5.禍福は糾える縄の如し

 親譲りかどうかは知らないが、無鉄砲と言うよりも無頓着で子どものころから危うい目にばかり遭っている。小学校にいる時分山への遠足中に、前を歩く男子児童二名の喧嘩に巻き込まれ、片方がもう一方を小突いた結果、玉突き式にわたしだけが斜面から突き落とされたことがあった。なぜそんな事態になったと聞く人があるかも知らぬ。別段深い理由でもない。ほかの児童たちが彼らを遠巻きにする中、わたしだけが、まあすぐに喧嘩も終わるだろうと高をくくってその場に残った結果である。


 あの時は大騒ぎになったなぁ別にたいした怪我もしなかったけど――と過去に思いを馳せていたわたしは、冷ややかな先生の視線に気づいて首をすくめる。

「ミャオ」

 あきらかに責める響きのある声に名を呼ばれ、「ええっと」と目を泳がせた。

 迷子になってヴェイウェローに遭遇した夜から五日が経った。

 一夜明けてから先生と訪れた村では、バイヤンの毒にやられた村人たちは皆回復の一途をたどっていた。それはわたしが癒しの魔法を使ったティナも同様で、ちゃんと自分の魔法の成功を確信していたとはいえ、ほっと胸をなでおろした。

 ひとりひとりの家をたずね、具合の悪いところがないか確認していく。

 ベッドに半身を起こしていたティナは、先生といっしょにわたしが部屋に入るとそっぽを向いた。

「うん。完璧に中和されてる。よくできたね、ミャオ」

 ティナの状態を確認した先生に褒められ、えへへへ、と照れていると、ぼそりとこもった声が聞こえた。

「……ありがと」

 見れば、そっぽを向いたままのティナの頬と耳が赤く染まっている。

 根が素直なところが、とてもかわいい。

 にやにやしてたら、怒鳴って追い出された。恥ずかしがりやさんである。

 今回のことで、ちょっぴり変わったことがいくつかある。

 村の女性陣に囲まれて口々にわたしを村に寄こすように言われた先生は、五日に一回わたしがラーテ村で過ごすことをしぶしぶ認めた。

 それに伴い、先生の家とラーテ村を結ぶ道には魔法がかけられた。昼でも夜でもきらきらと水晶を砕いたように地面が輝いて、道から外れないように教えてくれる。もちろんこれはほぼわたしのためだけの魔法だ。過保護である。

 わたしの従者ということになってしまったミミガーはフェイミーのように「竜の草原」で暮らすのかと思ったのだが、先生の家に転がり込んだ。それも、ちいさな柴犬サイズで。なんとサイズは変幻自在だったらしい。あまり先生とは仲が良くないのか、たまにぼそぼそきゃんきゃんと言い争っているのが聞こえる。仲良くすればいいのに。

 そう。細かな変化に気をとられていたわたしは、すっかり忘れていたのだ。

「ただいま帰りましたー」

 あの事件の翌日以来初めて、先生と村の女性陣の約束に従ってラーテ村に行って村人たちと過ごしてきたわたしは、先生の魔法のおかげで迷うことなくまっすぐ帰宅した。

「今日はジャムを作ったんですよー」

 けっこう上手に作れたと思うんですけど――と数歩家の中に踏み込んだところで、異様な雰囲気に気づく。

 空気が重い、冷たい、とげとげしてる。

 何ごとだ、と改めて室内に視線を巡らせ、質素でぬくもりのある調度の家になじまない、やたらきらきらしい存在が暖炉の前のソファにふんぞり返っているのを見つけた。

 ミミガーの純白の毛よりも冷たく輝く白銀の髪。透明感のある白い肌に、お人形のような人並外れて整った顔立ち。漆黒の学ランによく似た服に身を包み、長い足を組んでいる。年齢は若く見えるが、身にまとう雰囲気は妙に老成し、浮世離れしていた。

