犬のある生活・椅子と暮らして

早稲田暴力会

 早々に抜け出した飲み会の帰り道、犬のご飯が入ったコンビニ袋を提げて柊は歩いていた。飲み会は奥渋の隠れ家的カフェで、ご飯は不味くはなかったけれど、柊は仕事の場で酒を飲まないと決めていたから、長居したくなかった。長居をすると酒が飲みたくなってしまう。自分のルールを破る前に、帰らなければならない。「オクサンが待ってるから」と言い訳じみた言葉で帰ろうとすると、

「アヤメさんとはとっくに離婚したんだとばっかり」

 と、酔っぱらった昔馴染みのクライアントに軽口をたたかれ、柊は顔をしかめた。相手はそのことにも気が付いていない。

 柊は内心、仕事相手に向かっての言葉じゃない、と毒づく。酔っ払いは嫌いじゃないが、仕事の場での酔っ払いって嫌いだ。コレになりたくない、という気持ちが強かったから、禁酒をしている。抜け出して正解だった、と柊は店を出るなり元気が出てくる。もっとも、オクサンがいるはずの代々木上原の自宅には帰らず、犬のいる渋谷の事務所に向かっているのだから、あながちクライアントの言が的外れなわけでもなかったのだけれど。

 坂上からは、窪地にある駅前の繁華街の光がみょうに美しく映った。坂の上から繁華街に向かって下り坂を進んでいると、どんどん光の中に身体が浸される感じがする。この瞬間が一番好きだ、と柊は通るたびに思う。名古屋から少し離れたところから上京した柊は、いまだにこのいかにもダイトカイという感じの光景に憧れがあった。愛着ではなく憧れ。もう東京に出て十年以上経っているのに憧れているなんて、子どもっぽいのかもしれない。でも思ってしまうんだから仕方がない。事務所より外でクライアントと会う機会の方が多いのに、わざわざ賃料の高い渋谷に事務所を構えているのは、この憧れのためだった。

 柊は住宅街の細道を進んでいる途中、コンクリートで囲まれたゴミ捨て場に、ひとつスツールがあるのを見た。その瞬間、脚が勝手に止まって、柊はまたか、と眉をひそめる。紙の束ねられた塊や服のパンパンに詰めこまれたビニールの中、スツールはぽつねんと置き去りにされている。どうやらこの周辺では、明日は大ゴミと資源ゴミの日らしい。

 椅子に近寄ってみると、壊れても古びてもいない。空豆色のファブリックに包まれた丸い座面に、鋼色の無骨な三本の脚が生えている。脚の一本には廃品回収のシールが貼りつけられているから、元の持ち主にははっきりと廃棄する心づもりがあるようだった。

 柊はぐるぐると椅子を三六〇度から眺めて、「なんだか俺が捨てられているみたい」と、つぶやく。夜のゴミ捨て場には人はいなくって、言葉を拾う人もいなかった。

 柊は椅子をビニールを持つ手と反対の小脇に抱え、ゴミ捨て場をかき分けて道に戻る。だって、自分が捨てられていたら、放置しておきたくない。自分の死体くらいは持ち帰ってしかるべきだ。柊は椅子の重さが自分の存在の重さのようだと思う。感傷的な気分で、泣きたいような気がした。

 ぽつぽつと街灯の並ぶ道を、肩にスツールを担ぎながら歩いて自分の事務所に向かう。事務所は駅から一〇分のところにある雑居ビルで、一階のガレージと三階のオフィスを借りている。オフィスは半分住居として利用していて、仕事が繁忙期に入ると自宅にはほとんど帰らなかった。今日も納品〆切が近いから事務所で寝る、と朝から決めていた。アヤメにも日中のうちにメールで連絡していたが、アヤメからの返信はなかった。いつものことだから、柊は気にしてはいなかった。

