呼吸

早稲田暴力会

 ひとみは大真面目に言った。火星に歩いて行こうと思う。

 分煙された喫茶店の禁煙席に座る彼は、軽く握った手をテーブルに置いて面接のように背筋を伸ばしている。襟付きのシャツを着ているからそれっぽさも増していて、真向かいの俺まで思わず背もたれから身体を浮かせた。

 喫茶店は大学近くの本屋の隣、見た目より広いお店だった。奥行きがあって席がずらっと並んでいる。俺とひとみはその一番手前、入り口の真横にある席を選んだ。

 黄色の混じった照明が肌色を自然に照らしていた。冬の始まりにしては厳しい温度に、俺もひとみも無理矢理マフラーを巻かされて、屋内に入った途端に解いて、椅子に投げかけてた。脱いだコートをその上にひっかけてから座る。インターンで見かけたオフィスチェア用のクッションのようなものだ。

 その言葉に面食らってしまい、俺は口に運ぼうとしていたコーヒーカップを左右に揺らしてから、机の上に戻した。何か切り返す前に、ひとみが先に口を開いた。

「だって、火星には酸素がない。だから喋らなくていいじゃないか」

 至極まっとうなことを言っているという声色だった。

「喋らなくていいっていうか、喋れないし、呼吸もできないんじゃないか」

「なんだよその揚げ足取り」

 彼はムッとしたようだった。つまらない反応だという自覚はあったが、それ以外に返しを思いつかなかったのだ。

 鮮やかな緑色のメロンソーダをひとみは乱暴にかき混ぜる。砕け散ったソフトクリームの破片が荒波に揉まれていた。マドラー代わりのストローを持つひとみの指は細い。いつか電車の窓のへりを叩いていたそれが、海を泳ぐ小魚のように見えた。ゆったりとした店内音楽を無視して彼はかちゃかちゃと音を立てる。氷がグラスの壁にぶつかる音だった。座っている席は通りに面しているから、ひとみのグラスには通りの様子が映り込んでいる。それはグラスを介して、通りとこちらを遮るガラスをもう一度介した、いびつな人影たちだった。空気を吹き込まれた影法師みたいな通行人が過ぎ去っていき、また新しい影法師がグラスを横切っていく。

「で、話戻すけどさ」

「うん」

 視線を上げた。ひとみのシャツの襟には黄ばみが一切なかった。

「ぼくたちって喋らなくてもいいとかあり得ないじゃん、むしろ喋らないとだめじゃん。みんなの意見を交わせる社会がいいって言ってもさ、意見なんてぼくはないわけ」

「まったくないってことないだろ。ドラマの感想とか、ツイッターで言ってたじゃん。ほら、アイコンが由比ヶ浜で撮った写真の方のアカで」

 主人公が感傷的すぎる。思考量と行動数が伴っていない。俺はそう感じたドラマだった。ひとみは、脚本家は今風の懊悩にフォーカスしていて、その試みは成功していると評していた。評論家みたいな言葉遣いだと思った。

「そんなの意見って言えないだろ。哲学とか、信念とか、そういうレベルにならないと、人前でこれが自分の意見だって言い張れないと思うんだ」

「だったら俺だって意見なんてないよ」

 学部のゼミで意見を聞かれた時には、ノンポリだと言った。右でも左でもない。

 でもこうして並べると、ノンポリと右でも左でもないことは違うように思えた。右でも左でもないことは、むしろ自分の意見の存在をはっきりと示しているようだった。確かゼミでも、自分は右も左も賛同できないと発言した人がいた。それは前置きに、今の、と付けていたような気がした。

 ひとみはずぞぞぞぞと音を立ててメロンクリームソーダを吸いきろうとしていた。あまり好きな音ではなかった。仕方ないことだけど。

「大体遠いんだよ。惑星と惑星って、人間が行ける距離じゃないだろ、まだ」

「うん……そうだね。でも、地球と火星は、公転周期が違うから、近づいたり遠ざかったりするらしいよ。だから一番近い時を狙えばいい」

「それって、どんくらい?」

 問えば答えはすぱっと返ってきた。

「五千六百万キロメートル」

 無理だろ、と切って捨てた。この話を終わらせたかった。終わらせる必要があった。自分の意志かと言われると曖昧で、筋書きがそう決まっているような具合で、火星の話を終わらせようとしていた。俺はひとみに対してこの場で、一緒に活動しているサークルの話をしなければならなかった。

