3.おのれを知り、相手を知れば、百戦危うからず
子曰く、学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや。使いあり、近村より来たる。またうれしからずや。
先生の家には、ティナ以外にもときおりお客がある。
先生の家の東には初日にわたしがさ迷った草原――「竜の平原」が広がり、西には「戸惑いの森」と呼ばれる樹海が続いている。「戸惑いの森」のさらに西奥にそびえるのは万年雪をかぶった大山脈「氷雪王の住処」だ。見せてもらった世界地図では、このあたりは「青色大陸」の北西の端の方に位置していた。
「氷雪王の住処」の向こうには、はるか西「赤色大陸」との間に広がる大洋があり、海のすぐそばには港町も栄えているというが、そちらの住人が「氷雪王の住処」を越え、「戸惑いの森」を抜けてやってくることはないし、「竜の平原」はその名の通り竜たちの領域でまず人間がうろちょろするべき場所ではない。数時間うろついても無事だったのは奇跡に近かった、と説明され、冷や汗をかいたものだった。
ちなみにわたしのかかとを舐めていたのもああ見えて竜の一種で獣麗竜と言うらしい。人間を食べたりはしないが、誇り高く縄張り意識も強い攻撃的な種なので、それのそばにわたしの姿を見つけたときは先生でも血の気が引いた、らしい。
とにかく、そんな辺鄙な場所に建つ先生の家にやってくるのは「古い知り合い」か「戸惑いの森」の中にあるラーテ村――ティナもそこから来ている――の住人くらいのものだ。
先生が「古い知り合い」と呼ぶのはおそらく魔法使い仲間なのだと思うが、詳しいことはわからない。
彼らはどんな方法を使ったやらいつの間にか先生の部屋に現れているし、お茶を運んでみても先生にすぐ追い出されてしまう。
仕立てのいい、でも妙に自己主張の激しい服を着ている人が多く、みんなわたしを見ると一様ににやにやして先生のほうを見て「ふーん」だとか「ほほーん?」だとか言う。一方の先生はわたしの前ではしない至極不愉快そうな表情を浮かべる。
いったいなんなのだ、と思うものの、「失礼ですが」と口を開くより先に先生に「お茶、ありがとう」とほほえみかけられ、背中を押され、流れるような自然さで部屋から退出させられる。
なんなのだ、ほんとに。
そういう日はだいたい、またみじん切り野菜とミンチ肉の日になる。こないだはハンバーグを作った。
一方、ラーテ村の住人は「戸惑いの森」でほぼ自給自足の生活をしている。先生は村のためにいろいろなことをしているみたいなのに、どうしてだかいっしょには暮らしていない。
村に住まないんですか、と一度聞いてみたのだが、先生はさびしげに笑うだけで答えてくれなかった。
定期便係のティナのほかに、よく顔を出す村の人は三人。
高齢の村長さんの代わりに来るという村長の孫息子のノアク。
農家のおかみさんで野菜を届けてくれるエダさん。
猟師で解体済みのお肉を持ってきてくれるソーンスさん。
彼らとならおしゃべりしても先生は何も言わない。おかげでだいぶこちらの言葉にも慣れた。
エダさんはおいしい野菜の調理の仕方を教えてくれるし、ほかにも家事のコツなんかも聞けばいろいろ答えてくれる。
ソーンスさんは「戸惑いの森」を熟知しており、下手に踏み込めば迷ってしまう森のどこに何があるのか、どんな生物が暮らしていて植物が生えているのか、そういうことを身振り手振りを交えておもしろおかしく語ってくれる。
それからノアク。エダさんとソーンスさんはだいぶ年上だが、いくつか年下だと思われる彼は息抜きのくだらない雑談に付き合ってくれる。
「へえ、ミャオ、癒しの魔法が使えるんだ」
先生がみんなの前でも「ミャオ」と呼ぶせいで、村の人の間でもわたしの名前は猫っぽく定着している。
「うん。もちろん先生みたいに大怪我を一瞬で治すなんてできないけど」