 性別、というものがあるのならば、たぶん男性だが、それよりも何か純粋なものの結晶のような、超越した美しさの持ち主だ。

 白銀のまつ毛は、カールしていてもやたら長い。じーっと無遠慮に見つめすぎたか、けぶるまつ毛の影にきらめくアイスブルーの目に見つめ返された。

「姫君!」

 ぱっと華やかな笑みを浮かべ、彼は立ち上がる。

「やっと会いに来れたよ」

 こちらを抱きしめようというのか、両手を開いて近づいてくる。

「え」

 彼が近づいてくるのに応じて自然と後ずさりながら、目の前の姿を見つめた。

 見覚えはない。

 でも、その声に聞き覚えはある。

『やっと言ったね』

 あの時の、声だ。

 忘れていた。すっかり忘れ去っていた。

「それ以上ミャオに近づかないでください」

 パリリ、と空気がきしむ音がして、わたしと正体不明の彼の間に稲妻が走る。はっとして視線を巡らせれば、壁に寄りかかった先生が至極不機嫌そうに腕を組んでいた。その足元では柴犬サイズのミミガーが全身の毛を逆立ててうなっている。

「どうして? 私は彼女を傷つけたりしないのに」

「傷つけはしないけれど、たぶらかしはするからです」

 冷たく固い声で言い放った先生に、白銀の髪の青年は肩をすくめる。

「人聞きの悪い。最初に私を誘ったのは姫君の方なのに」

「へっ」

 わたしが「姫君」と呼ばれるにふさわしいかどうかは置いておいて、彼の言う「姫君」とはわたしのことらしい。

 いきなり飛び火してきた話題にうろたえる。

 ていうか、「誘った」って。

「ミャオ」

 先生がじっとりとした目でこちらを見ている。いやいやいや、そんな目で見られるいわれはない、はず!

「ええっと」

 目を泳がせながら、「誘っては、いません、たぶん」と弁明を試みる。

 あの時は生きるか死ぬかの大事の最中だったのだ。「誘う」なんて余裕のあることできるわけがなかろう。

「つれないなぁ。あんなせっぱつまった声で甘えてきたくせに、誘ってないと言うのかい? 姫君は悪い子だね」

 ふふふ、と美青年に笑いかけられ、どぎまぎするより先に先生の顔を確認してしまう。

「ひぇ」

 何の感情も浮かべていない能面のような顔に、心臓が縮みあがる。不機嫌をあらわにされるより、ずっと怖い。

「せ、せんせ」

 びくびくと声をかけると、彼はちいさくため息をこぼしてからやたらといい笑みを浮かべた。

「ミャオもこう言っていることですし、どうぞお引き取りください」

 わたしには声をかけず、にっこにこと笑みを張り付けたまま白銀の髪の青年に向き直る。

「魔法使い風情がこの私に意見するって?」

 ふふん、と青年は先生の勧告を鼻先で笑い飛ばす。

「貴方は僕の出自をご存じかと思いますが」

 一方の先生も笑みを崩さず挑発的に唇をつり上げる。

 双方笑顔のくせに、空気がひりつきすぎだ。

 やだもう怖い。

 圧倒的平和主義者(事なかれ主義とも言う)であるわたしからすると、こんなぴりぴりした空気は居心地が悪すぎる。

 これはもうミミガー(小)をもふって気分を落ち着けなければ、と現実逃避しかけたところで、場違いな、気の抜けた声がその場に響いた。

「お、つながったか?」

 その声を聞いたとたん、ふっと全身から力が抜ける。

 あまりに聞きなれた、聞くだけで無条件で安心してしまえる声。

「え」

 ふらりとよろめくと、あわてた先生が駆け寄ってきて背中を支えてくれる。

「にゃーこ? 見えてる? 聞こえてる?」

 ふわん、と目の前に淡い光の柱のようなものが立って、その中に像が結ばれる。

 わたしと同じ黒い髪に黒い目。わたしとは似つかないすずやかな顔立ちにモデルみたいな長い手足。

 見慣れた、幼い頃からともに育ってきた相手の姿に口元を覆って息を呑む。

 これは現実だろうか。夢を見ているわけではなく?