 来年で大学三年生になる俺たちは、この冬の間に運営幹部を選出する。全体では二百に届こうとする人数を抱えるサークルは、肩書付きの幹部を十人ほど必要とする。幹部職の一つに、学年内での内定を得た俺は、ひとみを同じく幹部に勧誘するために呼びつけたのだ。

「でもきっとみんな、ぼく以外の誰かも、火星に歩いて行きたいと思っているはずなんだよ」

「探せばいるだろうさ。それで、ちょっと話があるんだけど」

 切り出してから、タイミングをしくじったかと、ひとみの顔色を窺った。ひとみは、あ、とだけ声を上げて、思い至ったように頷いた。

「大学祭委員?」

「そう。同期三十人もいるけど、今んとこやろうとしてんのは五人ぐらいでさ、俺は上から三番目とかそんなんだから、こういう話をしに回ってて。それで去年お前、ステージ運営担当補佐だったじゃん。例年、そこから繰り上げで委員になるのは聞いてるだろ、自然な流れだと、お前になるんだよ」

 長台詞だった。自然な流れ。嫌な言葉だった。普段はその流れに、俺は身を任せているのに、この場では不適切な言葉だと感じる。一気に喋って少し息を吸った。酸素を使い過ぎたと思った。人間一人が使える酸素の量は、決まっている。俺が使える酸素の量は大したことがないけど、その場その場でごまかしてやっていた。

「慣例であって、義務じゃないよね」

「そうだけどさ、頼むよ。他に人いないんだ」

 お前しかいないんだと表情で訴える。半分、事実だった。適任者はひとみだけで、内定組は彼が承諾することを前提にしているような具合だった。誰もが彼を信頼していた。深い付き合いがあるからじゃなくて、態度とかがそうさせていた。場の空気を盛り上げたり、中心に立ったりするタイプではなかった。

 ひとみはじっとこちらを見た。視線が重なって、互いの動きが少し鈍くなった。

「まっきーと一緒に仕事するのは、悪くないかな」

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」

「でも、ちょっと、考えさせてほしい」

「ありがと。できれば、一週間以内がいい」

 ひとみ以外の候補を見繕うなら、一週間以内に結論を出してもらわないと、他の人に声をかける時期とブッキングする。俺が二枚舌みたいになってしまう。ひとみは分かったよと言った。

「重ね重ね、頼むよ。ほら俺、今のメンバーだけだと、冗談も言えない」

「そうかな。まいみちゃんとかは、笑ってくれるよ」

 まいみちゃん。舞見愛。ふざけてあいまいみーなんて呼んでいる女子だった。少し頬がふっくらとした女子だ。彼女は同学年の、サークル長に立候補している男と付き合っている。男の名前はユイで、そして、二人の関係は日に日に悪化しているところだった。

「だろうな。でも、幹部が出そろって、来年になってから、あいまいみーとユイっちが別れたら、俺はそれを冗談にすればいいのか?」

「それは、笑えないな」

 切り返しに、俺はふふと声を漏らした。ひとみも出来のいい返しだと思ったらしく、笑っていた。


 実はひとみを呼び出す前に、舞見と顔を突き合わせていた。

「ほんとに別れるかもしんない」

「ユイっちと?」

「うん。他にいないでしょ」

「それもそうだわ」

 ユイっち。同学年の中では、よくサークルに来て、そういうよく顔を合わせるメンツの中で真面目なタイプの男。結構顔が整ってて、髪も毎日こぎれいにセットする。スウェットで登校なんてまずしない。

「勘弁してくれよ。会議、マジ気まずいじゃん」

「それねー」

 サークルの幹部は毎週一度は顔をそろえて会議する。催し物が近づいていればその進捗管理のために、それがなければ後輩はどんな感じとか普段の活動の出来栄えを確認するとかだ。舞見とユイの不仲は、単純に性格の不一致からきていた。

「そもそも何で付き合ってんのか不思議だよねー」

 俺と舞見は大学の廊下に置かれたベンチで、通行人をぼうっと目で追いながら話していた。みんな何かしらの防寒具を付けて道を進んでいる。舞見も厚めのコートを着込んでいた。コートの襟をジッパーで引き上げるデザインで、口を半分隠していた。

