4.溺れる者は藁をもつかむ

 秋は夕暮れ。差すべき夕日の聳ゆる山々にさえぎられ、山陰いと心さぶし。飛竜のひとつふたつ、知れぬ影の三つ四つ空に舞うも恐ろしきものなり。


 いや、季節は秋じゃないけど。いちおう四季があるというこっちの季節的には晩春らしいけど。

 遭難した場合にはじっとしているのが正解だと聞いたことがある。

「でも、じっとしてられないから人はより深く迷うのだろうなぁ」

 はははは、と笑ってみても、どうにもならない。

 道に迷ったことに気づいたわたしは、元来た方向に戻ろうとした。戻ったはずだった。

 お察しのとおり、元の道には戻れなかった。

「どうしよう」

 先生から通信とか、そういった魔法を習っておくべきだった。のろしを焚こうにも、すでに暗くなった空では目立たないだろう。

 ひゅう、と吹き抜けていく風は冷たい。まだ完全に夜の時間になったわけではないが、「氷雪王の住処」にさえぎられ、西日はすでに差さない。

 外套を着てきてよかった。

 そう思うものの、一晩森の中で過ごすには自分の姿は心もとない。

「ほんと、どうしよう……」

 とりあえず火をつけられそうなものを集めて焚火でもしよう、と決める。幸い着火は魔法を使えば自力でできる。

 暗い中をうろうろしても、どうせさらに迷って体力を失うだけだ。

「はー、野宿って初めてだ」

 こっちに来たときだって半日も経たずに拾ってもらったので、その夜からふかふかのベッドで寝させてもらった。

「お腹減ったなぁ」

 先生のおいしいごはんが恋しい。今日の夜はソーンスさんの持ってきてくれたお肉の予定だったのに。

 ぐぅう、と不服そうな音で鳴る自分の腹を軽く睨みつつ、地面に落ちていた枝を拾う。

 どれだけ集めれば、夜の間燃やし続けることができるのだろう。

「先生、心配してるだろうなぁ」

 この歳になって迷子とは。

 いや、元の世界でもよく道に迷ってはいたのだが、文明の利器――ナビアプリ――に言われるがままに歩いていれば時間はかかっても目的地には到着できていた。そういった外部の力が借りられない今、子どもじゃないのにわたしは無力だ。

 ラーテ村でわずかに回復した自信がしぼんでしまう。

 はあ、と幸せを逃がしそうなため息をこぼしたところで、がさり、と背後からした物音に全身が強ばった。

 先生やソーンスさんのしてくれた「戸惑いの森」の動物の話を思い出す。

 森の浅い部分にはそれほど危険なものはいないが、たまに深い部分からバイヤンのような危険な動物が出てくることがある。ドラゴンほどではないが、魔法使いでも手こずる相手も多くいる。

 身構えながら、おそるおそる背後を振り返る。

 手にしていたランプの灯が、背後の薄暗がりを照らし出した。

「ひえ」

 思わず情けない声が喉を震わせる。

 そこにいたのは、純白の大きな翼と同じく純白の長い体毛に包まれた巨体、長い兎のような耳をした、深紅の目の獣。

 初日にもお目にかかった獣麗竜だ。

 ていうか、ドラゴンじゃん。

 ドラゴン出ちゃってんじゃん。

「戸惑いの森」にはドラゴンいないって言ってたじゃん。

 先生とソーンスさんの嘘つき!

