ)がほのぼのと、我が身を貫きにお出でくれたと、紅梅襲(べにうめがさね)の桜襲、小野子は頬を紅潮と、真染めに染めてほやほや笑った。然れど。

若菜の有す魂と、麻香の無機が反駁し、榊を喰らおうどろどろは、喰ろうて良いのか悪いのか、大いに惑い渾沌し、体熱上げて自殺を始めた。

煙はどろどろ溶けた死骸で、迷いて行く方無くなれば、どろどろ間物も天上望むか。

人身御供の小野子の想像。儚い我が身を喰ろうてくれて、安息浄土を描いた想像。だのに頼みのどろどろは、ひとり遊びのひとり自死とは、惨めと云うにも限りがあろうと、榊に焚かれた麻香の酔狂に、身を任せて咆哮に曰く。

「おのれ、下郎が!極(きわ)まで詰(なじ)るか!どろどろしおって、喰ろうてくれるわ!」

咆哮、呪いの言葉と裏腹、甲高い乙女子の、無理に絞った大声(たいせい)が、夜神殿の宙を裂き、大楓の青葉をばさばさ揺らす。

立ち上がって駆け足に、大楓を死床に自殺を続ける、どろどろを喰ろうてしまおうと小野子は立つも、踏ん張り効かずか弱く沈む。榊に焚かれた麻香と、栄養足らずの肉体は、既に朽木と枯れ尽くし、一寸胞子も身動きならぬ。

実態の居無い神や覇者、そんなものに差し出され、死すら選べぬ自らが、ただ悔しくて小野子は泣いた。流れし涙は春雨の雫、どこまでもどこまでも溢れ続け、池の水嵩滅法と増し、溢れた水は堰を切り、堪えきれなく下山を始めた。

驚きたるは大楓、妙などろどろやって来た、次第は人間女の流す、涙と云う大いなる水が、池を斬り裂き河を成す。稀有も稀有たる光景に、大楓の青葉の青は、春と云うのに修羅の降ったか、紅葉可憐に色づき始めた。

夜と昼を繰り返し、青葉と紅葉を繰り返す。刻は満ちれば絶えて死ぬだけ、世の移ろいはただの再演。千年過ぎても変わらぬはずと、信じて来たのは大楓。小野子の溢るる涙の壷と、漏らす官美の嗚咽の奇跡、池を蹴散らし河と成り、どこ果てまでも移動するのか。

涙を繋げ、嗚咽を連ねる、打ち伏し小野子の姿を見れば、ああ、これ程までにこれ程までに、己が心の感情を、表現出だせば世はこんなにも、変貌遂げておもしろいのか。

どろどろ被った大楓、これを好機に千の葉を、春と云うのに紅葉に変えて、凄艶うごめく小野子にふりかける。春の夜の月夜の闇に、狂い紅葉が千早降り、韓紅(からくれない)の千の葉は、小野子の命を通過して、空いた堰より下へと流れる。千の紅葉に埋まる河、父はどろどろ、母は小野子。狂い楓の紅葉を纏う、からくれないの竜田川。



べんべん



場面変わりて高楼の下、太髭公の無念が響く。楽者奏者に十一の巫女、警備の男衆二十と四人、かろうじてかどろどろ鈍くて、降りかかった災いの、重み異様に比ぶれば、あっけなくて生き延びた。

殺されたのは、三人芸女。人に盗まれし物の語りの姫君の様、無惨な姿。あらゆる体液垂れ流し、淫れ喘いで悶とした、表情はり付き外せぬ虚仮面(こけめん)。それが死に往く姿とは、楽者奏者に十一の巫女、二十四の警備衆、七剣納めた太髭公、紅涙(こうるい)落として仕方なし。

三人芸女は神事の要衝、祈祷の肝心、崇拝の偶像、枢密庇護の三聖女。それが喰われた。

老いさばらえし太髭公、成す術なくて空を見やぐと、つぶつぶとした怪鳥が、厭離(えんり)するかに鳴くばかり。死んでしまっておさらばなのに、三人芸女の体匂が、追い風用意に舞台に溢れ、太髭公の胸をつく。

二十四の警備衆、色打掛けを端拡げ、三人芸女の遺骸を覆い、太髭公は雪熾るかの、紅梅の花三本手折り安土した。

「雪盗りうさぎが雪と成ったわ。なにが中有の覇者かのう」

太髭公が言葉を投げたは、楼上より降下してきた冠従者。冠従者は色打掛けの真ん中ひとつをぴらりと捲り、半開いたまま硬化した、萌黄の君の瞼を閉ざした。

「すまんの皆様、しくじったわ。」

冠従者は眼に手を充てがい、透垣(すいがい)見るかのかじかんだ眼で、左右の芸女に陳謝して、佩いた剣を音無しく抜いた。抜いた剣は夜の海に、星の光を浴びて光る、扁平腹の魚のように、舞台の海にきらりと光った。

冠従者は萌黄の君の、心臓の位置を確かめて、己の心臓同線上に、連なるように萌黄の君の、体に体を被せて合わせ、そのまま自ら背の方器用に、扁平魚と光る剣を、舞台の板に刺さるまで、ずぶずぶずぶと突き刺した。

