1.千里の行も足下に始まる
吾輩は宮尾(みやお)祢子(ねこ)である。名前以外のプロフィールは以下参照。
職場は中堅どころの民間企業。年齢は二十五歳、性別は女性。ちなみに独身、お付き合いしている方はいない。
趣味は読書(漫画メイン)。これといった特技はない。
化粧を落とすと童顔なのが悩みの、ちょっと――いや、だいぶ――方向音痴だけれど、それ以外はいたって平々凡々な一般人である。
「そうなんだよ。平々凡々な一般人なんだけどなー」
現実逃避気味にどことも知れぬ方向に向かって自己紹介をしてしまったが、いつまでもそんなことをしているわけにもいかない。
こちとら新人気分はすでに許されず、後輩を指導し、時に「結婚まだなの」ハラスメントと戦う二十代半ば。
トラブルが発生した場合、硬直して思考停止していても改善する可能性は限りなく低いと悟りを開く程度の経験は積んでいる。
つまり、ここでこうしていても何も事態はよくならない。
はーーー、と腹の底から息を吐きだすと、次に長く息を吸い込む。
「よし」
全然よくはないが、とりあえずそういうことにしておこう。
社会人になって気分の切り替えはうまくなった。切り替えなきゃやってられない、それだけ余裕のない日々を送っているとも言えるが。
ぐっと腕と足に力を込めて立ち上がる。わずかに汚れてしまったスラックスの膝を払い、落としてしまっていたバッグを拾う。
念のためにスマホも確認したが、当然のように電波などない。機能自体は生きている。何の役に立つかは知らないが、電池の節約のために電源は落としておく。
A4サイズの書類の入るバッグの中身はスマホの他に、定期のICカード、財布、タブレット(これも電源は落としておく)、書類、筆記用具と手帳、お直しのための最低限の化粧品の入ったポーチ、痛み止め等の常備薬や絆創膏の入ったポーチ、折り畳み傘、家の鍵、弁当、水筒、小腹が減ったとき用のカロリーバー。
まったくもって攻撃力のないラインナップだ。まあ、現代日本の通勤に攻撃力は必要ない。
今日の服装は透け感のある薄手の長袖ブラウスに、センタープリーツのスラックス、足元はヒール低めのパンプス。いかにもなオフィスカジュアル。
幸いなことに現在の気温は暑すぎも寒すぎもしない。草原の足場も、それほど悪くない。
「さて、と」
行きますか、と自分に言い聞かせ、ぐるりと四方を見渡す。
どこまでも続くゆるやかな起伏の草原は全方位いっしょ。違いといえば、右手の景色の地平線には先ほど目に映った山脈があり、左手にはこれといったものは見当たらない。
当面いちばんの問題は水の確保だろう。水筒を持っているといっても一日分にすら足らない。
起伏があるほうが川は見つけやすいだろうか。水があれば、その近くに集落もあるかもしれない。言葉が通じるかさえ未知数だが。人は、さすがに、存在してる、よ、ね?
考え出せば不安なことばかりだが、不安がっていても足を踏み出さなければ何も変わらない。
「うんうん。まだ絶望するには早いよね」
けがはしていないし、とりあえず食料と水分は持っている。いきなり襲ってきそうな動物は周囲にいないし、天候も上々。
ちょっと強制的なピクニックにぶちこまれたとでも思えばいいのだ。
強引に自分に言い聞かせ、足先を山の見えるほうへ向けて歩き出した――のだが。
歩けど歩けど草原は尽きない。ときどきぽつんぽつんと木立や灌木の茂みがあるが、それ以外は丈の短い草やそこに混じって咲く素朴な野花以外何も見当たらない。
一度だけ、遠いところに馬の群れのようなものを見たが、それもすぐにどこかへ駆け去ってしまった。
「なんだ、このスケール感」
こちとら本州一の平野に生まれたが、あいにくあの平野は都市開発されすぎていて、こんなだだっ広さを感じたことがない。
さわやかな気候だろうと、必死に歩けば汗もかく。腕時計で時間を確認すると、かれこれ三時間は歩いていた。
歩きやすい通勤用の靴とはいえ、さすがに靴擦れができ始めている。
「はー、休憩にするかな」
ちょうど大地の起伏の上――小高い丘のようになった場所に生えた木が木陰を提供してくれている。その下まで歩いていくと、靴を脱ぎ捨てて座り込む。そよそよと流れてくる風が心地いい。
靴下タイプのストッキングを脱いで、靴擦れした場所を確認する。かかとの少し上のあたりは思ったよりもひどく、履き口が擦れたせいで出血していた。持っててよかった絆創膏。
