第3話 宿題見して

 王子の秘密を知った翌日、柊は朝早くから学校に来ていた。


 結局、昨日は色々あって宿題を学校に置いてきてしまったのだ。宿題を忘れてしまったと正直に言っても許してもらえるとは思っていない。何せ、相手は気難しい事で有名な長田教諭だ。宿題を忘れたと言えばねちねちと文句を言って課題を増やしてくるに違いない。


 入学してまだ二週間。面倒な教師に目を付けられても面白くないと思い、朝早くから登校しているのだ。


 朝のホームルームまではまだ十分に時間がある。宿題もプリント一枚に問題が数問程度。直ぐに終わらせて後の時間はスマホでもいじっていればすぐに時間になるだろう。


 人の少ない学校内を歩くというのは新鮮で、少しだけ特別感があるけれど、実際は学校にいる時間が増えているだけというだけだ。出来る事ならぎりぎりまで眠っていたかった。


 まだ春先。ひんやりと冷たい空気の漂う廊下を歩いて教室へと向かう。


 教室の扉を開けようとして、いったん手を止める。脳裏によぎるのは、昨日の光景。


 二度も同じ事は無いだろうと分かっている。それに、昨日の今日だ。流石に麗も警戒をしてカチューシャなんてつけていないだろう。


 が、一応扉についている窓から中を覗きこむ。


 朝早いという事もあって、教室内は無人である。その事実に、柊は思わず胸を撫で下ろす。


 安心して教室の扉を開けて、教室内に入る。


 教室に入るのに注意しなくてはいけない現状が嫌でしょうがない。


 ともあれ、今大事なのは宿題だ。


 ロッカーの中に入っている教科書を漁れば昨日回収し忘れたプリントが挟まっていた。


 プリントを持ち、自身の席に座る。


 ミュージックプレイヤーにイヤホンを繋ぎ、音楽を聴きながら宿題をしていく。


 間違えても良い。空白さえなければ納得してくれるだろう。ようは、努力の跡さえ見えれば良いのだ。


 淡々と問題を解いていく。


 集中していればあっと言う間にプリントは埋まった。時計を見れば、ホームルームまでまだまだ時間がある。


 イヤホンを外して、ミュージックプレイヤーに巻き付けてからリュックの中に仕舞う。


「ねぇ!」


「――っ」


 残りの時間はスマホをいじっていようと思ったその時、唐突に声をかけられ、思わず身を震わせてしまう。


 他の人の声が聞こえた事に驚きは無い。驚いたのは、自分に声がかけられたという事実にだ。


 柊は自他共に認めるボッチである。クラスメイトに友人はおらず、また声をかけてくるような人物も居なければ用事もない。


 だからこそ、驚いた。


 いや、もしかしたら声をかけられたのは自分では無いのかもしれない。


 そう思ってちらりと声のした方を見れば、どう見ても柊の方に身体を向けて、なおかつ柊の机の真横に立っている女子生徒の姿を確認する事が出来た。


 ちらりと顔を窺えば、女子生徒はきちんと柊の方を見ていた。これで勘違いだと思う方が無理がある。


 柊は諦めて返事をする。


「何……?」


「それ、永田の出した課題だよね?」


「……そうだけど」


「見せて貰っても良い? アタシ、宿題やって来るの忘れちゃって」


 てへへと笑みを浮かべる女子生徒。


 少し考えて、柊は女子生徒にプリントを渡す。


「ありがと!」


 が、受け取った女子生徒は何を思ったのか、隣の席から椅子を拝借して柊の机で宿題を写し始めた。


 思わず、女子生徒を凝視してしまう。


「ん、なに?」


 そんな柊の視線に気付いたのか、女子生徒は小首を傾げて柊に訊ねる。


「あ、いや……自分の席でやんないのかなと思って……」


「みぃもちーちゃんも居ないし、今はこっちで良いや~」


「そ、そう……」


 みぃとちーちゃんというのが誰だか分からないけれど、この女子生徒は自分の席に戻るつもりは無いようである。


 まぁ、宿題を写しているだけで害は無いだろう。


 そう判断した柊はスマホをいじる事に専念する。


 直ぐ近くに人が居るという状況が気になってしか無いけれど、極力気にしないようにする。


 女子生徒が宿題を写し、柊がスマホをいじっている間に、教室には続々とクラスメイト達が登校してきていた。


「おはよう」


 やがて、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


 声の主、佐倉麗が今日も麗しく登校してきたのだ。


 麗が挨拶をすれば、男女関係無しに挨拶が返ってくる。


「あ、麗様~! おはおー!」


 宿題を写していた女子生徒もプリントから顔を上げて麗に手を振る。


 しかし、柊は横目でちらりと見るだけで返事はしない。昨日金輪際関わるなと自分から言ったのだ。そう言いだした柊から声をかけるのもおかしな話だろう。


 そんな柊の様子を見て、麗は一瞬不機嫌そうな表情を見せる。


「え?」


 そんな麗の表情を見て、周囲の者を含めて麗に手を振っていた女子生徒も困惑する。


 けれど、そんな表情もほんの一瞬の事だ。直ぐにいつも通りの涼やかな表情を浮かべる麗に、多少の違和感を覚えながらも周囲は見間違いだという事で納得する。


「うぇー……びっくりしたぁ……」


 心底驚いた様子を浮かべる女子生徒。


