第二章 秋人の場合

絶望編 1-1 最悪の始まり


「ここは…一体…」



根室秋人は、困惑していた。先ほどまで自分の部屋で、ネットゲームをしていたはずだ。

なのに、気づくと薄暗い森の中にいる。



「…寝落ちしちゃったかな。」



地面に座ったまま、頭をボリボリと掻きながら、ここにきた経緯を思い出そうとするが、全く思い出せない。



「隠れボスを倒したとこまでは、覚えてるんだけど…」



そう言って、立ち上がり、秋人は混乱する頭を整理する。



根室秋人、23歳、フリーター

ごく普通の家庭に生まれ、義務教育を終え、ごく普通に大学を卒業し、平凡な企業に就職した。


しかし、会社での人間関係に苦労し、悩んだ挙句会社を辞めてしまった。


自分は、人付き合いが下手だと気づいた秋人は、人との接触に苦手意識を持ってしまい、実家に戻ってからは、ひきこもり。


自称、自宅警備員として、友達や家族との交流を一切遮断し、1日の大半を自分の部屋で過ごした。


そして、その日もいつもと同じように、自室で過ごしていたはずだった…



「夢にしては鮮明すぎるしなぁ。」



近くの木を触り、地面を足で蹴るなどして、感触を確かめていく。


辺りを見回しても薄暗く、同じような草木が、所狭しと列居しているだけで、進むにしてもどちらへ行ったものか悩ましい状況である。


どうしたものかと思案していると、後ろの草むらで、ガサガサと音がした。

秋人はビクッとして、恐る恐る後ろを振り向く。すると、草むらから、小さな狐のような生き物が姿を現した。


全体のフォルムは狐だが、耳が非常に長い。紅い双眸と、体には野生とは思えないほど綺麗に整った毛並み。見た目はモフモフで、マニアなら一度は感触を試したくなるような長めの尻尾。


そんな小さな生き物が、ひょっこりと草むらから現れたのだ。



「…なんだよ。驚いたじゃないか。」



そう言って胸を撫で下ろす秋人に、その生き物は一定の距離を保ったまま、静かに秋人を見据えている。

秋人は中腰になって、手を伸ばす。



「ほら、怖くないよ。こっちにおいで。」



にっこりと笑顔で声をかけると、その生き物は、まだ警戒しているのだろう、少しずつ距離を縮めながら、秋人に近づいてきた。


そして、差し出された秋人の手に鼻を近づけ、クンクンと匂いを確かめ、ペロリと一度だけ舌で舐める。


その仕草はまるで子犬のようで、秋人は愛くるしさを感じずにはいられない。

そのまま、頭を撫でようとしたその時、右手に鋭い痛みが走った。



「っ痛!」



秋人は咄嗟に手を引く。

そして、その手に視線を向けた瞬間、驚愕した。



ーーー小指がない!



「っうわあぁぁぁぁぁ!」



一瞬で状況を理解した。

こいつが小指を奪ったのだ。


驚き、焦り、恐怖。

さまざまな感情が秋人を襲い、そのまま尻餅をつく。小指の痛みより、目の前の得体の知れないものへの恐怖が勝り、"それ"から目が離せない。


ガクガクと震えながら、自分を見ている"餌"に対して、それは唸り声を上げながら、大きく口を開ける。

小さな体からは、予想できないほど大きく広がった口。そこには、人の体など簡単に噛み砕けるほどの鋭い歯が、一面に広がっていて、中から一本の長い舌が伸びている。その舌の先にも、鋭い刃が付いていて、秋人の指を奪った元凶だと、推測できる。


その瞬間、秋人は無意識に立ち上がり、後方へと走り出していた。



(嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!)