座り込んでしまうと、もう一度動き出す気力がしぼんでしまう。
はーーーもうしばらくだらだらしたーい。
ぐぅううう。
いいタイミングで腹の虫が鳴った。
「よし、お昼にしよう」
弁当だ。貴重な食糧とはいえ、後生大事に残しておいたところで腐らせるだけだし。
「ふっふっふー、ごはんー」
取り出した弁当箱は、いわゆる「女子のお弁当」ではない。特別太っているわけではないが(同時に特別痩せているわけでもないが)、燃費は悪いほうだ。同僚女性の持ってくるようなちいさな弁当箱ではとても足りない。
二段の弁当の一段目にはお米、二段目にはおかずをきっちり詰めてきた。
「いっただっきまーす!」
鼻歌混じりで箸をとったところで、こちらを見るつぶらな瞳と目が合った。
「ん?」
「きゅ?」
首をかしげると、そいつも首をかしげる。
見た目は真っ白な柴の子犬。ただし耳が犬のものではなく兎のように長く伸びている。背中では何の役にも立たなさそうなちいさな純白の翼がぱたぱたとはばたき、まるで動くぬいぐるみだ。
深紅の目がまっすぐこちらの手元の弁当箱をとらえ、はっはっはとせわしない呼吸を繰り返す口元からはよだれが垂れている。
いったい、どこから来たのか。そして目的は――たぶん弁当なんだろうけれど。
「……ほしいの?」
たずねてみると、尻尾がぶんぶんと振り回される。
「しかたないなぁ」
おすわり、と冗談で声をかけると、その謎生物はぴょこんと姿勢を改めた。
「おお、かしこい」
待て、と言いつつ、目の前に卵焼きを置いてみる。我が家の卵焼きは薄味だが、野生動物にあげてもいいものかどうか。そもそも、この動物は肉食なのか、草食なのか。
まあ無理だったら吐くだろう、と決めつけて「よし」と許可を与える。
「きゅわん」
あっという間に卵焼きを食べ切ると、その生物はきらきらした目でこちらを見つめた。
「きゅんきゅん」
あきらかに「おかわり」を求められている。
「えー。これはわたしの貴重な食糧なんだけどなー」
口ではそう言いつつ、今度は唐揚げを目の前においてやる。「よし」と声をかけると、今度もぺろりと平らげた。
かわいい。
「んー? もっと食べるぅ? ミミガーは食いしん坊だなぁ」
でれでれと頬をゆるめながら、適当に付けたあだ名で目の前の謎生物を呼ぶ。耳が長いからミミガーである。つい最近沖縄料理店に行ってきたばかりだったので、影響されたことは否定しない。
学生時代からあだ名のセンスが壊滅的と言われ続けていたが、ここにはそれを嘆く知人もいない。
ひとりと一匹で弁当を分け合えば、弁当箱はあっという間に空になる。お腹が満ちて眠くなったのか、ミミガーは隣でこてんと横になった。
「無防備だなぁ、もう」
口ではそう言ったものの、気持ちよさそうに鼻をひくひくさせ、誘うようにこちらを見つめるミミガーの姿に、だんだん眠くなってくる。
くあっ、とあくびがもれた。
お腹は満ちていて、吹き抜けていく風はさわやか。加えて適度な疲労感。
ひと眠りして、目が覚めたらぜんぶ夢ならいいのに――。
とろりと眠気にからめとられながら、ミミガーに寄り添うように地面へと寝転がる。地面に顔が近づけば、土と草の匂いがより濃くなる。
ああ、落ち着く。
そう思ったのを最後に、あっさり意識を手放した。
じょりじょり。じょりじょり。
ふっと意識が浮上した。
なんだか、ざらざらしたものにかかとのあたりを撫でられている。っていうか、そこは靴擦れしてるんだわ。
痛い。
「ううん」
寝穢さゆえに、足を引き寄せて丸くなる。「ざらざら」からかかとを遠ざけたつもりだったのに、それはそのままついてきた。
じょりじょり。じょりじょりじょり。
「痛いっつっとろーが!」
がばりと身を起こすと、深紅の瞳と目が合う。一瞬ミミガーかと思ったが――違う。
「ひぇっ」
押し殺しそびれた悲鳴が、か細く自分の唇からもれるのを他人事のように聞いた。
かかとを撫でていた「ざらざら」の正体は、巨大な獣の舌だった。
純白の長毛を身にまとった牛よりも大きそうな狼(ぽいもの)。耳はやっぱり長い。背中には体毛と同じ純白の巨大な翼。太い四肢の先には鋭い爪。開いた口元には尖った牙。
ミミガーに似てるといえば似ているが、推定危険度が大違いだ。
え、なに、親御さんかなんかなの? うちの子に何してんじゃ的なやつなの? やめてやめて、何も悪いことしてない。ちょっといっしょに弁当つついただけだし! ミミガー? ミミガー、ちょっと親御さんに弁明して!