 疑う気持ちにこわばった指先を強く握り込めば、食い込んだ爪に痛みを覚える。

「めぐ、君?」

 いつものように名を呼べば、相手はこちらを見てにっこり笑った。

「お、元気そうじゃん。よかったよかった」

 あまりにいつもどおりで、逆に調子が狂う。

 こっちが。

 こっちがどれだけ――。

「めぐ君ー」

 ぶわっと涙があふれる。先生が動転し、ミミガーがわたしのまわりを落ち着きなくうろうろしているのを視界の端でとらえたが、止めることもできない。

「あーあー、顔ぐちゃぐちゃ」

 へにゃりと眉を下げ、めぐ君はこちらの涙をぬぐうように手を伸ばすが、当然わたしには届かない。

 今の彼は立体映像、のようなものらしい。どんな仕組みかは知らない。説明してもらえば彼らしい飛躍的な理論に舌を巻くことになるのかもしれないが、今は後回しでいい。

 わたしは、彼が「異世界だろうとどこだろうと目的の相手につながる連絡手段」を開発できる天才だと知っている。

「一か月も見知らぬところでひとりきりだったんだもんな。心細くもなるか」

 連絡するの遅くなってごめんな、と悔し気に告げられた、のだが――。

「一か月?」

 泣きながら疑問を口にすると、めぐ君の眉を寄る。

「おう。にゃーこがいきなり消えてから今日でちょうど一か月だ」

「……時間、ずれてる」

 ずびずび鼻をすすりながら伝えると、めぐ君の眉間のしわが深まった。

「どれくらいだ?」

「こっちに来てから三か月半くらい経ってる」

 つまり、このままこちらにいたら、いずれわたしがめぐ君より年上に――それはそれで少しおもしろい気も――とのんきなことを考えていたわたしとは違い、めぐ君は険しい表情でうなずいた。

「わかった。時間のずれが大きくなると帰還に何らかの影響が出ないとも限らないし、なるべく早く手を打つようにする」

 簡単に言ってくれるが、いきなり異世界に飛ばされたわたしの居場所を突き止め、かつ映像と音声の双方向回線をつなぐなんて、彼にしかできないような偉業だ。これをひと月でやってのけただけでも常識外れだと思うのだが、めぐ君はさらなる奇跡を起こしてわたしを連れ帰るつもりらしい。

 さすがわたしの周りにいたチート持ちの中でも、実用性に抜きんでていた能力持ちなだけある。

「無理しないでね」

 研究に没頭すると寝食を忘れるところがあるので心配だ。

「にゃーこは自分の心配だけしてろよ」

 険しい表情から一転、彼はにやりといたずらっ子のように笑う。

「にゃーこがいなくなって母さんは神様ってやつがいるなら喧嘩売る勢いで怒り狂ってるし、父さんは毎日しくしく泣き暮らしてるし、お前の友人連中は事情を説明しろってうちに押しかけてきて母さんと一触即発のにらみ合いになったし、そのうちの何人かはお前を必ず取り戻すって息巻いてたよ」