魔法の授業は着々とステップアップして、先日から基本の四大要素の魔法だけではなく、特殊魔法と呼ばれるものについても学び始めた。
特殊魔法はその名の通り特殊なもので、すべての魔法使いが使えるわけではない。その魔法ごとの「資質」がなければいくら訓練しようと会得できない、と言われている。
なので、「まずは癒しの魔法から」と説明を始めた先生も、説明を聞いていたわたしが自分の指先にできたささくれに冗談交じりでかけた魔法が成功するとは思っていなかっただろう。
目を見開いてぽっかり口を開いた間抜け面の先生なんて二度と見れないに違いない。
「毒の中和とか痛みを和らげるとか、とりあえずの止血とかはできるようになったよ」
先生が癒しの大天使レベルだとしたら、わたしはひよっこ救急隊員レベルだ。
あわてふためいて、なんとか応急処置ができる程度。
訓練を続ければ、瀕死の怪我人を時間をかけてゆっくり持ち直させるくらいのことはできるようになるだろう、ということだが、癒しの魔法の使い手としてはやはり平均的かちょっと上程度の才能、らしい。
「いやいやじゅうぶんだって! 癒しの魔法の使い手なんてめったにいないって聞くし、基本魔法も問題なく使えれば、隊商の護衛として世界中回ったり、どこかの冒険者と組んで迷宮に挑んだり、大きな街で癒しの魔法薬のお店出したり、いろいろできるだろ?」
「へえ、そういうものなの?」
独り立ちに有利な情報につい前のめりになる。
「それに、昔から癒しの魔法が使える女性は『善い魔女』としてどこでも歓迎されるし」
もちろんうちの村でも、とどうしてだかノアクも前のめりになってくる。
いつの間にかわたしたちの顔はないしょ話をするように近づいていた。なんだかノアクの頬が赤らんでいるように見える。
「だから――」
薄青の瞳を揺らして彼が何かを言おうとしたところで、「ノアク」と彼の名前を呼ぶ声がそれをさえぎった。
振り返れば、玄関のドアを開けた先生がわたしたち――家の玄関前の階段に腰を下ろしておしゃべりしていた――をほほえみながら見下ろしている。
「もうそろそろミャオは午後の授業の時間なんだ」
君も帰らないと怒られるんじゃないの、と続けられ、ノアクはあわてて立ち上がった。
「えっ、もうそんな時間ですか?」
まずい、と顔をこわばらせると、こちらにむかって「またな」と手を振る。
村長のおつかいで来ている彼は、ここで油を売りすぎると村長と、その娘である母親にこってり絞られるのだという。少しの息抜き(という名のさぼり)は許してくれるので、家族仲が良好なのは間違いない。
馬のような騎獣であるポーポー――見た目は馬によく似ているが、常に地表から数センチ浮いている――に乗り、全速力で去っていくノアクを見送ってから、先生に続いて家の中に入る。
今日の午後の授業は初めての魔法薬作りの予定だった。薬草と魔法を組み合わせることで効果を何倍にも跳ね上げる魔法薬は、魔法使いの大切な収入源でもある。
自立への第一歩、と意気込んでいたわけだが、ふと見た壁の暮明盤――時計のようなものだが、昼は日暮れまでの時間を、夜は夜明けまでの時間を刻む魔法アイテムだ――を見て首をかしげた。
いつもより、だいぶ授業の開始が早い。
「先生?」
素直に疑問を口にすると、彼は「ああ」と笑みを浮かべた。
「ミャオ、魔法薬の授業、たのしみにしていたから」
たっぷり時間をとって丁寧に教えようと思って、とやさしく目元をやわらげる先生は慈愛の化身のようだ。
「がんばります!」
そう答えたわたしは、ちょっぴり困ったように眉を下げた先生の表情を見逃した。
初めての魔法薬作りも、基本は学生時代にやった理科の実験と大差ない。基礎中の基礎である今日の調剤程度ならば、すぐに自分ひとりでできるようになりそうだ。
これは独立できる日も近い、のではないだろうか。