 就活を意識して黒染めした髪を、彼女は指に巻き付けて、解いて、遊ぶ。

「そうかもなあ。あいまいみーはもっとふざけた奴と付き合うと思ってた」

「わかるー。あたし、理想のタイプはライブ中に一発芸するバンドマンだし」

「何だそれ」

 舞見もサークルの幹部に立候補していて、彼女は新入生の勧誘担当に内定していた。人当たりの良さから、できるだろうってみんな思っていた。ユイとの関係は、二人のことだからと幹部決めの時は考えていなかった。ないものとして扱っていた。確かに存在しているものを勝手に消滅させるなんて、結局できなかった。

「だからあたし、もし別れたら、幹部辞退するかも」

 あー、と声を上げて、返す言葉は続かない。もしそうなったらどうしようか。新歓なんて、やりたがる人はあんまりいないだろう。やることは多いし、何度も人前に立って、後輩一人一人の名前を頑張って覚えなきゃいけない。それは、しんどい。

 でも舞見が辞退する理由は、俺たちが当人らの問題だからと触れてこなかった代物で、辞めるとなってから慌てて介入するのは、おかしな話だ。

「まっきーなら新歓できるんじゃない?」

「無理だって。俺、人の名前覚えるの、苦手だし」

「あだなつけるの得意じゃん。あいまいみーもユイっちも、まっきーがつけた名前でしょ」

「そうだっけ? 覚えてないな」

 嘘だった。明確に覚えている。同学年の連中は、一人につき一つはあだながある。大学に入って、サークルが決まった最初期に俺があだなをつけまくって、それがブームになって、定着して、今でもあだなで呼び合うようになっていた。あだなのないやつなんて、ひとみぐらいだった。

「その調子で新入生全員につけちゃいなよ」

「いやいやいや、百人ぐらい関わるんだぞ。百、あだな考えるって、すごすぎるって」

 あだなを考えるのは好きだった。ただ名前で呼ぶよりずっと仲良くなれる気がしたし、何より、名前だけだと覚えられなかった。その人の名前を織り込んだり、その人の面白いエピソードから引っ張ったりしていた。いくらでも思いつく自信はあった。だけど、百、なんて具体的な数字を出されたら、尻込みした。

「ひとみくんぐらいじゃない? そういうの、付けてないの」

「ああ、まあ、そうかもだけど」

「不思議だよね。ずっと一緒に居たはずなのに、言われてみるとなんとなく、一緒に居ただけーって気もするし。Twitterとかもやってないの珍しいし」

 え、と思わず言葉が漏れた。

 どうかしたのかと問われ、何でもないと返す。あいつ言ってないのか。なら、言わない方がいいのか。だけどなんで……?

 何も喋らなくなった俺に対して、舞見は顔の前で手をひらひらとかざす。慌てて顔を上げて、仕切り直して本題を確認した。

「とにかく、ユイっちとどうするか、適当に考えておいてくれ。無理強いとか、早く決めろとかは言わないから」

「分かってるよ。でも、ていうか、まっきーとこうして会ってるのだって、ユイっちに見られたらまたなんか言われるよ」

「なんで」

「ユイっち、まっきーのこと軽いって言ってたから」

 言葉は出なかった。息が詰まった。代わりに、笑おうとした。軽薄な言動ばかりするのはわざとだったから、傷つくはずなかった。少しぎこちない笑みだったと思う。面と向かって言われたら、そうだよ、ってきちんと笑い飛ばせたような気がした。でもそれは面と向かっていたら絶対に言われない言葉だった。

「気にしてる?」

 黙ってしまった俺に対して、彼女はこちらを横目に見ながら問うた。

「あ、ああいや。ひでーなあいつって。面と向かって言ってくれたら、『そうだよ!』って返せるのに」

「そーだね。でも意識的にやってるから、いいのにね」

 そうそう。と頷く。

 とにかく幹部は一旦保留にしてほしいと舞見が言って、俺は頷いた。そこで彼女と別れた。それから、ひとみに会いに歩き出した。

 俺は意識的に軽薄な自分を演じて、彼女はそんな俺の本当の姿を分かっている理解者として擁護する。いつも通りの会話だった。足取りは少し重く感じたけど、行き交う人たちのペースに合わせていたら、身体が勝手に動くようになった。