 じり、と一歩距離をとるように後ずさると、じり、と獣麗竜も一歩踏み出す。

「ぐる」

 じり、じり、じり、と一定の距離を保って移動を続けていたわたしたちだったが、獣麗竜の喉が鳴るのを聞いた瞬間、わたしのなかの恐怖がはじけた。

 背を向けちゃいけない、と叫ぶ理性を無視して、衝動のままに身をひるがえすと一目散に駆け出す。

 暗い森の中は足元が悪い。

 揺れるランプの光が、視界を揺らす。

 木の根につまづいて転びそうになっても、止まることはできない。

 背後から、ハッハッと獣の息遣いが追ってくる。本気で走ればわたしくらいすぐに捉えることができるはずなのに、その息遣いは一定以上近づいてこない。

 もしかして、逃げ惑う獲物をおもしろがっているのだろうか。

 息が切れる。肺が痛い。心臓もおかしいくらいに弾んでる。ろくに運動してない足がもつれる。

 こわい。

 こわい、こわい、こわい。

 死にたくない。

 自然と涙がにじむ。よけいに視界が悪くなる。

「ぎゃっ」

 突然行く手を影にさえぎられ、わたしはそれに勢いよくぶつかった。衝撃で地面にひっくりかえる。

 ぶつかったそれはそれほど固くない、弾力のある、ぬくもりもあるものだった。

「え、なに」

 倒れた衝撃で、ランプが消えてしまった。数度まばたきをして、暗がりに目を慣らす。

「ポーポー?」

 目の前にいるのは、漆黒の大きな馬、に似たものだった。青い目が、闇の中で光っている。

 かつ、かつ、と蹄が地面を鳴らす。

 宙に浮いていない。それに、そいつの足は、六本あった。

 六脚の、黒い、獣。

 人喰いの、ヴェイウェロー。

 ソーンスさんが言っていた。「戸惑いの森」の動物の中でも危険なやつだから――そいつを見かけたら気づかれないように一目散に逃げろ、と。

 見つかってしまったら、無事家には帰れない、と。

 ヴェイウェローの青い目が、地面に転げているわたしをとらえてニッとゆがむ。ゆっくりと開いていく口は馬によく似ているのに、並んでいる歯はまるで鮫みたいに細かくてギザギザしている。

「ヴヴ」

 背後からしたうなり声に、そういえば獣麗竜もいたんだったと思い出す。

 前門のヴェイウェロー、後門の獣麗竜。

 まさしく絶体絶命。

 魔法を習っていると言っても、攻撃的なものは先生が「必要ないよ」と言って教えてくれなかったので、わたしに身を守るすべはない。

 必要じゃん!

 攻撃手段めっちゃ必要じゃん!

 ここ、現代日本と比較にならないくらい危険がいっぱいな異世界じゃん? 何を根拠に「必要ない」って言ったの??

 先生のばかーーーーーー。

 帰ったら絶対教えてもらうんだからなこんにゃろーーーーーー。

 内心叫んでいる間にヴェイウェローが獣麗竜を一瞥してわずかにひるんだ。やはりふだん森にいないはずのドラゴンのことは警戒するらしい。が、すぐにわたしにむかって前足を振り上げる。

 獣麗竜に横取りされる前に、もしくは獣麗竜と争っている間に獲物(わたし)が逃げてしまわないよう、まずは仕留めてしまおう、というわけか。

 かしこいな!

 あんなものにのしかかられたら全身粉砕骨折だ。そして動けなくなったら、ゆっくりとどちらかの獣の腹に収められるのだ。

 そんなのごめんこうむる。

「はっ」

 気合を入れて地面を転がる。どっすん、と重々しい音が先ほどまでいたあたりで響いた。

 何とか一撃目を避けることはできたが、何度も続けられるわけもない。

 今さっき獣麗竜と追いかけっこをしたばかりの体力はもう底辺だし、体力が十分にあったとしても獣たちのほうが足が速いから逃げきれない。

 自分でどうすることもできないピンチ。

 でもおとなしく食べられたくはない。

 と、なったらできることはあとひとつだけだ。三か月と少し前と同じ。

 深く、深く息を吸い込んでから、腹の底から叫ぶ。

「助けて!」

 他力本願、上等だ。

 必要以上に他人に頼って寄生するような生活は送りたくないが、自分ひとりの力で打開できない事態に際して助けを求めることを恥だとは思わない。

 初めて獣麗竜に会ったときに先生が来てくれたように、都合よく誰かが来てくれるとも思わない。

 それでも、まだあきらめたくない。

「誰か、助けて!」

 誰でもいい。わたしに支払えるものなら、対価も払う。だから―――!

『やっと言ったね』

 頭の中に、声が響いた。

 まだ言葉がわからなかったわたしのために先生がかけてくれた魔法に似ているが、この声に聞き覚えはない。

 落ち着いた、誠実そうな先生の声とは違う。どこか高飛車で、でも気品と華を感じる声だ。

『姫君のお望みとあらば』

 芝居じみた言葉と同時に、びゅおっと強い空気が吹き込んできた。

「つめたっ」

 身を切るような冷たさに身体が縮こまる。わたしに再び飛びかかろうとしていたヴェイウェローも戸惑ったようにきょろきょろと周囲を見回した。

 あたりには白い靄が漂い始め、地表はうっすらと白いものに覆われていく。ぴし、ぴし、と周囲の木の枝がちいさくきしんだ。

 吐いた息が白く染まり、ぎょっとする。

『姫君に手を触れるどころか、その血肉を喰らおうなどと。なんたる身の程知らず――』

 吸い込んだ空気が冷たすぎて、思わずむせた。

 なんだ、これは。

 魔法? だとしても、こんな圧倒的な力、並の魔法使いではない。

 地面に触れていた指先が真っ赤にかじかんでいる。

「ガウッ」

 どこかあわてた様子の鳴き声がしたかと思えば、獣麗竜がわたしの外套の襟首を噛んで、さらに放り投げた。

 身体が、宙を、舞う。

「ぎゃ」

 ぼすん、と着地したのは獣麗竜の背中の上だ。もふもふの毛並みは気持ちいいが、そんなことを言っている場合でもない。すぐに離れようとしたのに、ふわり、と胃の浮くような感覚にとっさに毛皮をつかむ。