純白の獣が熱心に舐めていたかかとから舌を離し、のっそりと身体を乗り出してくる。ぐんぐん近づいてくる鋭い牙をはやした口元に、呼吸が止まりそうになる。それなのに、目をつむることもできず、ただ硬直するばかりだ。
詰んだ? これ、詰んでる? えっ、うっそ。
助けを呼ぶべきだろうか。いや、でも、誰に? 脳裏にはいつも力になってくれた家族や友人たちの顔が浮かぶけれど、彼らは今ここにいない。そもそも周囲にも人影すらない。
これは、もう――。
全身から力が抜けそうになったその時、どくんどくんどくん、と騒々しく耳元で鳴る心音に気づく。
あ、わたし、まだ生きてる。
その実感に、じわりと冷え切っていた指先に血の気が巡る。
『いつあきらめるのかは、君が決めればいい』
脳裏に、尊敬する人の包み込むような笑顔が浮かぶ。
『それでも、生きている限り可能性は生まれ続けるのだと、忘れないで』
そうだ。そうだった。
ぐっと握りしめたこぶしに力をこめて、深く深く息を吸い込む。
たすけて、と叫ぼうとしたところで、唐突に純白の獣がばっと翼をはばたかせて少し離れたところまで飛び退る。起こった風にあおられ、ただでさえ乱れていた髪がさらにぼさぼさになった。
何ごとか、と様子をうかがえば、ぐるぐると何かに警戒するように喉を鳴らして一点を見つめている。
その視線を追えば、すぐに原因を見つけることができた。
人だ!
第一異世界人だ!
驚きのあまり口をぽかんと開いて凝視していると、その人もこちらに気づいたらしく明るいエメラルドグリーンの目を瞠ってはっと息を呑んだ。ちらり、と、姿勢を低くした警戒態勢の純白の獣を見やって表情を険しくする。
年齢はたぶん三十を超えたくらい。線は細めだが、性別は間違いなく男性。プラチナブロンド、と呼ぶのがふさわしいきらきらの髪は長くのばされ、みつあみに結って左肩側から前に流されている。服装はゆったりとしたアオザイのような立襟の裾の長い白いシャツと、ゆったりとしたベージュのワイドパンツ。足元は革のサンダルだ。
派手ではないけれど、整った顔立ちの、おだやかそうな人。今は険しい表情を浮かべているけれど。
彼は自分の乗ってきた生き物の手綱を握りなおすと、その頭の向きを純白の獣の方へと変えさせた。
男性の指示に従順に従っているその生き物は、そう、なんと言えばいいのか。鳥――の仲間ではあると思う。ただし、白い獣よりもずっとちいさな翼や太く長い足から、地上を走ることに適した種類――ダチョウやエミューの類――だと推察できるが、首がひょろりとしている彼らとは違い、もう少し首と頭のバランスが普通の鳥に近い。あと、頭も首も羽毛でふさふさしている。ピンクから藤色のグラデーションになっているそれはとてもきれいだ。
大きなくちばしを持つ鳥は首を巡らせる途中で白銀色の目でこちらを見て、これ見よがしに鼻を鳴らした。
おう、なんか馬鹿にされたっぽい。
「―――――――――?」
男性が、白い獣に向かって何か言った。が、当然のように何を言っているんだかちっともわからない。
言語チート的なやつはわたしには未実装だったらしい。まじか。
せっかく人に会えたのにこれは一筋縄では行かないぞ、とため息をこぼしている間にも、男性は白い獣に言葉をかけ続けている。
と、いうか、あの獣、言葉通じるの?
「――――――――――――!」
さっきよりも語調が荒くなっているが、白い獣はぐるぐるうなったままその場を動こうとしない。
「―――っ! ――――――!」
男性がそう言い放つと同時に、獣に向かって大きく腕を振るった。白い獣は「ガウッ」と吠えると宙へと舞い上がる。
わーお。あの翼はお飾りではなかったのか。
白い獣の姿を追って上へ向けた視線だったが、ザシュッという音に意識を引かれて地表へと戻す。
たった今まで白い獣のいた場所の草が風に散り、ざっくりと地表がえぐれていた。
エ、ドユコト?