 椅子を地面に置いて、ガレージのシャッターを両手で持ち上げる。人ひとり分が通れる隙間を開けたら、椅子とともに中に入る。人を感知して点る電気が勝手につく。木の破片や金属の散乱する、三〇畳ほどの空間だった。空豆色の椅子を他の椅子がまとめて置いてある壁際に置いて、腰を下ろす。クッションがしぼんでいるということもなく、座って形が崩れることもない。本当に壊れているところのない、至って健康な椅子だった。嫌だな、と、今度は声を憚ることなく言った。壊れて捨てられるならまだしも、欠陥の生まれる前に捨てられるこの椅子が不憫でならない。

 柊は座面の布を手のひらで撫でながら、ぐるりと周囲を見回す。優に五〇は超える椅子が、誰に座られることもなくそこに群れている。この椅子のうち、半分は柊が仕事で作った試作品で、半分は今日のようにゴミ捨て場から拾い集めたものだった。柊には拾い癖があって、椅子以外を拾って帰ることも多い。アヤメとの喧嘩の半分はこの癖に端を発していた。壊れた椅子や、割れた居酒屋の看板や、古くて大きいラジカセを自宅に持って帰ってしまって大喧嘩になる。一応、自分でも褒められたものではないとは知っている。と言えば、アヤメは「全然分かってない」と言って、口もきいてくれなくなってしまう。

 でも。自分の作った椅子が、壊れる前に捨てられているところを想像すると、自分の分身が捨てられているようで悲しくなる。だから、そのモノを作った人の目につく前に、自分のところにかくまってあげたくなる。そういうわけで、柊は捨てられたモノに弱い。その中でもとりわけ椅子に弱かった。猫好きが捨て猫を放っておけないのと近い心理だろう、と柊は勝手に思っていたが、生憎猫を拾った経験はないから、本当のところどうなのかは分からない。


 椅子に座ったままぼんやりしていると、反対の壁際の布の塊がもぞもぞ動き出す。犬が起きた、と思う。時間は十時前だから、申し訳ないという気にもならない。

「犬、ただいま」

 と柊が声をかけると、毛布から犬は顔を出した。鼻が長い綺麗な横顔で、くわと大きな口であくびをひとつ。

「ほらご飯だよ」

 と、柊がビニールを差し出すと、のそのそと歩いて近寄ってくる。それをふんだくるように取ると、地べたに座りこんで、ご飯の蓋を開けて食べはじめた。

「いただきますは?」

 と柊が言うと、犬はこちらをじっと睨みつけた後で、

「いただきます」

 としぶしぶ小声で言った。箸を使ってコンビニの弁当を口に運ぶ。柊は相変わらず愛想がない、と思った。拾った男に愛想を求めているわけでもないから、別にいいんだけど。


 柊の拾い癖は、時たまに人にまで発揮されることがあった。これもアヤメとの喧嘩のタネで、アヤメは「素性の知らない人を拾うなんてありえない。殺されたり盗まれたりしたらどうするの」と、モノを拾ったときよりも怒った。でも、雨が降っていたり、真冬だったり、過酷な状況の中道端で寝ている人を見ると、柊はどうしても放っておけない性分だった。

 道に落ちている人を見かけると勝手に脚が止まってしまう。近くの自販機で水を買ってお供えしてしまう。意識確認をして、救急車が必要かどうかを尋ねる。救急車を呼ぶまで行かなくても、動かないところを見ると、担ぐかタクシーに乗せるかして、このガレージに連れて毛布を掛けてストーブに当てないといけないような気がするのだ。自分がいつか道端で野垂れ死ぬだろう、と思っているから放っておけない、ということはうっすら分かっていた。柊は基本的に酒癖が悪く、専門学校の時には飲み会のたびに潰れるまで飲んで道端で寝ていたから。


 「犬」と呼んでいるこの男は、先々月の大雨の日、事務所近くのビルの二〇センチほどの軒を雨避けにうずくまっていた若い男だった。若い男、というかどちらかと言えば男の子と呼んで差支えがなさそうな風貌で、野良犬のように拗ねた表情をしていた。

