評価を決めるのは
無心で丁寧に筆を洗う。絵の具は染みついて落ちなくなっているのに、何とか必死に洗って落とそうとする。執着を捨てるように。
水は冷たく赤切れに染みて、このまま突っ込んでいたら感覚が麻痺してしまいそうだ。深く底が見えない程の沼になったバケツの中をボーっと見つめる。交換を忘れてしまっていたため、黒よりも汚い濁った色になっていた。
「どうりで落ちないわけだ」
バサッと荒く捨てた瞬間に、水滴が顔に跳ねて、着ていたシャツで拭くつもりが、ついていた絵の具のせいで逆に汚れを広げてしまった。溜息を吐きながら鏡に映った自分の顔を見る。
ちょうど目の下には涙のような青、剃るのを忘れていた髭には白。これでは、自分の顔もキャンバスではないか。みっともない。ただでさえ情けない表情が、滑稽になっていた。
「はは、あはは……!」
何がおかしいのか分からない。でも、もう笑わないとやっていられないのだ。
評価されることが目標だったのではない。
きっと自分で自分を認めたかったのだ。
それが出来なかったら苦しかったのだ。
「生まれる時代を間違えたのか」
閉じた世界で希望を持つことは愚かだろうか。コネに縋るのだって才能だ。
報われるいつか、を常に待っていた。
けれど、自ら機会を放棄した。
昔は作品を通して自分を見て欲しかった。馬鹿にした奴らを見返すために。
でも、今は自分なんか見なくていいから作品を評価して欲しいと願うようになった。それなのに、この作品は誰にも届かない。
ふと、部屋の端に目をやる。
描いては積み重ねてきたそれらは、絵の具が乾ききらないうちに置いてしまったものもあるため、汚くなってしまった。しかし、埃が隠してくれていたため見ずに済んでいた。
「一つくらいマシなものがあっても良いだろ」
遊び終わったジェンガを壊すように、勢いよく下にばら撒ける。そのせいで床に大きな穴が空いてしまうのではないかと思うほど、ドン、ゴトンと凄い音がした。
会ったこともない理想を詰め込んだ何処かの誰か。観光先で訪れてひどく感動した場所。庭先に咲いている花。自分にしては上手く出来たと思った料理。一つ一つ思い入れがある様々な絵が出てきた。
「こんなにもあったのに、一つも認められなかったなんてな」
それなりに上手く描けているほうだと思うが、自分の作品に愛着があるからなのかもしれない。誰にも評価されなければ、存在しなかったも同然なのだ。ポタ、ポタと流れる涙が絵を滲ませていく。悔しさと情けなさが混じった気持ちで、今日も日記を綴る。
誰にも届くことなく、描き溜めた作品は静かにここで眠っている。
彼女に連れられて美術館に来た。こういうキッカケさえなければ絶対に来ないような場所だ。
「本当に僕で良かったの?」
「うん、ぜひ見てもらいたくて誘ったんだ。難しく考えなくて大丈夫」
「あまり行かない場所だから緊張するな」
「そんな心配しないで。それと、私のペースに合わせなくていいから」
そうは言いつつも、最初は一緒に見ていた。場所が場所なため騒ぐことはしないが、彼女は静かに興奮している。一つ一つの作品を指を動かしながら、見たことが無い程のだらしない表情で目を輝かせて楽しんでいる。けれど、段々と一人の方が集中できて良いのかもしれないと自分のペースで楽しむようにした。
作品を見るのは勿論だが、いかに魅力を伝えようとしているのか熱意が伝わってくる解説を見るのも楽しい。幼い頃に連れてきてもらった時は、出口めがけてまっしぐらだったのが恥ずかしくなる。そんなことを考えつつも、作品を見て楽しめるようになったことが嬉しかった。
展示室を抜けて、空いていた椅子に腰を下ろして余韻に浸っていたら彼女がやってきた。
「お待たせ。どうかな、少しは楽しめた?」
「美術のことはよく分からないけれど、何か良いね、こういうの好きだよ」
「それで良いんだよ。自分の直感を大切にするのは大事だからね」
「波長が合うっていうのかな。心地良かった」
うんうんと頷きながら、彼女は腕を組んで満足そうにしている。
「私が好きなものを気に入ってもらえて嬉しいし、こうやって生で見られて良かった」
その言葉を聞いて、一つ疑問が生まれた。
「この人がこの時代に生まれていたら、同じ時代を生きれたのに、とか思わない?」
「そうだとしてだよ。その人は本当にその人になっていたのかな。この時代だからこの絵が描けたと思うんだよ。違う時代や今だったら別の表現になっていたんじゃないかな。もしかしたら、画家になっていなかったかもしれない」
「確かにそうだね」
そういうこと考えたくなるのも分かるよ、と彼女は軽く笑って隣に座った。
「この人の絵だけじゃなくて日記も好きなんだけど、見た?」
「うん。そんなものまで展示されているなんて凄いなと思ったよ」
こんなに立派な絵を描ける人だから、さぞかし昔から人気があって喜びに満ちた内容だろうと勝手に思っていた。しかし、誰にも認められず何度も悔しい思いをしながらも作品を描き続けた苦悩などの方が大半を占めていた。
「きっと分かってくれるはずなのに認められないのは、生まれる時代を間違えたせいだって何度も出てきていたでしょ。でも、同じ言葉でも、最後にいくにつれて良い意味で変わったから本当に良かったって思うんだ」
展示室から出てくる人たちが熱を持って語り合っているのを見て、彼女も嬉しそうだった。
「今日は本当にありがとう。少しでも気に入ってくれたら嬉しいな」
「君に教えてもらわなかったら知ることは無かったと思うし、気に入ったよ。ありがとう」
その言葉がよほど嬉しかったのか、目をキラキラと輝かせ手を万歳にして喜んだ。
「よし、お腹が空いたから美味しいものでも食べに行こう!」
お勧めの場所に向かう途中も、その画家の魅力を教えてもらった。ところどころ専門的で難しい部分はあったが、それでも好きなものについて話し合えることは楽しく、良いものを知れたことが今日一番の収穫であった。
カーテンを閉め切り、寝ることも食べることも忘れて夢中で作品を描き続けていた。
ポピーの花びらのような朝焼けに包まれた街の景色。宝箱に詰め込まれた昔遊んだオモチャたち。思いつくままに筆を走らせた。ただ、自分の見たいものや見てきたものを再現するために。そうしていく中で分かったのだ。認める誰かは他者ではなく、自分でも良いと。
「良かった、俺は自分を認めることが出来たんだ」
自然と漏れてきた笑いは自虐によるものではなく安堵によるものだった。
「きっと誰かにも届く。そうさ、今じゃなくたっていい。生まれる時代を間違えていただけなんだからな」
せっかくの良い気持ちを忘れないようにと日記に記す。いつもは鬱陶しく感じるラジオから流れる音楽も、今日は陽気な気分にさせてくれる。
「さぁ、これからだ」
カーテンを開けると、眩しいばかりの光が作品を照らした。
-生まれる時代を間違えた-
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