顔を大粒の涙と鼻水で、ぐちゃぐちゃにしたまま、必死に森の中を駆け抜ける。

後方では、遠吠えが聞こえる。


仲間を呼んだのだろうか。


しかしながら、今の秋人にとって、そんなことはどうでもよかった。



ーーー早く逃げなければ。



その一心で、必死に足を回転させる。


そのまま逃げ続けていると、先程の生き物の姿もなくなり、再び薄暗い森の中に、1人ポツンと取り残された。


気持ちが落ち着いてくると、今度は指の痛みが頭を離れない。恐る恐る右手を顔の前にあげれば、そこには信じたくない事実があるのみ。幸いなのは、血はすでに止まり、処置の必要は、今のところないということだろう。


悲しみと虚無感が、秋人の心を染めていく。そのまま、木の根元に腰を下ろして、秋人は頭を抱えるように座り込んでしまった。



(なんでこんなことになったんだ…)



考えても答えは出ない。



「…帰りたい。」



秋人は、ぼそっと呟く。

空を見上げれば、夕暮れが近いのだろう。木々に隠れて、その姿は見えないが、太陽が、空の半分をオレンジ色に染め上げ、もう半分を、深く濃い群青色が支配し始めている。


秋人は、再び顔をうずめて、この夢が、どうか早く醒めるように願う。


その時であった。

近くで再び遠吠えが聞こえる。秋人は肩を震わせ、目線を周辺に向ける。


今のところ姿は見えないが、"あいつ"が来ている。ここにいれば、待つのは死のみだ。


秋人は立ち上がり、キョロキョロと辺りを伺い、逃げる方向を考える。

再び遠吠えが聞こえた。



(…後方から聞こえた。とりあえずこっちしかない。)



そう考えて、遠吠えが聞こえてきた方向とは逆へと、走り出す。

運が良いことに、走り出してまもなく、視線の先に、オレンジの光が見えた。



(しめた!森から出れる!)



そう思い、必死に足を動かす秋人の耳に、後ろの方で、足音がしているのが聞こえてくる。しかも、複数の足音だ。



ーーー捕まれば、おそらく死ぬ。



その恐怖から、必死に足を回す。

足音が、だんだん近づいてきているのがわかる。その差は、ほとんどないだろう。

呼吸が乱れる。秋人は必死に空気を肺に送り込み、もつれかける足に鞭を打つ。


あと数歩で、森から出られるところまで来た時、後ろから獣の走る息遣いを捉えた。


秋人は、その声を聞いた瞬間、無意識に森の切れ目に向かってダイブしていた。秋人の体が森から出る寸前、獣の狂歯が秋人の背中に襲いかかる。


しかし、あと一歩の差で、狂歯は届かず、秋人は森から抜け出すことに成功する。


森を抜けると、広大な平原が目の前に広がっていた。水平線の向こうには、現世界とは比べ物にならないほど大きな太陽が、ゆっくりと沈んでいくところだった。


秋人は、地面に滑り込むように着地する。着地した部分は、少し斜面になっていたため、そのまま数メートルほど転がりんだ。


グルグルと回る視界の中に、自分に続いて森から飛び出した"それ"が映る。秋人のすぐ後ろを少しだけ転がり、すぐに体制を立て直している。



(げっ!これって、やばいんじゃ…)



相手が体制を立て直したということは、追撃を許すということだ。平原には身を隠せるようなところなどない。万事休すと思った矢先、秋人の視界には予想していなかったことが起きる。



「ぎゃん!」



その獣は声を上げ、苦しみ出した。体からは、黒い煙のようなものが上がっていて、その場でのたうち回っているのだ。

苦しみながらも、森へと引き返そうとしていて、その先を見ると、のたうち回っている獣と、同じくらいの体格をした獣たちが、森の陰からジッと様子を伺っている。

それらの足元には、秋人の小指を奪った小さい獣の姿も見える。



「キャインキャイン!」



目の前では、獣が苦しみ続けている。秋人はその様子から目を離すことができず、じっと見つめていた。

しばらくすると、獣は力尽きたのか、動かなくなった。そして、驚くことに、そのまま体が溶け出して骨となり、その骨さえも、最後には黒い煙と共に、溶けて消えてしまったのだ。


辺りには嗅いだことのない異臭が立ち込めている。森の陰で様子を伺っていた獣たちは、仲間の死を見届けると、秋人を一瞥して、森の奥へと消えていった。



「たっ、助かったぁ〜。」



秋人は、その場にヘナヘナと座り込む。

沈みつつある太陽が、夕暮れの哀愁を漂わせていた。

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