スメラミコトの由縁との剣は、二つの心臓串団子、舞台の板までそっくり貫き、滋味なる辺獄の鬼の餌に見え、二つの心臓連なった、冠従者と萌黄の君は、やっと不浄の國を抜け、柵(しがらみ)のない天國へ、移り得たかの穏静の澄顔。人の傍目は鬼の餌、当の二人は天國詣で。同じ事象に二つの見解、あな無常、それとしか云えね。



ここで場面はとある寺子。春の桜の咲き曝す、薫風重みに誘われて、よぼよぼ住職みなしご連れて、月にお花見いかがかと、月夜の雲は棚引く薄雲。黒濃い山の稜線は、住職こさえた白詰草の、花冠の輪の中に、すっぽり収まる遠近度合い。

よぼよぼ住職膝の上、温床と収まるみなしごは、肘先の無い左腕に、花冠をくぐらせて、ぶるぶる回してふとして曰く。

「きれいねえ、じいちゃん」

よぼよぼ住職みなしごに、じいちゃん呼ばわり嬉しくて、鍍金(めっき)施し雛櫛(ひなぐし)で、豊かなみなしごすみれ髪、ときとき梳いて老眼で曰く。山門前に棄てられた、みなしご掬って早や三年。

「きれいなお月じゃあなあ」

みなしご右手の人刺し指で、月の下の山の稜線、そこらを目がけて首振り曰く。

「ちがうよ、じいちゃん。あのどろどろがきれい」

よぼよぼ住職斑目(まだらめ)ひずませ、遠くの山の稜線を、喰いちぎ侵す粘着質のどろどろが、自宮(じきゅう)に黄金の粒を漲らせ、ゆっくり激しく動くのを見た。

よぼよぼながらも斑目は、大きなどろどろ黒紫の中の、小さな黄金のつぶつぶを、見るべきものと映しはて、おののいて曰く、住職の声は変哲。

「こりゃあいかん、間の物じゃ。あそこが終わるぞ、圏谷(たに)に落ちるぞ。眼や潰れ」

云うた住職よぼよぼの、たるたるの手をみなしごの、大きなお目目に伏しかけて、祈祷するかにぶつぶつと、経文なにかを念じては、合いの手、嗚ー呼ー、なんともうるさし。

目隠しされたみなしごは、肘先の無い左腕で、たるたるの手を打ち払い、膝の温床脱け出して、たたたた駆けて、空に憧れた。

瞳の奥の人体の不思議、どろどろ黄金の金綺羅を、吸収したかにみなしごの瞳は、輝度が収斂きらきらと、輝くばかりに輝いて、中有の覇者に憧れた、無常の姫と同容の瞳。ただいま瓦解した筈の、無常姫の憧れが、紡ぎ留めるか輪廻かと、繰り返しがまた完成した。



場面転じて高楼の上、烏帽子を脱いだ無常姫、はあっ、と一息吐息を吐いて、欄干手すりの擬宝珠(ぎぼし)にお手つき、楼下の世界を沛然眺める。一旒(いちりゅう)の風吹き通り、風が髪を鈴鈴(りんりん)鳴らす。

無常の姫は細く青白い手で、乱れた髪を搔き上げる。眼下に見下ろす世界には、圏谷間(たにま)を示す澪標、がらくたに成った玉魂が、輝く様は沈淪世界。小長元坊(こちょうげんぼう)、夜鳥目託して、夜の空を伐って飛ぶ。

深く鎮まる夜の上、無常姫は擬宝珠にお手つき、かよかよわしい一人音を吐く。

「お滑稽よの、お滑稽」

中有の覇者を求めた末は、人殺しの呆れた顛末。竜田の川の誕生と、憧れ瞳のみなしごと、どちらも存ぜぬ無常姫、赤さくらんぼの嘆息を吐く。

散り散り散った玉魂が、森を織布の寝床と輝き、中有の覇者を喚び起こす、魔法陣にも見えたけれど、無常姫は高楼の姫、召喚士でも神巫女でも、生け贄でもないただの姫。無常の理、理知解すれども、無常の名を持ったどろどろの、ばらばら散らけた輝きの欠片、うち眺めるより仕方なし。

赤さくらんぼの嘆息の、後ろに続く姫言葉、無上の無情を鋲(びょう)打ちつける。

「星に願いをかけられたらば」

どろどろ聳(そび)えた中空の、遥か上なる天空の星。星に願いをかけられ足れば、あるかもわからぬ中有の覇者など、求めず星に願いをかけて、希望を抱えた現世を、皆々様生きられるのにと、無常姫の吐いたのは、移り変わりと繰り返しの、世界を厭味する聖状な嘆息。

髪を揺らす飆(つむじ)の風が、森の方から星の方から、さわりと吹いて星の香(か)と、森の香(こう)と死んだばかりのどろどろの香(かお)りを、一緒くたにして姫を通る。

無常の姫は赤さくらんぼの、嘆息やめて両手を大きく、双魚宮がひためく空に、空に向かって振り翳し、余りに巨きな巨きなものを、抱擁するかの素振りを示し、星に願いをふりまいた。



                      あのどろどろ

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あのどろどろ 円窓般若桜 @ensouhannya

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