2.働かざる者、食うべからず
石炭、はないが、薪をば早や割り果てつ。辺境の森のほとりはいと静かにて、聞く人あらねば、ぜいぜいと荒ぶるおのれの息遣いをことさらに押し殺すも徒なり。
肉体労働はいい。
額に汗を流していると、仕事をしているという実感がひしひしと感じられる。たとえ魔法を上手に使えば一瞬で片付く仕事であっても、だ。
すっかり上がってしまった息を整えつつ、手にしていた鉈を決まった場所に戻す。あとは割った薪をすぐ脇の薪置き場へ積み上げれば作業完了だ。
「ミャオー? どこにいるの?」
すぐ脇の家の中から聞こえてきた声に「はーい」と返事する。
「裏にいますよ、先生ー」
すぐに裏口のドアが開き、プラチナブロンドにエメラルドグリーンの目をしたわたしの保護者――ロルス=リディン先生が顔を出す。
理由もわからず異世界に吹っ飛ばされてから早いもので三か月。戸籍も行き場もないわたしはいまだ最初に出会った人間である先生の元にいる。
彼を「先生」と呼ぶのは、彼がなかなかえらい魔法使いらしい、ということと、単純にわたしの異世界生活の先生であるからだ。
先生が丁寧に教えてくれたおかげで、今では日常会話程度であればこちらの言葉で会話することもできるようになった。読み書きは勉強中だ。
「どうかしたんですかー?」
持てるだけ薪を自分の腕に積み上げ薪置き場に移そうとしたのだが、一瞬先生に気を取られてバランスを崩してしまう。
「ミャオ!」
わたしが名乗った「宮尾」がうまく発音できず、先生はわたしのことを猫の鳴き声のような名前で呼ぶ。加えて名前が先に来る文化圏なので、「宮尾」のほうが名前だと思っているらしい。
自分の方へ崩れかかってくると思った薪が、ふわりと宙に浮くと次々に薪置き場に収まっていく。先生が魔法を使ってくれたのだ。崩れた分だけでいいのに、ついでのように腕の中に残っていた分も、まだ拾い上げていなかった地面に転がっている分も、まとめてすべて片付けられてしまった。
ああ、わたしの仕事が。
「そういう仕事はしなくていいって言ってるじゃないか」
困ったような表情を浮かべ先生が近寄ってくる。自然な動きでわたしの手をとると、鉈を振るって少し赤くなっていた手のひらを見て眉をひそめる。
「ほら、赤くなってる」
先生の骨ばった長い指にすっとなでられると、その赤みもわずかにあった鈍い痛みもあっさりと引いていく。
これでも薪割りはうまくなったのだ。最初は力だけで割ろうとしていたので手のひらはもっとマメだらけになったし、腕もじんじんとしびれていた。だが、試行錯誤を繰り返し、もはや鉈使いについてはマスターしたといっても過言ではない。
「過保護ですよ」
難易度が高いと言われる治癒魔法をこんな傷とも呼べないもののために使わないでほしい。
「だって、先生が『仕事』って言ってわたしにやらせるの、薬草園の水やりとか、料理の手伝いとか、いくつの子のお手伝いですか!」
加えて時おり薬草摘みの手伝いが入るくらいだ。
それ以外の時間は勉強だが、基本的に三食昼寝付き生活だ。
「最初にお伝えしたとおり、わたしはもう二十五歳。立派なおとなですし、体力だってそれなりにあります」
出会ったときには童顔のせいでずいぶん幼く見られてしまったようだが、そこの訂正も済んでいる。
治してもらった手を胸に当て、何度も繰り返した主張をふたたび口にする。
「いいですか、先生。わたしは故郷の教えである『働かざる者食うべからず』を実践したいだけなんです」
たとえこれまで先生がすべての家事を己で済ませてきて、面倒ごとも魔法でお手軽に片付けられるとしても、わたしが動くことで余計な心配をかけるとしても、だ。
「そうは言っても、ミャオはまだかまども十分に使えないし……」
「そ、それは先生が危ないって言ってあまり使わせてくれないから」
こちらの世界のかまどは元の世界のかまどと大差ない。薪を燃料としており、火力の調節はガス台やⅠH調理器なんかよりは難しい。ただし、魔法使いの家のかまどにはだいたい火の精霊が住み着いていて、着火や火力の面倒は彼らが見てくれる――仲良くなりさえすれば。
残念ながらわたしとこの家のかまどの精はまだぎこちない関係で、意思疎通もうまくできない。でも、それはすぐに「やけどしちゃうよ」と四苦八苦するわたしをどけてしまう先生がいけないと思うのだ。
むっ、と恨みがましい目で見ると、先生はにっこりと笑った。
「そうだねぇ。でも、そんなに元気が有り余ってるなら、勉強の時間を倍にしようか」
君にまず必要なのは知識、つまりいちばんの「仕事」は勉強だよ、とおっとり首をかしげてくる相手に、ひえっと後ずさる。
先生はすぐれた教師だ。教え方もうまい。ただし、自身が飛び抜けて優秀だからか、やたらと高度な知識を与えようとしてくるのだ。毎回授業の後には脳が熱暴走でも起こしそうな気がする。
勉強はおもしろいけれど、残念ながらそこまで集中力は続かない。