 おおぅ、まじか。

 改めて知らされた現状に頭を抱える。めぐ君と話せたことによる感動とか吹っ飛んだ。

 いや、なんとなく、なんとなくそんな気はしていた。考えないようにしていただけで。

「帰ってきたら、しばらくは放してもらえないんじゃないか?」

 くすくすくす、と笑うめぐ君をにらみつける。

 他人事だと思いやがってこんにゃろ。

 わたしの周りの人たちは皆いい人なのだが、ちょっと情が濃すぎるのが玉に瑕なのだ。

 あと、過保護。

 なんでか知らんが過保護。

 わたしの周り、そんな人ばっか。

 心配をかけているのを心苦しく思うと同時に、無事あちらに帰れたとしても心配の虫にとりつかれた周囲の過干渉は避けられそうにない。

 いや、ほんと、しょっちゅう迷子になっては迷惑をかけ、ついには異世界まで来てしまったわたしも悪いけど、誘拐されたとかではないので冷静に帰還を待っていてほしい。

「ちゃんとわたしは元気にしてたってみんなに伝えてよ? 頼んだからね?」

「ははは、それくらいで落ち着くとは思えないけどな」

 うるさい。ダメ元だろうが、何もしないよりはましだわ。

 じっとりと半目で見つめていると、めぐ君も「はいはいりょーかい」と手をひらひら振った。

 軽い調子だが、彼に頼んでおけば大丈夫だ。あとは戻ったときにうまいことやれば――と考えていたところで、「ところで」とめぐ君に声をかけられた。

「そちらの方は?」

 ん、と彼のほうを見ると、まるで値踏みするように、わたしを支えてくれていた先生を頭の上から足先まで見下ろしているところだった。

 いまさらか。

 そう突っ込もうとして、自分も先生を紹介していなかったことに気づく。ぬかった。

「こちらは、ロルス=リディンさん。わたしの面倒を見てくれてる恩人だよ」

 だから失礼な態度とらないで、と口を尖らせると、めぐ君は「わかったよ」と言わんばかりに両手を挙げた。

「うちのにゃーこをどうぞよろしくお願いします」

 先生に向かってにっこり笑って、軽く頭を下げる。「うちの」にやたらと力を込めたのはどういうつもりだ。

「変な虫をつけないでくださいね」

 付け加えられた言葉に、むっとくる。

「それはわたしに直接言いなよ。変な奴に引っかかるなって」

 先生は厚意でわたしを家に置いているだけで、本来わたしに対するなんの義務も負っていない。

 そもそもこちとら立派な成人女性なのだ。お付き合いする相手くらい自分で見極めるわ!

 鼻息荒くむくれたわたしを笑っていためぐ君だったが、「あ、いけね」とつぶやく。

「そろそろ限界みたいだ」

 ざざ、と何かの妨害を受けたようにその姿が乱れる。

 あちらとこちらの回線をつないでおける時間は無制限ではなかったらしい。

 やっと久々に顔を見れたのに、もうさよならしなくてはならないなんて。

 しゅんとうなだれたわたしをやさしい目で見つめて、めぐ君はひらりと手を振る。

「じゃあな、にゃーこ。絶対に迎えに行くから、いい子で待ってろよ」

 いいな、と念を押すめぐ君に「ん」とうなずいてみせると、心配だなぁと言わんばかりの苦笑を浮かべ――ぷつん、と彼の姿は消え失せた。

 しん、と静まり返った部屋の中で、押し殺したため息をこぼす。

 泣いたって喚いたって現状が変わらないなら、自分にできることをしよう。

 そう思ってこの三か月半を過ごしてきた。それでも、なつかしい顔を見ればホームシックにだってかかるのだ。

 ふー、と深く深呼吸して、頬に残っていた涙をぬぐう。

 状況は何も変わっていない。わたしはまだここにいるのだし、この世界でひとり生きていく力はない。このまま先生の家にご厄介になることをよしとしないならば、これまで通りできることを可能な限りやって、ひとり立ちできるだけの力をつけなくては。

 気持ちを切り替え、顔を上げる。

 まずは突然の展開にびっくりしてるだろう先生とミミガー、ついでに謎の美青年に説明を、と思ったのだが、目の前の光景に自然と首をかしげてしまった。

「えっと?」

 先生は片手を額に当ててぐったりとうなだれているし、ミミガーはきゅんきゅん鳴きながらわたしの足元にまとわりついているし、美青年はおもしろくもなさそうにそっぽを向いている。

「あれ? どうかしましたか?」

 思っていたのと違うふたりと一匹の様子に感傷も吹っ飛ぶ。

 ゆるく首を振った先生が、顔を上げてこちらを見つめてくる。

「今の彼はミャオの友人?」

「めぐ君は――」

 説明しようとして、ふと考え込む。

 めぐ君、こと犬養(いぬかい)巡(めぐる)のことを正確に言い表すのはすこし難しい。

「兄、ですね」

 結局ざっくりとした紹介になってしまった。

「戸籍上では他人なんですけど、天涯孤独になってしまったわたしを引き取ってくれた人の息子さんで、こう、先生にも勝るとも劣らない過保護な人です」

 そしてわたしに代わって異世界トリップしていたら、この世界の科学技術を千年単位で進歩させていたかもしれない天才だ。

 やると言ったらやる、何も言わなくてもやる人なので、何年かかろうと本当に迎えに来るはずだ。

 もちろん、それを黙って待っているわけにもいかないが。

「――じゃ、ないの」

 どこか安心したようにぽつりとこぼされた先生の言葉に、はっと目を見開く。

「それ!」

「な、なに?」

 突然大声を出したせいで先生の肩がびくんと揺れた。

 彼が口にした言葉は、かつて村の女性陣に囲まれ、問いかけられた言葉といっしょだった。

 その後いろいろありすぎてすっかり忘れていたが、訊こうと思っていた言葉だ。

「―――ってどういう意味ですか? あと、―――も」

 ちょうどいい。ぜひ教えてほしい。

 身を乗り出すと、先生がそっぽを向く。ほんのり耳と首筋が赤くなっている。

 これは、もしや――。

「ミャオにはまだ早いよ」

 ぼそっと返された言葉に確信する。

 もしやもしや――何かいやらしい言葉なのでは?