あからさまなほくほく顔で指示された作業を行うわたしを複雑そうな表情で見ていた先生だったが、唐突に眉間にしわを寄せて「なんで今」といらだたし気につぶやいた。
「どうかされました?」
首をかしげて見上げると、彼ははっとしていつものおだやかな表情に戻る。
「ごめん、ミャオ。ちょっと出かけなくちゃいけなくなった」
今日の授業はここまで、とだけ言い、あわただしく出かける準備を始める。
「あのぅ、片づけはちゃんとやるので、続きは自習っていうは――」
夕食の準備を始めるにも早すぎる。今日やる予定だった作業については最初に説明を受けているし、難しいものでもない。
そう思って声をかけたのだが――。
「だめ」
たった今までせわしなく動いていたくせにぴたりとすべての動きを止め、先生はじろりとこちらを見た。
「そんなに魔法薬の勉強がしたいなら、この間渡した本を読んでおきなさい」
帰ったら内容についていくつか質問するから、といつもより強い調子で言い残し、今度こそ玄関を出ていく。
初日にわたしも乗せてもらった大きな鳥が先生の鳴らした指笛で草原から飛ぶように走り寄ってくる。
馬に似たポーポーよりも高速で走るその鳥の種類はルーイーというのだと教えてもらった。「竜の草原」で放し飼いにしていても竜たちに襲われることもない、俊足で賢い生き物だ。
名前はフェイミー。
雌で、先生の恋人きどりなので、たまにわたしと顔を合わせると「はっ」と鼻で笑うような息を吐く。ティナと鉢合わせると無言で火花を散らしあっている。
そんなフェイミーに手早く手綱をかけ鞍を載せ、むくれつつ見送る玄関のわたしに手を振ってから、先生は草原に向かってフェイミーを走らせる。
たまに彼は何の用事か草原へ出ていく。そのたび、いつもどおりのおだやかな表情で帰ってるが、疲労の色が隠しきれていない。「何かお手伝いできますか」と訊いても「大丈夫だよ」しか返ってこないし、絶対に何をしているのか教えてくれない。
おもしろくない。
思ったが子どもっぽいので口にはせず、自分の部屋へ向かう。課題を出されてしまったので、しかたなく指定の本を取りだす。青色大陸に自生する薬草とその効果を効率的に高めるための魔法の組み合わせ、さらにその応用が書かれた学術書だ。ところどころまだ意味が理解できない単語があるので辞書も必要だろう。
分厚い本と辞書を並べて開き、覚書もとって、となると広いスペースがいる。自室の机よりも食堂のテーブルのほうがずっと広い。
よし、と必要なものをまとめて抱え上げ、食堂へ行こうとしたところで玄関のドアが激しく叩かれた。
「ロルスさま! いらっしゃいますか、ロルスさま!」
さっき帰っていったノアクだ。一日に二回も来ることなんて今までなかったし、様子もおかしい。
「ノアク?」
玄関ドアを開けると、血相を変えたノアクが立っていた。
「ミャオ、ロルスさまは?」
肩をつかまれ、鬼気迫った様子で問いかけられる。
「外出中、だけど」
わたしの答えに、ノアクの唇が震えた。
「そんな、どうしたら」
ずるずるとしゃがみこんでしまった彼と視線を合わせるように、わたしも腰をかがめる。
「どうしたの、そんなにあわてて」
先生がたまにしてくれるようにノアクの頭をやさしくぽんぽんと叩くと、ノアクが泣きそうな声でうめいた。
「村に、バイヤンが出て」
バイヤン、というのはやたらと大きな――大型犬くらいのサイズはある――蜘蛛のような魔獣だ。五、六匹の群れで行動し、人間を含めた動物を襲って巣に連れ帰り、体液をすする。こいつの厄介なところは――。
「倒したんだけど、何人かが毒にやられて……」
バイヤンの足の先の爪には毒がある。それで獲物の動きを鈍らせ、糸で縛り上げ、巣に連れ帰るのだ。
毒は早い段階ならばただ身体の動きを封じるだけだが、中和せずに放っておくとバイヤンたちが食事をしやすいように獲物の内臓や筋肉をドロドロに溶かす。
この世界は、わたしの世界のように安全でも平和でもない。危険な動物がいくらでもいて、簡単に命は奪われる。