 柊は最初、酔っ払いかと思って声をかけた。でも、酔っているわけではなかった。「どうしたの?」と聞けば、

「家がない。いつもだから気にしなくていい」

 とつっけんどんな答え。元気そうだったから、一度は通り過ぎたのだけれど、歩いているうち、雨の中傘もなく座りこんでいる青年が十年前の自分の姿のような気がしてきてしまった。前に踏み出すたび脚がムズムズと気持ち悪くて仕方がない。歩く速度はどんどん遅くなり、終いには止まった。来た方を向くと、脚の気持ち悪さは軽くなった。気が付けば男の前に戻って「ウチのガレージでよければ雨の間はいていいけど」と言っていたのだった。男は疑わしそうにじろじろと柊を眺めまわした後で、

「金なら持ってねえけど、それでもいいなら」

 とついてきた。幸い、アヤメは事務所に来ないから、バレて怒られることもなさそうだ、と内心で考えながら、柊はガレージのシャッターを開けて招きいれた。

 拾った翌朝、オフィスのソファーベッドで寝ていると、雨音に起こされた。すぐガレージを見に行くと、地べたの上、渡した毛布の中にうずくまって、男はじっとしていた。寝る前に「椅子は自由にしていい」と言ってあったので、

「なんで床で寝てるの? ソファーもあったでしょ」

 と、柊が素朴に尋ねると、

「俺、椅子嫌いなんだよ」

 男はあくびをしながらどうでもよさそうに答えた。柊はそれを見て困った顔をしてしまう。というのも、ガレージに泊めた、というよりは連れこんだ人には、宿代の代わりに好きな椅子を聞くという自分のルールが柊にはあったから。

 どの椅子が好きか。どんな椅子が好きか。お金を度外視したとして、理想の椅子が手に入るのなら、どんなものがいいか。

 それを聞いて、次の制作に活かす。実在する人の人生のことを考えて作る椅子は、架空の顧客を想定して椅子を作る、あて先のない手紙を書いているような毎日の仕事の中で、いい刺激になる。柊はそのインタビューを大切にしていた。少なくともアヤメの怒りよりは。だからこそ、決まったルーティンを崩すこの若い男に、柊は戸惑っていた。柊の様子を見て取ったらしい男は、

「出てってほしかったら出てけって言って。すぐに出ていくから」

 と立ち上がって、コートを着こみだす。柊は慌てて、

「そういうわけじゃない。キミの好きな椅子の話を聞きたかったんだよ」

「そんなのない。ないものは答えられない」

 と、男は短く笑って、忌々しげに言ったきりだった。そのとりつく島のなさに、柊は言葉を続けることはできなかった。

 それ以来、柊が強いて追い出さないため、男はふた月以上ガレージに住みついている。本来なら利益のない男を長居させる道理もない。でも、自分より十歳は年下らしい、家のない男の子を追い出すのは気が引けた。だから、いつか「理想の椅子」を話してくれることを交換条件に、思いつくまではいてもいい、と放置していた。あるいは、柊がこの男が座ってもいいと思える椅子を作りおおせるまで。

 男は自分について自ら語るところはなかった。住所や実家を言いたがらないのは柊も想定はしていたけれど、年齢も名前すら言わない。言わないものを尋ねようという意欲は柊にはないから、面と向かって何か尋ねたことはない。

 柊は一度、早朝男が寝ているときを狙って、彼が持っていたコートのポケットを探ってみたことがあった。けれど、身分証明証はおろかスマホ、財布の類すら入っていなかった。むき身の一万二千円と小銭とタバコだけ。もしかしたら未成年かもしれないと思っていた柊は、タバコを見た瞬間にホッとしたが、反対に未成年喫煙の可能性に思い至ってげんなりする。そっと元に戻してオフィスに引っこもうとすると、床のマットレスの上で寝ていたはずの男と目が合った。男は、

「なんも分からなかっただろ。俺、なんも持ってねえからさ」

 と怒るでも責めるでもなく、愉快そうに笑う。何も愉快なはずはないのに。柊は、自分も特定のことがら以外はいい加減頓着のない方だろうが、男のこだわりのなさは異様だ、と思う。空虚な男だ、とホラー映画でも見ているかのようにぞっとした。