 ちょっとわくわくしてしまい、さらに先生に身を寄せる。

「いや、先生。何度も言いますけど、わたし、もう二十五なんですよ」

 あっちの世界ではひとりで暮らしてたし、仕事もしてたし、なんなら家庭を持っていてもおかしくない年齢でした、と主張する。

 R指定のついてる映像だろうとゲームだろうとたしなめるお年頃だ。

 いくらなんでも子ども扱いはない。

「先生。先生はわたしの先生なんですから、ちゃんと教えてくださいよ!」

「ミャオこそ、僕を先生だって言うならいい子で聞き分けてよ!」

 先生にしては感情的で、どこか幼い調子で言い返され、虚をつかれてぽかりと口を開いてしまった。先生も先生でいつもの自分らしくないことに気づいたのか「大きな声出してごめん」とつぶやいたきり頬を染めて唇を引き結んでいる。

 なんかかわいい。

 こう、もうちょっとつっついてからかってしまいたくなる。

 ふむふむ、とにやついていたところに、別の声が割り込んでくる。

「こいつからしてみれば、そりゃ、姫君なんてまだまだ子どもだよ」

 すっかり存在を忘れていた美青年だ。

 さっきのおもしろくなさそうな表情はどこへやら、目の奥に「にやにや」としか言い表せない光を宿している。

「こいつ、見た目の三倍は生きてるから」

「へ」

 突如与えられた思わぬ情報に、間の抜けた声を発してしまった。

「人間としての見た目の、って意味で、まあ、半竜としては相応だけど」

「んんん?」

 ひとつめの情報を咀嚼しきれていないうちに新たな情報が投下された。

 わたしの目に映る先生は、若々しさと落ち着きをそなえ、ふとした瞬間に色っぽさをのぞかせる、三十二、三歳くらいの男性だ。

 まず、美青年の言葉を信用するならば、先生の実年齢はこの見た目年齢に三をかけたくらい、らしい。

「ひゃくさい……?」

 首をかしげてつぶやくと、先生が気まずそうにうなずいた。

「……一〇二歳だよ」

「ひゃくにさい」

 元の世界にもご長寿さんはいたが、身内にはいなかったし、何よりこんなにぴちぴちの一〇二歳いるわけがない。

 で、そのぴちぴちの原因が――。

「はんりゅう――半分ドラゴンってことですか?」

「うん、母親がね」

 わたしがちらりと自分の腹に顔をうずめているミミガーに視線を送ったことに気づいたのだろう。先生は苦笑して「獣麗竜とは違う種族だけどね」と付け加えた。

 美青年の言っていることは真実だった。

 ふぁんたじー。

 目の前にいる、優秀な魔法使いだけれど、ふつうのおだやかでかっこいい男性だと思っていた人が、一〇二歳で半分ドラゴン。

 まっことふぁんたじーだ。

「まあ、老化がにぶいぶん、精神年齢の成熟もにぶいから、あんなうぶな反応しちゃうんだよねぇ」

 ねえ? とアイスブルーの目をからかうように細める。むっと眉根を寄せた先生はふんと鼻を鳴らした。

「千年以上生きている大精霊さまには言われたくありませんよ」

 お返し、とばかりに先生は言い返しているが――。

「せんねん!」

 ちょっと想像もつかないな……。

 遠い目をしたわたしに、先生よりもぴちぴちに見える美青年がくすくす笑った。

「お歴々からしてみればまだまだ〝若造〟らしいけどね」

 千年で若造なら、一人前になるころには高床式倉庫を使っていた人類が宇宙ステーションを作るような進化を遂げていることだろう。

 あと、目の前の人、人間じゃなかった。

 容姿が整いすぎていること以外彼と自分との違いがわからない、が、「大精霊さま」ということはこちらを遠巻きに眺めている精霊たち――半透明でふよふよ浮いている――と同じ存在、ということだ。