聞かされてはいた、けれど。
「っ、先生の毒消しは?」
ティナが村へ持ち帰る魔法薬の中には毒消しもあったはずだ。
「……足りなくて」
ノアクの言葉を聞くと同時に魔法薬をストックしてある保管庫に走る。
「足りないの、何人分?」
「五人っ」
毒消しの入っている引き出しをのぞきこんでうめく。ストックは四人分しかない。
魔法薬は作りたてがいちばん効果が高く、だんだんと質が落ちていく。だから、大量にストックはしておけない。
同じように引き出しをのそきこんだノアクも事態を悟って目に涙を浮かべる。
「そんな……」
あと、ひとり分。
ゆっくりと深呼吸する。
てのひらをぎゅっと握りしめて、こみ上げてくるこまかい震えを押しこめる。
大切な決断をするときは、冴えた頭で。
受け売りの心構えを思い出す。
「わたしが行く」
なるべく毅然と、自信がないなんて伝わってしまわないように口にした。
ノアクの目がはっと見開かれる。
「ミャオ……」
だって、わたししかいない。
先生はいつ帰ってくるかわからない。
ひとりだけなら、緊張で途切れそうになる集中力もなんとか持たせられる。できないことをできると言っているわけじゃない。
「行くよ」
もう一度口にしてからノアクの背を叩く。
「先にポーポーのところで待ってて」
そう声をかけると、彼はうなずいて駆けていく。
時間がない。可能な限り手早く準備を済ませていく。
「必要なのは――」
今あるぶんの毒消しと、念のためにあと数種類の魔法薬をバッグに入れる。玄関わきにかけてあった薄手の外套をはおるのは実は初めてだ。このあたりは日が傾き始めると急に気温が下がるから、と先生が用意してくれていたものだが、そもそも今日まで日が落ち始めてからどこかへ出かける用がなかった。
外套の前をこれも先生がくれたブローチ――先生の目と同じエメラルドグリーンの綺麗な石がはまっている――で留め、テーブルの上に外出する旨の書き置きを残す。
「よし」
短くうなずくと、玄関を出て目の前で待っていたノアクにポーポーの上へ引き上げてもらう。
だいじょうぶ。
毒の中和は癒しの魔法の中でもそんなにむずがしいものじゃない。先生にだってお墨付きをもらった。
自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
「出すよ」
強張ったノアクの声にうなずく。
ポーポーは「戸惑いの森」の中を走る。舗装なんてもちろんされていない、細い道だ。あまり路面状況はよくないが、ポーポーは常に宙に浮いているので乗り心地はそれほど悪くない。
傾き始めた太陽が、赤みを帯びた光で世界を染めている。
こんなときなのに、きれいだと思った。
気持ちは急いているのに、目は流れていく景色に奪われる。
「ついた!」
ノアクの声に前方を見れば、柵に囲まれたこぢんまりとした村が目に入った。せわしなく立ち働いている人やこちらを指さして何か叫んでいる人もいる。
手綱を強く引いて急停止を命じられたポーポーがいななく。その背から飛び降りたノアクの手を借り、地面におろしてもらう。
「こっちだ」
そのまま手を引かれ、初めて立ち入った村の中を中心へと向かう。
井戸と、その周りにスペースをとった、素朴な広場。本来ならば、村人たちが共同作業をしたり、ちょっとした行事に集まったりするための場所なのだろうが、今はどこかの家から引っ張り出してきたのだろう絨毯の上に五人の身体が並んでいる。
脂汗のにじんだ蒼白な顔色。小さく震える手足。乾燥した唇からもれる短く激しい呼吸。
ガツンと後頭部を殴られたような衝撃を受ける。
そこに、そういう状態の彼らがいることは、頭では理解していた。でも、医療職でもなんでもなかったわたしにとって、死を目前にした人間を見る機会なんてこれまでなかった。
身近にあった死の記憶は、硬質で、静かで、冷たい――。
