悪夢
松長良樹
悪夢
その青年は悩みでも抱えたような、憂鬱な顔をして精神科を訪れた。もう何日も寝ていないような疲れきった顔をしている。
看護師が青年の名を呼び、医師がその様子を見て心配そうに青年に話しかけた。
「さあ、おかけになって。だいぶお疲れのご様子ですが、きょうはどうなさいました?」
青年はだるそうに椅子に座り、少しだけ沈黙してからいきなりこう言った。
「先生、実は最近悪夢に悩まされているのです。それも頻繁に」
「夢を見るのですか。そうですか、寝不足のようですね。体調はどうなのです? 身体的に他にご病気されているとか」
「いえ、身体は僕、丈夫なほうです。健康だと思います」
「そうですか」
「もしかしたら僕は頭がおかしくなったのかもしれないんです」
少し医師は戸惑ったが、またすぐに落ち着いた穏やかな口調になった。
「ほーっ。で、あなたがみるという悪夢とはどんな内容なのです?」
「それが、そのう……」
言いかけて青年は突然あたまを両手で押さえ、屈みこんでしまった。さすがに医師も驚いた。
「ど、どうしました。大丈夫ですか? かなり苦しそうですね」
「ああ、夢をお話しするのが怖いんです。実に怖い」
「……」
医師の目が困惑していた。 ――かなりの重症のようだ。
「大丈夫ですよ。何も心配なんていらない。ここは病院だし、私はこの仕事をして二十年です。とにかく夢の内容を伺いしましょう。それが治療のヒントになるかも知れませんから」
傍で若い看護師も無言で彼を見つめている。
「……」
「そうだ、深呼吸して気持ちを落ち着けて」
「実はこれは夢なのですよ、僕の夢なんだ」
「……はっ? 今なんとおっしゃいました?」
医師が書き始めようとしたカルテから、視線が青年に移って固定された。
「先生のお名前は加藤新二さんですよねえ。お歳は四十八歳」
「……な、なぜそんなことを知っているのです?」
医師は驚いて青年の顔をじっと見た。
「以前に夢の中で先生のお名前とお歳を伺いました。というか、既に僕は先生を知っているのです。僕はもう毎回この精神科に来ているんです。もう何回も何回も」
「なにをいうのです。私はあなたと初めてお会いしましたし、そんなばかな事はありませんよ」
医師が苦笑いを浮かべたが、少し険しい表情になった。
「先生よくきいてください。今、これは、僕の夢なんですよ。なんならこの先どうなるかをお話しましょうか」
「ええ。どうなるんです? うかがいましょうか」
「先生は悪夢を見なくなるように『夢を見なくなる薬』を僕に処方してくれます。そして、僕はなんだか我慢できなくなって看護師さんに水をもらって薬をこの場で飲むんです。この悪夢から一刻も早く開放されたくて……。そこで眼が覚める」
「眼が覚めるとどうなるのです?」
「僕はまた精神科の前にいます。そして先生に会う。その繰り返しなんです。果てることのない夢の環ですよ。恐ろしいループなんだ」
「どうしたらよいのでしょう先生、どうしたら……。いや、これはあなたが本当の先生だったらの話ですが」
思わず医師が深刻な表情をつくった。すべてでたらめだとは思えない。しばらく鉛のような沈黙があって、医師がカルテをまた書き始めた。
「お薬を出しましょう。最近認可の下りたばかりの特効薬です。医学界では『夢を見なくなる薬』と呼ばれています」
「やっぱりだ。やっぱり同じだ。そんな薬きいたこともありませんよ。どこも変っちゃいない。僕はその薬を呑んで眼がさめて、そして……」
そのとき今まで俯いていた青年がいきななり顔をあげてこう言った。
「先生、僕の代わりにその薬を飲んではいただけないでしょうか」
「ええっ、私が飲んでどうするのですか?」
医師が困って苦笑いをした。困った顔だ。
「先生、僕はこの夢から解放されたいんです。その為には今までとは違ったアクションをおこさなければこの状況は変らないと思うんです」
「……これは夢などではありませんよ」
「かもしれません、でもお願いです。先生、僕を救うと思って」
青年の目があまりにも真剣だったので医師は笑いながら言った。
「いいでしょう。それであなたの気持ちが落ち着くのなら、健康な人がこの薬を飲んでもなんの害もありませんしね」
医師は看護師に水を持ってこさせ、その薬を一錠飲んだ。
◇ ◇
そこで医師は目を覚ました。――いったい、いつの間に寝てしまったのだろうか。
「あっ、あれっ? 私は寝ていたのか? 何という事だ。か、患者はどこへ行った」
するとそばにいた看護師がけっこうきつい口調でこう言った。
「先生、昼間から夢みたいな事おっしゃらないでください!」
医師が目を擦ると看護師が患者を呼び出す声がした。
そして顔を見せた患者が、悩みでも抱えたような、夢に見た青年で……。
そして……。
了
悪夢 松長良樹 @yoshiki2020
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