「わ、わわわ、わ」

 ぐんぐんと高度が上がっていく景色にあわてふためいている間に、正体不明の声がヴェイウェローに死刑宣告を下す。

『死んで悔いるといい』

 その言葉が終わると同時に、ブワッと白くかすむ冷気がその場に渦を巻いた。

 地表が真っ白に染まり、急激に内部の水分が凍りついたせいで木々の枝が折れて地表に落ち、幹は氷に覆われた。一瞬で晩春の森が吹雪く冬に閉じ込められる。

 それは地表にいたヴェイウェローもいっしょだった。地面に触れていた六本の足の先から順に、まるで氷の彫像のように凍りついていく。

 獣麗竜の背に乗っていなかったら、あの渦の中で凍っていたかもしれない。そう思えば背筋が冷えた。

 ふー、と息を吐いて顔を上げると、獣麗竜は「戸惑いの森」の木々よりもずっと高いところを飛んでいた。あまり揺れは感じられない、静かな飛び方だ。

 思っていたよりも森の奥深いところまで進んでしまっていたらしい。離れたところに見える「竜の草原」は月明かりに照らされ、地表の草が波打つように光る。まるで海原のようだ。

 ラーク村も、先生の家も遠く、おもちゃのようにちいさい。

 前門のヴェイウェローがいなくなって、今は後門の獣麗竜の背中に乗せられているわけだが、心は静かに凪いでいる。

「あなた、わたしを助けてくれたの?」

 そっと問いかけると、ぐるぐる、と喉を鳴らす音だけが返ってくる。

 獣麗竜は滑空するように飛ぶと、ほとんど衝撃を感じさせない着地で「竜の草原」に降り立った。

 背中のわたしを振り仰いで、「降りろ」と促すようにちいさく喉を鳴らす。

「ぐる」

 あんなにおそろしかったのに、今はその音を聞いても言葉のようにしか感じられない。

「よっ、と」

 勢いよく飛び降りたせいでよろめけば、白い巨体がそっと寄り添って支えてくれる。

 やっぱりそうだ。

 この獣に、わたしを害そうという気配はない。

 振り返って、まっすぐ深紅の目を見つめる。おそるおそる、というように大きな顔が近づいてきた。口を開けば、あいかわらず鋭い牙が並んでいる。

 さすがに身体が強ばったが、こちらが逃げないことを確認するように数秒止まってから、獣麗竜はそっとわたしの頬をなめた。身体のサイズに応じて舌も大きく長いのでペロ、というよりはベロン、というのがふさわしい感触だったが、それは「味見」というよりも、単なる「甘え」のためのスキンシップのような感覚だった。