はっ、と短く息を吐いて頭を大きく振る。
違う。
優先順位を間違うな。
彼らはまだあたたかくて、息をしている。
感傷なんて、今は何の役にも立たない。
手を引かれたまま、五人の患者の前まで進む。ちらりとノアクが心配そうにこちらを見たのは震えるわたしの指先に気づいたからか。
「……ティナ」
五人の中に見知った顔を見つけ、ぐっと奥歯を噛み締める。
いつもはばら色の頬をして、はつらつとした表情を浮かべている彼女が、眉間にしわを寄せ、全身を強ばらせて苦痛に耐えている。
他にその場にいたのは十歳くらいの少年、中年の男女、高齢の女性。
そのうちのひとりにはわたしの癒しの魔法を受けてもらわなくてはならない。
誰に――と視線を走らせようとしたところで、ティナの唇がかすかな声を発した。
「ロ、ルス、さん」
薄く開いた目は茫洋として焦点を結んでいるようには見えない。きっといつもこういう場合にやってくるのが先生だから、わたしの気配を先生と勘違いしたのだろう。
「ロル、スさん。わたしは、最後でいい、から、弟を――」
ノアクを見ると、彼は視線でティナの隣に横たわる少年を示した。こちらも苦しそうな呼吸を繰り返し、寒気に襲われているように震えている。
ティナと彼の枕元には、真っ青な顔で涙を幾筋も流し、祈るように両手を組み合わせた中年女性が膝をついていた。顔立ちがティナによく似ている。
ゆらりと持ち上げられた彼女の視線がわたしを捉え、落胆と疑念――に揺れた。
耳をすませば、村人たちが口々にささやきあう声が聞こえる。
「あの娘は、ロルスさんのところの居候だろう? ミャオっつー」
「どうしてロルスさんは来て下さらないんだい」
「あんな娘に、なにができる」
ここに現れたのが先生だったら、村人たちは口々に助けを求め、すがりついたのだろう。
「ミャオは―――っ」
わたしをかばおうといきり立ったノアクを制し、首を横に振って見せる。
彼らの言葉は何も間違っていない。
村に顔も出したことのない、魔法使いの家にどこからともなくやって来た異郷の居候に期待できるわけがない。わたし自身だってそう思う。
それでも、たった今一瞬交わったティナの母親の目には、否定的な感情だけでなく、かすかな希望がともっていたから――。
バッグから四人分の毒消しの魔法薬を取り出すと、ノアクの手に握らせる。
「使い方、わかるよね?」
彼がうなずくのを確認してから、そっとティナの傍らに膝をついた。
「実は、毒消しの数がひとつ、足りません」
はっきり言葉を区切って、ティナの母親に伝える。彼女の目が大きく見開かれて、声にならない叫びが喉を震わせた。
なので、と言いつつ、彼女の組み合わされた両手を包み込む。
「ティナさんの毒は、わたしが魔法で中和します」
疑念と困惑の色を浮かべた視線を受け止め、わたしは懇願した。
「させてください」
ぺこりと頭を下げてから、返事を待つ。
いい、とも、だめだ、ともティナの母は口にしてくれなかった。ただ、涙をこらえながらちいさくうなずいた。
ほっと息をついて、もう一度頭を下げてから、そっとティナの胸の上に手をかざす。
右手と左手の指を重ねるようにして、ティナに触れるか触れないかのところでとどめ、目をつむる。
癒しの魔法の使い手が少ないのは、とても繊細な魔法だからだ、と先生は言っていた。
必要な資質は、けが人や病人の悪いところを治すために何が必要なのかを見極める感覚と、その必要なものをいかにうまく補填するかという手技。
感覚があっても手技が力不足ならば癒すことはできないし、そもそも感覚がなければ話にならない。
「えっと、ここがいちばんひどくて、こっちはほぼ平気……」
ティナの身体の中でうごめく毒の気配と、それによって乱れてしまったティナ自身の調子を確認していく。