「キミ、ナイナイづくしで生きてるなんて、野良のワンちゃんみたいだね」

 と柊が冷や汗を垂らしながら、誤魔化すようワンちゃん、と呼びかけると、男はちょっと不快そうに眉を曲げる。

「名前。ワンちゃんとか呼ばれるんだったら、犬でいい。呼び名がないと困るんだろう? お前は聞いてこないし」

 と言った。それ以来他に名づけるモチベーションもないから「犬」と呼んでいる。犬も不満はなさそうだった。


 犬はコンビニ弁当を食べて、殻をビニールにつっこむと、地べたに転がる。冷たかろうと思って、「椅子に座ればいいのに」と、柊が言うと、犬はふてぶてしい声音で、

「また椅子増やしたのか」

 と柊の座る椅子を指さした。

「よく分かったね」

「毎日見てりゃな」

「で、なんで座らないの」

「最初に言ったじゃん。俺、椅子、嫌いだって」

 犬はそう言うと、コンクリート打ちっぱなしの地べたを撫でまわす。

「こっちの方がいい」

 柊は自分のやっていることが軽視されているようで悔しくて、犬の脇腹を靴のままつつく。犬はやめろよ、と怒ったわけでも喜ぶわけでもなく言って、目を閉じた。

「せっかく買ってやったんだから、マットで寝てよ。もう冬だよ。保険証も持ってないんだから、風邪でもひかれたら迷惑だ」

 柊がしつこく脇腹をつっつくと、犬はしぶしぶ目を開いて、マットのところまで行くと、毛布を身に巻きつけながらごろんと寝転がった。すぐにすうすうと寝息を立てる。犬は学生でもなく働いているわけでもなく、ときどき日中出歩いていることはあれど、ガレージにいることが多かった。たまにお金が増えたり減ったりしている話はするから、何かはしているらしい。

 アヤメとの間に子どもでもいたら。と、柊は布の塊にまみれた犬を見ながら考える。犬なんて拾わなかったのかな。あるいは事務所を構えることなんかにお金を使わずに、毎日代々木のアパートに帰って、子どもを風呂に入れたりしながら、こまごまとMacいじくってたのかな。

 柊は拾ったばかりの椅子に座り、拾った犬の姿を見ながら想像する。柊は犬を住ませてから、とりとめもなく考える時間が増えたけれど、結局、事実としてアヤメとの間に子どもはいないし、家には月に半分も帰らない。犬が来てからはそれも悪化して、月に数日しか家に戻っていなかった。賃料は経費で落としているけれど、結構な額がかかっている。それでも、犬を追い出そうという気は起きないし、柊はこの事務所を畳む気はない。ついでに、終電はあるけれど、代々木の家に帰ろうとは思わない。

 だって、まだ犬が座ってもいいと思えるような椅子はつくれていないのだから。


 柊は犬がすっかり寝ていることを確認して、オフィスに引っこむ。三階までエレベーターで上がって、シャワーを浴びて自分のデザインしたソファーベッドにもぐりこむ。目を閉じると、再び犬とは何者で、犬が座る椅子はどんなんだろうか、という靄のような考えが浮かび上がってきた。

 犬はラブラドールレトリバーによく似ていた。毛並みの黒い。きっと母の胎からきょうだいとともに産まれて、すぐに母犬が死んだのだろう。物置にでも放置されて、人が好きでもないのに、仕方がないから人に懐いて生きてきた。だから――。親の愛でも感じるものがいいのかもしれない。ふわふわで包まれるような、柔らかくて暖かい。そんなことを考えながら眠りにつく。夢の中では、毛の長い沢山の犬が川のように流れていく夢を見た。


 次の朝目が覚めて、寝る前に考えたソファーのことを思い出す。母犬の愛、ということで素材は毛が長い布張りのものがいいだろう。身体が包みこまれるような、分厚くて大きい椅子。発注をかけてきたクライアントとのメールのやり取りの中でラフを送ると、カラーのバリエーションについての質問メールが返ってくる。柊はラブラドールのカラーがいい、と提案する。クライアントは気に入って、ゴーサインが出た。一日かけて寸法の設計と3Dのモデルを完成させて、明日からは試作品の作成に入れる。犬がその上に座っていることを考えると、悪い気はしない。

