第33話 流れ出る血
だけど互いに身動きの取れない私達にとって、僅かに離れたこの距離は果てしなく遠かった。唯一自由に動けるホレスも、力で言えば全くの凡人だ。加勢したところで、とても事態を変えられるとは思えない。
私が絶望を感じたように、相手は勝利を確信したのかもしれない。それまで事の成り行きを見守るしかなかったエイダさんが、一転して勝ち誇ったように前に出る。
「オウマ君にはケガをさせないでっていったでしょう。まあいいわ。まずはアルスターさんに、私が受けた屈辱の責任をとってもらわないとね」
「止めろ! シアンに手を出すな!」
オウマ君が必死に声をあげるけど、それは一層エイダさんの怒りを濃くするだけだった。
「また、この子を庇って──こんな、地位も何もないような子、助けたところであなたに何の得があるって言うの!」
エイダさんにしてみれば、オウマ君がどうして庇うのか、本当に理解できないのだろう。
実際は、私には魅了の力を受け付けないっていう唯一無二のメリットがあるんだけど、彼女はそんなこと知る由もない。
そして何より、オウマ君はそれだけで人を判断するようなことはしなかった。
「ふざけるな。例え損得なんてなくったって、俺はシアンと一緒にいたいし、一緒にいると楽しいし、傷つくところは見たくない。それだけだ!」
「オウマ君──」
ドキリと、こんな時だというのに、胸が大きく鳴るのを感じた。もちろん、私達の関係といえば、オウマ君の持つインキュバスの力云々があればこそのもの。だけどそれを抜きにしたって、私のことをそんな風に思ってくれていた。それがなんだか気恥ずかしくて、そして嬉しかった。
だけどその言葉は、同時にエイダさんの怒りをより一層強めることにもなった。
苦々しく顔を歪めると、私を取り押さえていた男に向かって命令する。
「あなた、確かナイフを持っていたわよね。彼女の顔に、一生消えない傷をつけてやりなさい!」
そして、その命令を躊躇する男達じゃない。私を取り押さえていたそいつは、器用にも拘束を緩めることなく、ポケットに忍ばせていたナイフを取り出した。
「ひっ──」
「くそっ!」
私は短く悲鳴をあげ、ホレスもなんとか止めようと駆け寄ってくる。
だけどその時、オウマの声が辺りを揺らした。
「シアンーっ!」
その途端、倉庫の隅にあるガラクタが、ひとりでに宙へと浮かび上がる。そしてそれは勢いを増しながら、オウマ君を押さえつけていた男の頭へとぶつかっていった。
「うわっ!」
完全な不意打ちをくらい、男の体が大きく揺れる。それを見て、私を取り押さえていた方も、呆気にとられたような声をあげた。
「な、なんだ?」
物が勝手に動き、宙を舞う。きっと、何が起こったのか到底理解できないでいるのだろう。
だけど、私にはわかる。これは、オウマ君の魔法だと。
そして魔法を使ったオウマ君本人はこれによってできた隙を見逃さなかった。
「どけっ!」
自らを取り押さえていた男を弾きとばし、真っ直ぐこっちに向かって突進してくる。
それを見て、私についていた男も、ようやくまずいと判断したようだ。
「まっ、待て!」
なんとか制止させようと声を上げるけど、この状況において、それは余計な隙を生むだけだった。私に突き付けていたナイフが一瞬離れ、オウマ君はそれを見逃さない。
あっという間にナイフを持った腕を捕むと、強引にそれをねじ伏せる。そして、私に向かって叫んだ。
「シアン、逃げ──」
逃げろ。多分、そう言いたかったんだと思う。だけどそれを最後まで言う前に、彼の顔は苦痛に歪み、その体が大きく揺れた。
「──っ!」
やっぱり、もうオウマ君の体力は限界に近かったんだろう。数々の人間離れした動きに加えて、魔法まで使ったんだ。もしかしたら、今すぐ倒れてもおかしくないのかもしれない。
それでも、決して男にしがみついたその手を離そうとはしなかった。
だけど必死なのは相手も同じだった。オウマ君を振り払おう、あるいは逆に倒そうとして、必死で抵抗を続ける。
激しく揉み合う二人だけど、それを見て今度はホレスが動く。男に向かって全速力で駆け寄ると、そのままスピードを緩めることなく、体ごとぶつかっていった。
「うぐっ!」
さっきも言った通り、ホレスは力においては全くの凡人だ。だけど運がよかったのか、その体当たりをまともにくらった男は、激しく床に叩きつけられ、僅かに鈍い声をあげたきり、その意識を失った。
「やった……のか?」
その結果に一番驚いたのは、もしかするとホレス本人かもしれない。信じられないといった様子で男を見るけど、やはり男に立ち上がってくる気配はない。
それは、他の奴らも同様だ。さっきまでオウマ君を取り押さえていたやつも、吹っ飛ばされた時に気絶していたし、それ以前にやられた人達も、みんな倒れたまま。
私達を除けば、この場で動けるのはもうエイダさんしか残っていなくて、これ以上危害を加えてきそうな相手は、もう誰も残っていなかった。
「助かったの?」
すぐには安心できずに、出てきた言葉も疑問形になる。だけど、多分間違いないだろう。
それは、エイダさんも十分理解したようで、狼狽えたように声をあげる。
「そ、そんな──」
今の彼女には、さっきまでの勝ち誇った笑みも、余裕も、なに一つない。逆に私は、それを見てようやく、助かったんだと言う実感が沸いてきた。
そして改めて、助けに来てくれた二人の、オウマ君とホレスの方を向く。
「二人とも、助けてくれてありがとう」
そう言うと、ホレスは少し照れたように笑った。だけどオウマ君は、まるでそれが聞こえていないみたいに、全くの無反応だ。
「オウマ君?」
不思議に思い、もう一度彼の名前を呼ぶけど、相変わらず何の反応もない。
だけどそれ以上疑問を持つよりも、異変が起きる方が早かった。
目の前で、オウマ君の体が大きく傾き、そのまま床へと叩きつけられる。
「オウマ君!」
何が起きたのかわからないまま駆け寄るけど、目に飛び込んできた光景に息を飲む。
倒れ込んだ彼の服は、いつの間にか真っ赤に染まっていて、今もなおそのお腹からは、血が溢れ出していた。
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