 喫茶店を出て、ひとみが立ち去るのを見送ってから、風に吹かれる髪を撫でつけて歩き出す。パソコンの入ったリュックサックが重い。肩ひもが肩に食い込む。その圧力に重ね着が抗っている。街路樹の木葉は姿を消していた。陽の落ち切った空は、一瞥だけでは雲の有無も判別できない。星が見えなくても自然だった。サークルの合宿なんかで東京を離れると見えるものが、星だった。

 シャツとセーターとコートが歩くたびに擦れ合い、軋んでいた。みんな同じようで、身体を縦に圧縮でもしたようにこんもりとしている。俺は駅へ向かう道を、他の人に流されないようしっかり歩いた。舞見と喋った後ほどの疲労感はなかった。ひとみが相手の時は、いつもそうだった。

 本屋を通り過ぎる時に、ふと今週の売れ筋ランキングが目に入った。本が縦に並んで、そのまま序列を示している。哲学入門書が二位と健闘していた。大学に近いから、一年生あたりが買っているのだろうか。また、新人賞を受賞したというSF作家の新作もランクインしていた。あらすじがSNSで流れてきたのを思い出した。人と人が戦争をする話だった。その、人と人というのは、人種や国家でなく、世代に分かれていた。デジタルに慣れ親しんだ世代と、そうでない世代だ。デジタルに親しい人々はデジタルネイティブと呼ばれ、彼らは拡張された現実を当たり前だと思っている。そうでない高齢の人々は、現実には何もない空間を見たり触ったりする若者を見て、笑う。若者は、それが見えない老人を、笑う。そして戦争が起きる。そういうSF小説だった。第三位だった。四位と五位は、有名な作家の新作で、俺はその人たちの作品を一度読んだことがあった。でも、新作を追いかけるほどのファンじゃない。一位は勤勉な若手評論家の啓発本だった。なんとなく胡散臭いなと思っていた。何事に付けても迷わず断言するスタンスが、その自信のありようが疑わしかった。世界に真理が存在するのは遙か昔であるように感じていた。

 本屋の前で立ち止まったのは少しの間で、俺はまた歩き出した。向かいから歩いてきた人と肩がぶつかりそうになって、身体を横に逸らした。脇腹に力を入れた。ぶつかることなくすれ違った。もしひとみが火星まで歩くのなら、どういう風にして歩くのだろうか。通行人は他にいないだろうから、堂々と胸を張り、腕を振って歩くかもしれない。イヤホンじゃなくて、スピーカーからお気に入りの音楽を流しながら。一歩一歩確かめるように。立ち止まって、地球に振り返ったり、月を探したりしながら。

 地球と火星の距離。公転周期が違うから、近づいたり遠ざかったりするらしい。

 一番近い時は五千六百万キロメートル。

 遠いなと思った。道のりはどんなものだろう。なだらかな道が続くのか、それとも険しいのか。ひとみはどちらを想定しているんだろうか。地球でも火星でもない、地球の火星の間。一体どんな場所なのか。

 ちょうど横断歩道の前に差し掛かったところで、点滅していた青い信号がはっと消えてしまい、赤い信号が灯った。風の音を聞きながら立ち止まる。真向かいに手をつないだ男女がいた。すぐに車が行き交い始めて、二人は車と車の隙間にしか見えなくなった。深く息を吸った。一人の時は、自由に呼吸できた。

 火星へ向かう道はこんな風に、足踏みしなければならない場所があるのだろうか。

 俺は、そもそも、火星へ行くにあたって、どうして歩こうとしているのか。それを聞くべきだったのだと気づいた。


 ひとみを喫茶店に呼びつけた翌々日、俺はユイと昼飯の約束をしていた。

 大学のキャンパスを出て、大通りの途中から路地に入ってショートカットすれば、歩いて十分かからないほどの軽食屋。からあげ定食を頼んだユイは、しかめっ面で付け合わせのレタスをつついている。

 寒さは増すばかりで、ユイは襟付きのシャツにセーターを着込んで、外ではファーの付いた緑色のコートを着ていた。俺も青いピーコート、その下はパーカーと保温性に長けた下着を二枚重ねている。他の客も、冬の装いに身を包んでいた。軽食屋はぬるい空気で、混み合う時間を超えた反動に思えた。