 おずおずと顔を離し、赤い目でわたしの様子を探る。そっと手を伸ばして頭をなでれば、心地よさそうに目を細めた。

「きゅんきゅん」

 さっきまでぐるぐると言っていた喉がずいぶんとかわいらしい音を発する。

 そう思えば、ミミガーもこんな風に鳴いていた。

「ミミガー、元気かな」

 思わずぽつりとつぶやくと、目の前の獣麗竜がまた「きゅんきゅん」と鳴いた。しっぽがぶんぶんと揺れ、ごろん、と横になる。

 ひくひくする鼻先と、きらきらこちらを見る赤い目に既視感を覚える。

「……ミミガー?」

 まさかね、と思いつつたずねると、「きゅん」と返事がある。

「え、親御さんとかでなく、正真正銘、わたしと同じ弁当を食べた仲のミミガー?」

「きゅわんっ」

 しっぽがぶんぶん振り回される。これにも既視感。

「えー……おすわり」

「わう」

 わたしの一声で、寝っ転がっていた巨体が起き上がり、おすわり状態に変わる。

 あー、うん、かしこい。

「……昼寝してる間に何があったのさ」

 これはもう、認めざるを得ない。

 目の前のこの巨大な獣麗竜は、あの柴犬のぬいぐるみみたいだったミミガー自身なのだ。

「いきなりそんなに変わられたら、わかんないよ」

 もう、とふくれながらもう一度今度はすこし荒っぽく頭をなでてやる。気持ちよさそうにしているのがかわいくて、ちゅっと鼻先にくちづけてやる。

 ミミガーはますますうれしそうにしっぽがちぎれるんじゃないかと振りながら、わたしの顔をなめようとしたのだが。

「ミャオ!」

 悲鳴のような声が草原に響いた。あの時のようにミミガーがさっと距離をとる。

「先生」

 青ざめた顔をした先生が駆け寄ってきて、ぐっとわたしを抱き寄せた。互いの心臓の音が聞こえるほどぴったりと寄り添うのはちょっと恥ずかしい。

「ミャオ、怪我は?」

 かと思えばばっと身体を離してわたしを上から下まで点検する。

「ああ、大きい怪我はないけど、かすり傷だらけじゃないか。顔にまで。指先は、凍傷?」

 かすり傷はヴェイウェローにぶつかってしりもちをついたり、地面を転がったりしたときのものだろう。凍傷は、あの、誰だかわからない声の主のしわざだ。

 先生が手を当てるたびに、かすり傷も凍傷も、何事もなかったかのように癒えていく。すり、すり、と骨ばった長い指になでられるたび、妙なこそばゆさを感じて身をよじりたくなった。