この世界のものはほとんどすべてが四大要素によって形作られている。それはバイヤンの毒も、人間の身体も変わらない。直接その要素を変質させたり、いじって整えたり、必要な要素を取り込ませたりすれば、薬を飲むよりずっと早く治すことができる。
そして、それができるのは魔法だけ。
「ん、ここにも入り込んでるから――」
この感覚を、なんと言い表すのかはその人次第だという。
先生は傷んだタペストリーを修復する、と表現した。
わたしは、間違ったピースを無理やりはめ込まれたジグソーパズルを必要なだけ崩して、正しい形のピースで完成されるようなものだと思う。
「よし、これなら」
ティナの身体の状態確認を終え、ちいさく息を吐く。毒には侵食されているが、まだ身体の組織を壊されるには至っていない。これならば、毒を中和させるだけでいいはずだ。
胸の上にかざしていた右手を宙にかかげ、バイヤンの毒を中和するために必要な要素を大気から糸をつむぐように抽出して、たぐり寄せる。それを今度は左手を通してティナの中へ注いでいく。
必要な形に、必要な色に、必要な手触りに――なんと言えばしっくりくるのか、とにかくティナが「いつものティナ」になるために必要なものを集めて、注いで、整える。
「ん?」
指先に絡まった要素に慣れぬ感触を覚えたが、悪いものではなさそうだ。むしろ、あたたかくて、やわらかくて、心地いい。
おおむね処置の終わったティナの身体にふわりとそのあたたかなものをかけてやると、それはティナを守るように全身に広がって――溶けて消えた。
ゆっくりと閉じたままだった目を開く。
ティナの頬はばら色に戻り、呼吸も安らかだ。もう一度全身を探ってみても、バイヤンの毒の気配はない。
「……終わった」
できた。
わたしにも、できた。
目の前にかかげた両手が、今さらながら震えだす。
「ティナは……」
かすれた声に問いかけられ、視線を自分の手からティナの母親に移す。
「毒の中和は終わりました。今は、体力の回復のために眠ってるだけです」
もう、だいじょうぶですよ、と伝えた瞬間、彼女はわっと泣き伏した。
「ありがとう、ありがとうございます、ありがとうございます」
繰り返し繰り返し礼を言う母親を見ながら、全身から力が抜けていくのを感じる。
先生だったらこんなに時間もかけないし、ティナの体力回復も同時にできてしまうんだろう。
わたしが魔法使いとして一級品になれないのは、いちどに扱える要素がそれほど大きくないからだ。先生は手のひらがちいさい、と言っていた。
大きな手のひらがたくさんの水をすくえるように、魔法の才能がある人はいちどにたくさんの要素を扱える。そうすれば、いちどに大きな魔法やたくさんの魔法を同時に発動させることができる。
でも、ちいさい手のひらでも、毒の中和くらいならばできるのだ。
「お役に立てて、よかったです」
そう声をかけると、先生の毒消しを残りの四人に飲ませて戻ってきたノアクを見上げる。
「あとは、みんな、安静にしておけばいいから」
残りの四人の顔色もまだ少し青いが、もう苦し気な呼吸はしていない。先生の魔法薬だ。もう心配ない。
うなずいたノアクが周囲のおとなたちに患者をそれぞれの家に戻すように指示を出す。
運ばれていくティナと弟に付き添って去っていく前に、ティナの母はもう一度深々と頭を下げてくれた。
わたしも、頭を下げて見送る。
疑いながらも、不安に思いながらも、わたしにティナを任せてくれた。彼女がわたしに任せてくれなかったら、五人のうちのひとりは死んでいたかもしれない。
「ミャオ、ありがとう」
ノアクに差し出された手を借りて立ち上がると、首を横に振る。
「できることをしただけだから」
先生の家にいると、できないことばかりで落ち込んだ。先生が「やらなくていい」と言うのはやさしさからだとわかっていても、ここにいる自分が無価値な気がした。
でも、そう。たとえ万能でなくても、一芸に秀でていなくとも、器用貧乏だろうと、この世界のことがまだほとんどわかっていなかろうと、できることはあるのだ。