「ユイっち、冷めるぞ」

「うん」

 目の前に置かれた生姜焼き定食は六百円で、ご飯はおかわり可。そこそこ有名なお店だった。十五時過ぎの微妙な時間でなければ、サッと入ることはできなかったと思う。テーブルは二つのトレーを並べると、ほとんど隙間がなかった。俺は手早く二杯目の白米にありつくべく、最小限の生姜焼きで、効率的にタレをご飯にしみこませようと躍起になっていた。

 ユイは辛気臭い顔でレタスをぼそぼそと食べながら、店の中を見渡したり、こちらの食の進み具合をうかがっていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。

「週末」

「うん?」

「舞見に呼び出された」

 箸を持つ手を止めて、椅子に背中を預けて息を吐いた。その日は、ひとみから回答をもらう日だった。

「嫌な予感がする」

「……ていうか、それ関連の話以外ありえないでしょ」

「だよなー……どうなると思う」

「分からん、俺、そんな知らんし」

「話聞いてるんだろ」

「深入りしてないんだって。だからどう考えてるとか、どうしたいとかまでは知らない」

「じゃあ、一緒に推測してくれよ」

 推測も何もこれからの話だろ、と思った。ユイはiPhoneを取り出してから、LINEの画面を差し出した。分かった。週末に会いたい。という簡素なやり取りが、今日の日付の下にあった。ユイの指が画面を滑ると、会話がスクロールしていった。そっちがどうしたいのかが分からない。私はどうしたら良い? それは嬉しい。唯ともっと遠出したりしたい。舞見愛がメッセージの送信を取り消しました。ごめん。多分、何が悪かったのかはそっちも分かってるよね。ごめん。舞見愛がメッセージの送信を取り消しました。舞見愛がメッセージの送信を取り消しました。舞見愛がメッセージの送信を取り消しました。なんで行ったのかとか、行ってる間、何考えたのかとか、教えてくれる? ごめん。俺はあんまり良い気分じゃない。うん。この間他サーの男子と遊びに行ったって聞いた。

 この画面を俺は見ていて良いのだろうかと思った。舞見にとっては恐らく、他人には見られたくないプライベートな部分のはずだ。果たして大学の人間関係の中でオフィシャルなものとプライベートなものがどういう基準で分けられているのかは定かでないが、多分俺は、この画面を見ることが許されるほどプライベートな存在ではない。

 何も言えずにいると、ユイが重い息を吐いた。

「気になるところが違うんだ。性格のズレのせいだろうけど」

 問題の解決ができなくて困っているという声ではなかった。自分が完全に正しいのに相手が分かってくれないと顔に書いてあった。

「あいつだって駄目なことだったとは分かっているはずなんだ。でもこういうことがあって、次もないとは言い切れないだろ」

 どうしたらいいのか分からず、顔を動かさないまま店内に視線を巡らせた。奥の厨房で黒い帽子を被っている調理担当の肌は浅黒かった。時折聞こえる言葉は日本語じゃない。厨房は木目を基調にした店内とは打って変わって、冷たい銀色の空間だった。並んだ大きなフライパンには具材が敷き詰められ、それぞれ順番に振るわれ火を通されている。手早く木べらで食材を炒めていく様は楽器の演奏にも見えた。

「なあ、どう思うよ? 宅飲みだなんて」

「宅飲みしたのかよ」

 びっくりして変に裏返った声を上げてしまった。

「コンパ終わりにそのまま行ったってさ」

「ちょ、それはマジか……」

「ああいや、二人きりじゃなかったそうだけど。二次会で、だって」

 補足を聞いて、少し箸を止めた。ユイの怒りや動揺への共感が、一気に色あせていった。

 顔を見て、声を聞きながらだったら、大体うまく話せる。何を考えてるのかどう感じてるのかを推測して、欲しい答えに近い言葉を吐き出せば良い。そうしている間はむしろ心地よい。即座に答え合わせができる、一問一答のクイズ。そうして一通り設問を解き終えた後に、ドッと疲れは押し寄せてきて、もう二度とやりたくないと思う。なんで俺がこんな風に他人のことを考えていちいちフォローするようなことをしなきゃならないんだ。独りになってからそう思う、普段は。