 ガレージに戻ると、犬は地べたに座って宙を見つめていた。その犬がもうじき収まるべき椅子を作ることができると思うと、柊は微笑んでしまう。怪訝そうな顔で柊の方を向いた犬に、柊はごまかすように言葉をかける。

「今日ご飯食べた?」

「まだ」

「僕もこれからだから何か食べに行かない?」

「俺、今どっか食いにいくほど金持ってねえや」

「そのくらいはいいよ」

 柊は椅子の群れを見て、これから作るはずの椅子が、確かにどの椅子にも似ていないと思う。犬が犬に似た動きで立ち上がって、柊の脇に立った。

「なあ、どうしてそんなに椅子が好きなの」

「それは……」

 急に脇から声をかけられて、柊はぎょっとする。というよりも、自分に向けて質問をしてきたことに驚いたのかもしれない。

「というか、キミが俺に興味があるだなんて思わなかった」

「……そうだな、興味もねえな」

 犬はハッと息を吐くように短く笑って、行こう、とシャッターの方へと歩いていく。柊はその後を追って、シャッターを慣れた手つきで開ける犬の姿を見た。犬は出会ったころから変わらずTシャツにジーンズ、ジャンパーのようなコートを着ていて、気難しそうに眉を曲げていた。柊はやっぱり犬のようだと思う。犬が犬のようだなんて今更過ぎることなのかもしれないけれど。

 チェーンのスペイン料理屋に入り、犬が注文するのに任せて頼ませる。

「僕がキミくらいのときは、沢山お酒を飲んでいた気がするよ」

「そう? 俺、酒あんま好きじゃないな」

 あ、そう。と返事をして、グラスワインをひとつだけ注文する。

「キミが飲むならボトルでもよかったんだけど。犬もお酒飲まないもんね」

「そう。『犬』は酒飲まないから」

 と言いながらタバコに火をつけるのだから、柊は笑ってしまう。

「犬はタバコも吸わないよ」

「俺は前から吸ってたんだよ」

 犬は別にうまくもなさそうにタバコを吸い継いで、早々に出てきたつき出しのチーズとハムの総菜にフォークを刺す。犬の存外とよどみない動作を眺めながら、柊も給仕されたワインを一口飲んで、さっきの犬の言葉について考えはじめた。

 なぜ椅子が好きか。プロダクトデザインの専門学校に入ったのは、仕事の間口が広いという現実的な都合からだった。上京するときに親に渋られた柊は、失敗できないという焦燥感によってすべての選択をしてきた人間だった。授業の中で椅子のデザインが特に評判がよく、専門学校の講師のコネで椅子やソファーやダイニングテーブルのデザインをしている事務所にもぐりこんだ。数年間勉強して、大きいコンペで仕事を取れるようになって、独立した。椅子を選んだ理由は運と才能の向きに合わせただけ。特に愛着が当時あったわけではない。

 でも。やっているうちに、誰が座るのか、どういうときに座るのか。座ったときどんな気持ちになるのか。そういうことを延々考えていたら、椅子に興味が出てきた。それに、作るものと言えば椅子ばかりだから、自分の子が椅子のような、自分が椅子のような、そういう気分になってきた。自分が作った椅子で誰かを安らげることができているのなら、自分が人を安らげているも同様。柊が感じる幸せの中では、もっとも幸せだと感じることだった。

 たしか、アヤメと結婚することになったときも、アヤメが「柊くんの作る椅子は幸せな気持ちになる」と言われたからだったと思う。アヤメは仕事関係の場で出会って、なんとなくかかわっていた人間だった。別にアヤメでなければならない理由はない。でも、どうせなら自分が作った椅子を愛してくれる人間の方がいいと柊はずっと思っていた。