「いや、ええっと、それはぁ」
あさっての方向に目をそらしたわたしに、先生はくすくす笑う。
からかわれた。
むくれてみせると、彼はぽんぽんとなだめるように頭を叩いてくる。
「ごめんごめん。でも、ミャオは家事なんてしなくてもいいんだよ」
「……それは、わたしが『お客さん』だからですか?」
自然、返す声は低くなった。
「――いや、もともとうちにはそれほどやることがないからね」
それは確かに事実で、かまどだけでなく先生の家にはいたるところに精霊がいる。先生を慕って集まった彼らは、先生のするありとあらゆることに手を貸して、先生のためになることを喜ぶ。洗濯物は汚れたものを所定の場所に置いておけば勝手に洗われて外の物干し場で風にはためいているし、家じゅういつだってぴかぴかだ。
だが、先生が一瞬言葉に詰まったのは、わたしがお客さんであることも事実だからだろう。
拾われた、かわいそうな迷子。
翼の傷ついた鳥を懐に入れたつもりなら、傷が癒えたあかつきには空に放ってもらわなくては。
「今のうちにいろんなことができるようになっておきたいんです。いつか、ここを出ていっても問題ないように」
そう告げると、エメラルドグリーンの目が見開かれて揺れる。
「そんな――」
君は何も気にせず、いつまでだってここにいていいんだ。
きっと、初日にも聞いた言葉を繰り返そうとしたのだろう。でも、わたしはそれをさえぎった。
「先生、午後の授業に呼びに来てくれたんですよね。今日って何します?」
にっこり笑って強引に会話を切り替える。先生は困ったような、安堵したような、複雑な顔で唇を引き結んだ。
午後の授業は魔法だった。
そう、魔法。なんと、こちらの人間でないわたしにも魔法が使えたのだ。ひと月ほど前から――ほぼ言葉のみでコミュニケーションがとれるようになってから――先生が教えてくれることになった。
ファンタジー万歳。
今は四大要素――火・土・風・水の精霊たちの力を借りる基本的な魔法の習得中だ。まだ先生の見ているところでしか使ってはいけない、ということになっているし、たいしたことはできないけれど訓練自体はとてもおもしろい。
「はい、そこまで」
ぱん、と先生が手を打つ合図で、宙に漂わせていた水の球が崩れる。わたしも全身から力を抜いた。
「うあーーー、疲れた」
魔法には集中力がいる。緊張しすぎるのもいけないとは言われているが、集中しているとついつい全身が強張ってしまう。
心配するようにこちらを覗き込んでくる水の精霊――宙を泳ぐ半透明の魚――に平気だよ、ありがとう、と手を振って帰ってもらう。
「ずいぶん上達したね」
近づいてきた先生が笑いかけてくれる。めちゃくちゃ美形というわけではないが、先生の笑顔はマイナスイオンでも発生させていそうな癒し系だ。
浴びれば間違いなく寿命が延びる。
「わたし、どれくらいのこと、できるようになると思いますか?」
魔法にも向き不向きというものがある。得意な属性、得意な発動のさせ方、といった個性の違いもあるし、発動できる魔法の規模や持続時間といった違いももちろんある。
最初に先生に聞いた話だと、極めれば世界と世界を渡る「界渡り」の魔法だって不可能ではない、という話だった。
それを聞いて、わずかな望みにすがって「わたしにも魔法ってできますか」と先生に教えを乞うたのだが。
「……うーん。まだはっきりとした特性はわからないけど、魔法使いとしては平均的かちょっと上、程度かな」
わたしが何に期待して魔法を習い始めたのかうすうす感づいているだろう先生の歯切れは悪い。
「そう、ですか」
わたしの声もつい沈んでしまう。
平均的かちょっと上。
悪くはないが、飛び抜けて良くもない。
「で、でも、それだけの素質があれば、魔法使いとしては十分だよ」
ミャオは勤勉だし、飲み込みだって悪くないし、とあわてふためいてフォローしようとする先生が年上なのにかわいく見えて、くすりと笑ってしまう。
「いいんです。昔から言われてきたことなので。『器用貧乏』って」
「キヨービンボー?」
つい自分の方の言葉で言ってしまったので、先生が首をかしげている。
「ええーっと、たくさんのことを器用にできるけど、とびきりできることはない、って意味です」
昔から、大体のことは問題なくできた。勉強も、運動も、楽器の演奏や美術、料理や手芸も。人間関係だってそれほど困ったことはない。
みんなに言われた。器用だね、と。
でもいちばんにはなれなかった。にばんですら難しかった。
どんなにがんばっても、もっともっと上手な人がいた。
初めは、食らいついていけば何かが変わると思った。そのうちに、埋まらない溝に絶望して追いかける足を緩めて――あきらめてしまった。
だから、ちょっぴりいい学校に行って、手堅くて福利厚生のしっかりしている今の会社に就職した。
「ミャオ」
そっと先生の手に髪を撫でられた。
「できることがたくさんあるのは、いいことだよ」