 だけど相手のことを理解しようとする最中に、相手を理解する気が失せてしまったら。

「……会って話すしかないでしょ」

「そう、かな。やっぱり」

 投げやりな言葉が、正解でも不正解でもない言葉をたまたま象った。ラッキーだった。

 ユイはそれきり黙って、冷め始めたからあげに箸を伸ばした。俺も黙り込んだまま、生姜焼き定食を平らげた。ごはんのおかわりもした。会計を済ませて、二人で店の外に出て、揃って寒い風に震えた。時計を見れば、ゆっくり歩いても、講義には間に合う時間だった。

 歩きながら、隣でファーに顔をうずめるようにして、寒さをしのぐユイを見た。

 当人たちの問題だからと口の中で呟いた。

 今の距離は十五センチメートルにも満たないけど、本当はもっと遠いのだ。多分。


 平日の講義を、暖かい空調と鈍い曇天の繰り返しで終えて、土曜日に一コマだけ入っている講義を、うつらうつらとしながら乗り切った。土曜日は史学についての講義を受けていた。過去の文書を検証するのは大事だという内容だった。そうなんだろう。存在するものに、真偽があるのなら、それは正しく判別されるべきだ。本当は。教室の入った学部棟を出るともう薄暗くなっていた。黒いスニーカーが、照明に照らされ影になれずにいた。

 初めてひとみと話した時もこんな時間だった。サークルの活動に向かおうとして、見覚えのある顔と並んで歩いていた。同じサークルだよね、と話しかけた。ひとみはその時、俺の顔を覚えていなかったらしく曖昧に微笑んだ。

 彼はどこか、話しているのにそこにはいないような感じがすると言われる。俺も時折それは感じた。俺の知るひとみと、実際に存在するひとみは、どこかズレているのかもしれない。でもそんなの誰だって同じだろう。他者を完璧に理解することなんて不可能だ。

 人と人が関係を深めるという行為は、ほとんどの場合、その場の空気や、おぼろげに知覚できる筋書きに沿っていて、その結果に過ぎないのだと思う。人間が干渉できない領域には会話もト書きもあらかじめ記されていて、それに従って友情を育んだり、恋人になったりする。多分、中学のあたりから、俺はそれを感じていた。空気に沿うことは、波風立てなくて楽だった。過程の努力や苦痛を上回るメリットがあった。どこか他人を俯瞰するようにして、時には、この手に場を掌握しているような全能感すらあった。

 空気みたいなのに対して、ひとみは半歩だけ距離を置いていた。そんな彼に委員の誘いをかけたことを、突然、悔やんでも悔やみきれないことのように感じた。

 ひとみに今から行くとメッセージを送ろうとして、ポケットからiPhoneを引き抜いた。スリープ状態から立ち上げると、俺宛てのメッセージが表示されていた。高槻唯。ユイだ。

『仲直りした。旅行代って相場いくらだ?』

 ピンキリ、とだけ返信する。

 それきりiPhoneを握ったまま、歩き出した。同様に講義を終えた生徒の影はまばらだった。真っ平らな道を進む。左右に植えられた街路樹が風を受けて啼いた。無性に後ろに振り向きたくなって、なんとかこらえた。

 妥協して譲歩したようなメッセージだった。わがままな彼女のために、一緒に旅行に行ってあげるという態度だった。本当に真意を通したのは誰なのか。

 俺も同じだろうなと思った。今からひとみと会う。


 七日前に来た喫茶店に入った。

 彼はこの前と同じ席に座って、俺を待ってくれていた。

 お待たせ、と声をかけて、対面に座り、小走りにやって来た店員にカフェオレを頼んだ。店員さんはお辞儀した拍子に一つに束ねた髪が揺れていた。ひとみはオレンジジュースを、縦に長いグラスの半分ほどに減らしていた。