 もう一度上から下まで点検して、先生は満足げにうなずく。が、すぐにその表情は曇った。

「家に帰ったら君がいなくてびっくりしたんだよ?」

 書き置きはあったけど、と眉を下げる表情に、心苦しさを感じて肩が落ちる。やはり心配をかけてしまった。

「迎えに行こうと思ったんだけど、そうしたらノアクが君の忘れ物だって言って小袋を届けに来て」

「まだ帰ってきていない」という先生と「ずいぶん前に村を出た」というノアクでさぞかしあわてふためいたことだろう。申し訳ない。

「……無事でよかった。本当に」

 はあ、と先生の唇から、泣きそうな熱を帯びた息がもれた。わたしの髪をなで、いつものようにやさしく笑う。

「ご心配をおかけしました」

「ノアクから事情は聞いてるから、お手柄だったことは知ってるけど。暗くなってたんだから送ってもらったほうがよかったね」

「……はい」

 これは叱られてもしかたない。素直に返事をすると、先生はぽんぽんとわたしの頭を軽く叩いてくれた。

 これで話はおしまいかと思ったのだが――。

「それで――」

 先生がじろり、と少し離れた場所からこちらを見ていたミミガーをにらみつけた。

「またあの獣麗竜なの」

 ちらり、とエメラルドグリーンの目に常にはない攻撃的な色が熾火のように光るのを見て、とっさに腕に抱きつく。

「ち、違うんです、先生」

 そうだった。先生にとってミミガーは「わたしを襲った獣麗竜」のままだった。

 ぐいぐいと抱きついた腕を引っ張って、彼の視線を自分の方へ向ける。

「何が違うの?」

 いちおう会話に乗ってくれたが、今にも攻撃魔法の一発でもミミガーに向けて放ちそうな雰囲気は変わっていない。

「あの、ミミガーは、わたしのこと、助けてくれたんです!」

 恩人なんです人じゃないけど、と伝えてじっと先生を見つめると、彼の眉がへにゃりと下がった。エメラルドグリーンの目が困惑に揺れている。

「聞きたいことはいろいろあるんだけど――」

「はい」

 先生の腕をがっちりホールドしたまま返事をする。

「ミミガーっていうのは――」

「あの子のあだ名です」

 由来までは語らなくてもいいだろう。適当すぎる名づけをした自覚はある。

「あの子も自分のこと呼んでるってわかるみたいですし」

 ね、ミミガー、と呼びかけると、まるで犬のような「わうっ」という元気な返事がある。

 しっぽをぶんぶん振り回し、全身で喜びを表すミミガーを見ていた先生が、「まさか」とつぶやいて表情をこわばらせた。

「まさか、相手はドラゴンだぞ」

 少しの間何か考え込んでから、わたしとミミガーのことを交互に見て、きゅっと眉間にしわを寄せる。

「ミャオ、ちょっと訊きたいんだけど」

 自分の腕に絡みついていたわたしを離し、両肩に手を置くと、じっとこちらの目を覗き込んでくる。

 ずいぶんと改まった問いかけだ。

「なんですか?」

 先生の意識が、完全にミミガーからわたしへと移っている。

「あれに、何か君のものをあげた?」

「えっと、はい。お弁当のおかずを。いっしょに食べました」

 先生の真剣な声に反して、わたしの答えには何の緊張感もない。

 先生が何をそんなに問題視しているのかわからない。

「……君の血をなめさせたことは?」

「えっ、血なんて――」

 なめさせるわけないじゃないですか、と言い返そうとしたところで、かかとを這うざらざらとした舌の感触を思い出す。

 あの時はミミガーの親御さんだと思い込んでいたが――。

「あっ、えーと、靴擦れして血がにじんでたところを勝手になめられたことは、あり、ますね」

 先生の眉間のしわがぎゅぎゅっとさらに深くなった。

「………じゃあ、くちづけは?」

 声もずいぶんと低く響く。

「くちづけ? ってキスのことですね? だったら、さっき、鼻の先っちょに軽くちゅっとしました」

 何かまずかったですか、と首をかしげたわたしを見つめてから、先生は天を仰いだ。

「冗談だろ……」

 ぼそりとこぼされたつぶやきは、疲れをにじませ、ぶっきらぼうで、いつものおだやかでやさしい先生らしくない。

 急に先生がわたしの知らない人になってしまったみたいだ。

「……先生?」

 おずおず声をかけると、彼はばつ悪そうに頭をかいてから、いつもどおりのやわらかな表情でこちらを見下ろした。

「ああ、ごめんね、ミャオ。ちょっと、あまりのことに動揺しちゃって」

 伸びてきた手が、わたしの頭をなでる。いつもの子ども扱いだが、今はその手に安心する。

 珍しくおとなしくしているわたしの頭をしばらくなでてから、先生はため息まじりに「あのね」と切り出した。

「驚かないで聞いてほしいんだけれど――」

「はい」

 また大仰な前置きだ。

「君、自分では気づいてないうちに、あれ――獣麗竜を使役してる」

「『使役』」

 ぱっとその単語の意味が思い出せず考え込む。見た覚えはある。たしか先生に借りた魔法分類の本で見たのだ。今では人に使うことを禁じられたその魔法は、一定条件を満たすことで相手を従者とする。

 使役の魔法。

 そのための条件とは――。

「相手の望んだものを与え、名を与え、おのれの体液――血や涙を与え、くちづけを与える。ね、ぜんぶ満たしたでしょ?」

「うわぁああほんとだ!」

 先生が指折り数えた条件に血の気が引く。

「ごめん、ミミガー」

 そんなつもりはなかったのだ。きっとミミガーにだってそんなつもりはなかっただろう。

 ミミガーがわたしを守るように動くのは使役の魔法があるからだ。主人であるわたしが傷つくことを、従者であるミミガーは許容できない。

「先生、どうしましょう……」

 使役の魔法を解除する方法ってありませんか、とすがりつくと、先生は困ったように笑った。

「うーん。あきらめたほうがいいと思うよ」

「そんなぁ」

 情けない声を出したわたしに向かって、ミミガーがご機嫌な様子でぶんぶんしっぽを振っている。きっと事態を呑み込めていないのだ。

「まあ、使役しているならあれは君にとって危険なものじゃないし――」

 先生が片手でくしゃりと自分の髪を乱す。

「これからは、何かを拾ったりしないよう、じゅうぶん気をつけてね」

 わかった? と小首をかしげて問いかけられ、わたしはむくれた。

 まるでわたしが考えなしに犬猫を拾う小学生のような言い草だ。

 拾ったものには責任が生じる。それがわからないような歳ではない。

「そうぽいぽい拾いものはしませんから」

 もう分別のつく大人ですので、と胸を張ってみせる。

「ほんとかなぁ」

 からかうような、ちょっと意地悪な先生の目を睨み返したところで、ぐぅ、とお腹が鳴る。

 そういえば、夕飯を食べていなかったのだった。

「ああ、僕もお腹ぺこぺこだよ」

 気まずさに赤くなっていると、先生が声をあげて笑った。

「さ、帰ろう」

 そう言って手を差し出してくる。

「帰ろう、うちへ」

 先生の家は、わたしにとっては仮宿だけれど――そう言ってもらえるとほっとする。

 うち。

 いつか出ていくのだとしても、今は先生の家がわたしの帰る場所。

「はい」

 先生の大きくてあたたかい手をとると、わたしは先に立って歩き出し――数歩進んだところで「そっちじゃないよ」と苦笑を浮かべた先生に引き止められた。

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