 沢山の料理を胃に詰めこんでいる犬とは対照的に、柊は酒を飲むばかりでフォークが動かない。一〇歳の間に随分食欲が落ちたものだと柊は思う。もっとも、犬の正確な年齢を聞いたわけでもないから、一〇歳なのか八歳なのか十二歳なのかも分からない。ただ、自分の飛ぶように過ぎていく時間のことばかりを考えていた。


 次の日からガレージでプロトタイプの作成をしはじめると、犬は黙って朝に家を出て深夜に戻ってくるようになった。時々パチンコの景品を持って帰ってきたり、時々酔っぱらって帰ってきたり。あるいは帰ってこずに翌朝になって戻ってきたり。柊が作業しているのに遠慮しているらしい動きには微笑ましいと思った。犬は柊に気遣っているのではなく、人がいる場所で落ちついていられないだけかもしれないが、柊は別にどちらだってよかった。ならば自分に都合がいいように解釈したほうが気分がいい。アヤメからメールが返ってこないことすら、便りがないのはいい便り、という言葉で片付けている。

 柊は木で組んだ枠にスプリングを詰めて、上から素材をかぶせたりしているのが好きで、ずっとこの作業をしていたいとさえ思えた。最後、注文をした布を上からかぶせて縫い合わせる。完成したときに、ああ、これは犬の腹のような椅子だと思った。

 ちょっと横長で、高さはない。流線形で、真ん中の部分が膨らんでいる。柊は腰を下ろして布の表面を撫でつける。触り心地も望んだ通り、犬の毛並みに似ている。犬はこれなら座ってくれるだろうか。座ってくれると思う。だって、犬のための椅子なんだから。

 しばらく座って満足した後、柊は飯を食っていないことに思い至った。牛丼屋でもいいから何か食べよう、とシャッターを開けると、外はちょうど夕方で、オレンジ色に空が染まっていた。ポケットに財布が入っていることを確認して歩いていく。十五分ほどで食事を済ませて、さっさとガレージに帰ろう、と決めた。あの椅子にはじめに座るのは、犬がふさわしいと思っていたから。クライアントを呼ぶ前に、あの犬に座り心地を確かめてもらいたい、それで。椅子が好きになってもらえればなおいいと思った。それができるとも。

 すぐに帰るつもりだったから、シャッターはきちんとしまっていなかった。ひとり分が通れる隙間を残していた。潜り抜けると、中の電気が点いている。

「犬、今日は早かったね」

 と声をかけながら中に入ると、ボタニカルな香水のにおいがしてぎょっとする。自宅と同じ匂い。柊のにおいとも犬のにおいとも違う。

「今日は早かった? 誰に話しかけてるわけ?」

 顔を上げると、白っぽいショートコートにジーンズをはいたアヤメがそこにいた。椅子に腰を下ろして。

「アヤメ……。何しに来たの?」

「全然帰ってこないから。『仕事が立てこんでる』って毎日送ってくるから、どんな超大作作ってるのかと思って見に来たの」

「仕事は?」

「とっくに定時過ぎ。そんなことも忘れちゃったの?」

 アヤメは手のひらで母犬の尻尾にあたる部分を撫でる。

「この椅子、いい椅子だね」

 気に入ったから家に置こうよ。とアヤメは何気なく言った。柊は手に持っていた財布を落とす。小銭が緩んだファスナーからこぼれて音を立ててコンクリートに転がっていく。でも、柊はそれを拾うこともしない。ただ、母犬に座っているアヤメの存在が、とても気に喰わないということだけ考えていた。

「それ、君のための椅子じゃないから」

 柊は靴裏でジャリジャリと小銭を踏みつけながら、アヤメのところに向かう。アヤメの手首をつかんで、立ち上がらせる。アヤメは目を見開いて、それから柊を睨みつけた。

「痛い。っていうか、何それ」

「だから、それに座るべき人間は別にいるんだって。キミのための椅子じゃないよ」

 柊は、なんでそんなことも分からないのか、とため息を吐く。アヤメは表情を変えずに柊の手を振り払う。そうすると、もう一度母犬の腹に腰を下ろした。柊が同じように立たせようと手を引っ張っても、今度は椅子にしがみついて抵抗する。

