ないものねだり
物語の世界で流行っている異世界転生が現実世界でも起きてくれたらいいのに、と夜になる度に思う。朝、起きたら違う世界。そうなっていたら、どんなに良いだろう。
「今日はハッキリと見えるな」
洗面所で自分の顔を確認する。それは決して自惚れるほどの整った容姿をしているからというわけではない。見えないと不安になるのだ。
「よし、大丈夫だ」
逃げられない現実も癖も、まだ上手く受け入れられないけど、少しは折り合いをつけられるようになってきた。ぐるっと身の回りを確認してから、玄関の鍵を締めて外に出た。
「今日は調子が良いみたいね、一発で見つけられるなんて」
「そうみたいです」
「オシャレしてきたから尚更分かりやすかったでしょ」
「関係ないと思います」
「もぉ! そういう時は少し褒めてよ!」
肩につくくらいの焦げ茶色の髪に、ちらりと見える銀のピアス。目鼻立ちがハッキリした顔は軽く睫毛をあげて、リップを塗れば十分に誤魔化せる。
「どうしたの?」
「いや、本当に凄いなって。遠目で見たら、綺麗な女性ですよ」
初めて会った時から、彼は女性の格好をしていた。理由は、ただ美しくありたいから。美を追い求めていたら、今のようになったらしい。
「綺麗なんて照れるわ。でも、そのための努力をしているから当然ね」
それは顔だけではなく、所作や身に付けるもの等も含めてだ。常に背筋をピンと伸ばし、猫背の姿など一度も見たことがない。靴紐も解けないように結ばれた適当なものではなく、オシャレになっている。
「ちょっと、何で私よりも靴を見ているのよ」
「凄い結び方だと思って見ていました」
「チェッカーボード? 今度教えてあげるわよ」
「面倒くさそうなので良いです」
「何よ、夢中になっていたくせに。それより、早く行かない? ここは酔う」
遠目で見る分には良いものの、近くに来ると高すぎて読めない時計。羽を広げて、これから飛ぼうとしている鳥の銅像と、それを応援しているかのように勢いの良い噴水。待ち合わせ場所には丁度良いが、あまりにも人が多すぎて僕たちには良くない。
「そうですね、行きましょうか」
どこに行っても落ち着く場所なんてないけれど、それでも気分を紛らわしたくて歩き始めた。
お待たせしましたー、と元気いっぱいの声と共にやってきたのは、熱々の鉄板に乗せられたハンバーグとナポリタンのセット。続いて、とろとろの半熟卵にデミグラスソースがたくさんかかったオムライス。
「オムライスも美味しそうね。足りなかったら頼もうかしら」
「本気で言ってます?」
「まずは食べてから決めるわ。いただきます」
会話など一切なく、お互いに黙々と食べ進めていく。それだけ食事に夢中ということなのだ。ただ、小食ではないはずなのに、すぐにお腹がいっぱいになってしまう。
「あれ、全然減ってないじゃない。少し食べてあげようか」
そう言われて、彼のお皿を見ると僕の倍以上あった料理は、もう無くなっていた。別に食事のスピードなんて競うものではないけれど、負けた気がして悔しくなる。
「結構です」
スイッチが入って胃の動きが活発になったのか、しばらくして何とか食べ終えた。
「お待たせしました……って、そんな真剣にメニュー見て、また注文するんですか?」
「今日はもうこれくらいにしておこうと思ったんだけど、次来た時の候補決めよ」
「そんなの気分で変わりますよ」
「変わっても考えるのが楽しいの。それより、今日はバイトお休み?」
「はい。というか、そろそろ辞めようと思っていて」
「あれのせいだったら、どこ行っても同じよ」
「そうですけど、逃げたくなりました」
僕は人の顔が分からない。正しく言うと、時々だが急に分からなくなってしまうのだ。それは、いつ起きるか分からないため、とても悩ましい。
「私は周りの顔がみんな同じに見えるから、それはそれで辛いけど、あなたよりはマシよね。だって、急に分からなくなるのは怖いもの」
「そっちも中々嫌ですよね」