 ついじろじろ見ていたら笑みを浮かべたアイスブルーの目に見つめ返された。

「そう思えば自己紹介がまだだった」

 すっと胸に手を当てた美青年が名乗りを上げる。

「私の名前はリンドウェル。氷雪の精霊で、この裏の森のさらに西にある山脈を住処にしているよ」

 それは、まるで――。

「氷雪王その人だよ」

 わたしが思ったことを、先生があっさり肯定する。

「まあ、そう呼ばれたりもするね」

 けろりと認めてうなずく美青年姿の大精霊――リンドウェルに頬がひきつる。

「なんでそんな大物が――」

 こっちの世界初心者のわたしにだってわかる。

 大精霊、それも大山脈の主とされるような存在は、そうそう簡単に人前になんて出てこない。と、いうか、そう簡単に出てきてもらっては困る。

「ふふ、姫君からあの時助けた『ごほうび』をもらおうと思ってね」

「ごほうび……?」

 まるでおつかいを成し遂げた子どもみたいなきらきらした目で見つめられ、ついついきょとんと間の抜けた顔をさらしてしまった。

「そう。ごほうび。あの時、姫君、対価を支払ってもいいから助けてほしい、って願ったよね?」

 にっこりと顔をのぞきこまれ、ぽんと手を打つ。思い出した。

 ああ、あれか。

 うんうん。

 ていうか、あれ、心の中で思っただけだったと思うんだけど、筒抜けか。

「忘れてた」

 のど元過ぎればなんとやら、うっかりすっかり忘れ去っていた。

「ひどいなぁ、姫君」

 幸い、リンドウェルは怒ってはいないらしい。

「それで、氷雪王サマは何をお望み何ですか?」

 わたしのできる範囲でお願いします、と付け加えておく。

 命の恩人相手なのだ。ケチるつもりは毛頭ないが、なんと言ってもわたしにこちらの世界の資産はほとんどないし、平凡極まりない才覚のためできることも多くない。

 できないことには、お応えしかねる。

「氷雪王だなんて他人行儀な。姫君にはぜひ名前で呼んでほしいな」

 そう言ってから、リンドウェルはなぜか頬をぽっと染めた。

「んー、別にむずかしいことじゃないよ。姫君には、私の――になってほしいんだ」

 赤らんだ顔で、真剣なアイスブルーの目で彼はこちらを見つめているが、悪いがそれはわたしの知らない単語だ。

「ええっと」

 困って目を泳がせ、救いを求めて先生を見つめると、彼はにっこりととてもいい笑顔を浮かべた。

 またか。

「却下です」

「お前には聞いてないよ」

 先生とリンドウェルの間の空気がまたしても張り詰める。

「ミャオには早いです」

「お前にとって姫君が子どもなんだとしても、私にとっては立派な淑女だよ」

 ね、とリンドウェルに同意を求められる。

 いかにも。わたしは二十五歳。ときに小娘扱い、ときに年増扱いされる、まさに妙齢女性もとい淑女。

 だが、それよりも先に――。

「いい加減、――とか――とか――とか、意味教えてもらえませんかね」

 自分で思ったより低い声が出た。

「子ども」だと守ろうとするにしろ、「姫君」と大切なもののように扱うにしろ、わたしから権利を奪うにしろ、許しを求めるにしろ、ただこちらの目をふさぎ耳をふさいだままでそれが叶うと思うなよ。