「じゃあ、誰のための椅子だって言うわけ。そんなに贈りたい相手がいるだなんて、私に失礼だと思わないわけ」

 なんで、と柊が言うと、アヤメは苛立たしげに息を吐く。

「だって。柊くん、私に椅子なんて作ったことないじゃん。私に向けた椅子、作りたいとも思ってないでしょう」

 柊は、そうだと言いかけて口を噤んだ。悪いことだと思っていなかったけれど、アヤメが怒っているのは分かるし、さらにアヤメが怒りそうだと思ったから。

「これは誰のための椅子なの。クライアントじゃないよね。クライアントが座るための椅子作ったってしょうがないでしょ。座るのは、クライアントがターゲットにしているお客だもんね。私、元々あなたのクライアントだもん、よく分かる。今日は早かったってことはその相手ここに住んでるの?」

「別に、アヤメが疑るような相手じゃないよ」

「それって肯定だよね」

「違うよ。勝手に話を進めないでよ」

「だって、柊くん、個別注文も受けてないでしょ」

「……犬、のための椅子だよ。母親とはぐれた犬をいやすための椅子。それでいいでしょ」

「犬? 犬がお金を払ってくれるって? ばかばかしい。それに柊くん、犬なんかに興味ないでしょ」

「決めつけないでよ。会ったら興味が出たんだ」

「ここで飼ってるって? においもしないし餌もない、このガレージで?」

 柊はアヤメに責め立てられるうちに、頭が痛くなってきた、と思った。柊は近くにあった椅子に腰を下ろす。雨が降りそうな日にゴミ捨て場から拾ってきた木の椅子だった。お尻が座面に触れると木の冷たさが皮膚に伝わる。

「とにかく、立って。それで、別の椅子ならどれでも座っていいから、別の椅子に座って」

 アヤメはしぶしぶ立ち上がって、柊の座る椅子から離れたところにある、柊の作ったひとつの試作品に腰を下ろした。

 その後、柊は何を言えばいいのか思いつかなくて黙っていた。アヤメは弁明をしないかどうか柊を横目で睨んでいたけれど、深いため息をひとつ落とした。

「これは柊くんが作った椅子だよね。分かるよ。座ると、なんだか優しく包みこまれているみたいな感じがするから。柊くんの椅子は好きだよ。だって、座る人への愛に溢れている。でもさ、愛に溢れているのって椅子だけでしょ。柊くん自身は私のことなんかちっとも興味がない」

 俺の椅子に愛されていると感じるなら、それは俺に愛されてるってことでいいじゃないか、と柊は頭の中で考えた。アヤメに通じることはなさそうだから、言う気にはならなかったけれど。どちらも何も言わなくなって、時間だけが刻々と過ぎていった。シャッターが半開きのままだから、外気と温度は変わらない。ストーブを点けようかと柊は腰を浮かしかけたが、アヤメが何も言わないから、柊はなんだか動けなくてじっと身を固めていた。

 脚を引き摺るような音がシャッターの向こうから響いて、ピタリと前で止まった。一メートルくらい開いた隙間から、ぬっと塊が中に入ってくる。

「……ただいま」

 犬はコンビニの袋を手に、数歩入ったところで柊の方を見た。アヤメにちらりと視線を遣って、すぐに逸らす。何か話しかけることはなく、壁際のマットへ進んで、どさりとモノを放り投げるように腰を下ろす。

「……おかえり」

 柊は犬から目を逸らす。アヤメは交互に柊と犬を見て、

「これが犬だって? 人じゃない」

 とヒールで地面をカツカツとつつきながら短く言った。

「犬だよ。犬なんだ、この男は」

 柊はうつむく。身体が途端に重くなって、ここだけ重力が二倍にも三倍にもなっているようだった。犬はふたりに頓着なく、コンビニ袋から取り出した菓子パンを開けて口に入れはじめる。アヤメはじろじろとそのさまを見て、