「講義、お疲れ様」

「ありがと。まあ、半分ぐらい寝てたけどな」

 ひとみは小さく笑ってから、シャツの襟を引っ張って整えた。

「ちゃんとしなよ。レポート書く時大変だよ」

「分かってるって」

 それから少し沈黙があった。ひとみはストローを指ではじいてから、大学祭委員になると言った。

 聞きたかった言葉だった。反応が遅れて、頬を緩めるのが間に合わなかった。拳を固く握った。精神が張り詰めるのを感じた。

「そうか」

「うん。先輩から資料もらっておく」

 大学祭で何か発表したり展示したりする時は、煩雑な手続きが必要だ。サークル員数から使う電力まで申請する。大学祭の担当は、その時期だけ、一気に忙しくなる。

 すぐにでもユイや他のメンバーに知らせるべきだった。

 けれど、あまり重要でないことだった。息を吸った。

「いいのか?」

「何が」

「多分、火星に行けなくなるぞ。行きたいって言ってたじゃん」

 切り出すと、彼は目を丸くした。

「色々考えたんだけど、歩くっていう方法、俺もベストだと思った。一番短い時で五千六百万キロメートルもあるんだ。五千六百万キロメートルだぞ、普通スペースシャトルとか使うと思うんだ。でもそうじゃないんだよな。だから考えたんだ」

 一気に喋った。もう息苦しさは感じない。俺はずっと、ずっと息苦しかった。舞見愛と話してる時も、高槻唯と話してる時も、ずっと息苦しかった。酸素が欲しかった。ずっと欲しかった。

 重力下じゃ人間一人あたりが使える酸素はたかが知れてる。偉い人の方が、強い人の方が、かっこいい人の方が、誰かに認められている人が、多く酸素を使える。俺はそんな人間じゃない。少ない酸素をやりくりして、なんとかもっと呼吸ができるようにみんなに認められたいと思っていた。立ち上がった拍子に席が真後ろへ倒れた。膝がテーブルにぶつかってメニュー表が落っこちた。関係ないお前らはどうせ火星にはいない。

 今は吸える。今だけは思うままに息ができる。地球の酸素じゃなくてここはもう火星だった。俺は自由だ。

「多分歩きながら肺の中の空気を入れ換えるんじゃないかって。酸素と二酸化炭素と窒素じゃなくて、もっと別の気体で肺を満たすんじゃないか? 俺の考えだとそれは体内で劣化してから排出されるんだけど、宇宙空間なら時間が経過すれば元の状態に復元される気体だ。それぐらいじゃないと宇宙がこんなに長く続いてる説明がつかないからな。解明されていない暗黒物質ってこれだと思うんだ。本当は俺たちは地上じゃなくても息ができるはずなんだ。きっとそうなんだよいいやそうに決まってる」

 火星へ。火星への道はここから始まってる。だからここはもう火星の一部だ。火星はあるし、火星へは歩いて行ける。俺はそう確信していた。

 ひとみは俺をじっと見た。目に俺の知らない色があって、身じろぎした。彼は一つ息を吐いた。

「どうしたの? アレは……行けたらいいね、ぐらいだよ。ぼくらは地球にいるんだから」

 それきり、椅子の背もたれによりかかって、彼は窓の外を見た。

 カフェオレをトレーに載せた店員がやって来て、俺の顔を見た。ひとみは慌ててメニュー表を拾った。椅子は自分で何とかしなよと言われた。店員は伝票を机に置く。重力に引かれて、伝票はテーブルの表面にへばりついている。俺は立ち上がったまま深く息を吐いた。熱が零れていくような感覚がした。窓の外には一階が飲食店になっているビルが並んでいた。空は雲に覆われている。陽は落ちた。街灯の下に行かなければ自分の影とも出会えない。バイトがある。そう告げて彼は立ち上がった。ひとみは鞄から長財布を引き抜くと、テーブルに五百円玉だけ置いて、店を出て行った。俺は立ち尽くしていた。


 空を見た。火星は見えない。

 五千六百万キロメートルの道のりを、一人で進む。スペースシャトルに乗ったわけじゃなく、歩く、自分の足がついている場所を確かめながら、歩く。地球に振り返ったり月を探したりして、そして火星を目指して歩いている。お気に入りの音楽を大音量で流して、胸を張り腕を振ってずんずん進んでいく。

 その道程が羨ましいものに思えた。羨ましいと感じたけれど、その道を歩いているのはひとみではなく俺だった。

 目を閉じて唇を結び、呼吸を止めた。数字を頭の中で並べた。五で少し腹が動き、十五で喉がぴくぴくと跳ねた。二十を過ぎた時に鼻が勝手に酸素を吸い込みそうになった。

 ここは息苦しい。

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