 今のわたしの状況は、「子ども」だとか「大人」だとか以前に、自分のことを知る権利すら奪われている。

 まずは説明責任を果たせ。

 話はそれからだ。

「ミ、ミャオ」

 こちらの怒りに気づいたらしい。先生が困ったように眉を下げた。

「先生にはお世話になってますけど、わたしのことはわたしに決めさせてください。『いい子』になれなくて悪いんですけど」

 あと、これはわたしのまいた種です、と言い切ると、目に見えて肩を落とした。

「ごめん、ミャオ。僕は――」

「心配してくださったんですよね。それはありがとうございます」

 声のトーンをいつものものに戻すと、先生はおずおずとこちらを見た。そっと手を伸ばして、わたしの額と自分の額に指先で触れた。

 初日にもやってもらった、意思疎通の魔法だ。

『――は恋人、――は夫婦。それから――は花嫁って意味だよ』

 顔を真っ赤にしてそう伝えてきた相手の顔をぽかんと見てしまう。

 恋人。夫婦。花嫁。

 あんなに言いよどんでいたのだ。どれだけインモラルな言葉が飛び出してくるのかとわくわく――いや、どきどき――ごほん、ひやひやしていたというのに。

「ぜんっぜんいやらしくないじゃないですか!」

 至極一般的な単語じゃないですか、恥じらう要素どこですか、と大声を上げたわたしからそっと目をそらして、頬を染めたままの先生はぽそっと告げた。

「ドラゴンの一族にとって、そういうことはとても神聖なことだから……」

 ピュアか。

 ドラゴンの一族ピュアッピュアか。

 はーーーー、と肺が空っぽになるくらい長いため息をついてから、わたしと先生のやりとりをにやにや見守っていたリンドウェルに視線をやる。

「リンドウェルさま」

「呼び捨てでいいのに」

 にこやかにこちらを見る相手が先ほど口にした言葉を、先生翻訳を反映して反芻する。

『姫君には、私の花嫁になってほしいんだ』

 プロポーズじゃん。

 まごうことなき求婚じゃん。

 むずむず背中がかゆくなる。もちろん――。

「そのお申し出はお受けできません。ごほうび、別のものでお願いします」

 受けるわけにはいかないのだが。

 チェンジを申し出ると、リンドウェルが唇を尖らせた。

「えー、どうして?」

 私は尽くすタイプだよ、と身を乗り出す美青年精霊に指折り数えあげる。

「そもそもそれを対価にするのは何か違うと思いますし、リンドウェルさまといっしょになることにメリット感じられませんし、そもそもリンドウェルさまのこと知らなさすぎますし、知らないから好きでもありませんし――」

 言うねぇ、と唇の端をひくつかせた相手をまっすぐに見て、それに、といちばん大きな理由を告げる。

「わたし、いつかは元の世界に戻りますので」

 こちらで結婚するわけにはいきません、と言い切ると、リンドウェルと、なぜか先生まで唇を引き結んだ。

「……つまり、私のこと、もっとよく知れば恋人くらいにはなってくれるのかな」

「えー、どうですかね?」

 そればっかりはなんとも、と言葉を濁してから、とにかくと指先をリンドウェルに突きつける。

「ごほうびは、もっと別のものでお願いします!」

 できれば物品か、肉体労働でお願いしたい。手っ取り早いので。

 さあさあ、と促すわたしに、リンドウェルは目を細める。

「んー、じゃあ、簡単なことをみっつ、お願いしていい?」

「はあ」

 本当に簡単なことなんでしょうね、と疑いのまなざしを向けると、彼は大丈夫大丈夫と笑ってうなずく。

「まず、姫君の持ってるジャム、味見させて?」

「これですか?」

 帰ってからずっと抱えたままだった瓶に目を落とす。

 ラーテ村で村人たちと作ったそれは、ザクロのような木の実のジャムで、瓶に詰める前に出来立てを味見させてもらったのだが、甘酸っぱくておいしい。先生とお茶の時間のビスケットに添えて食べようと思っていたのだが――。