「……人だよ。……この人は、ひと」

 と、長くため息を吐く隙間でつぶやいた。

 柊は応えない。広いガレージに、アヤメが靴の裏をコンクリートに摺りつける不快な音だけが、響いていた。

「犬」

「なんだよ」

「キミのための椅子ができたんだけど、座ってくれない?」

 柊はうつむいたままで言った。犬はマットからのそりと立ち上がって、ガレージの中心に置かれた母犬の椅子に近寄っていく。

「これ?」

「そう」

「お前に俺はこう見えてるわけ?」

 犬は椅子を眺め下ろす。

「反吐が出る」

 犬は薄笑いを顔に張りつけて、母犬を踏みにじった。柊はうつろな目で布がぐしゃぐしゃと靴の裏でもつれからまっていくところを見る。

「そこの人が言った通りだよ。俺は人だし、犬じゃない」

 犬は笑った。嘲笑うというにふさわしい声で。

「お前さあ、俺のことなんにも聞かないだろ。別に話したいわけじゃないから、聞かれないだけ都合がよかったんだけど。でも、聞かれたら答えたよ。荷物漁るんじゃなくて、お前の名前はなんだとか、いくつだとか、そういう風に聞いてきたら、答えないって決めてたわけじゃないんだよ」

「……」

「でも、俺を犬だと思いこんで犬のための椅子を俺のための椅子だって言われるのは、腹が立つ」

 そう言うと、犬は母犬の――椅子のクッションのところを力いっぱい蹴り上げる。

「世話になった。ありがとう。俺を何日も泊めてくれて。居所も金もなかったから助かった」

 犬は着たままだったコートに手をつっこんで、椅子に背を向けてシャッターの方に行く。

「待って。キミが出ていくときに理想の椅子の話を聞くってのが泊める条件だっただろ。それだけ言ってから出てってくれ」

 背中に柊が声をかけると、犬は立ち止まって、振り返りもせずに言う。

「釣りとかさ、するおじさんが座ってるやつ。X字のポールが二本あって、間に布が渡されてるだけの簡単な椅子。折りたためて持ち運べるやつ。こういう、お前が作ってるどこか一箇所に腰を落ちつけるための椅子は嫌いなんだよ。家のこと思い出すから。俺が家出してるのは見てすぐ分かっただろ。だから、どこにでも行けるやつ。どこでも俺と一緒に来てくれるような椅子だったら、嫌いじゃないよ」

 柊は聞いているそばから力が抜けてきて、膝に肘をついてうつむいた。アヤメは黙って犬と柊のやりとりを眺めていたけれど、犬が歩きはじめたときに、口を開いた。

「柊くんって本当に馬鹿だね。こういう時は、名前を聞くの。アナタ、名前はなんて言うの。私はアヤメ。梶山アヤメ」

「俺は……アオタユキト。幸せな人って書いてユキトって読むんだよ。俺、そこの男の名前も知らなかったよ」

 犬は笑って、振り返りもせずにシャッターをくぐる。口笛を吹きながら遠ざかっていく音が聞こえて、やがてそれも聞こえなくなった。

 柊は動けなかった。アヤメが椅子から立ち上がって、コツコツとヒールを鳴らしながら柊の前を過ぎていく。

「あのさ。私は柊くんの椅子が好きだよ。座り心地がよくて、大切にされてる気がするから。でもね、アナタは椅子じゃないから」

 アヤメはそう言うと、シャッターをくぐって出て行った。柊は誰もいなくなった後、顔を上げて踏みにじられて蹴られた椅子を見る。犬じゃなくて、椅子が嫌いな男――幸人のために作ってあげたい、と思った。それとアヤメのために。アヤメがどんな椅子が好きなのかも知らない。聞いたことがなかったから。

 捨てられた椅子をいくら拾って歩いても、多分、俺が拾われることはない。柊ははたと気が付いて、笑ってしまう。視界がぼやける中で、乾いた笑い声をあげながら、でも今座っている椅子があってよかった、と思った。

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