違う? と首をかしげて気づかわしげに目を細める彼はやさしい人だ。
「そう、ですね」
これが「ないものねだり」というやつだということはわかっているのだ。別に、わたしは恵まれていないわけじゃない。
それでも――。
わたしのように世界をまたいで迷い込んでくる人間は皆無ではない。以前にも何件かあったケースは書籍としてまとめられているんだ、と先生は書庫にある本をいくつか貸してくれた。
ある人は革新的な土木の知識をこの世界にもたらし、その人自身、こちらの世界に適した技術をいくつも発明し、治水や建築の歴史を数百年進めた。
ある人はこちらに来てから聞いた言語を片っ端から習得し、外交を職として世界各地を奔走し、多くの国と地域に平和をもたらした。
ある人は強大な魔法の力に目覚め、数多の新しい魔法を生み出し、そして元の世界へと帰っていった。
わたしの前にやってきた人々の記述はまるで伝説で、いまだ見慣れぬ文字を辿ってたどたどしくそれを読み進めては神さまか英雄のようだと思った。
だからこそ、思わずにはいられない。
どうして、わたしが。
ここに来るにふさわしい人間なら、わたしの知り合いにもいくらかいる。天才、と呼ばれるべき人々だ。
だというのに、ここに来てしまったのは、特別なとりえもない、何か特別な力に目覚めたわけでもない、ただの一般人としか呼べないわたしなのだ。
わたしにできることなんて、ちょっとこざかしく立ち回って、平穏な生活を維持することがせいぜいだ。
「少なくとも職に困ることはなさそうなのでその点は安心しました」
にっこり笑みを浮かべてみせれば、先生は眉を下げる。
「そんなに急いで独り立ちしなくてもいいって言っているのに」
やさしい、やさしい先生。
でも、その言葉に甘えるわけにはいかない。
誰かに寄生するように生きるなんて、まっぴらごめんだ。それを是としてしまえば、わたしは本当に無力で無価値な人間に成り下がってしまう。
笑顔を浮かべたまま先生の言葉には答えずにいると、彼はぴくりと眉を上げた。
「ミャオ――」
何か言おうとしたところで、家の玄関の方から声がかかる。
「ロルスさーん、いらっしゃるー?」
若い女性の声だ。聞き覚えがあるので、たぶん少し離れた場所にある村の娘さん――ティナだろう。
一週間に一回、先生の家へ村に届いた先生宛の手紙や荷物、ちょっとした雑貨を持ってきて、先生の作った魔法薬を村に持って帰る。
あと、たぶん、先生のことを狙ってる。
以前一度手が離せなかった先生に代わって玄関扉を開いたわたしの姿にあんぐりと口を開いて固まっていたし、「事情のある遠縁の親戚を預かっているんです」と先生に説明された後は、ことあるごとに「まだいらっしゃるんですね」と皮肉を言ってくれる。
たぶん年下の彼女の態度は、あまりにあけすけすぎて、かわいいとすら思う。
「今行くよ。ちょっと待ってて」
先生が声を上げて答えると、「はーい」と素直なお返事があった。
「あ、じゃあ、わたし、夕食の準備をしておきます」
もう少ししたら日が傾き始める。
先生がティナの相手をし終わったら夕飯になるだろうし、その後はお風呂に入って就寝だ。
こちらのお風呂も浴槽に水をためてゆったりつかる習慣があったが、なんと驚いたことにこの家のお風呂は源泉かけ流しだった。聞けば土と水の精霊が張り切って湧かせたらしい。
先生、精霊に愛されすぎでは。
ティナはわたしが顔を出すのを嫌がるだろうし、わたしも彼女を不機嫌にさせたいわけではない。
あと家の中でできることといえば夕食の準備くらいなのだ。
「かまども火つけておきますね」
さらっと了承を取り付けようとしたのだが、先生の眉間にしわが寄った。
「だめ」
聞き流してくれなかった。
ちっ、と内心舌打ちする。
「だから、過保護ですって」
抗議してみても、彼にしては珍しいじろりとした一瞥と「だめだからね」という念押しを残してティナの元へと去っていく。
まったく、先生の中ではわたしはいったいいくつの幼子なのだ。
そろそろ料理くらいまかせてもらえないものだろうか。やたらとおいしい先生の料理にはかなわないが、こちらの香辛料の特徴もつかめたし、まあまあな料理は作れるはずだ。
わたし、器用なので。
「はー。みじん切りしよ」
もやもやとかイライラとかしたときはみじん切りだ。すべての鬱憤を叩きつける勢いで刻みつくしてやる。ミンチもいい。慣れれば魔法で切り刻むこともできるらしいが、こればっかりは自分の手でやるに限る。
今日のスープの具はみじん切り野菜だ。ちなみに昨日もそうだった。一昨日はミンチ肉で肉団子を作った。
「先生、わたしがみじん切りの野菜好きとか思ってそー」
やさしいけれど鈍感なところのある人だ。
かなりぐいぐいアピールしているのに気づいてもらえていないティナに「がんばれー」とエールを飛ばしておいた。
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