「しかたないですね」

 厨房の食器入れからスプーンを取り出すと、瓶を開けてジャムをすくう。

 あーんと差し出すと、高貴なる存在であるはずの大精霊は喜々としてスプーンをくわえて「おいしい」と顔をほころばせた。

「次は私にあだ名をつけて」

 もちろん呼び捨てで、と注文される。

 たぶん普通だったら彼ほどの存在を呼び捨てにするなんて不敬極まりないのだろうが、まあ、本人の希望だ。

「えー、じゃあ……キヨシで」

 リンドウェルって響きがハンドベルに似てるよね、そういえば昔ハンドベルの演奏で「きよしこの夜」聞いたよな――という連想だったのだが、口にしてからさすがに反省した。

 きらきら西洋系美形に「キヨシ」はない。

「うんうん。キヨシかぁ。姫君だけの私の名前だ」

 やっぱり、と口にするより先に満足そうにうなずかれてしまった。

 まあ、うん、本人が気に入っている様子なのでよしとしよう。

 そっと彼の指先が伸びてきて、わたしのまなじりに残っていた涙をすくってすするようにくちづけた。

「姫君」

 熱っぽい目で見つめられると落ち着かない。

「じゃあ、最後に――ここに、くちづけをちょうだい」

 彼から目をそらそうとしたわたしの目の前に、ここ、と差し出されたのはリンドウェルの右手だった。たった今、わたしの涙をぬぐった手だ。

「ちょっと恥ずかしいんですけど」

 間接キスだし。

「軽くでいいから、お願い」

 ね、と小首をかしげる美青年、あざとい。

 まあ、減るものでもなし。それに命を救ってもらったお礼として無理難題と言うほどのものでもない。

 はあ、とため息をこぼし、差し出された手をとって口元へ近づけ――。

「あっ、ミャオ――」

 何かに気づいたのか、あわてた口ぶりの先生の声に動きを止めるより先に、足元にまとわりついたミミガーが何かを阻むようにわたしの身体をリンドウェルから離そうと押すより先に、わたしの唇は相手の指先をかすめていた。

「はい。これで私は姫君の従者だね!」

 心底嬉しそうなリンドウェルの言葉に、はっと我に返る。

 従者。

 つい最近、聞いた、言葉。

「え」

 ぱっと足元を見れば、耳と尻尾を落としたミミガーがこちらを見つめていた。

 図らずもかけてしまった使役の魔法。それを成立させる、四つの条件。

 相手の望んだものを与え、名を与え、おのれの体液――血や涙を与え、くちづけを与える。

 ざっと血の気が引く。

 ジャムをあげた。あだ名をつけた。涙をすすられた。指先にくちづけた。

「えええ、いや、でも、あだ名はノーカン、ノーカンでは!」

 あわてふためくわたしに、リンドウェルはほくほくとした顔でばらしてくれる。

「使役の魔法における『名前』っていうのは、主人だけが呼ぶ特別な呼び名って意味だから」

「そんなの、へりくつだ!」

 異議申し立てる!

 騒ぎ立てるわたしを、先生がエメラルドグリーンの目に残念な子を見るような色を浮かべて見つめている。

「だから、そう簡単に拾いものをしないでって言ったのに……」

「今のは、不可抗力です!」

 まさか大精霊が自分から拾われに来るなんて思わないでしょ? 思わなくない?

「姫君、これからよろしくね」

 うれしそうな、輝きで室内が照らし出されそうなまばゆい笑みを浮かべた大精霊を前に頭を抱える。

 どうしてだ。

 わたしは化粧を落とすと童顔なのが悩みの、ちょっと方向音痴だけれど、それ以外はいたって平々凡々な一般人である。

 平々凡々な一般人である。

 大切なことなので二度言った。

 平々凡々な一般人に、ドラゴンと大精霊の従者などいらない。

 くそう、なんでこんなことに。

「先生~」

 泣きついたわたしを見下ろし、先生はため息をこぼす。

「ミャオ」

 ぽんぽんとわたしの頭を軽く叩き、仕方ないな、とこちらを甘やかすような笑みを浮かべる。

「使役魔法の解き方、探してみようか」

 さすがに二人目は荷が重すぎると思ってくれたらしい。

「えー」

「ヴヴヴ」

 リンドウェルとミミガーが抗議の声を上げているが、かまわず先生に抱きついた。

「ありがとうございます!」

 過保護だろうと、さすが頼れるわたしの先生だ。

 調子よくそんなことを考えていたわたしは、やんわりとわたしを抱きしめ返してくれた先生と、リンドウェルと、ミミガーが互いを牽制しあうような目つきでにらみ合っていたことなど、全然知らなかった。


 うっかり異世界に迷い込んで三ヶ月半。

 あいかわらずわたしは平々凡々な一般人だ。

 それでも、平々凡々にだって平々凡々なりにできることもある。

 そうやってひとつひとつ積み重ねていった先にきっと元の世界への帰還の道が開けると信じて――とりあえずマイペースに、もうちょっとだけ注意深くやっていこう、とわたしを守ってくれる腕の中で決意を新たにする。

 とりあえず当面の目標は、ふたつ。

 道に迷わない。

 拾いものをしない。

 大丈夫。これでもわたしは学習する平々凡々である。

 フラグとかではない。

 たぶん、きっと。

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