思わず思考が片言になってしまう。
男性が腕を振るって、白い獣が逃げるように空へ上がって、少し前までは何ごともなかったその場の地面がえぐれている。
え、え、もしかして――?
「ガウウッ」
いらだたし気に吠えた獣に向かって、男性は手をかざした。直後、炎の球がぼん、ぼん、ぼん、と宙の獣に向かって飛んでいく。
あわ、あわわわわ。
ま、魔法だ―――――――――!
内心大興奮だったが、目では男性と獣の攻防を見守る。
獣は飛んでくる火球を避けていたが、数回繰り返したところで心底怒りに満ちた声で叫んだ。
「ガオオオオゥ」
それからちらりと深紅の目でこちらを見てから、どこかしょんもりと耳と尾を垂らしてふわりとさらなる上空へと飛び上がり、地平線へ向かって飛び去っていく。時おり、ちらちらとこちらを振り返るせいで、なんだか悪いことをしたような気分になる。
いや、指一本すら食べられてあげるつもりなんてないけど。
ふう、と息をついていると、魔法使いらしい男性が乗っていた鳥から降りてこちらへ近づいてきた。鳥は賢くその場にとどまっている。白銀の視線はどこかこちらを見下している風だけれど。
「――――――?」
男性が手を差し伸べられながら声をかけてくれるが、やはり言葉はわからない。手の方は、立ち上がるのを手伝ってくれる、ということだと理解できるのだが。
ありがたく手を借りて立ち上がらせてもらうと、頭ひとつ分近く背の高い相手をまっすぐ見上げる。
「言葉が、わからないんです」
耳が聞こえないわけでも、口がきけないわけでもない。そのことを示すためだけでも、返事はしておいたほうがいい。
彼にとってわたしの話す言葉は聞いたこともない響きだろうが、エメラルドグリーンの目は何かを思案するように細められた。
「――――――」
短く何かを唱え、骨ばった長い指先で自分の額と私の額をちょんちょんとつつく。
いきなり何を、と身構えたが、次の瞬間頭の中に流れ込んできた声に全身を硬直させた。
『言葉、通じてるかな?』
落ち着いた、低い、艶のある声。
さきほど白い獣に向かってかけていたのと同じ声が、わたしのわかる言葉を紡ぐ。
目の前の彼の口元は動いていない。だが、状況的にこれは彼の呼びかけなのだろう。
これも魔法なのか。魔法、便利だな。未来からやって来た猫型ロボットの道具とどちらが便利だろう。
「はい」
うなずくと、彼はほっとしたように息をついた。
『言葉も通じないような異郷の人がこんなところにいるなんて、いったいどうしたの?』
もしや何か犯罪に巻き込まれたのか、とでも言い始めそうなくらい心配そうに眉を下げた彼の様子から、どうやらこの草原はそうそう人が立ち入らない場所なのだと察知する。
幸いなことに、犯罪には巻き込まれていない。この異世界転移が何者かの仕組んだ陰謀でない限りは。
どう答えるべきか、と悩んだものの、ここは正直に答えておこうと決意する。目の前の男性は、たとえ突飛なことを聞いたとしても頭から否定してかかるようなことはしなさそうだ、と直感が告げている。
人を見る目は年相応に養ってきたつもりだし――わたしはわたしの直感を信じている。
「わたし、この世界の人間じゃないんです」
男性の目が丸くなって瞬きを繰り返す。
「気づいたらここにいて、正直途方に暮れてます」
はっきりきっぱり言い切ると、彼はへにゃりと眉を下げた。
『……ああ、それは――困るだろうねぇ』
思ったとおりこちらの言ったことを否定したりしなかったし、その口ぶりからすると異世界から人がやってくるのはそこまで珍しいことではないのかもしれない。
『詳しい話はあとにしよう。落ち着いて話せるところに移動してから、ね』
おいで、と手を引かれ、彼が乗ってきた大型鳥類の背に乗せられる。私を支えるように、後ろに男性が乗ったが、鳥はびくともしなかった。ただ、わたしを乗せることに若干の不満があったらしく、じろりと長い首を曲げてこちらをにらみつけてくる。
『さ、帰ろう』
男性の声かけで、鳥は勢いよく走りだす。
こうしてわたしは拾われた。
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