 麗の様子を見ていなかった柊には女子生徒が何に対して驚いているのかも分からないし、驚いている事に対しても興味がない。


「ね、さっきの見た? 麗様、あんな顔もすんだね~」


「……」


「……」


「……」


「……聞ーてるー?」


 ぬっとシャーペンが伸びてきて、柊とスマホの間に割り込んでくる。


「うおっ」


 急にシャーペンが視界に現れて思わず驚いてしまう柊。


「……何?」


 素っ気ない柊の態度に、女子生徒はぷっくりと頬を膨らませる。


「もー! 人が話しかけてんだから、ちゃんと聞いててよねー!」


 そう言って女子生徒は怒るけれど、スマホの画面に集中していた柊は話しかけられているという事に気付かなかった。


「……ごめん」


「気を付けてよねー! アタシ、そーいうの結構気にするんだからー!」


「はぁ……」


 気を付けてと言われても、恐らく話すのは今日限りだろうし、もし次があったとしても連絡事項の伝言程度だろう。憶えておいたところで意味は無い。


 曖昧に頷いてから、柊はスマホの画面に視線を戻す。


「のー!!」


「うわっ」


 すかさず、女子生徒はシャーペンを柊とスマホの間に割り込ませる。


「なに……?」


 少しだけ煩わしそうに柊が返事をすれば、女子生徒はぷっくり頬を膨らませたまま柊を睨む。


「まだ話してんだけどもー?」


「……すんません」


「ほんとにそう思ってる?」


「少しは」


「誠意が足りないよ! 心の底から思って! 申し訳ねーって!」


 申し訳ねー。


 心の底で、小さな声で、そう思った。


「思いましたかー?」


「一応……」


「なら良し! でね! さっきの麗様の顔見た?」


「見てない」


「なぜ見ないし!」


「興味ないし」


「君ぃ、そんなんじゃ世間の波に乗り遅れちゃうぞ~?」


「乗らなくても良いだろ、そんなの」


 流行に乗り遅れたところで別段気にする事は無い。タピオカが流行ってる時だって、知らなくて困った事は無い。


「ていうか、早く写せよ。ホームルーム始まるぞ」


「やばばっ!」


 変な声を上げて、女子生徒は慌てて宿題を写す。


 そんな女子生徒を一瞬見てから、柊はちらりと麗の方を見る。


 少しだけ、気になった。麗がどんな表情をしたのか。


 しかし、視界に映る麗はいつも通り涼やかな表情で女子達と会話をしており、時折笑みを浮かべては女子達に黄色い声援を貰っている。


 いつもと変わらない光景だ。


 きっとこいつの気のせいだ。そう思って麗から視線を外そうとしたその時、麗と視線が交錯する。


「……」


 そして、女子達の注意が自分に向いていないその一瞬だけ、麗は不機嫌そうな表情を浮かべた。


「……っ」


 思わず、背筋が冷たくなる。


 美人が怒ると迫力があるというけれど、これほどまで迫力があるとは思わなかった。


 ほんの一瞬の出来事。しかし、柊の背筋を凍らせるには充分だった。


 麗は直ぐに柊から視線を外して、自然な仕草で会話の輪に戻った。


 見間違いではない。明らかに、柊を見て不機嫌そうな表情を浮かべた。


 あれだけ怒っている理由は分からない。正直、昨日の事で怒っていると言われれば、納得できる。けれど、昨日のどれで怒っているのかが分からない。


 柊があれ・・を見てしまったからか。それとも、ボッチの分際で金輪際関わるなと言ったからだろうか。それとも、また新たに何かをしでかしてしまったからか。


 どれが理由だとしても怒っている事には変わらない。そして、その怒りの矛先は間違いなく自分である。


 果たして平穏な高校生活を送ることが出来るだろうかと不安になりながらも、柊は麗から視線を外した。


 これをきっかけに女子から敵視され、いじめられる日々にでもなってみろ。一年も耐えられる自身が無い。


 なまじ麗の人気が高いから、その可能性を否定する事が出来ない。


「よぉし、おわたー!」


 柊が今後の学生生活に戦々恐々としていると、女子生徒はうぇーいと嬉しそうに両手を上げる。


「ありがとー! ぇあっと……えー……君、名前なんだっけ?」


 当然と言えば当然の質問だけれど、そんなドストレートに聞く奴があるかと思わず心の中で突っ込む。


「……若麻績」


「若ちゃん! ありがとー、若ちゃん!」


 お礼を言って、女子生徒は写し終えたプリントを持って自分の席に戻って行った。因みに、柊も今の女子生徒の名前を知らないのでお相子である。


「はぁ……」


 ようやっと喧しいのが去り、思わず溜息一つ吐いてしまう。


 こういう事は今回限りで終わりにしてほしいと思う。次回からはちゃんと家で宿題をしようと心に決め、柊はスマホの画面に視線を移す。


 直後、ホームルーム五分前のチャイムが鳴る。


「…………はぁ……」


 思わず、もう一度溜息を吐く。


 朝早くから登校し、更には朝の憩いの時間すら潰され、更に更に麗に睨まれる始末。


「もー帰りたい……」


 思わず呟いてから机に突っ伏す。


 ホームルーム開始まで、柊は机に身を委ねた。そんな柊を見る視線に、柊は気付く事は無かった。

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