「ずば抜けて綺麗でいようと思っても、自分の顔も分からないのは辛いわ」
けどね、と晴れやかな表情で笑う。
「私は自分のこと好きだし、このおかげで美に目覚めたから悪くはないと思うのよ」
その言葉が本心だと思い込んでいる訳でないことは彼の様子を見ていたら分かる。でも、僕は「おかげ」なんて言えない。まだ、「せい」だ。
「あと、ほとんどの人が自分のことで精一杯だから案外他人のことなんて見ていないのかもとか、誰だって見知った顔の見間違いなんてあるわよ」
コーヒーに入れたミルクは、とっくに混ざっているだろうに、飽きることなく円を描き続ける。
「やっぱり、夏也さんには敵わないや」
「おい、何で名前で呼んだ?」
「素が出てますよ」
「あら、嫌だ。私もまだまだね」
口調もそうだが、急に声のトーンまで低くなるので驚く。名前を呼んだだけで態度が変わるなんて前にもあったが、右手の握りこぶしを隠しきれていないなんて相当だ。
「殴らないでください」
「何を言っているの、私は温厚よ」
子どもをあやす時のように、パッと開いた両手を顔の隣に持ってきたが、表情は固い。行動と感情が追い付いていないようだ。
「偽り切れないなら、いっそ素でもいいんじゃないですか?」
「駄目よ、綺麗な見た目をしている時くらいは言動も美しくありたいもの」
「名前で動揺している人が、よく言えますね」
「てめ……! 手前の砂糖を取ってくれるかしら」
「どうぞ」
瓶から取り出した角砂糖を、ドボンと音を立てながら、コーヒへ何回も入れる。無表情だが、どこか殺気立っている。
「入れ過ぎじゃないですか?」
「ここのコーヒーは苦めだから良いの。はい、もう十分だから戻しておいて」
瓶を元の位置に戻すと、「美味しいー」という声が聞こえた。つられて、僕もコーヒーを飲もうと手を伸ばす。
「うわ、何かコーヒーが甘い。目を離した隙にすり替えるとか、そういうのやめてくれますか?」
別に甘いものは嫌いではないけれど、予想していたものと、実際に体験した味が全然違うのは裏切られた気分になる。
「こんなんで絶望しちゃ駄目よ」
「していません」
「そう。それでバイトは、どうするの?」
「様子見ですかね。どこ行っても変わらないなら、しょうがないかなって。仕事も何とかこなせていますし」
「私は、やめれば、なんて簡単に言わないわ。そう言うからには、代替案を提示出来ないといけないもの。まぁ、決めるのは明人くんだから、よく考えなさい」
「どうも」
窓ガラス越しから外の世界を見ると、多くの人が行き来していた。一人一人が違う顔をして、それぞれの生活をしている。それなのに、画一的に見えてしまうのは、個人ではなく集団として見ているからだろうか。
「本当、たくさんの人がいるわね」
この人には、世界がどのように見えているのだろう。全てが同じ顔で、自分の顔すら分からない。それでも、僕以上に楽しんでいる。
「夏也さん、凄いですね」
「褒めてくれたから感謝するわ、ありがとう」
笑顔が少しぎこちないけれど、明らかに動揺しなくなっただけ良くなったのかもしれない。
「明人くんも凄いわよ」
「夏也さんの相手をしているからですか?」
「本気で怒るぞ」
さっき変わったと思ったけど、どうやらまだまだらしい。彼は綺麗さ、僕は癖との向き合い方。ないものねだりほど、無茶なお願いだとは思わないけれど、願うことでバチが当たるならやってられない。
「お互い、まだまだですね」
「そっちが煽るからだ」
完全に素になっていることは、教えないでおこう。先に克服されたらつまらないと思うのは、意外と負けず嫌いだからかもしれない。
「何、笑ってんだよ」
「面白いなって」
これからも人の顔が分からなくなったり、見間違えたりすることは何度もあるだろう。その度に悩んで、本当に克服出来る日が来るのかと不安になっても、少しずつ向き合っていけば良い。
ー見間違いー
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