「よかった」
ティナを助けられたことも。
自分に自信を取り戻せたことも。
ほっとため息をついたところで、唐突にばんっと背中を叩かれた。
「!」
心臓が口から飛び出るかと思った。
「あんた、やるねぇ! ミャオっていうんだって?」
いつの間にか、村の女性陣に取り囲まれている。
「ほんと、助かったよ!」
「あんたも魔法使いなんだねぇ」
「ひょろっこい身体して。ちゃんと食べてるのかい?」
「エダから聞いて、ずっと会ってみたいって思ってたんだよ」
口々に言い立てられるとなかなかの騒々しさだが、最近は先生とふたりっきりのことが多かったのでなんだか懐かしい。
「ロルスさんの親戚って話だけど、あんまり似てないねぇ」
それはそうだ。
目立たないけれど整った顔立ちの先生と比べ、わたしは黒髪黒目のこれといった特徴のないあっさり顔。
そもそも親戚じゃないし、民族レベルすら世界規模で違う。
「でも、んまぁ、あんまりお日様に焼かれたことのなさそうな肌に、農作業も狩りもしたことのなさそうな指だね。いいとこのお嬢ちゃんかい」
いえ、異世界のオフィスワーカーです。
「そもそも、ロルスさんの親戚ってのはほんとなのかい?」
ひとりのご婦人の言葉に、ついついぎくりとしてしまう。
「ティナはそんなことない、って言い張ってたけど、実は―――とか?」
「それとも、もう―――だったり?」
知らない単語が連続して出てきて、首をかしげる。
―――、―――、と聞こえた音を繰り返す。やはり聞き覚えがない。周囲の女性たちは何やらわくわくとした目でこちらを見ている。
この感じ、覚えがある。元の世界でのことだ。なんだったっけ。
うーんとうなっていると、ぐっとノアクに腕を引かれた。
「ミャオはロルスさまとはそんな関係じゃないよ」
どっちかっていうと師弟だよな、と同意を求められる。
「うん。先生は先生だね」
わたしがうなずくと、女性陣が「えー」とつまらなさそうな声を上げた。
先生は先生だ。
路頭に迷っていたわたしを拾って手元に置いてくれている、過保護気味の保護者だ。
と、そこまで考えてから、はっと我に返った。空を振り仰げは、もうずいぶんと暗い。
「わたし、帰ります!」
あわてはじめたわたしに、みんながきょとんとする。
「もう暗いし、泊まっておゆきよ」
親切な申し出に首を横に振る。
「すみませんが、わたしはこれで!」
書き置きを残してきたとはいえ、過保護な先生のことだ。心配して迎えに来てしまう。
ちっちゃい子でもあるまいし、余計な手間をかけさせてなるものか。
「明日以降、経過のこともありますし、先生といっしょにおうかがいします!」
そう言って腰を折って立ち去ろうとすると、せめてランプは持っていけ、と用意してくれる。
「これからは、もっと村に顔をお出しね」
「いくらロルスさんの顔がよかろうと、ずっとふたりっきりなんて息が詰まるだろ?」
「保存食作りとか、みんなでやったほうが楽だしね」
口々に声をかけてくれる女性たちに「ありがとうございます」と声をかけ、「送っていく」というノアクの申し出に「一本道だったから平気だよ」と答えて、足取り軽くラーク村を出た――のだったが。
「あれ、ここどこだろ」
借りたランプが照らす先に、道がなくなっている。
まっすぐ、まっすぐ歩いてきたはずだった。
「おかしいな?」
首をひねってしばし考え、はっとあることを思い出す。
そうだった。
ぽん、と手を打つ。
「わたし、方向音痴だったっけ」
最近ちっとも外出していなかったのでうっかり忘れていたが、わたしは使い慣れていない道に入ると十年近く暮らした実家のそばでも迷子になる年季の入った方向音痴だった。
なんで忘れていたんだ。
後悔しても、もう遅い。
わたしは立派な迷子となっていた。
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